魔王様の烏滸鳥⑭
「うん。ただいま、滸」
抱き締めてくれたまま、髪をすくように撫でてくれる大きな手。優しくて温かなこの手は、紛う事なくお父さんのものだった。
お帰りなさいっ!と気持ちを込めて、ぎゅうぅっと抱き付くと、ふふっとお父さんの笑う気配があった。それにまた安心する。
「ーーぴ?お父さん、出張じゃなかったのだっけ?」
少しだけ落ち着くと、疑問が湧いてきた。確か、今日から三連休中もずっと出張に行かなきゃいけないって言ってたのだ。それなのに、どうして家に居るのだ?
「そんなのは気にしなくて良いんだよ。僕は滸が一番大事なんだから」
蕩けるような笑みを向けられる。お父さんがよく見せる顔なのだ。それを見ると殊更に安心感が芽生える……のだが。
ーーいやいやいや、そこはいくらなんでも気にするぞ。お仕事だって大事なのだ。
まさか、ほったらかしたりなんて事は……ないと思うけれど。相変わらずなのだな、お父さん。
ーーぴむむ?今朝ぶりなのに、何でお父さんとのやり取りを、こんなに懐かしく感じるのだろう。
首を傾げると、また胸がじくじくと痛み出した。歪む僕の顔を見て、お父さんも珍しく眉根を寄せた。
「ーー流石、僕の娘は強いね。誇らしいけど、違う意味ではちょっと嬉しくないかなぁ。ちゃんと忘れてくれてたら、そのままにしといたのに」
ぴ?突然、何の話なのだ?
「いつかこうなるって分かってはいたけれどーーその時が来ちゃったとなると、やっぱり……嫌だな。どうにかならないかなぁ」
「ーーお父さん、いつも言ってるよね?心情を垂れ流されても意味不明なのだって。ちゃんと、どういう事か説明するのだ」
「えぇー」
えぇーじゃないのだ。
こうして始めにぴしゃりと言っておかないと、お父さんはすぐにのらりくらりと話題を反らす。特に本人が嫌な事とかになると、それが顕著になるのだ。
靴も揃えられないのに、何でも自分だけで解決しようとするのだから。質が悪いのだ。
「前にクビにされかかった事、まだ怒ってるの?」
「怒ってるのは、訊くまで僕にそれを黙ってた事なのだ」
お父さんと仲の良い同僚の人からのタレコミが無ければ、僕はその事実さえ知らないままだったろう。何をしたのかも、もう終わった事だからと詳細は教えてくれなかった。
その時だけ、僕はお父さんと喧嘩をした。
「また僕を怒らせたくなかったら、今回はしっかりと説明する!」
「うぅ……分かったよ。もう僕だけコンビニ弁当なのは勘弁だよ」
そう、お父さんが降伏するまで僕は手料理を一切振る舞わなかったのだ。冷凍食品と惣菜と弁当のオンパレード。……三日と保たずに泣いて謝られたな。
ぴふふん、やはり食育は最強なのだ!
「じゃあ説明するけどーー。あのね、滸は向こうでの記憶を忘れ切れてないんだよ」
ぴむ……?向こう?
「アッシュ君にあげた分だけじゃ、滸には敵わなかったみたいだね。心までは、全部遡らせられなかった。だから、中途半端に心が求めて……滸は余計に悲しいんだろうね」
お父さん……本当に説明が下手くそなのだ。何を言ってるのか、さっぱり分からないぞ。
アッシュって誰だ?外人か?
「覚悟はしてたんだけどーーついにこの時が来ちゃったんだね。約束したのは僕だから、自業自得なんだけどさ」
ーーだ、か、らっ!
「垂れ流し禁止っ!何を言ってるのか分からないのだ!もうちょっと詳しく、分かり易く説明して欲しいのだ!」
「そう言われても……あっ」
渋い顔をしてから、お父さんは何かに気付いたように僕をーーいや、額の辺りを見た。
そして徐に僕の額に触れる。
「ぴ、む?」
ーーふっと、そこから何かが抜け出て、お父さんの手に収まったような感覚がした。
今のは、何なのだ……?
「あぁ、いきなり御免ね。でも、餞別が貰えて助かったよ。ーー人になってから、力が上手く出せなくて難儀していたんだ。せいぜい、滸が覚醒するのを邪魔して、誤魔化すのに眠らせて夢と勘違いさせる事くらいしか出来なくてね……」
力?覚醒?眠らせるって……まさか今日の授業にも訪れた、あの睡魔の事か?
ーーお父さん、もしや僕のゲーム勝手にやったのか?いや、やってくれて全然良いのだけど。
それとこれと、どんな繋がりが?
「説明も兼ねて、久々に使ってみようか」
何をだ?
目で疑問を投げ掛けると、お父さんはにこっと笑って上着のポケットからブラックチョコレートを取り出した。お徳用の、ビニールに個包装されてる台形の奴だ。
「また常備してる……」
「勿論。いつでも滸の好物は持っているよ」
お父さんはビニールを剥がすと指先でチョコレートを摘まんだ。さっき僕の額を触った方の手だった。
「さて、詳しく分かり易い説明だったね?ちょっと長くなるから、観ながら……そうだなぁ、滸が生まれる少し前から話そうか」
いやいや、そんなほのぼの思い出話を聞きたいのじゃないのだ。しかも観るって、ホームビデオでも観始めるつもりなのか?
そんなの良いから、今がどういう状況なのか説明をーーと言う前に、口にそのチョコレートを入れられた。
ぴむ、美味しいーーって、何をするのだ!
「ーー僕の記憶の欠片よ、巡れ辿り省みよ。愛し子に、泡沫の過去を映し出せ」
お父さんが不思議な文句を唱えると、口の中のチョコレートが何故か一気に溶けた。驚いて飲み込むーーと、だんだん頭にぼぅっと霞がかかったような感じになってくる。
霞はちかちかと瞬き始めてーー何かが見えてきた。
それは、この世のものとは思えないようなーー超絶美貌の、人離れしたものの姿だった。
何これ?どうなっているのだっ!?
映し出されたのは、輝くような白い肌。羽のようにふわふわな白金の長い髪。その身に纏う、古代の異国風衣装がとんでもなくよく似合うーーゲームでもついぞ見た事ないような、中性的な美丈夫だった。
ーーこれは夢、なのか?でも夢って、その人の願望の表れだとか聞いた事あるーー。僕の真相心理はこんな壮絶美人がタイプなのか……!?黒髪万歳は偽りだったのか!?
「今滸が見てるのは僕の記憶だよ」
何だ、吃驚したのだ。……ってえぇぇっ!?お父さんの記憶!?
ちょっ!僕を差し置いてこんな美人さんと何処で知り合ったのだ、けしからんーーじゃないっ!
何で、記憶を見るなんて事が出来ているのだ?
「詳しい事は観ながら説明しようね。その人は始祖。僕の父であり、母でありーー滸にとっても生みの親である人だよ。人間ではないけど」
ーーそれは、どういう関係になるのだ?
ーーいや、今は大人しく聞いておこう。重要な話っぽいしな。
全部聞き終わった後で、整理して纏めてからーー大いに突っ込むのだ。ぴむ。
霞の映像が流れていくーー。
そこは、光溢れる夢のような場所だった。色とりどりの雲が浮かび、白亜の大きな宮殿が幽玄と佇んでいる。
その人には、六人の片翼の人達が寄り添っていた。一人一人系統の違う美男美女だ。ーーここは楽園かっ!?
その人を中心に、彼らの世界が作られているように見えた。誰もが、穏やかで優しい表情を浮かべている。
そして、こちらに誰かの手が差し伸べられた。次々に頭や肩などを撫でられたりして、大したちやほやっぷりだ。ぴ、羨ましい。
「僕は力の大半を担ったからね。皆から尊敬されたし、大事にして貰った。今思えば、驕ってすらいたかも知れないね」
そうか、これはお父さん過去の映像という設定だったか。じゃあ今モテモテになってるのは、お父さんなのだな。なら、納得なのだ。
そして映像は変わりーー白金の人の背にあった最後の翼から、新しい命が生まれた。
「八番目は僕と違って、殆ど力を持たなかったからね。それが逆に皆の寵を買ったんだ。僕も、力のないその子を気にかけて、愛したよ」
大変可愛らしい子が映し出される。白金の人にそっくりなプラチナブロンドをふわふわ揺らす、十歳位の女の子。無邪気な笑顔を皆に振り撒いて、駆け回っている。ーー思わず、抱き締めたくなるような愛くるしさだった。
「勿論始祖もね。けど僕はーーそれが羨ましくもあったんだ」
どんな時でも始祖さんとその子は一緒に居た。見た目もそっくりだし、とても仲の良い親子のように見える。
確かに、割って入れないような感じがするのだ。
「寂しくて、どうしても始祖に僕を見て貰いたくて……僕は、始祖に力を使ってしまったんだ」
抱き合う親子に、黒く禍々しい靄に包まれた手が伸ばされる。始祖さんの髪に触れると……その一房が、ぼろりと塵になってしまった。
そこから映像は一変した。
穏やかだった片翼の人達が皆、鬼のような形相でこちらを責め立てている。始祖さんも厳しい顔でこちらを見ていた。
「始祖の一部を損なわせた大罪によって、僕はこの場所からの追放を命じられた。始祖の赦しがあるまでーー永久にね」
お父さんは始祖さんの塵だけを手に、楽園を去った。暗い夜空を独り、下って行く。
その内の星が一つ瞬き、目の前を流れていくとーーお父さんは足を止めた。
視線が手の中に注がれる。星の光に照らされた塵がもこもこと蠢き、その中からーー黄色い雛鳥が現れた。
「滸は、こうして塵の中から生まれたんだ」
ぴ、ぐ……っ!?突っ込みたいぞ……僕は不死鳥か?灰じゃなくて塵だから、違うのか。
「始祖の一部から出来た、僕が生んだ命。ーー嬉しかったなぁ。滸と一緒だったから、僕はそれで満ち足りた」
雛鳥の頭を撫でる映像に合わせて、僕の頭もよしよしされた。ぴふぁと溜め息が漏れる……。あ、この雛鳥も僕と同じ気持ちになってるな。目を閉じて、凄く気持ち良さそうにしてるのだ。
「二人で一所に落ち着いて、何世紀か過ごしたね。その内土地に僕らの力が浸透しちゃったからか、人から神域として崇められたり、魔性の地だと開拓されかけたりしたけど……まぁ穏やかな日々だったかな」
ぴ!?それのどこが穏やかなのだ……?
映像は緑豊かな場所を見せていた。どこか、閑静な別荘地の裏手の森とかを彷彿とさせる所だ。
雛鳥と戯れたり、開拓しに来た人々の器具を塵にして脅して帰らせたり、雛鳥を愛でたり、迷い込んだ旅人を靄で森の外まで誘導したり……そんな日常を過ごしていた。
ぴむ。だからここ、昔から黒塵の森って異名が付いていたのだな。
ーーぴっ?黒塵の森なんて単語、どこで聞いたのだったっけ?
「ーー少しずつ、思い出してきたかな?まぁ、嫌でも次で思い出すだろうから、焦らなくて良いよ」
嫌でもって……何だかお父さんの方が嫌そうな顔をしているのだが。次に何が起こるのだ?
「その日ーー僕が眠りに着いた隙に、滸は巣から落ちてあの人間に拾われてしまった。落ちた衝撃で記憶が混乱して、僕の事を忘れてしまったみたいだね」
貴族の邸のような建物の中、茶髪の若者が映し出される。雛鳥を掌に乗せて、その鳥と会話をしているように見えた。
呆れたように笑うその人の顔が、心に波紋を生む。水底に沈んでいた澱が浮き上がるような感覚だった。
……この人のこの顔、見た事があるのだ。
「僕は眠っていてすぐには動けなくてね。もどかしい気持ちで君達の成長を見守ったよ。彼が滸を大切にしてくれて良かったけど……凄ーく、複雑だったな」
お父さん、映像を睨み付けても何にもならないぞ。眉間に皺が出来てるのだ。
「そろそろ僕の眠りが覚める頃になって、起きたらすぐ滸を迎えに行こうと思ってた。そんな時にーー変な奴らが滸達を襲いに来たんだ」
季節は移り変わって冬になった。しんしんと積もる雪を踏みしめて、白いローブを来た集団が邸へと入っていく……。
「どうしてか連中は、滸の力を媒介にして僕を喚び出す陣を発動させようとしてたみたいでね。覚醒した僕はすぐにその陣を利用してやって、その場に着いたんだけどーー滸も彼も、大分痛め付けられた後だった」
驚きと興奮を顕にするローブ達を尻目に、焦点は床に注がれる。そこには血塗れで転がる若者と、光る魔法陣に貫かれた小鳥が居る。どちらも虫の息のようだった。
その瞬間、お父さんの力が爆発した。
地下だったそこは立ち上った力によって地面ごと吹き飛び、塵と化した。吹きさらしになったその場に、ぱらぱらと黒塵が落ちてくる。
力を浴びた空が燃えて、雪を赤く染めあげた。その場に降り積もる、赤と黒の雪景色。
ーーどこか綺麗で、地獄のような光景だった。
お父さんが目覚めたばかりじゃなかったら、こんなものじゃ済まない大惨事を生み出したかもしれない……。そう思うと恐ろしく、神々しいものを前にしたような畏怖を感じさせた。
「邪魔な奴らは飛ばした。後で魂ごと塵にしてやろうと思ってね。その前に滸の側に行こうとしたんだけどーー彼に、呼ばれた」
息も絶え絶え、胸から血をぼたぼたと流しながら。それでもその人は身を起こし、真っ直ぐお父さんを睨み付けた。その口が言葉を紡ぐ。
『俺の小鳥を、どうするつもりか』
映像に突然音声が入った訳じゃない。なのに、頭にその言葉が響いた。
『どうするって、連れて帰るよ。元々この子は僕の子だ』
お父さんの声も同様に聞こえてきた。視点も、お父さんから離れて低い所になった。視界が赤く染まっている。
ーーこれはもしかしなくても、小鳥の視点で過去を見始めているのか。
何で視点が切り替わったのかーー心臓がどくどくと血を巡らせ、脳の霞を洗い流す。
ーーそれは、僕の記憶だからなのだ。
そしてこの人は僕の留まり木ーー鳥だった僕の飼い主、アッシュ様なのだ……!
『ならぬ。お前が神だろうと悪魔だろうと、知った事ではないが。それは、俺のだ』
『このままだと、この子は死んじゃうよ。君もだけどね。二人で心中でもする気?そんなの許さないよ』
『ならば生かせ、俺も小鳥も。人外の己なら、出来るのだろう?』
『無茶を言うなぁ。ーーそんなにこの子が欲しいの?』
お父さんが僕を見る。どこか諦めの色を含んだ眼差しだった。
『欲しい、ではない。羽一枚に至るまで、それは既に俺のものだ』
……その言葉に、記憶と今とでリンクして、身がぶるりと震えたのが分かった。強烈な歓喜。恐ろしくも感じるのに、泣きたい程ーー嬉しい。
お父さんはそれに気付いたようだった。はあぁと大きく溜め息を吐くと、茶髪の若者へと向き直った。
『じゃあアッシュ君。そこまで言うのなら、君にこの子を預けてあげるよ。ただし、条件は呑んで貰うけどね』
『預けるではなく、明け渡せ。それならどんな条件だろうと、呑み込んでやるさ』
『あぁ、むかつく……!この子が選んだんじゃなかったら、八つ裂きにしてやりたいっ!』
お、お父さんってば……。
頭を掻きむしったお父さんはまた大きく溜め息を吐くと、僕を戒めていた魔法陣を解いて、そっとその掌に乗せてくれた。
『まず、今すぐは駄目。この子はかなり消耗してしまってるから、僕の元で暫く休ませるよ』
『暫くとはいつまでだ?治るのに、どれ程かかる』
『それは君次第だよ。次に、君も死にかけてるから、僕の力を与えてあげる。その代わり、君の人の部分を貰うよ』
『……何だと?』
お父さん、昔から説明下手だった。意味が分からないのだ。人の部分って何なのだ?
『君は多少余人より入りそうだけど、僕の力を容れるには足りないからね。この子と、あと一人……そうだな、あっちで同じく死にかけてる馬丁君にしようか。君らに僕の力を分配するよ。それで命は助かるだろう』
『助かる。あいつは、俺の為に身を張ってくれた。……だが、それでどうなる?』
『人に加護以上の力は与えられないからね。だから、君らから人の部分を抜いて、そこに補填する形で僕の力を入れる。人と神は相容れないから、僕がそっちを貰ってあげる』
『……何故、そうまでする。お前は神だろう?人に成り下がる事を良しとするのか』
アッシュ様がお父さんを見上げる。猜疑心溢れるその視線を受けて、お父さんは背中の片翼を広げた。
『そうだね。僕は、君らが七翼神と呼ばうもの。始祖……創世神の一翼より生まれた、その誇りや矜持もあるけれど。ーー今の僕はそれ以上に、この子が大事なんだよ』
そっと撫でてくれる優しい指先。荒れた羽毛を整えるように滑るそれが、蕩ける程に気持ち良くて……嬉しかった。
慈愛の溢れるその姿に、アッシュ様の疑いは解かれたようだった。
『ーーそうか。だが、俺の方が大事にしている。そこを違えられては困るな』
ぴ!ちょっ、空気読もうよアッシュ様!我が意を貫き通し過ぎなのだっ!
『……ねぇ、本当にこいつじゃなきゃ駄目なの?今すぐに否定してくれても良いんだよ?そしたら心置きなく……』
八つ裂きにしちゃ駄目なのだ!
目だけて訴えて伝わったようだ。ーーこら、ちって舌打ちしちゃいかんのだ。
『あぁそうそう。最後にね、僕ら翼神の力は矛盾を孕む事は知ってるよね?この場面で、発現するのはーー忘却と想起かな。君ら、これまでの記憶忘れるだろうから、頑張って思い出してね』
『……は?』
……ぴ?
僕の心の声とアッシュ様の疑問符が被った。
『力を使うと制限がかかるんだよ。僕らは調節としてそれを使うけれど、君らは思いっきり忘却するだろうねぇ。わぁい、良い気味ー』
お父さん。最後のぼそっとした心の声、聞こえてるのだ。アッシュ様の方頬も引きつっているぞ。
『忘却だと……!?俺に、小鳥の事を忘れろと言うのか!』
『それが発動の条件なんだから、黙って呑みなよ』
ぴしゃりと告げるお父さんに、アッシュ様は口ごもる。さっき自分で、どんな条件も呑んでやるって言ったからだろう。
『別に、失う訳じゃない。君らが互いを想うなら、いずれは思い出すんじゃないかな?君次第だけど。ーーまぁ、思い出さなかったらそれはそれで。人として、僕とこの子は末永く幸せに暮らすから、君は心配しなくて良いんだよ』
お父さん、アッシュ様を挑発してる……?いや、本気でそう思ってるっぽいのだ。寧ろ、思い出さなくて良いって感じだ。……笑顔が黒いぞ。
『……良いだろう、俺は必ず思い出す。そしてすぐに、お前から小鳥を喚び戻してくれる!』
びしっとお父さんに指を突き付けて、アッシュ様は宣言した。ぎらぎら輝くその目は、お父さんが焼いた空よりも、赤く燃えていた。
『死にかけなのにむかつく根性してるなぁ、全く。まぁそれに免じて、本当に死なない内に取り掛かってあげるよ』
とんとんっとお父さんの靴が床を打つと、とてつもなく大きな魔法陣が広がった。バッシュ邸の敷地全てを包む、巨大な陣だった。
お父さんの片翼がばさりと羽ばたく。翼は羽に変わり、周辺の雪と共に舞い上がった。ふわりと舞う白い羽と雪塵が、陣の光を受けてきらきらと輝いた。
地獄が、とても幻想的な風景に変わった。
あまりにも綺麗で、切ない。ーー涙が溢れた。
『泣くな、小鳥。刹那の離別など、瞬く間に終わらせてやろう。お前はせいぜい、身を完全に回復させておけ』
アッシュ様が力強く宣言する。それに、お父さんは茶々を入れた。
『あぁ、体は無理かな。損傷が激しいから、この子は人の器に容れるよ。残念だったね』
ぴ、そうか。そうやって僕が人として産まれたのか。
鳥じゃなくなって、人になった僕を……アッシュ様はどう思うのだろうか。
気になってアッシュ様を見ると、羽に包まれた彼はーーにやりと笑った。
『ーー残念?いいや。それは寧ろ、好都合だ』
ーー何が好都合なのだ?
好きな人の笑顔の筈なのに、背中がぞくっとした。
『この……っ!やっぱ君、ずっと忘れてると良いよ!この子は、そう簡単にはあげないんだからねっ!』
お父さんは僕を胸に抱えて、アッシュ様に舌をべーっと出すと、更に陣を輝かせた。
お父さん、なんて大人気ないのだ……!と恥じ入っていると、僕を呼ぶ声がした。
『俺の小鳥。どんな姿になろうとも逃がさぬから。俺は必ずお前を喚ぶ。楽しみに、待っていろーー!』
光が眩しくて姿は見えない。でもきっと、いつもの泰然とした笑みを浮かべているのだろう。
それを思うと、動かない口からぴふふっと声が漏れた。
ーーもうこれは、仕方ないですよね。貴方になら、喚ばれてあげても良いのですよ。
でも、貴方こそ覚悟しておいて下さい。どんな姿になろうともーー喚んだが最後、きっちり面倒見て貰いますからね?私の帰巣本能は、例え人になろうとも潰えないのですから……。
光が更に強くなったーー魔法陣が完成したようだ。
眩しかったから、瞼をぎゅっと閉ざしてーー祈るように願った。
だからどうか。絶対に私を、貴方の僕を、喚んで下さいーー。
「ーー思い出しちゃったんだね、滸」
はっと目を見開くと、そこは家の廊下だった。
随分長く過去を観ていたと思ったのだが、まだ窓の外からはオレンジの西日が射し込んでいた。
ぼうっと見惚れていると、お父さんの手がぽんっと頭に乗った。
「ねぇ滸、今からでも遅くないよ。アッシュ君は完全に思い出した訳じゃない。今回は、執念染みた本能で喚び出されたみたいなものだし。折角、向こうが無かった事にしてくれたんだ。ーーこのまま僕と、ここで平和に暮らすのも良いと思わない?」
……髪の毛に沿って丁寧に撫でてくれる、この手が本当に大好きだ。
お父さん……愛してくれて、ありがとう。
「ーー御免なさい。僕は、行かなくちゃいけないのだ」
撫でてくれたお父さんの手を取って、ぎゅっと握り締める。見上げると、お父さんは悲しそうな顔で僕を見詰めて、諦めたように溜め息を吐いた。
ーーあの時と、同じように。
「そう言うと、思ったよ……はあぁ。ーーあぁ嫌だ、滸をあんな変態にやらなきゃいけないなんてー!」
がばっと抱き付かれ、ぎゅうぎゅうと締められた。ーーどうどう、と背中を撫でて落ち着かせてやりながら、首を傾げる。
ぴむ、変態?大変な鳥愛好家ではあるんだろうけど……マニアの域なのか?
まぁそれは置いておくとして。とにかく今は、どうにかして魔王様の元に戻らなくてはいけないのだ。
ーー一度喚んだからには、約束通りきちんと世話して貰うのですよ、魔王様っ!
「お父さん、向こうへの行き方を教えて」
お父さんは絶対知っている。行かせたくないって言うからには方法があるのだろう。さぁ、ちゃちゃっと吐くのだ!
「ーー僕が送ってあげる。アッシュ君の術を逆に辿るだけだから、人になった僕でも出来るよ。……一回限りだけどね」
それはつまり、失敗は出来ないという事か。
「またこっちに戻されたら、今度は無いよ。アッシュ君の事は忘れて貰うからね。彼に嫌気が差したから帰ってくるっていうのも大歓迎。ーー寧ろ、僕としてはそれが良いんだけどなぁ」
お父さん。また心情垂れ流しなのだが、そうはならないと思うぞ。
何故なら、僕が思い出したのだから。こうなったからには、意地でもしがみついてでもーー魔王様の烏滸鳥に返り咲いてやるのだ!
「巣立たなくて良いのに……あーぁ、滸も薄情な子になっちゃって。悔しいから、滸にも試練をあげちゃおうかな」
ぴ、試練?
何の事か問おうと開いた口に、またチョコレートが入れ込まれた。ぴむぐっ……あれ?
何故か今度のチョコレートは溶けず、飴のように口の中に残っていた。
「向こうに着いたら、それをアッシュ君に渡すと良いよ。餞別のお礼返しだから」
ぴ。何故それを、僕の口に入れたのだ?
「愛の力は世界を救うってね。さぁ滸……そろそろ行くかい?」
それには迷わずこくんと頷いた。疑問を挟む暇も勿体ない。やる時は、今なのだ!
促されて立ち上がると、お父さんが足でとんとんっと床を打つ。するとーー窓がぐにゃりと歪んで、またあの黒い靄を漂わせた。
ぴぐ!?こ、これはまさかの……ジェットコースター再来なのか。
恐れ慄いていると、頭を撫でられた。
あぁ。お父さんとーーお別れ、なのだな。
「いってらっしゃい、滸。いつでも帰っておいで」
待ってるから。ーーそう言ってお父さんは僕の額にちゅっと口付けをしてくれた。
僕もうんしょと背伸びをして、お父さんの頬に口付ける。
「お父さん、ありがとう。ーー行って来ますのだっ!」
名残惜さを振り払い、靄に勢い良く右手を突っ込んだ。あの時のように、体がずぶりと飲み込まれる。
けれどーー今度は怖くない。逆に早く早くと、気が急くくらいだった。
ーー待っていろなのだ、魔王様!
僕の帰巣本能は、人になった今でも変わらないのですからねっ!
「ーーって!勢い込んで来たのに、ここは一体どこなのだっ!?」
見渡す限り白、白、白。天井や壁があるのかすら分からない、途方もなく広い場所だった。
大理石のようにつるりとした床を見下ろしてみると、僕の姿が鏡のようにくっきりと映った。ーー憤懣やる方ないといった自分の顔に、地団駄を踏む。
「僕の意気込みを返せなのだ!何だこれ、恥ずかしいじゃないかっ!ーー一体誰なのだ!?こんな余計な事をしてくれたのはーっ!」
「我だ。ーー七番目の子よ。そう憤ってくれるな」
突然湧いた声に吃驚して振り替えるとーーいつの間にかそこには、見覚えのある人が佇んで居た。
いや、僕自身が会ったんじゃないし、人じゃないのだけど。
「ーー始祖さん?」
流石は創世の神……神々しいとはこの事か。美しさが眩し過ぎて、目眩がしそうだぞ。あんまり直視出来そうにないのだ。
そんなお父さんの記憶と全く変わらない、白金の美丈夫がそこに居た。
ただ違うのは、側に誰も侍っていない事だった。ここには、僕と始祖の二人しか居ないようなのだ。
「そうだ。ーーしかし、我の翼以外のものからそう呼ばれるのは初めてであるし。あまつさえ、さん付けされるとは。なかなか……悪くない」
ふわふわの髪を揺らしてくつくつ笑う、比類なき美貌にくらくらしそうになった。
ーーぴぐぬっ、負けないのだ!今の僕は、魔王様の烏滸鳥なのだから!
「何の御用なのですか?僕は今、大変忙しいのですけれど」
怒ったように顔をぷいっと背けてやると、始祖さんから驚いたような気配が伝わってきた。
「何と……我から目を反らすとは。見入らずには居られまいだろうに」
何だその自信。ナルシストなのか?それだけ美しければ無理もないのだろうけど、自分で言うと魅力は半減されると思うぞ。
「聞こえなかったのですか?僕は忙しいと言ってるのですよ」
「つれなくされるなんてーー初めてである」
ぽっと頬を染めるんじゃない。純情乙女か。
いい加減いらっとしたので、くるっと踵を返してやると、後ろから慌てたように声が掛けられた。
「待つのだ。ーー流石、七番目の子であるな。我に初めて反抗したのも、あの子であった」
顔を向けると、始祖さんは懐かしいなと言って、どこか寂しそうな微笑を浮かべた。
「あの子には可哀想な事をしたと思うておるのだ。無事に、他の翼達を宥める為にはああするしかなかったとはいえ、永らくあの子に寂しい思いをさせてしまったのだからな」
何を今更、と思ったがーー始祖の顔を見て、止めた。その顔はまさに、子を思う母親のようだったから。
「なぁ、あの子は元気なのか?我はもう赦しているーーなのに帰って来ないのは、何故なのだ?人となってしまっても、あの子なら帰って来られるであろうに」
お父さんの近況は知ってるようだ。異世界で人として暮らしているのは、一重に明確な理由がある。
「……お父さんにとって、始祖さんが一番ではなくなったからなのですよ」
そう。自惚れではなく、僕がお父さんの一番になった。
何よりも大切に思う僕の為に、お父さんは全てを擲って尽くしてくれた。今だってそうーー自分の感情すら殺して、僕を送り出してくれたのだ。
「ならば、一番のお前も連れて戻ってくれば良かろう。お前とて我の子。皆が受け入れぬ訳もない」
「……始祖さんは、どうしてお父さんに帰ってきて欲しのです?」
「無論。寂しい思いをさせた分より愛して、また皆で共に暮らす為であるのだ」
ーー分かっていない。どうしてお父さんが始祖さんの元を離れたのか。どうして今も、帰って来ないのか。
「その一人への過剰な愛で、また他の翼神さんが離れて行かないとも限らないのですよ。お父さんはそれを分かっているから、戻らない所もあるのでしょうね」
「……?どういう事なのだ。何故、他の翼が離れるなどとーー」
疑問を漏らす始祖さんを尻目に、僕は一つ納得した。
「そうか。だから他の翼神さん達は、人に加護を与えるのですね。お気に入りを見付けて手を掛ける事で、始祖さんに依存し過ぎないよう、気を紛らわしているのですよ」
何せ八翼も居るのだ。その中で誰かが一番になどなれないし、なったらなったで嫉妬からなる対立を生むと理解しているのだろう。ーー奇しくも、お父さんが良い例になったのだ。
ーー人だろうと神だろうと、満遍なく全てを愛するなんて、不可能なのだから。
極論を言えば、誰かの不幸がその人の幸せだったりする事もあるのだ。それなのに皆が幸せになんて、なれる筈がない。どうしたって、取捨選択は避けられない。
お父さんもそれを知った上で、僕を選んでくれた。けれど、僕は魔王様を選んだ。それだって選択だ。
後ろ髪は引かれても、後悔はしない。でなければ、僕を選んでくれたお父さんに失礼なのだ。
大切で、大好きな人。その顔に泥を塗るような真似は絶対にしない。その為に僕は、この選択を突き進むのだ!
「愛とは得てして、他のものを苦しめるのです。過度に与えても、足りなくても良くない。だから、選ぶ必要があるのです。選んだお父さんが、ここに戻る事はないのですよ」
「……そう、か。だから我は、七番目を失ったのであろうな」
意気消沈と肩を落とす始祖さんに、かける言葉は無かった。
始祖さんも、誰も悪い訳じゃないのだ。各々の行動が、選択がそうなってしまっただけなのだ。
お父さんを得たければ、他の全てを捨てる位の覚悟がなくてはならない。選択とは、そういうものなのだ。
ーーぴ。掛ける言葉、一つだけあったのだ。
「お父さんは元気なのですよ。それに、始祖さんとの思い出を今でも大切にしてますです」
だって、記憶と始祖さんの姿がそのまんまなのだ。
最後に会ったのは遠い遠い、遥か昔の筈。なのにお父さんの記憶は色褪せるどころか鮮明で、寸分の狂いも無かったのだ。大切に、忘れる事なく何回も、思い起こしたのだろう。
「お父さんを、僕を生んでくれてありがとうございますですよ。一番ではなくても、貴方は僕達のーー大切な親なのです」
頭を下げるのは違うかと思って、にっこりと笑いかけてみた。翼神さん達のような艶やかさはないけれど、純真な真心を込めて。
しかし、始祖さんはどこか茫然とした顔で、固まってしまっている。
ーー大丈夫なのか?と近付いて覗き込んでみようとしたら、がしっと捕まって、熱烈なハグをされた。
ぴゃぁぁぁっ!近い、近いのだ!直視いかんっ、正気を保つのだ僕ーっ!
わたわた暴れる僕にすりすり頬擦りしながら、どこか恍惚と微笑まれたらーーその、選択とか色々、崩壊しそうなのですよっ!
「あぁ。七番目が君を一番とした理由を、今なら理解もしよう。ーー聡明で可愛い、我が小鳥よ。お前に、多くの幸あらん事を」
何と、始祖さんから額にちゅっと祝福を貰った。
もしかして……デコチューは今、流行っているのだろうか?
「引き留めて悪かった。すぐにお前の目指す地へと運んでやろう。ーーいや、いっそ自ら飛んでみるか?」
企み顔で始祖さんが、僕の肩甲骨の辺りを撫でる。
ぴむっ!セクハラか!?と始祖さんから離れて身構えるとーー背中でばさっと音がした。視界に、白い翼が映る。
ーーぴえぇぇぇっ!?う、嘘ぉ!?
驚く間もなく、ぴしぴしと音を立てて、白い空間に亀裂が走った。
まるで雛が殻を破って、外に出ようとするようにーー。
「さぁ愛しき子。お前には選びし未来があろうーーそちらへ向かい、いざ!飛び立つのだっ!」
その声と同時に、僕は始祖さんによってぶんっと投げられた。亀裂の穴へと向かってーー。
「ぴ、ぴやぁぁぁぁぁぁっ!!」
ばりんと亀裂を破って、強制的にーー僕は殻の外へと飛び立った。