魔王様の烏滸鳥⑬
視界が暗くなったと思ったら、背中を地面に強か打ち付けられた。ずざざっと地を擦る音がする。
「アーチェ!!」
鬼気迫るテオさんの声に顔を上げると、頭上には金の滝が流れていた。
いや、違うのだ。これ、アーチェ様の髪の毛だ。
どうやら僕は今、アーチェ様に押し倒されている状態らしい。胸に抱え込まれて、守られている。
守るーー何から?
「くぁっ……!」
苦悶の声が漏れる。視線をずらすと、炎のような靄がアーチェ様の背中に燻っているーーアーチェ様を焼いているのか!?
「ぅ……小鳥さん、無事ですか?」
辛そうに顔をしかめながら、僕の事を案じてくれるアーチェ様。
「ぴっ……アーチェ様の方が無事じゃないのですよ!何で庇ったりするんですか!?」
「貴女が無事なら良いんです……モンスにこれ以上、皆の命を好き勝手にはっ……させ、ません」
アーチェ様は、お仲間が操られて、助けられなかった無力感に苛まれているのだろうか。だからこそ身を挺して僕を守ってくれたのか……。
ーーぴむっ!自己犠牲なんていけないのだ。貴方の命だって大切なのだぞ!
それに……とっても言いにくいのだが。
「……魔王様から僕を守ろうとしなくて良いのですよ。何故か僕には魔王様の力、全く効きませんですから」
「なっ!?ーーおっ、前な……それ先に言っとけよ……っ!」
「今、言ってる暇なんて無かったのだ!」
アーチェ様。余程脱力したのか、口調がディアンさんになってるぞっ。その容姿で口悪いと、似非聖女っぷりが顕著になるのだ。
「くそっーーだったらこの靄なんとかしろっ……全然消え、ねぇ……」
ぐらりと傾いだアーチェ様の体を、僕は慌てて支えた。その背中を黒く苛む靄を消そうと、ぱたぱたしてみたけどーー駄目なのだ、全然払えない!
「ーー駄目だ!ディアン、もうアーチェごと脱げっ!」
テオさんの叫びに、アーチェ様はかっと目を見開くと、僕を抱えて身を起こした。
その腕の感触が何故か無くなったーーと思ったら、もっと強い力で抱かれて……ディアンさんはその場からばっと離脱した。
「ぴ?……ディアンさん?」
さっきまでアーチェ様だったその人は、ディアンさんに戻っていた。瞬く間の早変わりなのだ!
少し離れた所で離してくれたので、ディアンさんと一緒に振り返ってみる。ーー黒い靄に焼かれた金色の何かが、そこで塵と化していった。
「ーー流石、翼神一の力を持つ神なだけある。加護を一つ塵にされるとはな……」
どうやらディアンさんは、聖女様という加護の衣を纏った状態でいたようだ。蜥蜴の尻尾切りのように脱ぎ捨てる事で、全てを塵にする魔王様の力から逃れられたみたい。
ーー魔王様の力は、他の神様の加護でさえも塵にするのか。灰塵王、凄まじ過ぎるのだ!
「しかし参ったな。力は効かなくても、小鳥は食われるまで狙われ続けるだろうし……」
ぴむ、確かに。ディアンさん達の力では塵にされるだけだし、僕は力業で来られたら対抗する術がないのだ。
「案ずるな。王は他者の思惑通りになどならん」
退行した近くにカゲヤンが居たようだ。ーー何故かぐいっと腕を引っ張られて、ディアンさんから離された。
白頭巾や聖騎士達はどうなったのだ?……見てみると、テオさんが火柱で彼らを追い詰め、カゲヤンの作ったらしい黒い檻に次々と入れている所だった。
成る程、縛って駄目なら閉じ込めるのだな。ナイスコンビネーションなのだ!
「ならんって……実際なってんじゃねぇか。真命には逆らえねぇんだから仕方ねぇけど」
「なら何故、王の追撃が無いのか」
……そう言われてみれば。
僕とディアンさんは思わず顔を見合わせた。ばっと魔王様に向くと、魔王様はその場に動かず居る。時折ぽろりと殻が落ちる以外に動きはない。
……大丈夫なのかと、逆に魔王様が心配になった。
「ぴ?本当なのですよ。何でなのですかね?」
「そもそもの真命が違っているからだ。ーーこれは烏滸がましい鳥であって、羊などではない。王もそのように認識しておられる。目の前のものーー似非聖女を塵にした事で、先の真命は果たされたんだろうな」
これとは何ですかこれって。色々抗議したいのだが、ぴぐぬっ我慢なのだ。
「今、王は体の崩壊を抑える為に動かずにいるようだが……それもいつまで保つか」
僕への真命は不発に終わったのに、体の崩壊は収まらないのか。そんな……。
「……真命で朽ちるように命じられたにしちゃ、やけにゆっくりだな。これは神の力の作用か、元々の灰塵王の力なのか?」
ぴっ!ぼろっと一気に崩れられたら困るのだ!不吉な事を言うんじゃないっ!
きっと睨むとディアンさんはたじろいだ。僕の睨みが効いたのかと思ったら、後ろでカゲヤンがもっと三白眼をぎらつかせていた。ぴむむ……これは怖い。
「どのような原理であろうと、王が朽ちるなど有り得ん。今は原因を解くよりも、如何にすれば王の助けとなるかだ」
「魔王様を、助けられるのですか?」
本当に?殻の山を築く程ぼろぼろな魔王様を救えるのか?
期待を込めて見上げると、カゲヤンにデコピンされた。痛い。
「出来るかではなく、やるんだ烏滸鳥め。おい似非聖女、真命を破壊するにはどうすれば良いか教えろ、今すぐに」
「お前にまで似非聖女呼びされる筋合いはねぇよ!」
「喧しいぞ。真命を下した奴に撤回させれば良いのか?それともそいつを粉微塵にすれば良いのか?」
粉……!?カゲヤン、落ち着いてるかと思いきや怒り心頭のままなようだ。
「……一度下った命令は遂行される迄は終わらない。モンスを塵にするのも、逆にその怨念で真命の力が強力になりかねないからお勧め出来ねぇな」
「ぴっ、打つ手はないって事なのですか?」
「さっきみてぇに命令の何処かに穴があれば、それを突く事で無効化出来るだろうな。あとは、モンスの真命を圧倒的に上回る力と言霊で、真命を塗り替えられれば良いんだが。……それはあの執念深さから見て、難しいだろうな」
半世紀越しの大願と言っていた。その計り知れない執念から生まれた真命は、生半可な力では塗り替えられないのだろう。
それこそ翼神や創世神の力でもない限りーー。
「烏滸鳥」
ぴくりと体が反応した。決して大きい声ではなかったけれど、はっきりと聞こえてきた。
魔王様が、喚んでいる。
「王がお呼びだ。行くぞ、烏滸鳥」
カゲヤンにも魔王様の声が聞こえたようだ。ぐいっと引っ張られるまま進むーーと、ぱしっと反対の手をディアンさんに取られた。
「おい、待てよっ!勝算はあるのか?今の灰塵王に近付いて、攻撃されねぇ保証もないんだぞ!?」
確かに、ひょっとしたらさっきの真命がまた再発して襲われないとも限らないのだろう。
ーーけれども!
「魔王様が呼んでいるのですよ」
僕はディアンさんの手をそっと振り払った。
「その通りだ。俺らの安否など取るに値せん。王の命こそが、何より重んじられる」
「何だそりゃ……お前らも異教徒なのか?」
ぴむ、宗教と言えなくもないか。僕とカゲヤンは、言わば魔王様の信者なのだし。
一ファンとしてーー例え何があろうとも、その魔王様の呼び掛けに応えない訳にはいかないのだ!
今度こそカゲヤンと共に魔王様の元へと急ぐ。今度はディアンさんに止められなかった。
「魔王様!」
「王。御前にお望みの鳥をお持ちしました」
だから僕の扱いってーーぴくそう、後で制裁してやるのだっ性悪ヤンキーめ!
僕らの声に反応して、魔王様の顔がゆっくりと上げられるーー。
「ーー良し、来たのぅ黒羊!今度こそ失敗はせんぞぃ!」
声に吃驚して横をみると、少し先にカゲヤンの影の檻があった。中に蠢く聖者達の中に、見覚えのある一際豪華な祭服を着た、皺々のお爺さんが見えた。
ーーぴ。あれまさか、モンス司教なのか?特徴的な眉と髭が無くなってて分からなかったのだ。
どうやら毛は火柱で焦げたみたいで、先がちりちりになっている。服の端も焼け焦げてぼろぼろ。ーー何だか一気に年を取ったように見えた。
その人が目だけ爛々と光らせた鬼気迫る形相でこちらを見ている。恐怖に「ぴっ……!」と息を呑むと、カゲヤンが背中に隠れさせてくれた。
「ふ、はははは!儂らの野望はまだ潰えてはおらんのじゃ!ーー七翼神よ!今度こそ違えないで下されよ?その黒くて黄色い鳥を、貴方様の器にーー!」
「己は、七翼神などではない」
ーー魔王様が、顔を上げた。
皮膚の大半が崩れて黒靄が漏れているけれど、その目の輝きは霞んでいなかった。沈む夕日を照り返すのは、黒曜石のように美しく、高貴な光。
ーーあまりにも綺麗で、思わずほうっと見惚れてしまった。
「随分と、好きにしてくれたものだなぁ」
またも剥がれ落ちた自身の殻を、片手で受け止めてぐしゃりと握り潰しながら、魔王様はモンス司教を見据える。
ぴ、自分の皮膚だった物なのに良いのか?……まぁ糊とかで貼り付けて治るとも思えないのだけど。
「全ては、貴方様の為なのじゃよ!本来の神の姿となられれば、儂らの崇高な働きを理解されましょうて!ーーさぁ、今こそ時は来ましたぞぃ!アッシュロード・バッシュよ、その小鳥をーー」
「己の鳥だ。お前なんぞが呼ばうな、不快でならぬ」
目を血走らせながらのモンス司教の真命を、魔王様は遮った。
ぴ……魔王様?アッシュさんの真名を呼ばれるより、僕を呼ばれる方が嫌なのですか?
「耳障りだ。ーーカゲ。暫しの時、己と烏滸鳥を閉ざせ」
「御意」
するとカゲヤンにいきなり突き飛ばされ「ぴわわっ!?」と驚いて、たたらを踏んだ。数歩もしない内にぼすんっと魔王様に抱き止められる。
何をするのだ!とカゲヤンを見ると、こちらを背にしてとんとんっと地を踏んでいた。
夕方の、黒く長い影が地面からせり上がって来てーー今度こそ、僕の視界は真っ黒に染まってしまった。
「ぴ!何も見えないのですよ!何なのですかここは!?」
「影の中さ」
冷静な魔王様の声が側から聞こえて、僕もつられて落ち着いてきた。言われてみれば、カゲヤンの影沼の中と似た感じがするのだ。
「しかし烏滸鳥、やはりと言うか、夜目が利かぬ鳥目なのか?どこまでもお前、鳥なのだなぁ」
「ぴええぃっ!こんな時にしみじみと僕の分析をしないで欲しいのですよ!」
しかもどこか楽しそうじゃないか?なんて暢気なのだ、うちの魔王様は!
あんなに心配したのに、拍子抜けしてしまうじゃないのですか……。
「お体、大丈夫なのですか?治りますですよね?」
さすさすと僕を囲う腕を触ってみる。暖かいし、しなやかなで力強い筋肉を感じるーーのだが、服の中でぽろぽろと殻の欠片が落ちる感触があった。ぴっ!御免なさいなのですよ!
「ふふっ、己がそうまで心配か?己の鳥に想われるのは、悪くないなぁ」
だから、何でちょっと嬉しそうなのだ!それ所じゃないでしょうに。……何だこの、心配して損した感じ。
真っ暗なせいで見えないのだけど、にやにや笑ってるなこれ。ぴくそう、しばいてやりたいのだ!
「本当に、悪くない。……最期に、こうしてお前と過ごせた」
ーーさ、いご?
その言葉に、ひゅっと心臓が冷えた。
「最期って……何ですか。だって魔王様はまだーー」
「己はもう駄目さ。皮がもう、保たぬ。あの司教の言の通りだとするなら、アッシュとやらの部分が既に亡くなりかけている。喪えばどうなるか、己にも分からぬよ」
魔王様はアッシュさんと七翼神の気配が混ざったものだって言われていた。そのアッシュさんが無くなったら……もうそれは、この魔王様じゃない存在になるという事なのか。
「で、でも!まだ何か方法がーー」
ディアンさんも言っていたのだ。真命は穴があればそこから突き崩せるって。だから命令を覆せればーー!
「悪いがなぁ烏滸鳥。もう、時がないのさ。己の自我のある内にーーお前を、元の世界に帰してやろう」
ーー元の、世界へ。
それは、ここに来てからの僕の大願なのだ。
いきなり訳の分からないこの世界に喚び出されて、愛する家族や友達から引き離されて、鳥扱いもされてーー。こんな世界、一刻も早く脱け出してやる!って思ってた。
けれどーーこんな状態の魔王様を置いて、のこのこ帰れと言うのか?
異世界から喚ばれたのに、勇者っぽく世界を守る事もなく、魔王様さえ救えない。何の活躍もしないまま、おめおめと元の生活に戻れと?
ーーそんなの、絶対に無理なのだ!
「嫌なのですよ!こんな状況で帰ったら、こっちの事が気になって夜も眠れなくなりますですっ!授業中の睡魔に屈してしまう事受け合いなのですよ!ーー僕を、全教師の敵にするつもりなのですか!?」
きっとチョーク投げの的にされる……!丸めた教科書で頭をぽかすか殴られまくるのだ!
「……何やら良く分からぬが、その心配は要らぬさ。ーーお前は、ここでの事を全て忘れるのだから」
ーーぴ、ぇ?
「どうしてーー?」
何で?忘れる訳がないのだ。
だって僕の今までの人生で、こんなにも波乱万丈で荒唐無稽で、アグレッシブな事なんてなかった。ここでの日々はあまりにも印象的過ぎる。
こんなの、忘れようがないじゃないか。
「己は初めに言ったなぁ?ーーお前を元の場所、元の時間、元の姿へと戻すのは術を辿るだけだから造作もないと。辿ればお前の時間は遡り、これまでの事は無かった事になる。無いものを覚えておくなど、出来ぬよ」
ここでの日々が、初めから無かった事になる。
沢山、この世界では理不尽な思いをした。嫌だと思った事も、悔しかった事もある。信じられない事に、死にそうになったりもした。
けれど、楽しい事もあったのだ。異文化交流に驚いたり、珍しい物を食べれたりもしたし。
ーー何より、側に優しい人が居た。
いつもの独りぼっちの時間とは違う。賑やかで暖かな一時だった。心の空虚をすっぽりと包み込んで、癒してくれた人達がここに居る。
ディアンさんやテオさん、カゲヤンにーー魔王様。
皆の事も忘れて、無かった事になってしまうのか……?
「ぴっ!お断りしますです!いずれは帰りますですが、今は遠慮するのですよ!……忘れてしまうのは、嫌なのだっ!」
「そうまで想われると面映ゆいな。余計に手放したくなくなるだろう?ーーもう、言うな」
「だったら!魔王様こそ帰すなんて言わなきゃ良いのですよ!今まで面倒臭がってたのに、何で今更になって帰そうとするのですか!?」
手懐けておいて、優しくしておいてーーそれなのに手放すなんて、酷いのだっ!
「先も言ったがな、本当に猶予がないのさ。己を失えばどうなるのか、お前に何をするのか分からぬ。ーー己は、二度も鳥を喪いたくはない」
二度?魔王様、鳥を飼っていたのか?
いや、これはアッシュさんの意識なのだろうか。黄色い小鳥を、僕と重ねている?
もしかして魔王様、意識混濁してる?平然として見えてたけど、本当にもうーーやばい状態なのか。
「喪うくらいなら野に……平穏なお前の世で、ぬくぬくと育て。精一杯飛び跳ねて、お前の生を謳歌すれば良いさ」
見れぬのがとても残念だ、と言って、魔王様はぼろぼろの手で僕の頬を撫でた。感触は変わってしまったが、温かさは変わらない。その指がするりと目尻を拭った。
そこで僕は、自分が泣いている事に気が付いた。
ーーだって、だって!本当にこれ、お別れの挨拶みたいじゃないか!
こんなぼろぼろの魔王様を置いて、僕には全てを忘れて安穏と暮らせよって言うのか……っ!
「ぼ、僕はまだ、ここで何も成してないのです!異世界から喚ばれた勇者は、世界を救ったり英雄になったりするのですから!僕も、ここで何か成功を納めなければ帰れないのですよっ!」
でなければ何の為に喚ばれたのか。ーー魔王様の危機に何も出来ず、それすら忘れ去るなんて、絶対に嫌なのだ!
「ふぅん、タダでは帰らぬか?己の烏滸がましい鳥はやはり、大層強欲なのだなぁ」
強欲で何が悪い、僕こそ失うなんて御免なのだ!お互い様じゃないか!
「ならば、餞別くらいくれてやろうか」
そう言うと、真っ暗な中で魔王様の動く気配がした。頬を撫でる手が両手になって、顔を固定される。
「ぴぅ」
ちゅっと音を立てて、魔王様が僕の涙を吸い取った。暗闇で、鋭敏になった聴覚と敏感になった触覚が、如実にその様を脳に伝えてくる。僕の体はびくんと震えた。
「ぴふ」
左目、次いで右目と丹念に涙を吸われて、頭がくらくらしてきた。頬は魔王様の手に包まれているから、見えなくても熱くなっているのが諸バレだろう。
「ぴぁ」
背筋からゾクゾクしたものが這い上がってきて呼吸が怪しくなってきた時、また音を立てて、今度は額に口付けられた。
すぐに離されたそこにだけ、何故か火が灯ったような熱が残っている。熱くはなくて、温かい。
「ーーこれは、戻っても無くならぬだろう。己の餞別なのだから、不服はあるまい?これだけ持って帰ると良いさ」
とんとんっと地を踏む音がする。カゲヤンが影を生む時に似ている動作だーー。
すると、ぶぅんと音を鈍く響かせて、足元から幾何学模様の魔方陣が浮かび上がって来た。淡く発光するそれに目を奪われる。
これはもしかして、王女様召喚に使ったとされる魔方陣かーー?
「来る場所、来る時、来る姿へと遡れ。さらばだ。愛しい愛しい、己のーー滸」
「っ!?」
覚えててくれたのか。初めて、僕の名前を呼んでくれた。
「魔王様ーーアッシュ……様ぁっ!」
淡い光に照らされた慈愛の笑み。その愛しい人へと手を伸ばす。しかしそれはーー今度も、届かなかった。
そして、僕は魔方陣の光に包まれた。
ーーさて、夕飯の準備をしよう。一人分ならあっという間だ。
ふと、夕日が目に入り窓の外を見る。西の彼方、茜色の空の下で一日を照らした太陽が静かに沈んでいく。
ーー夕日を見ていると、独りの寂しさが浮き彫りにされる気がする。長く伸びる影が唯一存在感を増すが、それとて心の慰めにはならない。寧ろ、一つしかない影に更なる寂寥感が掻き立てられる。
ーーいつも胸の奥にぽっかり穴が空いたように、寂しいのだ。
お父さんがいないからというのもあるけれど、何かしなきゃいけない事があったのに、それを忘れてるような……焦燥感と物足りなさがいつも拭えないでいる。
暮れる陽を見ていると、それがいや増す気がした。
空には気の早い一番星。彼も寂しいのだろうか。夜の訪れを、仲間の瞬きを早く早くと急かしているようだった。
孤独よ去れ、眩い煌めきを闇に散りばめろ。寂しい夕暮れを塗り変える闇色が、濃く深く増していくーー。
まるで不吉なものを一刻も早く追い祓おうとするかのようにーー。
「黄昏時って、大禍時とか逢魔時とも言うのだよね」
妙にな薄ら寒さを感じ、それを誤魔化すように口を開いた。
一体どこで得た知識なのだったか。本かゲームか、それとも今日の古典の授業で先生が言っていたのかな?ぴむ、睡眠学習というものなのだな。
確か、この世とあの世の境が曖昧になって、禍を呼びやすい時間なのだとか。
「語源は誰そ彼。夕焼けの逆光で顔が識別しにくくなるから。ーー昼と夜が交わる時、人と魔の世界も交わって、怪異と出逢ってしまうかも知れない。まさに字の如く、魔と逢う時って事なのだ」
こんなに綺麗なのに不吉な言葉も孕む時間。綺麗だからこそ恐ろしい、怯えつつもつい魅入ってしまう。
ーー反した色が交ざるグラデーション、瞬きの時の芸術。
そんな埒もない事を夕暮れに見惚れながら考えていると、不意にーー窓の外に何か影のようなものが見えた気がした。変な事を考えてたせいか、身がびくりとすくむ。
「ーーいやいや、ないない。噂は影とか迷信なのだから」
そうは言いつつ、気になり出すと止まらないのは人の性か。
ーー何もない、ない。それを確認してさっさと次の行動をするべきだ。時は金なり。今はこれこそ、信じるべき格言なのだ!
外に目を凝らそうと顔を寄せ、そうっと窓に触れる。
「ーーほら、やっぱり何もないのだ」
やはり気のせいだったようだ。窓の外の町並みはいつもと変わらず、何の変哲もない光景が広がっている。
それに安心して、良かったと胸を撫で下ろした……のに。
ーーどこかで、その平穏に絶望してる自分が居た。
何で?と思った時、胸が締め付けられるように痛くなった。
いや、痛いんじゃない。心がごっそり抜け落ちたような、酷い喪失感が身を苛んでいるんだ。
独りになった時不意に起こる。これはいつもの事なのだ。……暫くすれば、落ち着く。
ーーそうだ、テレビでも点ければ気が紛れるのだ。たまには見ながら料理しよう。
賑やかで面白い番組をやってると良いなと思いながら、窓から離れる。数歩進んでーーそこに置いてあったエコバッグに引っ掛かって転んだ。
「ぴっ!?ーーったいのだ!何で取っ手がこんな所に付いてるのだ!?」
いや、そこに置いたのは自分だし、転んだのも自業自得なのだけれど。ーー何か、割りに合わない気持ちになった。
「取っ手は片方無くなった筈でーーあれ?」
取っ手なら、ちゃんと二つ付いているじゃないか。
て言うか、取っ手一個でも取れたら使いにくいだろうに。なら真っ先に縫い直すか、いっそ買い替えるかしてる筈なのだ。
何で、取っ手が無いなんて思ったんだろう?
「心臓がーー痛いのだ」
堪らず床に膝を着いたまま、胸の辺りををぎゅっと押さえ込む。いつもならもう治まっても良い頃なのに、寧ろ酷くなってきた。
「何で、何で?痛いーー苦しいよ、寂しいよぅ……っ!」
あまりにも痛くて視界が歪んだ。涙がぼろぼろ溢れ落ちる。その様が何かに似てる気がして、更に寂しさが込み上げてきた。
一粒落ちる毎に心の空っぽさが増していく。どんどん崩れ落ちて、終いには無くなってしまいそう。……誰かと、同じように。
ーー誰かって、誰なのだ?
「ぴふっ、ぅぅっうわああぁぁぁぁぁっ」
分からない、分からないっ。……この途方もない寂寞感は何なのか。何を持ってすれば、僕の心は満たされるのだろうか。
助けて、助けてーー誰か。
「あぁ、泣かないで。ーー愛しい愛しい、僕の滸」
突然ぎゅっと抱き締められた。驚いたのは束の間、僕は全身から力が抜けるのが分かった。
そのまま広くて温かい胸に顔を埋めると、懐かしい匂いがした。安心するその香りを、深呼吸するように胸一杯に吸い込む。
誰?ーーいや、決まってる。この人は、僕の大好きな人なのだ。
「おーーお父さん……っ!」