暗夜
じめじめとした湿気が絶えず身に纏わりつくような陰気で薄暗い中に男は居た。
まぎれもなき、牢屋の中であった。
眠い様な、酔っている様な、或いは…死の途上の様な、ともかく男は薄ぼんやりとした色の意識の中に居る。
不意に男の名を呼ぶ声が、牢内に鋭く響く。
『…おい、聞こえなかったのか?釈放だ』
がちゃり、と錆臭い音がそれに続き、牢屋の鍵が開け放たれる。
『この俺が…釈放?』
陽の光など、殆ど差すこと無いこの薄闇では、牢番の男の顔など充分に拝む事など出来ない。
そうだ、と煩わしそうに牢番の男は呟き、
『藩の特例の恩赦だそうだ。思わぬ命を拾ったな』
その声には露骨な蔑みが混じっている。
『なっ…馬鹿なっ!』
その瞬間、男はそう叫んでいた。言うが早いか扉を跳ね開け牢の外に出たのは、牢番の男に掴みかかる以外に目的は無い。
『恩赦だとっ!ふざけるなっ!』
男の太い指が総出となって牢番の男の首を締め上げる。
『俺を何故殺さぬ、死罪にせぬ!ここで死なずして何の面目あって先に死んでいった同志らに相見えると言うのだっ!』
男の表情には怒りよりも、むしろ哀しみこそが満ちていた。
事態に気付いた他の牢番たちがすぐさま駆け付け、棒を持って散々に男を打ち据え、ようやく男と牢番を引き離す。
『この野郎っ、そんなに死にてぇなら今すぐ叩き殺してやろうか!』
『おお、俺は死にてぇんだ!だからさっさと俺を殺しやがれ、この薄のろどもが』
四方から乱打され、顔中を血まみれにしつつ男は野獣の如く咆哮する。
『何をしているっ!』
そこへ牢番どもより、格がはるかに上らしき侍が現れるや、この騒動の渦中に割って入った。
『…まだ若いではないか』
恐縮しきった牢番どもを尻目に、その侍は地に転がったままの男に優しく手を差し出し、
『死んだ同志らに殉ずる事のみが、水戸天狗党の尊皇攘夷の道ではあるまい。せっかく拾った命だ、無駄に棄ててはならぬ』
その侍の顔を、血に滲んだ目でうっすらと見上げ、男は思わず息を飲んだ。
『芹沢さん、私は貴方に死んで欲しくないのだ!』
そこには何故か、近藤が哀しみを込めた目で男を見下ろしていた。
……夢か。
気付けば芹沢は、駕籠に揺られる自分に気付いた。いつの間にか寝入ってしまったらしい。
昔の事を夢見るなど、久し振りであったろう。
…それにしても、今更、嫌な夢を見させやがる。
その生国たる常陸国の長閑な情景など、今や花の京都に居る芹沢にとって、路上に打ち捨てられた手荷物に等しい。
『それもこれも全部、あの近藤の野郎のせいだ』
今宵の宴席に、芹沢は出る気は無かった。行けば嫌でも近藤と顔を合わせる事になる。
あの一件以来、何故か芹沢は近藤を意図的に避ける様になっていた。その心境は芹沢当人にも容易に整理がつかない。
…それなのに、何故行った。
その理由を探り当てる前に、睡魔が再び芹沢を包み込んでいく。
もう一度、芹沢はそのままの姿勢で眠りを受け入れた。
芹沢を載せた駕籠は、一路彼の寝座である八木 源之丞の屋敷目指し、夜の闇をひた走ってゆく。
…雨が、降り始めていた。