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×Tough/Sense×  作者: グレイ
2/3

第二話 「夏のつらら」


「……ああッ!」


俺の体が、勢いよく跳ねた。

スプリングが弾けるように、全身が一瞬、空中へと飛び上がったのだ。


跳ねとんだ俺の体が着地して、その感覚で目が覚める。

気が付けば俺は、見慣れない和室の片隅で、布団の上に座り込んでいた。



息が上がっている。

なんだか、物凄く悪い夢を見た気がする。

例えば全身を八つ裂きにされるような、そんな感じの血なまぐさい夢だった。


とにかく体が重い。(なまり)のようだ。

痛むところはないが、全身()えきって、動かす気にならない。

このままもう一度眠ってしまいたいほどの疲労感を感じる。



それに、ここがどこだかも覚えていない。

和室のようだが、俺の家の和室ではない。見覚えのある造りをしているが、レイアウトから雰囲気まで、何もかもが決定的に違う。

見知らぬ家具ばかり。見たところ、どうやら女の部屋のようだが……。



そんなことを考えていると、背後でふすまが()れる音がした。

開いたふすまの隙間から、日差しが部屋に差し込んだ。朝の日差しが、あたりをオレンジ色に染めていく。


振り向いてみると、光は一斉に俺の目の中へと飛び込んできた。


「あ、目が覚めたの?」


開かれたふすまの向こうから聞こえてきたのは、優しげな声だった。


まぶしくて何も見えない。

しかし、逆光の向こう側で、小さくて華奢(きゃしゃ)な人影がこちらを(のぞ)いていることはかろうじて分かった。


あれは、母さんなのだろうか……?



「大丈夫? ちゃんと寝れた?」


人影が発するその声に、俺は聞き覚えがあった。


だんだんと目が光に慣れていくにつれて、その人影の輪郭(りんかく)がだんだんと鮮明(せんめい)になっていく。



「……先……輩。」


部屋にやってきたのは、母さんではなく、先輩だった。


弘瀬(ヒロセ) 夢美(ユミ)先輩。俺が所属するサークルの先輩で、同じマンションの602号室に住むご近所さん。

おせっかい焼きでお姉さん気質ないい人だが、いかんせん身長が中学生レベルなのが玉に傷な女子高生。


色で例えるなら、暖色系のホワイトが似合う人だ。



「朝ごはん、食べる?」


「……はい。」


「わかった、今用意するからね。」


そう言って、先輩は優しげに微笑んだ。



先輩が和室から去ると、日差しが直に目に刺さるようになった。

日の光が、俺の体を微睡(まどろみ)の底から引き上げていく。


そうだ、俺は確か、あのあと―――母さんの変わり果てた姿を目撃した後―――先輩の家でお世話になっていたんだった。

家があんな状態では生活なんてできないでしょうと、放心状態だった俺の手を引いてくれたのだ。


正直言って、その時の記憶はあいまいだ。先輩があの時どんな言葉で、どんな表情で俺を部屋へいざなったのかも、最早思い出せない。


俺は連絡で駆け付けた警察の事情聴取やら、遅れて帰ってきた妹の結奈(ゆいな)の質問攻めやらで、疲れていたのだ。

それ以上に、生で母親の死体を見てしまったという精神的ショックもあったかもしれない。


あのときの俺は、一種の廃人のようなものになっていただろう。自分ではよく分からないが、先輩のあの時の心配の仕方は、尋常(じんじょう)ではなかった。

まぁ、今の自分からしても無理はないと思う。あの無残な死にざまを見れば、俺でなくとも誰だって腰を抜かすだろう。


母さんの体は、全身を鋭い刃物でめった切りにされていた。刺し傷も切り傷も、数えきれないほどあったらしい。

しかも内臓が体の外に摘出され、床にきれいに腑分(ふわ)けしてあった。猟奇(りょうき)的というより、何か煤黒(すすくろ)い意図、脅迫的なものを感じる。

しかし、そんな異常な外傷に対して、致命傷は首筋の切り傷一つだったらしい。それも頸動脈(けいどうみゃく)を的確に一発で突いていたそうだ。


つまり、迅速に息の根を止め、そのあとで全身を切り刻んだということ。


普通、そんな馬鹿な真似をしたら証拠の一つや二つは絶対に残るというが、これがどこにもない。

現場に残っていた足跡、体液、指紋、その他のどれにも、証拠らしい証拠はないという。

目撃証言もゼロ。


唯一の情報が、俺へのあの電話だった。

しかし、あれも俺が一人で聞いただけなので十分な証拠にはならないだろう。母さんの携帯にも、犯人の皮脂(ひし)すら残っていなかったらしい。


抵抗の跡、争った痕跡(こんせき)も見られなかったそうだ。


つまり手がかりゼロということ……。



「朝ごはん、できたよ?」


そんなことを考えていると、和室の外に先輩が覗いた。


心配げな表情をしている。きっと、俺の眉間にしわが寄っているせいだろう。


先輩をあまり心配させたくはない。俺は不自然ながらも、笑みを作りながら立ち上がった。


食事はとらなければならない。生き延びるためには絶対に必要だ。

例え、鼻腔(びくう)の奥に未だ血の臭いがこびりついていて、食欲など皆無であろうとも。


生きていくには、食べなければならない。


現実は、一晩明けても残酷なままである。





先輩が用意してくれた朝食は、スクランブルエッグと、ソーセージのソテーだった。

手が込んだものではなかったが、それだけにシンプルで食べやすいだろう。かすかにごま油のいい香りもしている。


「食欲、ないでしょうけど……食べないと体に毒だからね。」


そういって、先輩はごはん茶碗をテーブルに並べた。

どうやら先輩も食事はこれかららしく、茶碗は二つだった。


先輩はテーブルの横のほうに腰掛け、テレビのチャンネルに手を伸ばして電源を入れる。

薄型テレビが、少しの間をおいてからニュース番組を映し出した。


「いただきます。」


「……いただきます。」


ケチャップのついていない、プレーンなスクランブルエッグを箸で切る。

口に運ぶと、半熟な卵の白身が、口のなかでまろやかに広がった。


正直、味などわかったものではなかったが、とにかく箸を進めるしかないのだ。



暫時(ざんじ)、そんなガムを飲み込むような食事を続けていると、ザッピングを続けていた先輩が小さく口を開いた。



「……あれ?おっかしいな……。」


先輩が見ているテレビ画面には、ニュース番組ばかりが映し出されていく。先輩は、そんな画面を食い入るように見つめている。


「何がです?」


「昨日の事件のこと、どこでも取り上げられてないのよ……。」


そういいつつ、先輩はデータ放送切り替えのボタンを押した。

テレビ画面がブラックアウトし、間もなくインフォメーション画面が映し出される。


ニュース欄には、どこにもそれらしい見出しはない。


確かに、それはおかしい。

あれだけ常軌(じょうき)(いっ)した事件だったのだから、ニュースで取り上げないはずがない。

少なくとも、地元放送局のデータ放送では、確実に報じるはずだ。


あれは報じなければならないのだ、あの凄惨(せいさん)な事件は……。


その瞬間、体の底から液状の物がせりあがってくるのを感じて、俺は思わず口を押えた。


「ウッ……!」


「……あっ!ごめんなさい!」


逆流してきたのは胃液だった。


体の周りを、ベタつく(きり)につつまれているような感覚がある。

気持ちが悪い。



「ごめんね……思い出させちゃったね……ごめんね。」


先輩は申し訳なさそうにうつむきながら、俺の背中をさすりはじめた。


先輩、謝る必要なんかないんですよ。

先輩は何も悪くないんです。悪いのは俺なんですよ。


母さんを殺した、あの女もそうですけど……本当に悪いのは、そんなショックにやられてる俺なんですよ。


「無理に食べなくてもいいよ? 横になる?」


「……いえ……大丈夫、です。」


覗き込んでくる先輩の表情は、とても慌てているようだった。

とても、心配をかけさせるような弱音は吐けそうになかった。



「大丈夫じゃなさそうだけど……?」


「大丈夫ですから……。」


そう言って、俺は先輩に向かって笑って見せた。

多分その顔は引きつっていて、大層酷いことになっているはずであるが、気持ちを察してくれたのか、先輩はそれ以上何も言わなかった。


「そんなことより……結奈は? 結奈はどうしてるんです?」


俺は、先輩の手をゆっくり払いながら問いかけてみた。

結奈は、現状では俺の唯一の家族だ。今は俺と一緒に、先輩の家でお世話になっている。


昨日、結奈は俺の後に帰宅した。友人と買い物をしていたらしく、帰ってきたのは夕方ごろだ。


俺が警察に取調べを受けている間に帰ってきて、家の前に溜まるパトカーの群れを見て驚愕していた。

あの時は、この状況をなんと説明しようか悩んだものだ。

だがそんな俺の心配をよそに、当の結奈は母親の訃報を知らされてもあっけらかんとしていた。

思春期真っ盛りの女子高生にとって、親は目の上のタンコブでしかないらしい。いなくなってせいせいしたとまで言いのけた。


それが強がりなのか、本心なのかは俺には分からない。

強がってはいたが、今日になって耐え切れなくなり、むちゃくちゃに先輩の家を飛び出した……なんてことも、ありえなくはない。


故に、結奈の姿が見えないことが心配だったのだ。


「あぁ、結奈ちゃん? 結奈ちゃんならまだ寝てるよ。大丈夫。」


なだめるような声で先輩が言う。

どうやら心配は杞憂で済んだらしい。


「……そうですか。」


「結奈ちゃんがどうかしたの?」


「……いえ、何も……。」


ゆっくりと立ち上がる。

まだ少し喉の奥に酸味が残っているが、気にしていられない。


「少し、出かけてきます。」


「え? あ、うん……大丈夫なの?」


「大丈夫です。」


結奈が無事ということさえわかれば、俺がここに居る理由はもうない。


むしろ、長居するべきではない。

昨日の殺害予告。


あの女は、俺に向かって「殺す」と断言した。

そして、ここは先輩の家。先輩まで殺されてたまるか。


「迷惑かけてすいません……行ってきます。」


「え、あ、うん……気にしないで!いってらっしゃい。気を付けて……。」



財布と定期をポケットに突っ込んで、逃げるように先輩の部屋を後にする。


そのまま廊下を抜けて、玄関をそっと、結奈を起こさないように開けながら、俺は外の世界へ飛び出した。






一晩ぶりに外気に触れる。

外の世界はアブラゼミのひしめく音で埋まっていた。


俺の部屋のほうへ目をやる。

玄関のあたりを、警察が張っていったブルーシートが覆っている。

しかし、よくドラマで見るようなKEEP OUTのテープはない。


そして、一夜あけたその部屋の周辺には、警察の人間らしい姿は見受けられなかった。



「……誰も、いないのか。」


まぁ、朝だ。無理もないか。

きっと今頃、本部で対策会議でもしているんだろう。


会議の間も鑑識ぐらいはいてもいいのではないかと思うが……まぁ、素人の俺には分からない事情があるんだろう。


そんな解釈を取り付けて、俺は共用部分の外部階段を下った。



逃げ水の這う路地を北へ進んでいく。


目的地は、特にない。

とりあえず人のたくさんいる都市部の方へ行こうと思う。


とにかく今は一人でいると不安だった。

誰に会いたいというわけではない。人が芋を洗うようにごった返しているような場所が恋しいのだ。


都市部に行けば、人の流れが絶えることはない。

人がいる場所ならきっと、あの女も殺しに来ようなど思わないはずだ……。


住宅街の小道を抜け、大通りにでる。

太い道路の上を、車が()くように行き交っている。


このあたりに、マンションから最寄りの駅がある。地下を走る鉄道の駅だ。街の中心まで直結している。

それに乗って、街中まで行こう。


ぼんやりとした思惑だけが、輪郭のない理想を描く。


今日は帰らない。


俺が帰れば、先輩たちに迷惑がかかる。

あそこが俺の帰る場所でなければ……先輩が殺されるなんてことは……。


そんな淡い期待。


最早俺の命がどうとか、そういう問題ではなかった。

目の前で人が死ぬのはもう見たくない。殺されたかはどうでもよい、死体を見るのが怖くて怖くてたまらない。


だからと言って自分も死にたくない。

そんな現実逃避を、ただ肯定するための屁理屈を、俺は並べている。


「……はぁ。」


溜息をつきながら、地下へと続く階段を下る。

太陽光線は遮断されたが、蒸れて淀んだ空気が肌をなめてきて、不快指数はさらに増している。


空調のブッ飛んだ昼下がりの駅には、朝の活気はない。


電車が来るのは5分後だ。

俺はくたびれた改札に定期のカードを押しつけ、その先へ進む。


駅のホームは、閑散としていた。



まぁ、夏休みとはいえ平日だし、ラッシュの時間帯というには遅すぎるし、当たり前といえば当たり前かもしれない。

混雑してればしていたでうざったいのに、すいていればすいていたでさみしいものだ。


特に今の俺には、この閑古鳥(かんこどり)の鳴きようは毒だぜ。

……って、ウサギかよ、俺は。



そんなことを脳内で呟きながら、俺は誰も掛けていない椅子に座る。

椅子はひんやりと冷たかったが、Tシャツが汗でぬれて少し気持ちが悪かった。


背もたれにかけるのはあきらめ、膝を肘置きにして猫背になる。

視界に移るホームの床は、ほこりまみれで不潔だった。



「……。」



ここでなにかセンチでイタいセリフの一つでも吐いてみようかと思ったが、カラッカラになった脳みそはいくら絞ってもアイデア一つもらさない。

脳裏を巡るのは、昨日の光景と未来への不安ばかりだ。


これからどうすればいいのだろう。

保護者と呼べる人間はもはやいない。


結奈は……まぁ、先輩が養ってくれることだろう。先輩はあぁ見えて結構な両家の出だ。だからこそ、バイトもなしにマンションで一人暮らしなんてことができている。

わがままな小娘一人が転がり込んだところで、彼女の懐がさみしくなることはまずない。だから結奈に関して心配する必要はないだろう。

それに、あいつは結構強いからな。


問題があるのは俺だ。

俺には先輩の好意を真正面から受け取れるほどの勇気がない。

まだ「殺害予告」については、先輩には話していないのだ。話さないまま世話になるのもまずいし、いざとなると口が動かない。

だからこれ以上、彼女を危険なことに巻き込むわけにはいかない。


だが、だからと言って一人で生きていけるような経済力もない。

多分通帳の中にはある程度は貯金があるだろうが、稼ぎがなければ……。



「はぁ……。」


俺は途方に暮れていた。

こういう時のためにこういう言葉が用意されているんじゃないかと思うほどにだ。


まぁ、バイトぐらいならできるだろうが、その収入など(すずめ)の涙でしかないだろう。


一人で生きていくには問題が山積みだ。

電車のホームで見切り発車に気づくとは、笑えないギャグにもならねぇな。



自嘲気味にもう一度溜息でもつこうか、と思ったとき。ピンポンと、ホームに電車の到来を告げるチャイムが鳴り響いた。

明瞭な音はコンクリートの壁に反射しながら、こだましていく。


「間もなく、1番線に、上り列車が参ります。」


歯切れのいい女性のアナウンスが鳴り響く。

まだ電車の姿は見えない。


「危ないですから、黄色い線まで下がって、お待ちください。」


一度目のアナウンスが終わる。


もう一度アナウンスがある。

そう、ピンポンというチャイムから、もう一度。



「モトクロス。」



声が。



チャイムよりも、早く聞こえた。


「……なっ?」



ヒールが地を叩く足音。


汚れた視界に、小綺麗(こぎれい)な靴が写りこむ。


「どこに行く気?」



ノイズ交じりの声が聴覚野(ちょうかくや)でリフレインする。

あの時と同じ、ダークパープル。


特徴的すぎる、冷たくも(なま)めかしい声。


「……逃げる?」



ピンポンというチャイムの音が、逃げていく。

脂汗(あぶらあせ)が、一瞬のうちに冷や汗に変わる。


目線を、ゆっくりと持ち上げた。



「……。」



そこに立っていたのは、女だった。


眼鏡を冷たく反射させて、口を真一文字に結んだ女。


「……逃げる、つもり?」


電話口だけで、ノイズまじりの声だけで、この女があの電話の主だと判断するのは、人として(いささか)不躾(ぶしつけ)かもしれない。

だが、この女のセリフには明らかな敵意がある。


俺はこの女を知らない。

知り合いにこんな女はいない。殺されるような恨みを買った覚えもない。


だがわかる。

あの電話の主はこの女だ。


そう俺は直感したのだ


「……。」


「……。」


「間もなく、1番線に、上り列車が参ります。」


「……。」


「……。」


「危ないですから、黄色い線まで下がって、お待ちください。」



沈黙が横たわる中、いやに明るいアナウンスの声が響きわたって、遠くのほうから轟々とした駆動音がやってくる。


女は俺を見つめたまま、俺も女を見つめたまま。

にらみ合うような、ただ眺めあうような、不思議な感覚。



気まずい空気が流れる。

俺は女を見つめながら、恐る恐る口を開いた。


恐怖が喉の奥に重く圧し掛かってくるが、俺は喉まででかかった言葉を呑み込む気にはなれない。

そして俺は、ついに沈黙を破ることになった。



「お前が……母さんを、殺したのか?」



一段指(いちだんし)、金属がこすれる音と共に、一陣の突風があたりに巻き起こる。


文明の馬が、長く列を作った電車が、勢いを殺しながらも構内へ駆け込んできたのだ。

弾ける雑音。彼女の髪が、風にしなやかに散っている。


「……俺も、殺すのか?」



「逃げなくても、まだ君は死なない。」


嘘だ、と俺は思った。


電車の扉が開くと、まばらに人が流れていく。

電車の中なら人もいる。さすがにここで殺人などできない。ならばここで俺がどうしようと、この女は無力だ。


女のほうを見る。

無表情でおとなしそうな女だ。

見た目からは犯罪者なんて判断できないというが、少なくともこんな公衆の面前で殺しができるやつではないだろう。


そんな安易な考えに完結した俺は、無警戒に開かれた空間へ足を延ばす。


すると彼女は、振り出された俺の右腕を、無言で鷲掴みにして引き留めた。


須臾(しゅゆ)


「……ッ!!」


ゴキリ、という音が、俺の腕から聞こえた。


俺の腕をつかんだ女の腕が、万力か否かという握力で俺の腕を圧迫しはじめたのだ。

もはや握られているというよりはつぶされている感覚に近い。

腕のあたりでグジュグジュという音がしている。


「君は、逃げられない。」



表情一つ変えない、鉄面皮のメガネ。

こいつ、明らかに常人の握力じゃない。

オランウータンの握力は約500kgと聞くが、そのぐらいに匹敵してるんじゃないか?


あまりの痛みに全身の汗腺という汗腺から汗が噴き出してきている。


もう多分、骨にヒビの一本や二本は入っているはずだ。


どうする? 足を止めていたらこの右腕は確実に持って行かれるぞ。

だからと言って、戻ったら殺されるし、この女をどうにか撃退する方法も思いつかない……!


蹴り飛ばす?いや反対の手でガードされて取り返しのつかないことになる。

殴り飛ばす?いやそれも上に同じくだ。

それに蹴りやパンチの一発くらいまともにあたってくれるとも思えない。この女、見た目以上に手練れなはずだ。インファイト状態でもかわしてくる可能性がある。


……冗談じゃない!


「逃げなければ、今すぐには殺さない。」


人の流れが止まる。

間もなく扉が閉まって、電車は発信するだろう。


「……逃げたら、今ここで死ぬ。」


こいつの目はマジだ。


考えている時間など最早残されていない。


俺がとれる精一杯の行動を取らねばならない。


そんなことを考えている間に腕の痛みは増していく。

痛い、痛い、痛すぎる……!


こんな痛みがあるのかと疑問になるほどの、経験したことのない痛み。血の流れはとうに止まって鬱血してるし、骨はきしむ一方だ。


どうすればいい?どうにかする方法があるのか?


リスクと、メリットを天秤にかけて、最善の方法を考えろと?


ふざけるな、そんな時間がいったいどこにある!


もう車掌の笛の音が聞こえた!


くそっ! 自分の脳みそのお粗末さを呪いたい気分だ!


こうなりゃ、やけでも起こさない限り活路はない!



「……ッ!?」



俺は、捕まれた右腕とは逆の左腕で、女の腕をわしづかみにし、そのまま思いっきり、電車の中へと引っ張った。


女はきっと、引っ張られたり、腕を引きはがそうとされることは予想していても、自分の体ごと引きずり込もうとしてくるとは予想していなかっただろう。

それに、彼女の体は軽い。バランスさえ崩れればあとは片腕の力でも持ってこれる。



引きはがすのではなく、引きずり込むことで、俺はまんまと電車へ飛び乗ることができた。

してやったり、というところか。一泡ふかせてやることには成功した。


重要なのは女から逃げることじゃない。

俺を殺せなくなるようなシチュエーションを作ることだ。


……まぁ、もしかしたらそんなの気にせず殺しにくるかもしれないけどな。


女が電車の中へ引き込まれると、電車の扉は待っていたように口を閉じた。


外界への扉は完全に遮蔽される。人のまばらな電車の中で、俺と女は互いの顔を見つめていた。



「……。」


「……。」



女は相変わらず無表情だったが、俺にはその表情が、少しだけキョトンとしているように見えた。



「こうすれば俺は……お前からは、逃げてないよな?」



ガタン、ゴトンと、列車はゆるやかに加速していく。


俺はいつのまにか、息を荒げていた。



「……そうね。」



女はそれだけ言うと、腕に込める力を弱めてしまった。

あまりにもあっけなく、肩透かしも甚だしく、俺はいともたやすく解放された。


「あ?……おい、殺すんじゃないのか?」


「今殺すつもりはない。君には利用価値がついている。」


女は無表情な声で、聞かれたことに対する答えだけを淡々と述べる。

あまりにも機械的な女。

何かのマニュアルに従っているのか? この女は一体何者なんだ?


それに、こいつはさっき、今すぐには殺さないと言っていた。

それが本当だとすると、目が届いてさえいれば殺さないということか?


さらに利用価値がついているとも言った。

一体どんな価値だ? 俺はプレミア骨董品かなにかなのか?


疑問がふつふつとわき立ってくる。際限なく、ひっきりなしに。


気づけば俺は、自然と口を開いていた。


「…………なぁ、なんで母さんを殺したんだ? ……何で俺を狙う?」


「仕事だから。」


女は、電話口の声と同じ声でそう言った。



「あんたの?」



女は無言でうなずいた。


「私は、君の監視を任された。」


「監視? ……誰に?」


ちくりと、腹部にかすかな痛みを感じた。

驚いて視界を下げる。


目の前の女が、俺の腹部に鋭く()がれたナイフの切っ先を突きつけてきていた。

その刃は、周囲からは俺の体の陰になって、丁度見えないような角度で突きつけられている。



「……言えないの。」


女は、俺にナイフをつきつけながらも無表情に徹していた。

キョトンとしていたさっきの面影は、もはや見当たらない。


女は眼鏡越しに、まっすぐに俺の目を見る。手元なんぞ見ちゃいない。

こいつは俺の出方をうかがっているのだ。周囲のことなんぞ気にも留めていない。


つまり、こんな公共の場でも、変な真似をすれば平気で刺すぞ、ということ。

っつーか、電車が揺れた拍子に、事故で刺さってしまうかもしれないってことでもあるよな、コレ。


なんつー女だ……羅刹(らせつ)なんて言葉で済むかも不安になってきたぜ。



「……何故、俺が?」


だが、俺の口が質問をやめることはなかった。

何故だろう、自分でも不思議だ。好奇心が恐怖心に勝っている。


こんな状況でも、表向きだけとはいえ錯乱していない俺は、もしかして真症の変態なのではなかろうか。


「どうして俺なんだ?」


「……言えない。」


「どうやって俺の電話番号を知った?」


「……言えない。」




女は、俺の問いかけによどみなく答える。



どうやら問答無用で殺すというわけではないらしい。

女は俺にナイフを向けながらも、一発かますようなことはしていない。


一体こいつは、俺をどうするつもりなんだ?

この女はいったい、何者なんだ?



「あんたは、誰なんだ。」



女は、ナイフを俺に突きつけたまま、俺の目を見つめながら口を開く。


言えない、という言葉を紡ぐと思ってた。


しかし違う。女ははっきりと、たよたうことなく、自分の名前を述べたのである。



「つらら。」


「は?」


「私の名前は、氷柱(つらら)。」



絶句、してしまった。

まさか本当に名乗るとは思わなかったから、頭の中が真っ白になってしまった。

俺の今の顔は、さぞや面白いマヌケ面になっていることだろう。


そんな俺の顔を覗き込みながら、彼女はだんだんと顔を近づけてくる。

何をする気なのだろうか?


脅しの言葉でも間近でささやくつもりだろうか?

それとも俺の顔に何かついている?


分からない。まったく先がよめない。



顔が斜めになり、次第に近づいてくる。


冷や汗が滝のように流れてくる。

俺は思わず、目をつぶった。



その刹那、唇にやわらかな感触がふれた。


「……!?」


つららが、俺に接吻していたのだ。

軽く、弱く、触れるだけのフレンチキス。


それが俺の、ファーストキスだった。






To Be Continued...


どうも、luminescence-Grayです。

第2話、なんとか形になりました!

多忙な中ではありまして、正直まだ不安も残る文面なのですが

ひとまず形として完成させられてとてもうれしいです……!


今回は、いべちゃんさんのアドバイスを基にしながら書かせていただきました!

段落の頭を一字浮かせたり、鍵かっこの最後に。をつけないなどは、自分の中で納得できなかったので採用を見送らせていただきましたが……うるさくならないようにはかなり気を遣いました(苦笑)


いやー……前回急ぎすぎたぶん今回はゆっくりと思いましたが、ゆっくりにしたらしたでなかなか話も進みませんね;

少しずつ調整していきたいと思いました。


とにかく、まだまだ時間も体力も尽きたわけではないので、できる限りの努力をしていきたいと思います!

読んでいただきありがとうございました!これからもよろしくお願いします!

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