黒猫メリーさん
―もしもし、もしもし。
誰かが呼びかけている。誰だ。声の主の姿は全く見えず、あたりには人の気配すら感じられない。というかここはどこだ。少なくとも俺の見知った街ではない。どこか外国のような、見慣れない石造りの建物や石畳。俺は全く見たことのない場所にただ一人立っていた。
―もしもし、もしもし。
誰だ、誰なんだ。というかこれは俺を呼んでいるのか?姿ぐらい見せてくれてもいいものを。
―もしもし、もしもし。
三度目だ。体全体によく響く声、そしてその声と同時にどこからか聞こえるじりじりというアラームのような音…
アラーム?
目を開けると石畳や建物も消え、俺の目に映るのは見知った部屋の天井。そして俺がいるのは見知らぬ街ではなく、俺の自室に他ならない。そして得体の知れない声は全く聞こえず、聞こえるのは目覚まし時計のアラーム。
「…夢か」
なんて訳のわからない夢だ。あんなゲームの世界のような場所を夢に見てそしてファンタジックな展開を迎えようとして目が覚めるとは、俺はいったいどうしてしまったというのだ。最近新しいRPGのソフトを買ったがしばらくゲームは控えた方がいいかもしれない。
そんなことを考えながら制服を着る。目覚まし時計を止めていなかったことに気付き、うるさいアラームを鳴らしている奴の頭を軽く叩く。
いつも通り母親の作った朝食を食べ、いつも通り母親に急かされながら支度をして、いつも通り家を出る、そんないつも通りの朝。
そう、いつも通りの。
静かな教室に響く英語教師のやる気の無さそうな声。静かとはいっても、真面目に授業を受けている奴なんて数えるほどしかいない。殆どの奴は他の授業の課題をやっているか、ノートに落書きをしているか、漫画を読んでいるか、寝ているか。かくいう俺も開始わずか十分で眠くなったので、他の奴と同じように教科書を机の隅に追いやって机に突っ伏した。
窓から差す暖かな日差しを浴び、教師の眠気を誘う声をバックに俺の意識はだんだんと薄れていった。
―もしもし、もしもし。聞こえますか?
デジャヴだ。
朝と全く同じような声が聞こえる。ただ一つ違うことがあるとするなら、言葉が一つ増えたことだろうか。とりあえず問いかけには答えねばならないので、俺は心の中でその声に答えた。
―聞こえます。あなたは誰ですか。
答えが返ってくることは期待していなかった俺のその声に、どこからか答えが聞こえた。
―わたしですか。名前はありません。
なんだその小説のような応答は。とにかくこの声は空耳ではなく、確かにどこかの誰かが発している「声」だということが確認できた。俺はさらにその声の主に問いかける。
―どこにいるのですか。
―わたしですか。わたしは、あなたのいる街の近くにいます。
そうかここは確かにどこかの街なのか。いや待てよ、声の主が行っている街は今俺がいる街なのか、それとも現実世界で俺が住む街なのか。どっちだ、と考えようとしたところで俺はその頭に浮かんだ問を消した。どうして俺の夢の中に出てきたこの声の主が、現実での俺を知っているんだ。
次に何を聞こうか考えているところで、またあの声が聞こえた。
―もうすぐ、あなたの街に着きますよ。
「…それでは、今日の授業は終わります」
そう言ったのは謎の声の主ではなく、頭の薄くなった英語教師だった。
またあの夢を見てしまった。誰なんだあれは。夢の中ではさして疑問も感じずに会話をしていたが、あれはいったい何なんだ。というか寝る度にあの夢を見るなんて、俺は本格的にどうかしてしまったのだろうか。というかよくよく考えるとあいつは俺の方に近づいてきているではないか。これはよく都市伝説で耳にするメリーさんとか言うやつだろうか。
いや、これは多分そんなふざけた話ではない。多分。
そんなことを考えていると、教室には穏やかな笑みをたたえた年配の古文教師が入ってきた。全員席について寝る準備をする。
おいおい、授業が始まる前から寝る気満々なのはどうなんだ、とさっき寝ていた自分のことを棚に上げて呆れていた。しかし待てよ。ここで寝たらまたあの夢を見ることができるのではないか。決してあのいかれたような夢を見たいわけではないが、あの声の主の正体が気になって気になって仕方がない。
寝よう。決定。
―もしもし、もしもし。あなたの街に着きましたよ。
来た。というか、来る。俺のもとに。これは絶対に俺に近づいてきている。やはりメリーさん説が濃厚だろうか、などとふざけたことを考えながら俺はまた問いかける。
―あなたは何者ですか。
少しの間を置いて、また答えが返ってきた。
―わたしが何者か、と訊かれたら困ってしまいます。
なんなんだよ。俺は勝手に声の主に関する考察を始めた。
声の高さからして女だろう。そしてどちらかといえば透明感のある、可愛らしい声をしている。若い女だろうか。
というか彼女はなぜ俺に話しかけているのか。彼女の目的はなんだ。人間なら誰しも自分の名前はわかるはずだろう、普通は。いや待て、彼女がその普通の人間なのかはわからない。彼女は何者なんだ。結局はそこに帰結する。俺が考え込んでいると、再び声が聞こえた。
―でもわたしはもうすぐあなたのもとへ行きますから、そうすればおわかりいただけます。
俺の所へ来るのか。やっぱり。
―いつ頃、俺の所へ来るのですか。
―そうですね。もうすぐです。
さっぱり訳がわからない。俺の所へ来るって、それは夢の中でか?今夜も俺はこんな夢を見なくちゃいけないのか?俺なんかした?
「あらあら、寝てる人もいますけど、今日は終わりにします」
そう言ったのは彼女ではなく、眼鏡のずれた女教師だった。
また教師にいいところで中断された。いや、決して望んで見た夢ではない。望んでいないのにあの夢を見てしまうんだ。疲れているのだろうか。特別疲れるようなことをした心当たりはないが。
悶々としているといつのまにかホームルームが終わり、掃除当番によって教室から放り出された。今日は部活が休みだ。こんな夢を見ると言うことは疲れているのかもしれない。そうだそうだ。きっとそうだ。こんな日は帰って寝よう。俺の家は学校から遠いし、帰ったらちょうど夕方だ。
「おかえりなさい」
「ただいま。ちょっと部屋で寝る、夕食になったら起きるから」
「えっ、待ってよ。今日はお父さんが」
母親が何か言っているがそれを無視して俺は自室に入った。制服から部屋着に着替え、ベッドに横になる。どうやら本当に疲れていたようで、すぐに眠りに引き込まれていった。
―もしもし、もしもし。また会いましたね。
ああ、また会ってしまった。なんでこうも寝る度に会ってしまうんだ。もしやこれは腐れ縁という奴か、はたまたストーカーという奴か。夢の中で得体の知れない奴にストーキングされるなんてその辺のホラー小説より怖い。とりあえず答える。
―そうですね、また会いましたね。
いい加減姿を現してもいいだろう。もう俺のいる街にいるのなら、そろそろ俺の所に来てもいいはずだ。そんなまだ顔も見たことのない奴に対して憤っていてもなにもならないことはわかっているけれど。
どうせなら可愛い女の子がいい、などと阿呆なことを考えて気を紛らわす。夢の中だからか不思議とあまり不気味に感じないが、普段の俺の感覚からしたらもうこれはホラーだ。不気味だ。怖い。誰なんだ全く。誰だ誰だ誰だ。
そして、彼女の声がまた聞こえる。
―もしもし、もしもし。今、あなたの後ろにつきました。
なんだって。これはメリーさんの話そのままではないか。振り向いてはいけないとわかっていても体がいうことを聞かず、俺はゆっくりと後ろを向く。
そこに見えたのは、風になびくきれいな黒髪だった。
「夕ご飯よ、起きなさい」
そう言ったのは彼女ではなく、俺の母親だった。今度は母親に邪魔された。少し不機嫌になりながら起き上がって、寝ぼけた頭でふと思う。
俺の後ろ。
ということは、現実世界でも俺の近くにいるかもしれない。
そんなはずはない。そんなことがあっていいのはおとぎ話の中だけだ。この世界でそれが起きたらファンタジックでもなんでもなく奇妙なだけだ。いや、奇妙を通り越して不気味ではないか。
そう思いながら居間に行くと、父親がにっこりと微笑んでいた。なんなんだ。すると父親は口を開いた。
「今日からうちに家族が増えるぞ」
え?
一瞬あの黒髪がフラッシュバックされて、すぐに消えた。そして目の前では父親が小さなバスケットのようなものから何かを取り出した。
俺の目の前に現れたのは、黒いきれいな毛並みを持った小さな猫だった。
「世にも奇妙なSSコンテスト」に参加させていただく作品です。
読んで頂きありがとうございました。