宮中の侍女は見てしまった。~第三王子の婚約破棄が終わらない件~
「君との婚約を破棄する!」
第三王子殿下が、突然そう宣言した。
王宮の応接室。
私は、紅茶を注ぐ手を止めそうになった。
……えっ?
目の前には、第三王子レオナルド殿下と、その婚約者である侯爵令嬢エミリア様がいらっしゃる。
私は王宮に仕える、ごく普通の侍女だ。
今日も、いつもどおりお茶をお出しするだけのはずだった。
……はずだったのだけれど。
「……承知いたしました。」
エミリア様が、静かに頭を下げた。
「……え?」
レオナルド殿下が、目を丸くした。
「……殿下?」
「いや、待て。」
「はい?」
「……本当に、それでよいのか?」
「殿下がお決めになったことですので。」
「……そうか。」
殿下は、少し困ったように眉を寄せた。
「エミリア。君には、もっとふさわしい男性がいると思うのだ。」
「……そうなのですか?」
「ああ。私は第三王子という立場上、何かと忙しい。君と過ごす時間も、十分には取れない。」
「……はい。」
「君には、もっと自由に、幸せになってほしい。」
「……殿下。」
エミリア様は、少し寂しそうに微笑んだ。
「そのように私のことを考えてくださって、ありがとうございます。」
「……うむ。」
「それでは、婚約解消の手続きを父に相談いたします。」
「待て!」
……。
なぜ止めるのですか。
「……何でしょうか?」
「君は、本当にそれでよいのか?」
「……殿下がお決めになったことですので。」
「そうか……。」
殿下は、寂しそうに目を伏せた。
「もう、一緒に庭園を散歩することもなくなるのだな……。」
「……そうですわね。」
「覚えているか? 春の日差しの中、二人で庭園を歩いた日のことを。」
「……はい。」
「あの日は、薔薇が美しく咲いていた。」
「……そうでしたわね。」
「君は、白い薔薇が好きだと言ったな。」
「はい。よく覚えていらっしゃいますね。」
「もちろんだ! 君があの花を見つめて微笑んだ顔を、私は今でも覚えている!」
「……殿下。」
「それに、あの日は君が焼き菓子を持ってきてくれた。」
「……はい。少し形が崩れてしまったのですけれど。」
「何を言う! あれほど美味しい焼き菓子を、私は食べたことがなかった!」
「……ありがとうございます。」
殿下は、懐かしそうに目を細めた。
「君と並んで歩いた庭園。二人で眺めた夕焼け。何気なく交わした言葉……。」
「……はい。」
「もう、あの日々は戻ってこないのだな……。」
ぽろり。
殿下の頬を、一筋の涙が伝った。
「……殿下!?」
「なんということだ……!」
殿下は、震える声で呟いた。
「婚約破棄が、これほどつらいものだったとは!」
……。
いや、言い出したのはあなたですよね?
「エミリア……。私は、君と過ごした日々を一生忘れない!」
「……殿下。」
「君の笑顔も! 優しい声も! あの庭園で交わした言葉も!」
ぽろぽろ。
殿下の瞳から、次々と涙がこぼれ落ちた。
「おお! 神よ!」
殿下は、両手を広げて天を仰いだ。
「これは、あなたが私にお与えになった試練なのですか!」
……。
神様は関係ないと思います。
「なぜ! なぜ私は、これほど愛する女性と別れなければならないのだ!」
……。
だから、別れなくていいんですよ。
「殿下……。」
エミリア様が、そっと殿下の手を握った。
「どうか、元気を出してくださいませ。」
「……エミリア?」
「私が、そばにおりますから。」
「……!」
殿下が、はっと顔を上げた。
「エミリア……! 君は、何と優しい女性なのだ!」
「……殿下。」
「婚約を破棄した私にまで、そんな温かい言葉をかけてくれるとは!」
「……いえ、あの。」
「私は! 私は何という女性を失おうとしているのだ!」
……。
まだ失っていません。
「エミリア……。君のような女性は、二度と現れないだろう!」
「……ありがとうございます。」
「私は、何と愚かな男なのだ!」
……。
……そこは、少し同意いたします。
「だが、君の幸せのためだ! 私は、この悲しみを乗り越えてみせる!」
「……殿下。」
「たとえこの胸が張り裂けようとも!」
「……あの、殿下。」
「私は、君の幸せを祈り続ける!」
「……殿下!」
「何だ、エミリア!」
「……私、殿下とお別れしたくありません。」
「…………。」
殿下の動きが止まった。
「……え?」
「私は、殿下を心からお慕いしております。」
「……本当か?」
「はい。」
「私と、別れたくないのか?」
「……はい。」
「エミリア……!」
殿下の瞳から、再び涙があふれた。
「おお! 神よ!」
……。
また神様ですか。
「このような奇跡を、私にお与えくださるとは!」
「……殿下。」
「失われたと思っていた愛が、今ここに戻ってきたのだ!」
……。
最初から失われていませんが。
「エミリア! 私は君を愛している!」
「……私もですわ。」
「よし! 婚約破棄は取り消そう!」
「……ありがとうございます。」
殿下は、エミリア様の手を両手で包み込んだ。
「君と一緒に、またあの庭園を歩こう!」
「……はい。」
「来年も、その次の年も! 白い薔薇が咲くたびに、二人で見に行こう!」
「……喜んで。」
「エミリア! 私は君を一生大切にすると誓う!」
「……嬉しいです。」
「たとえ世界中の誰もが反対しようとも、私は君との婚約を守り抜く!」
……。
反対していたのは、殿下だけですが。
二人は、幸せそうに微笑み合った。
……。
……よかったですね。
私は静かに紅茶のおかわりを注いだ。
どうやら、婚約破棄の話は無事に終わったらしい。
もっとも、最初から何も起きていない気もするけれど。
◇
それから数日後。
私は、再び王宮の応接室でお茶を用意していた。
今日のお客様も、レオナルド殿下とエミリア様だ。
あの日以来、お二人は以前にも増して仲睦まじくなったらしい。
殿下は毎日のようにエミリア様へ花を贈り、時間があれば庭園へお誘いしているそうだ。
……何よりです。
「エミリア。」
「はい、殿下。」
「先日の婚約破棄のことなのだが……。」
「……はい?」
「私は、あの日のことを生涯忘れないだろう。」
「……殿下。」
「君を失う悲しみ。そして、君の愛によって救われた喜び!」
「……はい。」
「まさに、神が私に与えた試練と奇跡だった!」
……。
ご自分で婚約破棄を申し出ただけなのですが。
「エミリア!」
「はい?」
「私は、もう一度あの感動を味わいたい!」
「……殿下?」
殿下は、勢いよく立ち上がった。
「エミリア! やはり君との婚約を破棄する!」
……。
……。
また始まりました。
おしまい
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
今回は、婚約破棄を愛情表現にしてしまった第三王子と、その様子を目撃してしまった宮中侍女のお話でした。
本人たちは至って真剣なのですが、巻き込まれる周囲の人々は大変ですね(笑)。
婚約破棄といえば深刻な展開になりがちですが、今回は少し違った切り口で、明るいラブコメとして描いてみました。
第三王子とエミリアの独特な愛情表現、そして侍女の心のツッコミを楽しんでいただけていれば嬉しいです。
本作を気に入っていただけましたら、評価やブックマークで応援していただけると、今後の創作の励みになります。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました!




