第1話:断罪の前日に前世を思い出したので、私から婚約破棄いたします
ゴーン、ゴーン。
王都の象徴である巨大な時計塔が、夕方五時を知らせる重厚な鐘の音を響かせた。
その瞬間だった。
私、セシリア・フォン・オルコット公爵令嬢の脳内に、落雷でも受けたかのような強烈な衝撃が走った。目の前が真っ白になり、立っていられずに自室のふかふかとした毛足の長い絨毯の上にへたり込む。
頭が割れるように痛い。
いや、違う。今まで私の中に存在しなかった膨大な情報が、濁流のように一気に流れ込んできたのだ。
息を整えながら、私はゆっくりと目を見開いた。
思い出した。
私の前世は、日本のどこにでもいるごく普通の会社員だったのだ。
毎日満員電車に揺られ、上司の嫌味を受け流しながら書類仕事に追われる日々。
そして、そんな私の唯一の癒やしが、徹夜してプレイしていた乙女ゲーム『王立学園のシンデレラ』だった。
私はよろよろと立ち上がり、壁に掛けられた豪奢な姿見を覗き込む。
そこに映っていたのは、艶やかな金髪を縦巻きロールにし、少し吊り上がった気の強そうな真紅の瞳を持つ、圧倒的な美貌の少女。
間違いない。
この姿は、あの乙女ゲームでヒロインを徹底的にいじめ抜き、最後には破滅を迎える悪役令嬢、セシリア・フォン・オルコットその人だ。
カレンダーの美しい装丁に目を向けた私は、サーッと血の気が引くのを感じた。
現在の日付は、王立学園の卒業パーティーの前日。
つまり、明日の夜だ。
華やかな音楽と豪華な食事が並ぶ大広間で、私の婚約者であるアーサー王太子は、男爵令嬢であるヒロインをその腕に抱き寄せながら、大勢の貴族たちの前でこう高らかに宣言するのだ。
悪逆非道なセシリアよ、お前との婚約は破棄する、と。
ゲームのシナリオ通りに進めば、私は嫉妬からヒロインに嫌がらせをしたという数々の嘘の罪を着せられる。
さらに王太子暗殺未遂というありもしない国家反逆罪まででっち上げられ、公爵家からは勘当。
最終的には冷たい石造りの広場で、ギロチンによって首を落とされてしまうのだ。
冗談じゃない。なんで私がそんな理不尽な理由で殺されなければならないのか。
思い返せば、私はアーサー王太子のために、完璧な王太子妃になろうと血の滲むような努力をしてきた。遊びたい盛りの幼少期から厳しいマナーの特訓に耐え、国の歴史や他国の言語、経済学から法学まで、王族として必要な知識をすべて頭に叩き込んできたのだ。
政務をサボりがちな彼の代わりに、王城の執務室で夜遅くまで書類の山と格闘したことも一度や二度ではない。
それなのに、彼はポッと出の男爵令嬢の天然で教養のない振る舞いを純真無垢だと持て囃し、私を冷酷で可愛気のない女だと蔑んできた。
私はいじめなんて一切やっていない。
ただ、貴族としての自覚を持てと少し厳しく注意しただけだ。
それなのに、勝手に被害者ぶって泣き出すヒロインの言葉だけを信じて、私を悪者に仕立て上げたのだ。
逃げよう、今すぐ。
明日の夜、大勢の貴族たちの前で婚約破棄を突きつけられれば、由緒正しき公爵家の名前に泥を塗ったとして、厳格な父親からも見放されてしまう。
逃げ場を失い、断罪ルートへ真っ逆さまだ。
ならば、公にされる前に、こちらから先手を打って婚約を解消してしまえばいい。
ただ理由もなく婚約を破棄すると言えば、父も王室も納得しないだろう。
そこで私は、とある妙案を思いついた。
自ら罰を被り、厄介払いとして北の辺境へ赴くのだ。
行き先は、北の最果てを治めるレオンハルト公爵の領地。
彼は常に顔の上半分を禍々しい呪いの仮面で覆い、魔物のように冷酷で残忍だと噂される恐ろしい男だ。貴族の令嬢たちからは、あそこに嫁ぐくらいなら死んだ方がマシだと恐れられている、まさに罰ゲームの代名詞のような存在である。
しかし、ギロチンの冷たい刃で首を落とされる痛みに比べれば、仮面を被った無口な男の相手くらい、なんてことはない。
むしろ、煩わしい王都の貴族社会から離れて辺境でスローライフを送れるなら、願ったり叶ったりだ。
計画は決まった。私はすぐさま専属の侍女を呼び、王城への馬車を手配させた。
王城へと続く石畳を、馬車は滑るように進んでいく。窓の外に広がる美しい王都の景色も見納めかと思うと、不思議と未練はなかった。
王城に到着した私は、迷うことなくアーサー王太子の執務室へと向かった。
廊下ですれ違う近衛騎士や文官たちが、いつも通りに私に敬礼をする。明日には犯罪者扱いされるかもしれないというのに、滑稽なものだ。
ノックをして扉を開けると、そこには案の定、アーサー王太子と男爵令嬢のリリィの姿があった。
アーサーは執務机に座って難しそうな顔で書類を眺めており、リリィはその隣で彼の腕にぴったりと寄り添っている。本来ならば王太子妃教育を受けている私が立つべき場所に、なぜか彼女がいるのだ。
私の姿を認めたアーサーは、露骨に眉間へ深い皺を寄せた。
「セシリアか。何の用だ。見ての通り、私は今とても忙しいのだが」
机の上に積まれた書類は、私が数日前に整理して付箋まで貼っておいたものだ。
一向に処理が進んでいないのを見て呆れそうになったが、私は完璧な淑女の笑みを浮かべてカーテシーを行った。
「ちょうどよろしゅうございましたわ、アーサー殿下。実は本日は、殿下に極めて重要なお話があって参りましたの」
私の言葉を聞いたリリィが、大げさに肩を揺らしてアーサーの後ろに隠れた。
怯えたような、か細い声を出す。
「あ、セシリア様。ごめんなさい、私、殿下のお邪魔をするつもりはなくて」
それを見たアーサーは、リリィを庇うように立ち上がり、私を鋭く睨みつけた。
「ふん。お前の言いたいことなどわかっている。またリリィを苛めに来たのだろう。だが、ちょうどいい。私からもお前に言っておくべきことがあるのだ。本当は明日の卒業パーティーで公表するつもりだったが、この際だ、今ここで言ってやる」
アーサーが大きく息を吸い込み、あの忌まわしい言葉を紡ごうとした瞬間。
私は彼よりも一歩早く、そして彼よりも遥かに大きく通る声で、執務室の空気を切り裂いた。
「アーサー殿下。私との婚約を、どうか今すぐ破棄してくださいませ」
「……は?」
間抜けな声が、アーサーの口から漏れた。
リリィも目を丸くして、私の顔を凝視している。
当然だろう。
彼らは私が泣き喚いてすがりつくか、あるいは怒り狂ってリリィを罵倒するとでも思っていたのだから。明日の断罪イベントで自分が主役となって言うはずだった最高の見せ場を、悪役令嬢である私から先に奪われてしまったのだ。
私は背筋をピンと伸ばし、堂々とした態度で言葉を続ける。
「殿下のお心には、すでにそちらのリリィ様のような、愛らしくて守ってあげたくなるような女性がいらっしゃるのでしょう。私のように理屈っぽくて可愛気のない女は、殿下の隣にふさわしくありませんわ。どうか、真実の愛を貫いてくださいませ」
「お、お前。自分が何を言っているのか分かっているのか。私から婚約を破棄されるならともかく、公爵家の娘であるお前から言い出すなど、王室への反逆と取られかねないぞ」
アーサーは完全に予想外の事態に狼狽し、顔を真っ赤にしている。
「もちろん、私から婚約を白紙に戻すなど、我がままが過ぎることは重々承知しております。ですから、公爵家にも殿下にも一切の迷惑をかけないよう、私はこの身一つで罰を受ける覚悟でございます」
「罰だと?」
「はい。私は自らの行いを反省し、北の辺境へと赴く所存です。レオンハルト公爵様のもとへ降嫁し、一生をあの極寒の地で過ごしますわ」
私がレオンハルトの名前を出した途端、アーサーの顔からスッと血の気が引いた。
あの化け物公爵のところへ行くというのか。
正気かお前は。
そんな言葉が、彼の震える唇から漏れ聞こえてくる。
レオンハルト公爵は王族の血を引く実力者だが、その呪われた仮面と冷酷さゆえに、王室ですら腫れ物扱いしている存在だ。
そこに厄介な私を押し付けることができるのだから、王家にとっても悪い話ではないはずだ。
「このセシリア、すべての責任を取って北の地へ向かいます。どうか、アーサー殿下とリリィ様の末永いお幸せを、辺境より祈らせてくださいませ」
私はもう一度、見事なカーテシーを決めた。
「ま、待てセシリア。お前、急にそんなことを言われても、父上たちが納得するはずが」
「事後処理はすべて私の方で手配いたしますわ。それでは、私は荷造りがございますので、これにて失礼いたします。ごきげんよう」
私はドレスの裾を優雅に翻し、呆然と立ち尽くすアーサーとリリィを残して、執務室から風のように立ち去った。
重厚なオーク材の扉をパタンと閉めた瞬間、私は思わずその場で小さくガッツポーズをした。
言った。
とうとう言ってやったわ。
これで明日の断罪イベントは完全に回避された。
私が自ら重い罰を受けた形になるのだから、公爵家の体面もギリギリ保たれるだろう。
お父様も、あんな呪われた公爵の元へ嫁ぐ娘の頼みとなれば、背に腹は代えられないと黙って送り出してくれるはずだ。
王城の長い廊下を歩く私の足取りは、羽が生えたように軽かった。
これからどんな極寒の地が待っていようと、噂の旦那様がどれほど恐ろしいバケモノだろうと関係ない。処刑の恐怖に怯える日々は今日で終わりだ。
辺境の地で大人しくしていれば、きっと命まで取られることはないはずだ。
むしろ、口うるさい貴族社会から解放されて、前世の記憶を活用しながらのんびりとスローライフを送るチャンスかもしれない。
美味しい温かいスープを作って、暖かい暖炉の前で本を読んで過ごすのだ。
待ってなさい、北の辺境。
そして噂の魔物公爵様。
この悪役令嬢セシリアが、あなたの領地を快適な理想郷に変えてみせますわ。
私は希望に満ちた明るい未来を思い描きながら、待たせていた馬車へと意気揚々と乗り込んだ。断罪の運命を自らの手で叩き壊した悪役令嬢の、清々しくも新しい人生の第一歩だった。




