01. 魔法図書館のひと
「リスタ!!」
名を叫びながら膝の上に抱え上げた彼女を揺さぶった。
その体から急速に生命の気配が消えて行くのが分かる。
行かないでくれ。
あなたを失ったら、この世界に戻って来た意味がない!!
ʄʄʄ
初めて彼女に会った時なぜだかどきりとして、そんな自分に戸惑った。
長い髪が格子窓から差し込む光を絡め取り、きらきらと輝いていた。大きな机の一隅で本を読んでいる姿が、綺麗だと思った。
「リスタ」
同僚にそう呼ばれて顔を上げた彼女の青い瞳と瞳が逢い、また微かにどきりとした。
「この方が、ナトカとか言う王国の書物をお探しなのですが……」
「まああ、とても珍しいご要望ですわね。いいですよ。わたくしがご案内します」
困り顔の青年ににこやかに応じると、リスタは煉瓦のように分厚い本を閉じた。
「五百年程前の本ですから、かなり歩きますよ」と彼女に言われて「お願いします」と応じる。
くるぶし丈のターコイズブルーの貫頭衣に、白い内着の図書館職員の制服。二千年前から変わらない服のせいもあり、彼女はなんだか天界の住人じみていた。
「人類史上最強」と謳われる古代の大魔法使い、パウセによって創造された魔法図書館は、世界中の全ての本を自動的に再現して収蔵し続けている。部屋や書棚も自動的に生み出されていくため、床面積が毎日爆発的に拡大し続けており、最早世界最大の――――しかも最大記録を永遠に更新し続ける――――巨大迷宮だ。
ターコイズブルーの制服を纏う職員は、この巨大迷宮の案内人だった。
とは言え、その職員ですら図書館の全容は把握していない。この日図書館を訪れたわたしは、案内に困ったらしい職員から別の職員へと引き継がれたのだった。
城壁のように聳え立つ書棚の間をリスタの先導で歩き出す。
あちらこちらに唐突に白壁があり、そこに造られている格子窓のお蔭で、昔と同じに魔法図書館は一杯の光に満ちていた。物理的にはあり得なかったが窓の外は一つ一つ趣向の違う中庭となっており、観光客がそれを興味深げに覗き込んでいるのも昔と同じだった。
大きなフロアにはざっと見回すだけでも数百の人がいたが、彼らの大半は、だが本ではなく実は図書館自体を見に来た観光客だ。古代から続く自治都市ミラトルにある魔法図書館は、今や世界中から見物人がやって来る観光名所なのだ。
「見事な古代魔法ですね」
思わず言葉が零れた。
世界のどこかで作られた本を認識し、紙とインクを生み出してそれを複製し、部屋と書棚を増やし整理して収蔵する――――――――魔法図書館は、今の世では再現出来ない超絶魔法の集合体だった。
「ええ本当に。ここを造られた方は、きっと本をこよなく愛していらっしゃったのでしょうね。本は魔法の箱ですもの」
「……本が」
「一つ一つ、開けばどれも知らない世界を教えてくれるでしょう?遠い場所のことも、遥か昔のことも。しかも魔法が使えなくても読めるし書けるだなんて、凄い魔法だとは思いませんか」
「……なるほど……。―――――――――素敵ですね」
気付くと微笑んでいた。こんな風に笑ったのはいつ以来だったろう。
自分自身の心に本格的に動揺し、どこかで警戒もした。
今更何を望もうとしている―――――――――――
やがて飴色の扉が丸く並び立つ場所に出た。壁はない。ただ十枚ほどの扉だけがオブジェのように立っている。
扉の一つを開けてくれたリスタが、微笑みながら振り返った。
その笑顔にまた心が波立つ。
促されるまま先に扉を入ると、体は一瞬だけ真っ白な光に包まれた。
図書館の随所に立っている扉は、空間転移の扉だ。巨大迷宮の魔法図書館では、「扉の広場」を中継しながら移動する。そうでなければ遠いフロアへはとても辿り着けない。
ちなみに扉の一つは必ず出口に直結しているため、死者を出さずに済んでいる。
二歩目には、もう扉の反対側にいた。
それにしても、と、後ろに続く彼女を待ちながら思った。
「魔法が使えなくても読めるし書ける」―――――――――――
魔法なんてなくても人は世界の果てにも遥か過去にも行ける、と思うと、つい笑ってしまった。
「魔法の頂点」とも言われる魔法図書館で、よりにもよってその存在目的である本の話でこんな風に思うのは、ちょっと皮肉めいてるかもしれないが。
扉を出て来たリスタはわたしの表情をどう取ったのか、一際にっこりと微笑んでくれた。
「―――――――――――――」
まずいと思い、揺らぐ自分を戒める。
「―――――――ナトカ国がよくお分かりになりましたね」
再び歩き出した時にそんなことを言ってみたのは、ナトカ王国が僅かな間しか存在しなかった小国だったからだ。するとリスタはふふっ、と微笑った。
「わたくしはここへ来て長いのです」
「……!」
まさか、と思い掛けた気持ちをすぐに否定した。
本当に今更何を望んでいるのかと思い、「いつから」とは尋ねなかった。
そこから何度か扉を潜り、最初に予告された通りにかなりの距離を歩いた。図書館のこんなに奥深い所にまで来る者は少ないようで、ひと気がどんどん減って行く。
「着きました」
巨大な書棚の前で言われた時には、周囲に人の気配がほとんどなかった。
「この棚がナトカの原書で、向かいが現代語の翻訳です。どちらをご希望ですか?」
聳え立つ書棚の間で、そのひとが左右を示す。
「……原書の方を」
これで案内は終わりだろうと思っていた。
だが。
「タイトルか内容がお分かりになるなら、本探しのお手伝いをさせて頂きますよ」
………!
その時まさかと思っていたことが現実味を帯びた。胸が激しく打つ。
「……古文字が読めるのですか?」
「古い文字が読めるのがわたくしの取柄です」
「……ではぜひお願いします。わたしはアルトと申します」
「リスタと申します。本のことでお困りのことがあればおしゃってくださいな」
そう言ってリスタは、また天上の住人のように眩しく微笑んだ。
ʄ
「いつから魔法図書館にいるのか」と結局最後まで訊けなかったのは、怖かったからだ。
その答えが肯定であっても否定であっても。
だが図書館を出る頃には疑いは確信に変わっていた。
「古文字」と言われる、かつて大陸の共通言語だったグランタイル帝国語で使用されていた文字。
古文字を解読出来る人間は今も少なくないが、当時の発音を正確に再現出来る人間に、わたしは会ったことがなかった。
明度を感知して作動する魔法の街灯が、五つの巨大な橋と対岸で一斉に灯った。古代から続いているこの都市では、まだ多くのものが魔法で動いている。オレンジ色の柔らかな光に染められた橋を対岸へと、信じられない程多くの人が渡っていた。
人波に乗ることが出来ず、わたしは橋の袂でしばらく茫然と佇んでいた。
閉館時間――――――――――――――――――
あの世とこの世を繋ぐような橋を渡って、帰路に付く大勢の人々。
振り返ると、灰紫色の魔法図書館が建っていた。水路の中に聳え立つ八角形の図書館の外観は、古代から変わらない。
決して小さな建物ではないが、それでも途切れることなく続く帰宅の人波は明らかに建物の規模と見合っていなかった。
「…………」
空の端を染めていた夕焼けが完全に翳り星が瞬き出してからも、わたしはそこを動けなかった。
ʄ
夜のサンルームで、誰もいない向かいの席をぼんやりと見つめていた。
庭園灯が窓の向こうで草木を幻想的に照らし出している。
自治都市ミラトルは、数年の内にはわたしが家族を持つ想定で屋敷を用意してくれたのだろう。貸与された屋敷は不必要に大きかった。このサンルームは、食後のデザートを食するためだけの部屋だ。食後の時間を家族でゆっくりと過ごすことを目的とした場所だが、小さな円卓に座るのはわたし一人だ。
これまでも……これからも。
わたしが食後にここに移動するのは、やはり無駄に広いダイニングの片付けの都合を考えたからと言うだけだ。
雇用契約の詳細を詰めるのが面倒で、用意された条件をほぼそのまま受け入れたせいだが、もっと小さな家でよかったと今更思う。
ずっと目指してきたことをようやく叶えようとしているのに―――――――今何を考えてる?
無人の席から目を逸らした時。
ピシッ、と持ち手が軋む音がして、驚いてティーカップから手を離した。無意識に指先に力が籠っていたらしい。
ほんの僅かな距離だけ落下したカップが、ソーサーの上でカチャンと高い音を立てる。
「アルト様?」
ちょうどサンルームに入って来た家令のオーディーが驚いた顔をした。
もう老年に差し掛かっているオーディーだけが、ミラトルに来る前からわたしに仕えてくれている唯一の者だった。背中に定規が入っているかのような姿勢は昔から変わらないが、金色だった髪はもうほとんど真っ白になっている。
「――――――ぼんやりしていた」
既に空だったティーカップが少し大きな音を立てたと言うだけだ。何も起きていないのに、オーディーはわたしの様子を通り過ぎなかった。
「……魔法図書館で何か?」
「―――――――――――」
帰宅してからのわたしはそんなに分かりやすくおかしかったのかと思う。わたしを知り尽くしている彼を誤魔化すことは出来ないと考え、正直に答えた。
「―――――――今日会った職員は、多分五百年前から図書館にいる」
オーディーがはっと息を飲む。
「魔法図書館の職員は大抵、百年も保たずに退職すると伺っておりますが」
「――――ああ」
「――――――何か話をされたのですか?」
「――――――いや、本を探して貰っただけだ。わたしのことは何も」
「――――――――――――――」
この話をどう続けたいのか自分で分からない。結局、「もう休む」と告げて立ち上がった。
「……明日のご予定は」
「仕事の依頼がなければ図書館へ行く。予定通りにしばらく通うよ」
「………かしこまりました」
オーディーもそれ以上その話を続けなかった。
自室へ戻ると、夜を感知した魔法のランプが机や壁際で既に灯っていた。
自分の部屋と思えないのは引っ越し直後だからではない。
数えきれない程引っ越しを繰り返す内に、どこにいても「自分の居場所」と感じられなくなっていた。
落ち着かない思いで椅子の一つに腰掛ける。
明日図書館に行けば違う職員に案内されるだろう。巨大迷宮の魔法図書館で、事前の約束をせずに特定の職員に会うのは至難の業だ。
「何もしなければ会えない」、と思った時に自分の気持ちに気付かざるを得なかった。
もう一度会いたかった。
あの女性に。
読んで下さった方、本当にありがとうございます。
平日朝に更新予定です。
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