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9-2

 久住くんは、もう一度だけ小さく息を吸った。

 それから、あたしの方を見ないまま言った。


「日向野さんのこと、見たことがあったんです。小学校の地区の体育大会で」


 ……体育大会。あったね、地域の何校かが集まるやつ。選抜された子たちが100メートル走とか、高跳びとかする。

 あたしの頭に、運動会の砂と、ちょっと古いスピーカーの音が浮かぶ。


 久住くんは、淡々と続けた。

 でも、さっきより少しだけ、言葉が柔らかい。


「平日で……応援が、ほぼ強制みたいなやつでした。みんな、だるそうで」


 その言い方が、なんかリアルで笑いそうになる。

 分かる。平日の体育大会って、だいたいそう。選手の子たちはいっぱい練習してきてるんだけどね。


「僕は、声を出さずに……ぼーっとしてました」


 久住くんが、応援席でぼーっとしてるところ。

 想像できる。すごくできる。

 たぶん、腕組みとかしてる。声は出さない。表情も変えない。


 そこで、久住くんは少しだけ目を伏せた。

 思い出すときの目だ。


「そしたら、別の学校の応援席から……声が通ってきて」


 久住くんの声が、少しだけ小さくなる。

 まるで、遠くから聞こえたその声を、今も耳の奥で聞いてるみたいに。


「明るくて、大きくて、まっすぐで」


「それ、あたし?」


 思わず口をはさんでしまう。

 はっきりとは覚えてないけど、たしかにももとか周りの友達を応援してたかも。


 久住くんはあたしの問いにうなずき、続ける。

 心臓が、ドキドキして落ち着かない。


「その声につられて、周りが……少しずつ応援し始めたんです」


 久住くんの見ていた景色が、あたしの前に広がる。

 だるそうに座ってた子が、顔を上げる。

 手を叩く音が、ぽつ、ぽつ、って増える。

 最初は恥ずかしそうな小さい声が、だんだん混ざっていく。


「……僕のほうの席からも、声が出ました」


 久住くんが、びっくりしたみたいに、短く言った。


「空気って、変わるんだって思いました」


 その言葉が、胸に落ちた。

 久住くんの「止める」は、正しさじゃなくて、空気を変えることなんだ。

 あたしは、今さら気づく。


 久住くんは、少し間を置いてから、最後にこう言った。


「日差しの下で、髪が……きらきらして見えて。印象に残ってたので、覚えてました」


 ……髪。


 あたしは反射で、自分の髪先を指でつまんだ。

 普段なら、ただの茶色。

 でもその瞬間だけ、昔の太陽がそこにあるみたいで。


 久住くんの言葉は、静かなのに、ちゃんと熱があった。

 あたしがずっと「助けられた」って握りしめてたものに、別の意味が足されていく。


 見てたんだ……あたしのこと。


 その事実が、うれしいのか怖いのか。

 どっちもで、いちばん困る。


*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+


 久住くんは、体育大会の話を終えると、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。

 それでも、声はいつも通り静かだった。


「だから、小学校の時からその色だと事実を伝えただけなので、助けられたなんて思わなくていいです」


 きっぱりと、突きつけるように告げられる。

 でも、距離を置かれたとは思わない。


「先生の言い方が、決めつけているようで止めたかったんです」


 ……だから。

 久住くんの言葉が、頭の中で順番に並ぶ。


 あたしは「助けてくれた」って言葉を、のどの手前まで持ってきて、いったん引っ込めた。

 それより先に、もっと変なやつが胸に落ちたから。


 見てたんだ。


 あの日。

 廊下で止められて、先生に「地毛ねえ」とか言われてた、あのとき。

 あたしは世界でいちばん困ってたのに、久住くんは世界でいちばん冷静に見えた。


 でも、冷静って、何も見てないって意味じゃなかった。


 顔が、じわっと熱くなる。

 暖房のせい、ってことにしたい。

 でも暖房って、こんなに都合よく頬だけあっためてくれたっけ。


「……」


 あたしは、寒いわけじゃないのに手をさすった。

 思ったよりその音が響いて、どきっとする。


 久住くんは、あたしが黙ってるのを急かさなかった。

 言葉を待つ、っていうより、今の空気をちゃんと置いておく、みたいに。


 止めたかったんです、って。


 その言い方が、かっこよすぎてずるい。

 しかも、あたしの方を見てたって話のあとに言うのが、もっとずるい。


 あたしはやっと顔を上げて、でも目はちゃんと合わせられなくて、久住くんの制服のボタンあたりを見ながら言った。


「……そっか」


 それだけなのに、心臓がうるさい。

 さっきまでの“うれしい”とか“こわい”とかが、ぐちゃぐちゃのまま、ひとつだけはっきりする。


 あたしは、助けられたと思ってた。

 でも、それより先に。


 見られてたんだ。


 胸の中で、その事実が、静かに光った。


*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+


 あたしの「そっか」が、廊下の空気に落ちて、ころん、と転がった気がした。


 久住くんは、いつもみたいに「気にしないでください」とは言わなかった。

 代わりに、ほんの少しだけ、息を吸う。


 そして、短い一言を置いた。


「日向野さんが笑われるのは、嫌です」


 ……え。


 言った本人が、いちばん驚いたみたいに。

 久住くんは、ほんの小さく目を瞬いて、言葉のあとに一拍だけ空白をつくった。

 自分の口から出た音を、確認してるみたいな間。


 あたしは、その一拍で、全部持っていかれた。


 ずるい。そんなの、心臓が勝てない。


 胸が、ぎゅっとなる。

 苦しいんじゃない。むしろ、変に元気。

 心臓だけ、部活でも始めたのかってくらい走ってる。


 あたしは、笑ってごまかしそうになった。

 いつものクセ。反射。

 でも、その瞬間、さやの顔が浮かんだ。ももの声も浮かんだ。

 そして、今日の自分の逃げ方が、全部思い出された。


 もう、やめよう。


 あたしは、手をぎゅっと握って、息をひとつだけ深く吸った。

 声が迷子になりそうなら、迷子のままでもいい。

 止まらなければいい。


 今度は、逃げない。

 あたしが、止める。

 笑ってごまかすんじゃなくて。


 久住くんは、相変わらず静かな顔で、でもちゃんとあたしを待っている。

 その「待ってる」が、なんだか、すごく頼もしい。


 あたしは、心の中で決めた。

 明日は、あの教室で。


 逃げない。

 線を引く。


 ――明日は、言う。

 ちゃんと、線を引く。

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