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9-1

 朝。

 目が開いた瞬間、昨日の自分が出てきた。


「……やっぱ、なんでもない」


 あの声。あの空気。あの距離。

 布団の中なのに、廊下の冷たさまで思い出すの、やめてほしい。


 枕に顔をうずめた。

 叫びたいのに、叫んだら家族が来る。

 だから、心の中だけで叫ぶ。


 あたしのバカ!


 スマホの時計を見る。

 うそ。もうこんな時間。

 寝た気がしない。たぶん、寝てない。

 昨日の後、ずっと反省会が終わらなかった。


 顔を洗う。

 歯をみがく。

 前髪を整える。

 こういう“普通”のことをしてると、ちょっとだけ安心する。

 でも、鏡の中の自分は、目がほんの少し赤い。夜更かしの赤。


 逃げたままだと、ずっとこのままだ。


 学校に着くころには、気持ちの中に小さな決定ができていた。

 小さいけど、固い。石みたいなやつ。


 言う。今日は言う。


 ……と言いながら、教室のドアの前で、いったん深呼吸した。

 肺が冷たい空気を吸う。

 その冷たさで、「あ、現実だ」って分かる。


 授業は、いつも通り進む。

 黒板。ノート。先生の声。

 友達の笑い声。

 たまに、さやがこっちを見てくる。

 心配と、ちょっとの気まずさが混ざった目。

 あたしは「大丈夫」って顔を作って、うなずく。

 作ってるって、自分がいちばん分かる。


 久住くんは、今日も久住くんだった。

 静か。丁寧。無駄がない。

 あたしの心臓だけが、ずっと忙しい。


 放課後。

 教室が少しずつ空っぽになっていく。

 机を引く音。カバンのチャックの音。

「じゃあねー」の声が廊下に流れていく。


 昨日の自分が、また背中からついてくる。


 昨日も、こうだった。


 でも、今日は違う。

 違うって決める。

 決めないと、また同じになる。


 あたしは、ノートを閉じる手に力を入れた。

 爪がちょっと白くなる。

 それくらいで、よしとする。

 心臓が止まるよりはいい。


 久住くんを探す。

 探すって言うほどじゃない。

 だって、だいたい窓際の前。

 そこにいる。


 いた。

 プリントを揃えている。

 角をきっちり合わせて、重ねて、持つ。

 昨日と同じ動き。

 昨日と同じ背中。


 だからこそ、昨日の“逃げ”が、急に恥ずかしくなる。

 相手は何も変わってないのに、あたしだけが勝手にぐちゃぐちゃで、勝手に逃げた。


 逃げたままだと、ずっとこのままだ。


 足が、前に出る。

 昨日みたいに「今だ」と思う。

 でも今日は、その「今だ」のあとに、もう一個、言葉を足す。


 今だ。……でも、逃げない。


 廊下に出る前に、もう一回深呼吸した。

 息が白い。

 十二月って、息まで目立つ。

 今日のあたしには、ちょうどいい。隠せない感じが。


 言う。今日は言う。


 あたしは、久住くんの背中に向かって、ゆっくり近づいた。

 逃げたくなる足を、ちゃんと自分で止めながら。


*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+


 久住くんの背中は、今日も静かだった。

 プリントの角をそろえる手つきまで、落ち着いてる。


 あたしの心臓だけが、勝手に短距離走。


 落ち着け。落ち着け。体育じゃない。


 あと一歩。

 声を出す。

 ……出す。


 口を開くと、昨日の失敗が、のどの奥で待ち構えてた。

 熱い。つかえる。

 でも今日は、それに勝つ日。


 あたしは、息を一回だけ吸って、そのまま押し出した。


「久住くん、昨日の……さっきの……じゃなくて。今、少しだけ、いい?」


 言いながら、あれ?って思う。

「昨日」も「さっき」も、たぶん今じゃない。

 時間が迷子。言葉も迷子。

 でも、止まらなかった。そこが大事。


 自分の声がちゃんと空気を揺らしたのを聞いて、あたしは内心で小さくガッツポーズをした。

 実際にはしてない。したら絶対変だから。変な子だから。


 久住くんは、プリントを持ったまま、ゆっくり振り向いた。

 表情は大きく動かない。

 でも、目だけが「聞いてます」って言ってる。


「はい。大丈夫です」


 敬語。淡々。いつも通り。

 その“いつも通り”が、今のあたしにはちょっとだけ救いだった。


 ……よし。声、出た。次。次だ、あたし。


 あたしは、逃げないために、足の裏に力を入れた。

 床がちゃんと固い。

 それだけで、少しだけ前に進める気がした。


*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+*+


 久住くんの「大丈夫です」が落ちたあと、廊下の音が少しだけ戻ってきた。

 遠くでバスケ部のボールが床を叩く音。誰かの笑い声。先生の足音。


 でも、あたしの周りだけ、透明な箱みたいに静かだった。


 言うって決めた。……言う。


 言葉って、出す前がいちばん重い。

 出た瞬間に「え、こんなもん?」って軽くなるのに。


 あたしは、息をひとつ飲んで、ちゃんと順番を守った。

 責めない。先に「嬉しかった」を言う。


「中1のとき。髪のこと、先生に言われたやつ」


 口にしただけで、映像が一瞬よぎる。

 廊下。先生の顔。自分の声。

 それより、横から入ってきた久住くんの一言。


 あたしは、その一言を、今の声でつかまえ直す。


「あの時、助けてくれたの、嬉しかった」


 言えた。

 言えた瞬間、胸の真ん中にずっとあった小石が、ちょっとだけ転がった気がした。


 ……あ、軽い。ほんのちょっとだけど。


 久住くんは、すぐには返事をしなかった。

 目をそらさない。うなずきもしない。

 ただ、聞いてる。


 その“間”が、怖いようで、変にやさしい。

 急いで否定されるより、ずっとましだった。


 だからあたしは、次も言った。

 ここが本題。ここが、ずっと引っかかってたところ。


「でも春に、お礼言ったとき」


 声が少しだけ小さくなる。

 のどが熱くなる。

 でも、止めない。今日は止めない日。


「『助けたってほどじゃないです』って言われて……」


 言った瞬間、また胸がきゅっとなる。

 あの時の放課後の空気が、すこしだけ戻ってきた。

 夕方の窓の光とか、帰りのざわざわとか。

 その中で、あたしだけが固まった感じ。


 あたしは、久住くんを責めたくなかった。

 だから、矢印を自分に戻す。

 ほんとの痛みは、そこにあるから。


「……あたしだけ、勝手に大事にしてたみたいで、恥ずかしくなった」


 言ったら、今度は胸が軽くなるっていうより、すうっと冷える感じがした。

 冷えるけど、いやじゃない。

 やっと外の空気に触れた、みたいな冷たさ。


 久住くんは、まだすぐに言葉を返さない。

 でも、眉がほんの少しだけ動いた。

 困ってるのか、考えてるのか、どっちか分からない。


 あたしは、その沈黙が終わる前に、逃げないように、指先に力を入れた。


 ここまで言えた。もう、引き返さない。


 指先に力を入れたまま、あたしは久住くんの返事を待った。

 廊下の空気が、冬のせいでちょっと固い。


 久住くんは、少しだけ息を吸ってから言った。

 声は小さい。いつもの敬語。

 でも、逃げない声だった。


「……前も伝えたと思いますが、助けたつもりはなかったです」


 え。

 あたしの目だけが、勝手にぱちぱち動く。


「え、じゃあ……」


 口まで出かけたのに、続きが出ない。

 言葉が、また迷子になりそうになる。

 あたしは飲み込んだ。今日は飲み込むのも、ちゃんと選ぶ。


 久住くんは、続ける。


「あのときの先生の言い方が、よくないと思っただけで」


 その言い方が、変にまっすぐで。

 言い訳じゃなくて、説明みたいで。

 あたしの頭が、追いつけない。


 久住くんは、少しだけ言い直すみたいに、言葉を足した。


「決めつける言い方が、嫌でした」


 その一言で、カチッと何かがはまった。

 空気を止めたときの声。

 線を引いたときの声。

 全部、同じところから出てる。


 久住くん、そういう人なんだ……。


 でも、分かったのに、分からない。

 助けたつもりがないって、どういうこと?

 だって、小学校から茶髪だって久住くんは知らないでしょ?


 あたしの中の「救われた」が、行き場を探してうろうろする。


 あたしがまた口を開きかけた、そのとき。


 久住くんが、ほんの少し視線を外した。


 いつもなら、まっすぐか、机か、プリントか。

 そういう置き場所が決まってる目が、今日は落ち着かない。


 そして、久住くんは口を開けたまま、一瞬止まった。


 ……止まった。

 言葉じゃなくて、動きが止まった。


 え。いまの顔……。


 まぬけ、って言ったら失礼なんだけど。

 まぬけというより、「えっと……」が顔に出てる。

 教科書の間にしおり挟み忘れた人の顔。


 あたしは思わず、心の中でツッコミを入れてしまった。


 久住くんも、迷うんだ。


 その瞬間、怖さがほんの少しだけ減った。

 完璧に見えた人が、ちょっと人間になった感じ。


 久住くんは、開けた口をいったん閉じて、また息を吸う。

 言おうとしてるのに、選んでる。

 珍しく、迷ってる。


 あたしは黙って待った。

 今は、あたしの番じゃない。

 久住くんの「本音」が出てくる手前の、いちばん大事な間だった。

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