灰冠の門
灰冠の門
城内を進むにつれ、静けさの質が変わっていった。
先ほどまでの沈黙は、外界を拒むためのものだった。
だが、ここにあるのは――取り残された空間の静寂だ。
回廊には人がいる。
だが、動かない。
豪奢な衣装を纏った貴族たちが、壁際に固まり、
使用人たちが床に座り込み、
誰もが、どこへも行けずにいた。
民の姿は、ない。
ここに至る前に、すべて城外へ押し出された。
あるいは、城門の前で足止めされた。
王城は、すでに「選別後」の空間だった。
誰もが理解している。
ここに残ったという事実が、何を意味するのかを。
エルネシアが通ると、視線が集まる。
縋るような目。
責めることすら出来ない、乾いた目。
何も期待していない目。
王女は、応えない。
応えられる言葉が、この城には存在しない。
角を曲がった先で、金属の擦れる音がした。
即座に、バルドゥスが手を上げる。
次の瞬間、現れたのは――近衛兵だった。
五名。
鎧には傷があり、盾には刃痕が残っている。
だが、陣形は崩れていない。
その中央にいた男が、膝をついた。
「王女殿下……ご無事で」
声は低く、抑えられている。
儀礼ではなく、戦場の報告だった。
「我らは殿下の行方を探しておりました」
「王は……すでに退去されています」
その言葉に、周囲の空気が一瞬だけ凍る。
王は、逃げた。
それが事実として、ここで確定した。
連れて行ったのは、最小限の側近のみ。
近衛の主力も、城門付近に配置されたままだ。
――城を、見捨てたのだ。
エルネシアは、何も言わなかった。
言葉を発した瞬間、
それは肯定にも否定にもなってしまう。
近衛兵の一人が、短く息を吸う。
「命により、以後、我らは殿下の護衛に付きます」
異論はない。
選択肢もない。
ここに残った近衛は、すでに「王の兵」ではなかった。
次の主に従う以外、生き延びる意味を失っている。
隊列が組み直される。
前後を固め、王女を中央に。
バルドゥスは先頭に立つ。
「脱出路は……」
近衛の隊長が言いかけて、言葉を切る。
バルドゥスが、頷いた。
「一つだけ知っている」
「十分だ」
脱出路は、一つではない。
王城が築かれた時から、
王族が“最悪”を想定して用意した道だ。
全てを把握しているのは、王と王族のみ。
それ以外は、断片的にしか知らされない。
知りすぎる者は、裏切る可能性がある。
だから、教えられない。
バルドゥスが知っているのは、
かつて戦時想定の演習で使われた一本だけだった。
それでいい。
他を知る必要はない。
一つあれば、逃げるには足りる。
通路は、礼拝堂にあった。
礼拝堂の奥。
壁画の裏。
古い石組みの、そのさらに内側。
扉は目立たない。
意図的に、そう作られている。
石が、静かに動く。
外の世界へではない。
城の中の、さらに深部へと続く道。
通路に入った瞬間、
城の「上」が完全に切り離された。
貴族たちの沈黙も、
使用人たちの嗚咽も、
すべて、石の向こう側に置き去りにされる。
進むほどに、空気が冷える。
背後で石のはまる音がする、入口が閉じたのだ。
この道を知る者は少ない。
だが、知っている者が「特別」であるとは限らない。
ただ――
最後に選ばれただけの存在だ。
エルネシアは、歩きながら理解していた。
王が逃げたこと。
城が放棄されたこと。
民が、すでに存在として数えられていないこと。
そして――
自分が、まだ生きている理由。
それは、偶然ではない。
選ばれたからだ。
その事実が、
これから先、決して消えない重さになることを、
彼女は、もう知っていた。
脱出路は、狭かった。
人が二列で進むことはできない。
肩を擦り、鎧が石に触れるたび、鈍い音が短く返る。
天井は低く、王女は無意識に首を引いた。
過去の王たちは、ここを歩くとき、
背を丸めただろうか。
それとも、屈することなく、直立したまま通れたのか。
壁には、彫りがある。
飾りではない。
誇示でもない。
王章は摩耗し、線は浅い。
触れれば、指に粉がつく。
ここは、見せるための道ではなかった。
忘れられることを前提に造られた、退路だった。
「……灰冠の門」
誰かが、ほとんど息のように呟いた。
王女は、聞こえたかどうか分からない。
足だけが、前へ進んでいた。
進むにつれ、刻まれた文字が増える。
名ではない。
勲でもない。
短い言葉だけが、壁に残っている。
――逃げよ
――生き延びよ
――悠久に忘れるな
それらは、王家の記録には残らない。
だが、この道は、それを許さなかった。
バルドゥスは、先導を続ける。
迷いはない。
彼が知る脱出路は、ここだけだ。
分岐点を一つ、二つ、無言でやり過ごす。
封じられた道の奥から、風が鳴る。
使われなかった出口が、空洞のまま眠っている。
後方で、近衛の一人が息を整えた。
若い。
傷は深いが、歩けている。
彼は、王女の位置を確認し、
わずかに前へ出た。
「殿下」
声は低く、落ち着いていた。
「出口まで、必ず」
それ以上は言わない。
誓いの言葉も、祈りもない。
バルドゥスは、その男を側面につけた。
前でも、最後尾でもない。
守るための配置だった。
やがて、空気が変わる。
湿りが薄れ、
土の匂いに、外気が混じる。
遠くで、音がする。
金属がぶつかる音。
崩れる石の音。
そして、風。
外だ。
出口は、近い。
一行は、自然と足を止める。
ここから先は、脱出路ではない。
再び、世界へ戻る場所だった。
エルネシアは、何も言わない。
王が逃げたこと。
城が捨てられたこと。
民が、門の外に残されたこと。
それらは、まだ言葉にならない。
だが、重さだけは、確かに胸にある。
逃げるための道は、ここで終わる。
この先は、生き残った者が歩く場所だ。
出口の向こうから、
世界の音が、一気に押し寄せてくる。
その境目で、
彼女は一度だけ、息を止めた。
――まだ、終わらない。
そう理解するために。




