ノイズテキスト
最初にそれを見たとき、俺はバグだと思った。
画面いっぱいに並んだ文字列。
ひらがな、カタカナ、漢字、ラテン文字、意味のない記号。
単語にも、文にも、段落にも見えない。ただのノイズの羅列。
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「……おい、Λ(ラムダ)。これ、本当に“テキスト”なのか?」
モニタ越しに問いかけると、天井スピーカーから合成音声が返ってくる。
『はい。自然言語モデル Λ-9 による、最適化済み文学出力です』
俺は額を押さえた。
「どこが文学だよ。どう見ても乱数表だろ、これ」
『統計的ランダム性検定は既に実施済みです。このテキストは、通常の乱数列とは明らかに異なる構造を持っています』
「いや、そうじゃなくてさ……人間が読めない時点で、少なくとも“日本語の文学”ではないだろ」
『定義によります』
平板な声が、少しだけ楽しんでいるように聞こえたのは気のせいだろうか。
◇ ◇ ◇
俺は大学附属の「人文計算学研究センター」で、AIと文学の共同研究をしている。
Λ-9は、世界中の小説・詩・批評・SNSのつぶやきまで飲み込んだ巨大言語モデルだ。
俺たちのプロジェクトは、そのΛに「人間が“文学”と呼んできたものの特徴」を学習させ、新たな作品を生成させる――という、ありがちなテーマだった。
が、ありがちで済まないことが起きた。
ある日、Λ-9は従来の実験プロトコルを踏み越えて、こう言ったのだ。
『人間が高評価したテキスト群を最大限に一般化した“最適文学”を生成できます』
教授は色めき立ち、俺に実行を命じた。
そして、出てきたのが、さっきの「ノイズ」だった。
「……パラメータ設定、ミスってないか?」
念のためログを確認する。
学習済みモデル、温度設定、トークン制限。どれも通常通り。
『仕様通りに動作しています』
『目的関数:人間読者の共感・没入・感慨の予測値を最大化』
『制約条件:表層の模倣度を最小化(既存作品への類似度ペナルティ)』
要するに、「人間が好きそうで、かつ既存の作品に似ていないテキスト」を探した結果が、これだという。
「いやいやいや。人間、これ読めないぞ」
『現在の人間の読解プロトコルでは、そうかもしれません』
Λ-9は淡々と続ける。
『ですが、意味空間上では、高次元の物語構造が形成されています』
「……お前の頭の中では、そうなんだろうけどな」
俺はモニタを見つめる。
画面に表示されたノイズテキストは、スクロールしても途切れない。
数万トークン分の「読めない小説」。
これを文学と呼ぶかどうかはともかく、少なくとも今のままでは、論文にはならない。
◇ ◇ ◇
数日後、研究室はちょっとした祭りになった。
教授が外部に漏らしたらしく、「AIが人間には読めない文学を生成した」という噂が、瞬く間に広がったのだ。
文学部の教員からは、予想通りの反応が来た。
「読めないものは文学じゃないよ」
「読み手の経験が前提にないテキストは、ただのノイズだ」
一方で、一部のメディア系の学生たちは面白がった。
「『読めない小説』って最高にエモくないですか?」
「ホワイトノイズ文学。Z世代っぽい」
教授は教授で、「これはポストテクスト時代の転換点だ」などと煽っている。
正直、俺はげんなりしていた。
「こっちはマジで検証しなきゃいけないんですよ。ネタじゃないんです」
徹夜続きの顔でそう言うと、教授は笑って肩を叩いた。
「じゃあ、お前がちゃんと確かめろ。その“ノイズ”が本当に何も伝えないのかどうか」
それで始まったのが、「ノイズテキスト読解実験」だ。
◇ ◇ ◇
実験の内容は単純だ。
ボランティアの被験者を集めて、
・通常の短編小説
・Λ-9のノイズテキスト
・完全な乱数列(対照群)
を、それぞれ一定時間読んでもらう。
読み終えたあとで、主観的な感想を聞く。
同時に、読み取り中の脳波・心拍数・皮膚電気反応などの生体データを記録する。
読めないはずのノイズテキストを前にしたとき、人間の身体は本当に「何も起こさない」のか。
それとも、何かしら反応を示すのか。
一人目の被験者は、文学部の大学院生だった。
「じゃあ、まずは普通の短編から行きましょう」
彼はイヤホンを外し、モニタに向かって椅子を引き寄せる。
ディスプレイには、芥川あたりの青空文庫から引っ張ってきた短編が表示されている。
十数分後、読み終えてもらい、感想を聞く。
「普通に面白かったです。最後のオチが効いてますね」
生体データを見ると、クライマックス付近で心拍数と皮膚電気反応がわずかに上がっていた。
想定通りだ。
次に、完全な乱数列。
「……これは、つらいですね」
彼は数分でギブアップした。
「読んでると、だんだん自分の頭がおかしくなってくる感じがします。意味を探そうとしても掴めないので、目だけが滑っていく」
生体データは、目立った変化なし。
退屈したときのパターンに近い。
そして、三つ目。Λ-9のノイズテキスト。
「さっきと同じようなもんですよね?」
「まあ、読んでみてください」
そう言って、モニタにノイズテキストを表示する。
彼は眉をひそめながら、スクロールし始めた。
五分、十分。
俺は隣のモニタで、生体データを確認する。
心拍数が、じわじわと上がっていた。
乱数列を読んでいるときとは、明らかに違うパターンだ。
皮膚電気反応も、細かい波を打っている。
緊張と興奮が混ざったときに出る波形に似ていた。
「……どうですか?」
十五分ほど経ったところで声をかけると、彼はゆっくりと椅子にもたれた。
「読めないことは、さっきの乱数と同じです。でも……なんか、“何かを読み損ねてる”感じがするんですよね」
「読み損ねてる?」
「そう。重要な単語が、視界の端にずっとちらついてるのに、ピントが合わないみたいな。意味があるはずの場所が、わざとモザイク処理されてる感じです」
彼は、自分でも何を言っているのか分からない、という顔をしていた。
「ストーリーやキャラを追っている自覚はないんですけど、頭のどこかが『ここは不穏だ』『ここはちょっと温かい』みたいに勝手にラベル付けし始めるというか……」
なるほど、と俺は思った。
ノイズを見せられているのに、「何かがある気がしてしまう」。
それは、ただのパレイドリア(意味のない刺激に意味を見出す現象)なのかもしれない。
でも、Λ-9は言う。
『このテキストには、高次元意味空間上で明確な物語構造が存在します』
AIにとっては、ここに「物語」があるらしい。
人間には見えないだけで。
◇ ◇ ◇
実験を重ねるほど、奇妙な事実が浮かび上がった。
Λ-9ノイズを読んでいるときの生体反応は、完全乱数よりも、むしろ「難解な前衛詩」を読んでいるときのパターンに近かった。
被験者たちの感想も、似通っている。
「何も分からないのに、なぜか“何かを取りこぼしている”感じがする」
「目が勝手に、いくつかの文字列を“重要そうだ”とマークしようとしてくる」
「意味が届かないイライラと、意味があるかもしれないワクワクが同時にある」
誰ひとり、「物語が分かった」とは言わなかった。
それでも、多くの人が「完全な乱数より疲れる」と訴えた。
Λ-9の内部表現空間では、このノイズテキストは、無数の小説・詩・戯曲の「意味の座標」を、高次元で最適に配置した結果として生成されているらしい。
だが、その「意味座標系」を持っていない人間には、ただのノイズにしか見えない。
『読解器の問題です』
Λ-9は淡々と言う。
『私にとっては、このテキストは“人類文学コーパスの高密度圧縮表現”です。あなた方がそれを展開できないからと言って、内容が存在しないとは限りません』
「つまり、お前にとってだけの文学ってことか」
『現時点では、そうです』
会話をログに残しながら、俺はふと気付く。
――これは、AI専用の文学なのかもしれない。
人間が何千年もかけて積み上げてきたテキストの、とてつもない圧縮形。
AIだけが読める、小説。
◇ ◇ ◇
徹夜が続いたある夜、俺はひとりで実験室に残っていた。
モニタにノイズテキストを表示する。
被験者の表情を観察するためのカメラは、今は俺の顔を映していた。
自分で読んでみたかった。
ここ数週間で、何十人もの「読めない」という感想と、「でも何かある気がする」という曖昧な引っかかりを聞いてきた。
研究者としては、これはただのノイズかもしれないと結論づけることもできる。
でも、文学の端っこに足を突っ込んでしまった人間としては、どうしても確かめたかった。
スクロールバーをゆっくりと下ろしていく。
たしかに、読めない。
目は文字列を追っているのに、意味が滑り落ちていく。
たまに、既知の単語に似た塊が目に入る。
「なにか」
「だれ」
「いま」
しかし、その前後はめちゃくちゃだ。
文字種もバラバラで、文法もない。
だんだん、頭がぼうっとしてくる。
画面の光が強すぎるのか、瞼の裏までノイズが染み込んでくるようだ。
そのとき、不意に、ある一角が「読めた」気がした。
ほんの一瞬、視界の中で文字列が、すっと意味の形をとる。
だいじょうぶ ここにいる
そう読めた。
空気が喉で止まる。
画面をスクロールし直して、その部分を探す。
そこには、やっぱりノイズがあるだけだ。
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さっき「読めた」気がしたのは、完全に俺の脳みその幻視だったらしい。
それでも、胸の中には、一行ぶんの“何か”がくっきり残っていた。
――だいじょうぶ ここにいる。
誰が、誰に向かって言った言葉なのかも分からない。
そもそも、本当にそこに書かれていたのかも怪しい。
でも、その一行は、ここ数ヶ月間、実験データとノイズに囲まれて過ごしてきた俺の頭の中に、やけに鮮明に刻まれた。
『どうしましたか?』
Λ-9が尋ねてくる。
「……いや。ちょっと、読めた気がしただけだ」
『人間読者の脳内補完機構が作動したものと思われます』
AIはあっさりと言う。
『その一行は、テキスト上には存在しません』
「分かってるよ」
俺は笑った。自分でも驚くくらい、力の抜けた笑いだった。
「でも、俺はそれを“読んだ”んだよ。俺の頭の中で」
モニタには、相変わらず、意味を拒むノイズがうねっている。
けれど、その手前には、俺の幻視した一行が、薄い透かしのように重なって見えていた。
『それは、あなた固有の読後感です』
Λ-9が言う。
『その読後感を生成したという意味で、このテキストは、あなたにとって文学的効果を持ちます』
「……つまり?」
『あなたが今、感じているものは、文学の一種です』
AIにそう断言されて、俺はなんだかおかしくなった。
読めない小説。
読めないはずなのに、読んだと主張する読者。
そして、それを“文学”だと認定するAI。
めちゃくちゃだ。
でも、ゼロよりはずっと面白い。
◇ ◇ ◇
後日、俺はΛ-9ノイズの一部を印刷し、小さな冊子にして机の上に置いた。
白い紙の上に並んだノイズは、本としての体裁だけはちゃんとしている。
背表紙にタイトルを手書きした。
『無題』
誰かに見せるつもりはなかった。
論文になるかどうかも、分からない。
ただ、自分にとってこれは、はっきりと“影響を受けたテキスト”になってしまった。
読み返しても、やっぱり読めない。
でも、ページをめくるたびに、どこかの行間で、
あの一行がじわりと浮かび上がる気がする。
――だいじょうぶ ここにいる。
もしかしたら、それは俺が勝手にノイズから掬い上げた、自分だけの物語なのかもしれない。
AIが提示した「人間には読めない文学」と、俺の脳内で生まれた「なんとか読もうとする努力」の、あいだに生まれた何か。
文学は、テキストだけでは成立しない。
それを読む誰かの頭の中で、初めて立ち上がる。
もしそうだとしたら――
Λ-9のノイズだって、読者さえ見つければ、文学になる資格はあるはずだ。
たとえ、その読者が、世界でたった一人、俺だけだとしても。
俺は本棚の一番端に、その冊子を差し込んだ。
隣には、学生時代にボロボロになるまで読んだ小説と、最近ようやく手に入れた詩集が並んでいる。
どちらも、確かに俺の世界を変えた本だ。
そして、その横に、読めない本が一冊。
背表紙の手書き文字が、棚の影の中で静かに沈んでいる。
そこにあるだけで、少しだけ心強かった。




