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9/10


 一九二三年、初夏。

 クレムリン宮殿の彼の執務室はもう一年以上、使われていなかった。

 指導者ウラジーミル・イリイチ・レーニンは、モスクワ郊外の邸宅で、再発した脳卒中の後遺症に苦しみながら臥せるようになって短くない時が過ぎていた。


 出迎えた家人の先導で、俺……ヨシフ・スターリンはその邸宅の書斎兼寝室へと通された。

 この簡素でどこか寂し気な空間に世界の熱狂を導いた歴史的傑物が、今や静かにただ朽ちはてようとしている。


 室内はひんやりとほどよく涼しく、消毒液と薬の匂いが薄く漂っていた。

 カーテンを裂いて差し込む午後の光が、病床の主の姿をまるで宗教画のように照らしていた。


 半身の麻痺は決定的に彼の肉体を蝕み、もはや言葉も不明瞭になっていた。

 その瞳にわずかに残る輝きだけかつての面影を残して。

 視線だけでこちらを認識するなり、唇がかすかに動き、弱弱しい動きで右手をゆっくりと持ち上げた。


「スターリン……」


「ウラジーミル・イリイチ。お加減はいかがか?」


 努めて冷静に、事務的な配慮を示すよう発する。

 というより、俺の中はなんらのさざ波もなく、静かに凪いでいた。


 一つの巨人が迎えつつある最後。

 この場に相応しい態度と振る舞いがあらかじめわかり切っているようだった。


 結局、『あの言葉』がレーニンから出てくることはなかった。

 史実以上に効率よく、粛清や軋轢をできる限り抑えつつ、権力奪取をするべく努めた結果が功を奏したのか。

 最も直接的な引き金になったらしい、レーニンの妻との衝突を避けたのが決定的だったのか。


 確実に歴史は変わっていた。

 この邂逅も本来とは全く違うものなのだろう。


 記録では晩年、スターリンに対して表立っての諫言を隠そうともしていなかったはずのレーニンは、今目の前で肯定か否定かも定かではない、酷く曖昧な態度しかとれないようだった。


 たぶん、彼自身もこの期に及んで困惑しているに違いない。

 優れた知性と洞察が、表立って権力志向を明らかにしていないにも関わらず、確実に実権を握りつつある後継者候補の挙動を、最もよく知るはずだった弟子のイメージとの乖離に。


「君は……一体何を考えている?」


「……。仰ってる意味がわかりかねますが」


「私の目は節穴ではない。地方組織から巧妙に自分の支持者を影響力あるポストへと置いているのは知っている」


「ふふふ、お恥ずかしいことだ。私も頼られたら否とはいえず。未熟なゆえの縁故主義をここに反省いたします」


「だがそのこと自体は決して問題だともいえん。人間同士の個人的関係性というのが組織運営においても無視できんものなのは自明。ようは程度の問題で、決定的に影響力を発揮し不自然な自己勢力の確立を目論見でもしない限りはな」


「……」


「トロツキーは君にとっても面白くない存在だったのではないのかね?」


 一気に具体的な本題へと切り込んできた。

 このあたりの鋭さというのはさすがとしか言いようがない。


 だが。


 この程度の問答など想定済み。


「あれほど私の無能っぷりを取りざたされれば決して愉快だとはいえませんが。ただ、党内を割って争うようなことなど。……それほど私が愚かだと思ってらっしゃったのですか?」


「……。かつて荒々しくも革命の理想に燃える青年だった男は、もっとわかりやすく直情的で、だからこそ光るものがあったのだが」


「成長したということでしょう。私も昔のままではいられません」


「……なるほど。私が老いただけということか」


 感慨にふけるように瞳を閉じて頭を枕に沈めていく。

 無言の時がしばしながれること数秒。


 恐らくこうして会うのはもう最後だろう。

 そう確信した瞬間、思わず口にしないはずの言葉が漏れ出てしまっていた。


「ご安心ください、わが師レーニン。『粗暴で不寛容すぎ』ないよう、努める所存ですので……」


「っ……、な、なぜそんなことを?」


 ぎくりと表ざたにしていない陰口を、その当人に言い当てられたかのような態度で身じろぎをした。

 まあいくら歴史が変わったといえども、多分似たようなことはトロツキーとの間で言い合っていたんだろうとは思っていたから。


 あえて指摘してやるようなことをするつもりはなかったのだけど。

 ただ、このあり得ない人生のやり直しでやっと迎えた、一つの節目を前にしてどうしても抑えられないものが、最後に必要以上に俺を饒舌にしてしまったのか。


「師が想うよりも私は自分自身を客観的に理解しているということかもしれませんな」


「……」


「ソーカツなら得意ですのでね」


「ソーカツ?」


 悪ふざけでしかなかった。

 思わず口にしてしまったレーニンとスターリンには全く馴染みなどないだろう異国の言葉。

 遥か未来、極東の島国に蔓延ったレーニンとスターリンの末裔たる蛇の尻尾たち。


 彼らの最も愚かしく、醜悪で、唾棄すべきものたる象徴。

 飽くなき内部分裂と闘争、罵り合いと殺し合いの果てに生み出した悍ましき因習。


 自己批判と総括という概念。

 その最初の提唱者が目論んだものとはかけ離れたグロテスクの極致。


 それを最早間も無く死に行くであろう、歴史的存在たる男に、一瞬だけ自分たちがやってきたことが何を将来齎すのか、その一端を垣間見せてみようというくらいの想いだったかもしれない。


「す、スターリン。わたしはキミが何を言っているのか……」


「いえ、ただ私が言いたいことは師の安寧と我がソヴィエトの繁栄だけを願っていると、それだけです」


「……」


 まだ何か言い足りないこと、問い足りないことがありそうな曖昧な表情をレーニンは浮かべていた。

 だが結局明確な言葉にならぬまま、二人の最後の接見は終った。


 これでひとまずは一区切り。

 俺が一番必要としていたものは無事問題なく確保され、当初の目的は完全に達成されたことを理解する。


 人事裁量権。

 絶対的中央集権体制においては、何よりも巨大な力そのもの。


 党書記長という肩書。


 今後はどれだけ不測の事態が起ころうとまず大丈夫だろう。

 これから始まる内部抗争など、ただの後処理みたいなもんのはず。


 淡々と順番に片づけていけばいい。

 それが終わってから、全く新しいスターリン体制と世界の歴史が始まるのだ。


 俺は一切省みることなく、その場を立ち去った。

 部屋をでた瞬間からもう、すでにこれまでの邂逅など心から消え失せて、次にやるべき処置の段取りへと意識は完全に移っていた。



 レーニンが死んだのはそれから二か月後のことであった。



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