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誕生したばかりのソ連を巡る戦争を通じて、当時のボリシェビキ有力者の中で元も華々しく活躍したのがトロツキーであることは間違いないだろう。
彼は卓越した思想思弁の徒であるだけでなく、軍事的素養も突出しており、まさにこの動乱期の英雄の資質をすべて持っていたのは疑いようがない。
ただの事実である。
どれだけ俺自身が、鬱屈したものを抱え込んでいたとしても、覆しようもない。
だからこそ、俺は極力ヤツのやり方を注視し、ひたすら吸収しようとした。
如何にして軍事組織というものを創り、軍人の心をつかみ、動かし、作戦行動を完遂しうるか。
戦術戦略の実践という、こればかりは経験をつむことでしか持ちえないものを可能な限り学ぼうと、あらゆる手段でトロツキーの事跡を集め把握しようと努めた。
恵まれた才能を持つ生まれついてのカリスマ。
元より個人的資質として適うわけがないのはわかっている。
どれだけヤツが突出した成果を出し続けても焦ることもない。
今はそうしてこの世の春を謳歌させていればいい。
レーニンと並びかねないほどの声望を集めれば集めるほど、アイツ自身の首をしめるのはわかりきっている。
ことさら、赤軍の創設者という、軍権そのものを握っている存在がどれだけ危険視されうるものなのか、歴史を鑑みれば明らかだろう。
内乱も半ばを過ぎたあたりから、他の有力者たちが一人だけ頭を抜きつつあるトロツキーを明らかに警戒し始めていた。
ジノヴィエフ、ブハーリン、ルイコフらを始め、妹との結婚を通じて縁戚関係にあるカーメネフですら。
強弱の違いはあれども、それぞれのやり方で陰に陽に俺の前で懸念を警戒もなく披歴していく。
内戦を通じて、さらにはその後の対外戦争においても、さほど有能でもない、いや、ギリギリ及第点程度の戦果しか挙げていないスターリンなど、彼らにとっては危険視どころか、安心な相手でしかなかった。
せいぜいがところ、配下や軍人民間人に対するやりすぎともいえる苛烈な処断が多発しており、それを問題視したトロツキーの突き上げを食らう程度で、自分たちと利害が反するような存在ではないと。
むしろそうして、トロツキーに攻撃され、レーニンからも苦言を呈されるような状態が主導権争いの相手としての評価を著しく低減させているほどであった。
時に1920年、夏。
そんな内部の政治力学が陽に当たらない暗所で蠢きつつ、最大に激化していたポーランドとの戦争も山場を迎えようとしていた。
一軍の指揮者として、進軍を進めていたスターリンへと届く、味方軍への援護指示。
最も突出し、敵国首都へと間近に迫っていた主力に協力するようにと。
名将トハチェフスキーへの援軍要請。
俺はやるべきことはわかっていた。
もちろん、こんな指示は握りつぶして、知らぬ顔をしながら、目の前の拠点を陥落させることに意識を向けた。
案の定、すぐに召喚されて激高するトロツキーと苦々しい顔をしたレーニンの突き上げを食らうと、俺もまた表向き感情的に応じるように怒鳴り、詰ってやる。
一応、自分としては演じていたつもりだったのだけれど、気が付けば半ば本気になっていたかもしれない。
前々から、一度こうしてこのインテリ野郎に思いっきり怒鳴りつけてやりたかったから。
そうして丁々発止のやり合いを続けた後、やってられるかと言わんばかりに、軍事指揮からは身を引くことを宣言し、向こうの反応を確認することもなく足早に部屋を出ていった。
この時期に軍権から自ら身を引くようなそぶりを示してやることこそが重要だったのだと、俺は確信していた。
トロツキーの台頭を際立たせ、かつ他の有力者からの警戒を逸らすのに、結果的には最適なやり方だった、スターリンのサボタージュ。
しばらくは戦場から遠ざかることができ、組織運営を通じた根回しに集中する余裕ができることも意味する。
なによりあのままポーランドを落としでもしたら、取り返しがつかないことになりかねない。
戦場の空気はよくわかった。
これ以降はせいぜいあの、優秀なおりこうさんにやらせておけばいい。
どうせ最後は何もかもこちらがかっさらうことになるだけなのだから。




