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 なるほど、これがトロツキーか……。



 会議室に入るなり、俺は彼の姿を一目で認識した。

 壁際の椅子にふんぞり返るように座り、周囲の同志たちからの賛辞や意見に耳を傾けている、その男。


 記憶の中の白黒写真よりも遥かに力強く、溢れんばかりの才気が滲み出て放たれているかのようだった。

 まず間違いなく傑物なのは一瞬でわかった。

 一目見るだけで並の人間じゃない、カリスマの持ち主であるのが明らか。


 細身で引き締まった体躯。

 炎のような鋭い眼光。

 そして何よりも、インテリジェンスと自信に満ちた、あの見事な額。

 大衆が魅了されずにいられない、生まれながらの扇動者アジテーター

 その一挙手一投足、放たれる言葉のすべてが、聴衆を熱狂の渦に巻き込む非凡の塊。


 俺はそんな伝説的社会主義活動家その当人が……。


 (……気に入らねえ)


 本能的な反発と拒絶。

 それは持ちえぬ者が持てる者へと向ける羨望と嫉妬、そして劣等感そのものだった。


 かつて日本社会で毒親と組織とのかかわりというハンディを背負い、見た目や才能に溢れたアイツらたちに敵わずに落伍していったあの人生。

 落ちこぼれとしての引け目が、卑屈が、どこまでも俺を歪んだ醜い生物に変えてしまった。


 ましてや、歴史に名を遺すほどの才人を前にしたら、言うまでもない。

 目の前の男によって、近頃は忘れつつあった日本の閉塞的な社会での惨めさを喚起され、俺に人間性の優劣を自覚するよう強制してくるようだった。


 理屈じゃない。

 どれだけ理不尽で無茶苦茶な暴論だろうと関係ない。


 俺はこいつが嫌いだ。

 恵まれた才能を遺憾なく発揮して周りにもそうと扱われちやほやされてきたのが明らかな、己こそが指導者然とした傲慢と自尊が許せない。


 もしかしたら史実でのスターリンもそう想ったのかどうかはわからない。

 ただ確実なのはこの邂逅においてもまた、レフ・トロツキーの運命はさほど変わらないだろうという確信だけ。



「ああ、来てたのか。ほら、君もこっちにきたまえ」


 俺は数人の同志たちと主役を囲んでいたカーメネフに促され、その輪へと向かう。

 敢えて、感情を一切排した事務的な態度で歩み寄っていった。

 自然とその場の流れに沿ってこちらを見やるあの男は、組織の合流を主導した実務家としてのヨシフ・スターリンをどこまで認識していたのか。


「レフ・ダヴィードヴィチ・トロツキー。貴殿の合流を歓迎しよう」


 俺は短く、無愛想に言った。

 言葉の端々に、グルジア人特有の、やや荒々しいアクセントが混じる。


 トロツキーの、俺を上から下まで値踏みするような一瞥。

 まるで一冊の本を読み終えるかのような、素早い、しかし徹底した観察。


 恐らく、この時点のスターリンなどトロツキーにしてみたら、所詮レーニンにくっついているおまけ程度の認識だったのかもしれない。


 本来別組織ではあるものの、活動家としての序列に大きな違いはないはずだった。

 にも関わらず、目の前の男から滲みでるのは、明らかに超えられない壁を持つ有力者から地下じげの者へと向けるもの。


 上位存在が他者に向ける、無感動で無慈悲な視線。


 ……嫌な。

 嫌な目つきだった。


「ああ、ありがとう。……久しぶりだな。今はスターリンと名乗っているとか」


 彼は一拍、名前を思い出す努力をあえてアピールするかのように間を置いた。

 その態度が、俺の胸中に燻る山本雄介の劣等感をさらに刺激する。


 優秀過ぎる自己演出家だからこそ、抱かざるをえない不信と苛立ち。


「この数ヶ月、党中央の組織運営を支えていたのはキミだったらしいな。有能な同志がいてくれて力強いかぎりだ」


「やるべきことをやっていただけにすぎんよ。改めて貴方と共にできること、光栄に思う」


 俺は自分の内部に荒れ狂ってるものを僅かにも漏れ出さぬよう、努めて平静な声を出そうと努力した。

 果たしてどこまでそのがんばりが効果を発揮してくれたのか。


 トロツキーはさほどの興味をそそられた様子もなく、つまらないものを見るような冷めた視線をむけるだけだった。


「こちらこそ。組織を下から支える君のような実務家こそ、革命を推進するのになくてはならないもの。これからもよろしく頼む」


 言外に、難解で崇高な思想理論の構築と展開は己たちに任せて地下の働きをしていろという無自覚な宣言。

 向こうはそれでひとまずの、つまらない社交辞令は終ったものと判断したのが明らかだった。

 全く興味を失い、意思の力が他にそれていくのをありありと感じる。


 俺としてもその流れに逆らうつもりは本来なかった。

 この時点で不必要に軋轢を生み、目立つようなことは避けるというのが当初の予定。

 粛々と顔合わせの邂逅を済ませリャそれでいいという。


 でも。


「……同志トロツキー」


 まったく意図せぬ、癇癪めいた衝動で、気が付いたら言葉を放ってしまっていた。

 完全に予定にない、発作的行動としか言いようがないものだった。


「貴方の言う、『世界同時革命』とやらが実現することを心から願っておりますよ」


 その後の歴史を知っていれば。

 世界中に蔓延って宿業を背負い続けたアカと呼ばれた活動家、いやテロリストどもの成れ果てを想えば、夢物語だったとしか言いようがない綺麗ごとの理想論。

 己の才能、弁舌、知識理論への絶大な自信を隠そうともしていない男の様子に、抑えれきれない皮肉の響きがとうとう漏れ出てしまった。


「……」


 刹那に目を見張るように、そらしつつあった視線をまたこちらへと戻したトロツキー。

 初めてスターリンという存在を認識したかのような光がその瞳に煌いた。


 しかしそれも一瞬。


「そうかね」


 さほどのことでもないように、消化し処理したようだった。

 あたかもたとえ何を言われたとしても、対等の立場で語るに値しないと、無知な子供の背伸びした反抗を受け流すかのような。


 今度こそ完全に興味を失ったことが明らかな様子で、他の指導者と会話を始めていた。



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