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 一九一七年四月三日、ペトログラードのフィンランド駅。

 群衆の熱狂的な歓声、兵士たちの敬礼。

 亡命先のスイスから「封印列車」で帰還したレーニンは、ロシア革命の火付け役として、まさに英雄として迎え入れられていた。


 俺は同僚たるカーメネフとともに、その場の熱狂から一歩引いた位置で指導者を見上げていた。


 史実の記憶が、淡々と事実を脳内に提示する。

 この数時間後、レーニンは党の方針を決定的に変える「四月テーゼ」を発表する。

 それはブルジョア臨時政府への支持を即刻やめ、権力をソヴィエト(評議会)に移譲すべきという、過激な主張だ。


「……どうかしたかね、スターリン?」


 隣に立つカーメネフが、俺の静けさに訝しげな視線を投げかけてきた。

 史実のカーメネフは、このレーニンの急進的な方針に当初は反対の立場を取った。

 そしてこれが端緒となり、穏健派としてやがては党内抗争で敗れ去る運命。


 対するスターリンはまさに手のひら返しとしか言いようがない鮮やかさであっさりと持論を捨ててレーニンに恭順する。

 その先行きの明確なヴィジョンを思い浮かべつつ、俺は静かに答える。


「いや、いよいよ師レーニンの到着で我々の革命は始まるのだと感慨にふけっていただけだ」


 そして、あえて穏健派の同志の心情を代弁するように続けた。


「だが、彼の主張はあまりに急進に過ぎる。未だ脆弱な我らが党が、この混乱の中でいきなり政権を奪取する? ……まるで夢物語だ。今は自由主義者たちによる新政権を支持し、革命の果実が熟すのを待つべきではないか?」


 もちろん今後の成り行きを想定した呼び水に他ならない。

 こちらの打算と思惑も想像だにしていまい、まんまとカーメネフは、安堵と共感の表情を浮かべた。


「……キミもそう思うか? レーニンはあまりにも現実離れしている。聞き及ぶ彼の最新の言説は、我々が展開していたプラウダの論調、その路線をすべて否定するものに他ならん」


 これまでの自分たちの主張をまるで省みず否定されることの不満と抵抗。

 カーメネフの顔には、シベリアを共にした友人だからこその安心と油断がそれをありありと表出させていた。


 彼は知らない。

 その「現実離れした主張」こそが、数か月後には現実となり、世界を赤く染める起爆剤となることを。


 俺はカーメネフの言葉に表向き同意を示しつつ、内心では冷ややかに分析していた。


 山本雄介としての俺の目的は「復讐」であり、「ソヴィエトの成功」はその手段に過ぎない。

 ソ連の失敗を避け、「持続可能な恐怖独裁」を完成させるためには、無駄な混乱やイデオロギー論争は極力排さねばならない。


 この時点のレーニンは、革命の理想論者だ。

 やがて合流するトロツキーは扇動者。

 そして史実のスターリンは、そのどちらでもなかった。


 彼が台頭した理由は、理想や弁舌ではなく、「現場の掌握力」と「組織の機構」への執着だった。

 知的で洗練された理論は革命家を一時的に輝かせるが、組織を動かし政権を維持するのは、泥臭い人事と規律なのだ。


 人間世界の本質。


 その感性に於いてスターリンという男はまさしく天性のものだったに違いない。

 軍事の才能も、弁舌も、理論的知性も、形而上の思想概念論も特に並外れたものではなかったかもしれない。


 だが一体何が人を集め、動かし、惹きつけるのかという大衆理解においてのみ、レーニンもトロツキーも、その他有力な対向者の誰も敵わなかった。


 権力掌握の天才。

 まさしくそういう存在だったのだと、己の中にある記憶と人格を俯瞰して想う。


 俺はカーメネフに言った。


「どちらにせよ、論説面での貢献はキミの肩にかかっている。レーニンに過ちがあればそれを正しうるのはまさに君のような理論家だろうな」


「そうかね? いささか面はゆいが、そう言ってもらえると心強いな」


「私の方はもっと地道で泥臭いことをやってみよう。注目すべきはペトログラードから離れた地方、産業、そして軍事組織の中だと思うんだ。今、最も混沌としているのは、首都ではなく辺境のソヴィエトに他ならない。あれらを組織し、党員を配置し、彼らの声を中央に上げさせる機構こそが、我々の力となるはず」


「わざわざ中央から地方に? せっかく党組織の中心で活動できるようになったのに、酔狂だな」


 中央での論陣展開こそ、活動の花形だと確信している男の呆れたような声。

 俺は彼の悪気ない無知蒙昧を嘲笑わないように努力する。


 この時代のスターリンは、すでに民族問題担当として地方組織との接点を持っていた。

 その史実の役割を過剰に強化することこそが当面の俺の方針だった。


「理論面での貢献はキミに任せよう。私は党中央と地方組織の連絡役として、ペトログラードから離れることも増えるかもしれない。組織図の空白を埋め、地方の混乱を中央の力に変えるつもりだ」


 それは権力闘争の表舞台である「プラウダ編集室」や「ソヴィエト会議」から多少なりとも身を引くことを意味する。

 だが山本雄介の知識は知っていた。

 これは権力機構を掌握するための、史実以上に効率的で冷徹な一歩であると。


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