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第三部9


「ふぅぅぅぅ……」


 ショットグラスに注いだウォッカを一気に煽ると、灼けるような爽快感が喉を通ってすきっ腹の体内に浸透していく。

 そして力尽きたようにどさりと、柔らかなソファのクッションに身を預けた。


(やはり効くな……)


 普段は滅多に飲まなかった。

 どちらかというと、より柔らかく洗練された味わいのワインの方が自分の好みらしかった。

 だが、今この瞬間においては、武骨で直接的で正直すぎるほどのロシアの酒が一番相応しいと直感していたし、事実その通りだった。


 美味い。

 とても爽快だ。


 この極上の味わいを齎すのがまごうことなく、己が成し遂げた最低最悪の非道だったことは間違いない。


「ふ、ふふふ」


 背信。

 裏切り。


 その芳醇かつ逆らい難い蠱惑的な味わい。

 昏く淫らな最高の愉悦。


 『あの男』もさぞかし気持ちよかったに違いない。

 完全に油断して無防備に背を向けている相手に後ろから思いっきり殴り掛かるのは。


 しかもこれほど良心の呵責もなく、やりやすいこともない。

 なんたって全く同じことを、そう遠くない先に、向こうがやろうとしているのがわかりきっているのだから。


 やられて当然のことをやっただけ。

 所詮、予定調和的ともいえる、運命の裏返しに過ぎない。


 むしろ、ここ最近途切れることのない、おもちゃ箱をひっくり返したような外部の反応が滑稽で馬鹿馬鹿しくすらある。

 俺はアイツラをむしろ救ってやったはずなのに。


 西側や、その他の中立国を含めた世界の騒ぎっぷりといったら。

 定型的でおざなりと云えども、ひっきりなしに続く抗議警告にさすがに飽き飽きとさせられる。


 特に英仏。


 内心では欣喜雀躍して、ウッキウキになっているんだろうに、一応、世間体でやっているんだろうしかつめらしい顔で宣いやがる。


 『国際慣習を無視した、大変な蛮行であり、遺憾である』と。


 案の定、所詮ただのポーズで演出に過ぎないから、もう水面下では実務レベルで建設的な交渉も始まっているんだが。


「お前は今、どんな顔をしているんだろうな?」


 俺は虚空に向かって呟き、遥か彼方に鎮座し、今この瞬間も突如到来した奈落の底で絶望し喘いでいるのだろう、もう一人の独裁者を改めて想う。

 歴史的勝利を目前としながら寸前で痛恨の停止を余儀なくされ、卑怯というには生易しい最悪の裏切りを見せた相手と悪夢の二正面戦線を強制されたあの男。

 もうなり振りかまわず、早速英仏あたりに愁眉を送っているのかもしれない。


 まあ、まず受け入れられることはないだろうが。


 チャーチルは言うに及ばず、自国領土を蹂躙され、あまつさえ亡国寸前にまで追い詰められたフランスも一切妥協などするまい。

 徹底的に、この千載一遇の機会を最大限に利用するはず。

 というより、他に選択肢などあるまい。


 東西で展開される持久戦の結果などわかりきっている。

 人員物資の消耗を続けさせ、軍行動などできなくなるまで致命的に枯渇させてしまえばそれでいい。


 ソ連と英仏はただ耐えるだけでいいのだ。

 激痛にのたうち回る怪物の、猛烈なあがきがどれだけ凄まじいものだったとしても。

 じわじわと傷を与えて広げていくように、ひたすら戦力のぶつけ合いを演じながら、可能な限り関係国から送られる資源物資を妨害、破壊し続ければいい。


 こちらももちろん無傷とはいかない。

 尋常に考えれば、とても平穏無事とはいえない、莫大な人命の喪失、あらゆる消費損亡を覚悟しなければならない。

 戦車や戦闘機を始めとする兵器兵装も、みるみる失われていくことだろう。

 経験豊かな熟練兵も、訓練を終えたばかりの新兵も関係なく、底が抜けた水桶みたいにどんどん減っていくに違いない。


 だが、それでも「あの歴史」よりはよほどマシである。

 あの完全に油断して無防備だったところを奇襲され、前線部隊の多くが包囲殲滅で文字通り「消失」し、さらには国土の大半を占領され、政治軍事拠点に工業農業あらゆる生産設備を完膚なきまでに失った、あれよりは。


 総合的なダメージは比べるべくもないほど、少ないはずだ。

 ならば、今現在も、そしてこれからも、幾十、幾百万のアカどもがどれだけ消耗戦の舞台として誂えられたポーランドの大地で死んだとしても、おつりが来るくらいだ。


 どうせどちらも同じ地獄。

 ならば、ソ連という国家にとっては比べ物にならないくらい、最善の方法を選ぶだけ。

 そして向こうにとっては最悪な。


 これからアイツはジワジワと真綿で締められるように、絶望の日々を送るに違いない。

 そしてその運命へと追いやったことに何らの抵抗も同情もなかった。

 ざまあみろとはいわないが。

 まあ、しょうがないよねというだけの想い。


「ふふん」


 俺は再度、滅多に味わうことなどできないだろう最高の味を堪能するべく、ショットを煽った。

 そして少し物足りない気がして、思わずいないはずの影を視線で探そうとしてしまう。


 やはり、こんな時にはあの硬く冷たい、鉄の感触と温もりがあったほうがいいと。


 鷹揚に構えて、女を居残らせたことを少しだけ後悔した。



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