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第三部8


 もう季節は初夏に入る頃合いだというのに、空気はどこまも冷めて乾いていた。

 今、世界を司っていた秩序と法則が失われ、混沌と暴力が支配する新たな創世が始まる寸前の、凍結した時間そのもののようだった。


 迷いはない。

 驚くほど静かに決断を受け入れている。


 さあ、はじめよう。

 

 高らかに鳴り響く、終末の音を確かに聞いた。

 そしてハカセの間延びしたあの声も。


 ゆーくん。


 と。




 結論から言えば、トハチェフスキーは完璧に己のやるべきことを全うした。

 入念に練られ、検討されつくした作戦計画をほぼ完全と言っていいほどの精度、確度で達成したといえる。


 5月17日。


 ドイツのフランス侵攻開始から、ちょど一週間後。

 思い起こせば、遥か未来、いや逆にずっと昔かもしれない、そんな時空を超えて延々と検討され続けた末に導き出された結論。

 あの日本の所せましと娯楽物で溢れかえったアパートの一室、過激派組織の一員たるテロリストの男とぐるぐるぐるぐる廻し続けて愉しんだ思考実験という名の遊びの果て。



 最期に至った最適解。



「はじめたまえ」


 急遽、戦時指導会議室に変貌したクンツェヴォ別荘の広間。

 俺は愛人兼秘書たる女を含む、数人の腹心が同席している中、受話器の向こうへと告げた。


 そして間もなく、ラジオから流れ始める外相モロトフの声明文。

 抑揚の欠いた、酷く事務的な響きの声が、朗々と適当に考えさせた「大義名分」を述べているのを聞く。


 シンと静まり返った時間がしばし流れる。

 誰も何も言わない。

 凍り付いたように、身じろぎ一つせず、ただ固まっている。


 まるで世界は何も起きていないように。

 あらゆる宇宙の営みが途切れ凍結したかのように。


 が、そんな幻想めいた感覚はすぐに終わる。

 パタンとドアを開けて入ってきた事務官が、一言、端的に声を上げて、中央の巨大な卓上に広げられた地図にある状況模式駒を動かした。


「ポーランド分割線突破」


 カタカタと、すぐ傍でタイプを打つ音が伴奏するように響いた。

 エレーナの細く長い指が、優雅に官能的に、それでいてどこまでも無機質に動くのが視界の隅に入ってきた。


 報告を終えた男が出ていくと、またしばしの静寂の後、同様に別の者がやってくる。


「第5軍、敵防衛主力部隊を確認、接敵開始」


 盤面上の模型が動かされ、また一つ状況が更新される。

 カタカタ。

 タイプの音が鳴る。


 以降はそんなやりとりが徐々に連続し、加速していき、最終的に喧噪めいた状態になるまでさほどかからなかった。


「第3戦車軍、アウグストゥフを通過。敵守備隊の通信網の断絶開始」


「リヴォフ方面、第6軍が敵側面を突破」


「敵航空戦力を圧迫中。制空権、確保目前」


「メメル軍港周辺に対する航空攻撃を実施、港湾機能に一部損害を確認。敵艦艇の出入りは制限されつつある模様」


 もはや愛すべき静寂も沈黙もどこにもなかった。

 たった一言の呪文から始まった、世界の改変、圧倒的かつ絶望的な不可逆的物理の侵食は留まることなく続いていく。


 戦争音楽のオーケストラ。


 いつしか扉は開けっぱなしになっていた。

 カタカタというタイプ音は鳴りっぱなしになっていた。


 ふと、永遠普遍に乱れないはずの美的構造物の調和に違和感を感じる。

 金髪碧青の瞳を持つ女の額を艶やかに彩る、汗の光。


(めずらしいな)


 滅多に見せることのない、人間めいた挙動に感動しそうになった。

 ああ、ダイアモンドですら時の流れには逆らえなかったけかと、酷く当然のことを今更のように思い出した。


 バルト各国への牽制、侵攻準備を装って、国境付近に集結させていた機甲師団が一斉にポーランドの独ソ利益線からドイツ勢力圏へと侵攻を開始して淡々と状況は更新されていく。

 西部戦線に全力を注いでいる最中、最低限の防衛戦力しか残されていないそこに投入された100万の赤い機械化軍団の猛攻。


 確実に起こっているのだろう、どんな破壊も、蹂躙も、暴行も、殺人も、一切届かなかった。

 ここに来るのはただ、事務官の機械的な報告と、ヨーロッパ全土を示す地図上の動きだけだった。


 そして一日。

 二日。

 三日。


 非常時の日常が繰り返されていく。

 適宜仮眠や休息を取りながらも、一日中、ほとんど動かずにそうしていた。

 やがて7日目に入らんとする頃合い、いよいよ体力、気力的な限界を自分も他の皆にも見え始めた頃。


 気が付くと、喧噪めいた動きが徐々に収まり、盤上の動きはほぼ抑制的で、緩やかになりつつある。

 最初の山場はようやく超えられたといったところだろうか。

 急速なドイツの東方反転がされてるんだろうが、全面的な反攻はしばらくできまい。



「第4戦車軍、ヴィスワ川東岸に到達。橋梁確保開始」



 ヴィスワ=カルパティア線という目標をひとまずは達成しつつあるらしい。

 もう一部では防衛線の構築に移っている頃合いだろう。


 本格化したドイツの反撃が始まったら、まさに地獄というに相応しい状況になるんだろうが。

 そして何より、最も重大かつ、致命的な目標達成の確認をしなくてはならない。


「……」


 じっと、無意識に拳を握り続けていることに気が付く。

 汗まみれで気持ち悪い。

 ここのところずっと、こんな感じだった。


 無理もない。

 今現在進行形で起こっているのは、まさに世界を書き換える血みどろの大魔術に他ならないのだから。


 成功すれば、新たな時代の幕開け。

 失敗すれば……、あの前の人生と同じ糞みたいな死がまっているだけ。


 そう、たとえ無残に目論見が破れて、どれだけ最悪な結果になろうと、ただ自分とこのソ連という国家、無価値なアカどもを道連れに滅ぶだけだ。

 

 自暴自棄かつ、無責任極まりない開きなおりをして、少し気分が晴れたような気がした時。



「イギリスより通信。ドイツ軍の進撃速度、低下! フランス戦線、崩壊を免れているとの見方です!」



 最も待ちわびていた言葉をとうとう聞いた。


「っ、ふぅぅぅぅぅ……」


 一挙に張りつめていたものが解放され、ずるりと座っていた椅子に身体を不格好にずらしていく。

 まさに存亡がかかった分水嶺を超えた安堵がひたひたと心身を満たしていくのを感じていた。


 これで形はできた。

 後は粛々と機械的に事態を展開していけばいい。


 アカとナチスの、飽くなき命の奪い合い。

 バルバロッサを受けなかったソ連と、フランス侵攻を失敗したドイツの絶望的な消耗戦の幕開けだ。


「おめでとうございます」


 普段と変わらないはずのその声にも、いつになく疲労の色が見えた。

 冷血の内務人民委員たる男も、人の子だったのだと思う。


「うん、とりあえずは目標は達成しつつあるようだな。あとは『予定通り』突出していた機動部隊を後退させてくれればいいが」


「司令官の手腕を信じるしかありますまい。少しでも損耗なくしてやりとげてくれることを」


「そうだな。今後はウィスワ沿いの防衛線を可能な限り充実させ、ひたすらドイツの反攻に耐えてもらうことに専念してもらおう」


 きっとあの男ならうまくやるだろう。

 あの生粋の戦争バカは。


 さぞかしご自慢の縦深理論でドイツ内部まで抉るように攻めたてられた事にご満悦なことだろうな。

 このままポーランドを舞台にした絶望的な殺し合いを、縦深防御の理論実践として続けて愉しんでもらうとしよう。


 ここ1週間というもの、適宜席を外す以外はほとんどじっと身じろぎもせずに待機していた二人の腹心を振り返り、俺は改めて声をかけた。


「では、これから軍と連携して予定通りことを始めたまえ。前もって指示していた『ドイツの戦争犯罪に関わる証拠』を保全する命令が実際にどこまで末端まで行き届いていたかはわからんからな。場合によれば、資料や遺物の復元、再調整も含めて迅速に対応をはじめよ」


 リトヴィノフは爛々と危険な光を宿した瞳で云う。


「何一つ、取りこぼすことはいたしません、必ず。必ずや全貌を明らかにして世界に発信するための用意を進めます」


 内務人民委員、ベリヤがにちゃりとした微笑みを浮かべて応える。


「収集された情報の取り扱いはおまかせを。送られ次第、即座に分析、調整をいたします。こういったものは鮮度が一番でしょうから」


 まるでピクニックに行くような気楽な風情と、鬼気迫るというのが相応しい対照的な二人の回答に、鷹揚にうなずく。


「ああ、期待している。今後のわが国の行く末は君たちにかかっていると過言ではないからな。あとベリヤ君」


「はい」


「その後、時期をみて捕囚していたポーランド人達に選ばせてやれ。このまま労務生活を続けるか『ソヴィエトを受け入れて対独戦に参加するか』と」


「ああ、なるほど。了解いたしました、防衛線の向こう側へ好きに行かせてやると」


「こちらは急がなくてかまわん、いや、むしろポーランドにおけるドイツ政策の実態をたっぷりと『正確に』教示した上で採るべき道を選べるように入念に準備をしてあげるといい。適宜、時間をみて対応したまえ」


「了解いたしました」


 うむ、っと、それで一通り現時点でやるべきこと、指示するべきことは終ったはずだった。


「では、私はいったん休ませてもらおう。やっと最初の峠を越えただけ、本番はまだまだこれからなのだろうから」


 立ち上がりながら、タイピングを機械的に続ける女をみやる。

 ちょうどガチャンと、改行レバーの音を鳴り響かせた直後。


「エレーナ、君はどうするね?」


「まだこちらに。お食事の時間にだけ一度戻らせていただきます」


「いや、君のやることが終わってからでいい」


「はい、かしこまりました。ではお言葉に甘えて」


 さすがに超絶的な技能の持ち主と云えども、これだけの状況を記録するのは骨が折れるんだろうな。

 まあ飯なんざ一度や二度食わなくてもどうとでもなる。

 今、優先すべきことはただ一つだけだ。


 やはり、ゆっくりと個人的欲求を満たす時間など、しばらくないことだけは確実だった。



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― 新着の感想 ―
ゾンビが出ないのはいいなぁ~(第六シド星人)
HoIでも一番やられたくないタイミングw 確かにドイツに殴りかかる大義名分あるなら一番効果的だなぁ。
ハカセとの時間が本当に好きだったんだな、、 転生という超例外の末だけど、知識が役に立ってるし。 西側の結果が東にどんな影響を与えるか楽しみです。
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