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第三部7


 1940年4月。

 ロシアの凍える大地にもようやく春の息吹を感じんとする時候。

 クレムリンの会議室にはいつになく、錚々たる顔ぶれが集まっていた。


 外務人民委員、内務人民委員、統計局員などの文官官僚、そして陸海軍事責任者。

 まさにソ連の最高指導層が一挙にそろい踏みといった様相。


 キィンと、耳鳴りがしそうな緊張感。

 誰も身じろぎもせず、一切の音も出さずに、あるいは宛がわれた自席に、あるいは立ち姿で指定された定位置へと収まっていた。


「さて」


 海千山千の人並外れた人材であるはずの彼ら、皆一様に、それぞれのやり方で限界まで張りつめたもので余裕が一切ない顔をしている中。

 おれは酷く気軽に、今日の天気を語るかの如く、口を開く。


「それでは始めるか」


 ごくりと、目に見えて喉を鳴らす最高軍事責任者をちらりと見やる。

 視線が合った途端、まるでどこか逃げる場所を探すように彼の瞳が揺らいだのがわかった。

 だが、ギリギリ踏みとどまったのか、次の瞬間にはキッと、挑みかかるような光を灯すのを確認する。


 そのまま視線を外さずに全く違う側に向かって言葉を発した。


「リトヴィノフ。まずは現在までに収集したドイツのユダヤ人隔離政策の状況、またポーランド侵攻後の非人道的虐殺行為の実態についてだ」


「……はっ」


 カタンッと音を立てて、外務人民委員モロトフの横から独り立ち上がると。

 俺と視線の先の男以外のすべてがそちらに注目する気配が満ちた。


「およそ7年前から具体的に始動したユダヤ人に対する弾圧、隔離政策は1940年の時点で最大化、特にポーランド侵攻後に同国内に新設されたものによって、推定は100万以上、おおければ200万にも達する数の者が収容区域に強制移動させられた状況です」


 ひどく落ち着いた。

 怖いくらいに静謐な声だった。


 そこでようやく発言者へと視線を移すと、酷くやつれ、落ちくぼんだ眼差しに異様な光だけを宿したユダヤ人外交官の姿が目に映る。


「ふむ、収容による健康状態への影響などはどうか」


「劣悪。極限まで食事の提供が制限され、栄養状態は末期的としかいいようがありません。特にひどいと思われるリッツマンシュタット隔離地域では日に数百人が命を落としているもようです」


「それ以外の理由による被害はありそうかね?」


「甚大。恒常的な暴行行為、突発的な殺害は日常茶飯事といっていいでしょう。特に知識階級、資産階級など社会的指導層は何かと理由をつけては処刑するのが常態化しているのが確認されております」


「だいたい直接的なものだけでも犠牲者数はどれほどと見積もれそうか」


「餓死、拷問をあわせれば、もうすでに数万の犠牲は出ているのは間違いありません。下手をすれば十数万に上る可能性すら」


「結構だ、それではユダヤ以外のポーランド系住民に対する被害状況はどうか」


「……昨年の侵攻後から始まった特殊部隊による『計画的な』虐殺行為が進んでいる可能性が非常に高いとのこと。こちらについては全容はまだわかりかねます。が、信頼できるものだけでも数百人単位で、社会指導層の『一斉処理』が行われているのはほぼ確実ではないかと」


 その時何気なく、傍に座っていた内務人民委員の顔をチラリと窺った。

 まったく動じた様子もなく、この場にいる面々の中でも最も落ち着いて、むしろリラックスしているようにすら見える。


(コイツだけは本当に……)


 清々しいくらいに、完成してやがる。

 というか、本気で自分は関係ないと思ってるに違いない。


 つい先日まで、当の自分自身が同じかそれ以上の虐殺計画を立案してやがったくせに。


 だがそれでこそ、内政を一手に任せるに足る存在なのだと確信する。

 ラヴレンチー=ベリヤという最低で最悪で最高効率の男は。


 そう、刹那に想いを馳せると、また本題へと意識を戻した。


「よろしい。では西側への接触状況はどうだね?」


「以上の内容と共に、突発的有事の可能性について外交責任者を通じて連絡は済んでおります。手ごたえは……まずまずといったところでしょうか」


「はっきりとした回答など期待はできんのは承知の上。まあ、肯定もしなければ否定もしていないということだな」


「さようです」


「十分だ。あの功利的リアリストたちに『世界に言い訳できる』余地さえ与えられてるようならそれでいい」


「ま、まってくれ!」


 そこで、冒頭ずっとにらめっこをしていた最高軍事責任者……トハチェフスキーが慌てたように立ち上がる。

 わなわなと抑えきれないものを体現しつつ、喘ぐように、俺とリトヴィノフを見定めて言う。


「そ、それでは確たる了解を得られているわけではないということかっ。ならば事後の他国からの反応について全く確信がないまま、実行するとっ!?」


「そうですな、それが何か?」


 あっさりとリトヴィノフが答える言葉に唖然と固まる。


「ち、駐英大使はそれでよろしいと思ってらっしゃるのか?」


「はい、致し方ないかと」


「そんな外交的慣習からの逸脱を許容するとっ? ……失礼だが、同胞たる民族の不幸によって、いささか偏った御判断をされてはいないか」


「……」


 珍しい組み合わせのやり取りに、魅入られるように見守る俺の前で、ふぅぅぅ……っとユダヤ人外交官たる男は溜息というには重く、昏すぎるものを吐いた後。


「そうだともっ!! だから何だというのですっ!?」


 激高した。


「外交慣習? 偏り? ああ、そうですとも、だから何かっ? 私ははっきりとユダヤ同胞のためにこそ憤り、絶望し、憎悪の上で政治判断をしようとしておりますよ!」


「っ!?」


 今度こそはっきりと、息をのんで固まるトハチェフスキーを前に、一度破裂したものは止まらない。


「どれだけこれが外交官として間違っていようとも、職業倫理に反していようとも、どうでも結構っ!! あの実在する悪魔の跳梁と、現世に顕現した地獄をどうにかさえできればね! もしかしたら全うかつ健全で良識的な貴方は私と違い、逃げ延びてきた者と直接顔を合わせて、じかに話を確認しても、同じことが言えるのかもしれませんがっ。私にはそんな素晴らしく公正で倫理的で、教条的にふるまうことなどどうやら無理らしい。……国防人民委員殿には申し訳ないが、ぜひともこの私の偏って、間違って、どうしようもない誤ったやりようを受け入れていただきたいっ。なに、貴方は何も気に病むことはないっ、後世の断罪、悪名、責任はすべて私が背負いましょうともっ!!」


「そ、それは……っ」


 魂の雄叫びとしか言いようがない猛烈な激情が、歴戦の軍人さえも言いよどませた。

 俺はそれを完全に他人事のように観覧しながら、心の中で一人ごちる。


(悪魔……か)


 実際にはもう少し後のタイミングの方が最大級のメリットを享受できるはずなんだが。

 あの決定的で致命的なナチスによる『最終的解決』。

 残念ながら、どうしても二律背反にならざるをえなかった。


 あちらを取ればこちらが、こちらをとればあちらが成立しない。


 まあ後ろ髪を引かれるくらい、大変惜しい気もするがしょうがない。

 無辜のユダヤ人たちの命には代えられないしな。


 まず間違っても、『数百万の命と引き換えに政治的メリット』をなどと思ってはいけない。

 そんな鬼畜は……この歴史においては『あの男』だけで十分だ。


 目の前ではリトヴィノフの爆発も終焉を迎えようとしていた。


「どうか頼むから、粛々と手足のように軍勢を差配していただきたいっ! ……私はっ」


 ふぅー、ふぅーと肩で息をしながら、ポツリと、しかしはっきりとした声でつぶやいた。


「同志書記長の御判断、ご英断を絶対的に支持いたします」


「……」


 がくんっと、力尽きたように軍人たる男は椅子に堕ちる。

 それを暫く無言で見つめた後、俺の方を向いてリトヴィノフは締めくくった。


「私からは以上です」


「ご苦労、君は私から与えられた仕事を完璧に為したことを確認した。……それでは内務人民委員」


「はい」


 音もなく座り込むのと入れ替わるように、すっとベリヤが立つ。


「戦時体制にあたり、国内備蓄および資源については現状大きな問題はございません。軍計画で提示された見積もりを基準に、侵攻時の消費、占領後の見込みをすべて計上済みです。また、内部統制もおよそ万端、治安についてもまったく異常はなし、内務において不安要素は今のところ皆無といっていいかと」


「オシンスキー?」


 俺はベリヤの言葉を受けて、末席に座る統計局員の名前を呼ぶ。


「はい、同志ベリヤの申し上げた通り、国内生産備蓄からすべて輸送、兵站の侵攻限界点を逆算し、軍部に作戦計画への境界条件として数字を提供しております。ギリギリではありますが、十分に許容範囲のもののはず。……計画以上の逸脱した攻勢などさえなければ、事後の保全維持も問題ないかと」


 げっそりと、リトヴィノフとはまた別のやつれ方をしている国家統計専門家を見やる。

 ほぼ独りで、国内資源の推移見積もりと、軍事侵攻限界点まで計上させたのはさすがに無理があったのかもしれない。

 ただ、この男以上に信頼できる数字を出せる人間がいないのも事実。

 仮に死んだとしても……、まあしょうがない。


 勿体ないけど、背に腹は代えられないからな。

 後継を可能な限り、育てるよう、後で申し伝えておこう。


「よろしい。君たちの完璧な仕事に敬意を表する。それでは引き続き、以降も国内は滞りなく運営されるよう、内務をお願いするとしよう」


 「はっ」と声を重ねて応えた後、それぞれは着席した。


 そして俺はゆっくりと一同の顔を睥睨するように見渡す。

 これでやっと、準備が整ったわけだ。

 あとはもうただ一つ。


 一番の花形で最高の名誉たる、国家的暴力の用意だけ。

 軍事という名の、殺戮機構の始動さえできればすべてが揃う。


 その責任者はまだぐったりと打ちのめされたように椅子に沈んでいた。

 あんまり可哀そうだから、もう少しそうさせてあげたい気持ちもあったが、俺は心を鬼にして決然たる声を発する。

 どうせ始まりさえすればもう、与えられた目標を完遂することしか考えられない戦争機械になるんだろうし。

 徹頭徹尾、そう最適化されてかくあるべしと定義された存在なのだから。


 コイツは。


「では同志トハチェフスキー、素晴らしき同志たちが美しくも崇高な友情と責任感で協力し合って積み上げてきたものを完成させる、君からの返礼たる答辞を聞かせてもらおうではないか」


 審判の喇叭が殷々と吹き鳴らされ、世界の理が崩壊するときはもうすぐそこ。



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