第三部6
エレーナの作ったサツィヴィはやはり美味かった。
いつも通り先に口にさせてから、俺はたっぷりとまぶされたクルミの食感と香ばしさを楽しみつつ咀嚼する。
「……」
「……」
カレリアンバーチのテーブルで向き合ったまま、しばし無言。
これもいつものことだった。
語ることなどさほどない。
語るまでもなく、成立しなくては意味がない。
ときおり沈黙の中、視線だけが絡み合う。
互いに気まずいものもないまま、何とはなしに感じ合う。
『悪くない』。
『ありがとうございます』。
ただそれだけのやりとりを。
そうして、事務処理から家事万端まで完璧にこなす愛人の用意したグルジア料理を、今日もまた堪能していた時。
ふと、つい先頃まで相対していた男の事が脳裏に浮かぶ。
珍しく会話めいたものをするべく、俺の口は言葉を発していた。
「日本の大使はどうだったかね? 君からみてどんな心証をもったか?」
突然の諮問にも動じた様子もなく、口に含みかけていたフォークの先を降ろし。
しんと、一切の揺らぎもない静謐さを維持したまま、ランプの灯りに妖しく浮かんで煌く唇がなめらかに動き出す。
「はい、一国の大使に相応しい胆力と才覚をお持ちの方だったとお見受けいたしました。ただ……」
「ふむ」
問われたことには率直に回答する。
期待通りの対応に満足しながら、続きを促す。
「有能な方特有の『危うさ』のようなものも。僭越ですが、お話の内容を窺ってそう、思いました」
『才長けて危うい』。
まさに松岡洋右という男を端的に評する言葉に、単なる秘書以上の知性と洞察を目の前の女から感じざるを得ない。
もしかしたら、より公的な政務も任せたらやりこなせるのかもな。
ただ、今の使い方が便利すぎるから、少々惜しい気もするけど、このままでいいとも思いなおす。
「ふふ、言い得て妙なことだ。……東洋人を見慣れていたのかね? 中々、一朝一夕では異人種の表情や態度など捉えづらいものだが」
「以前、幼いころには日本人を始め雑多な外国人に囲まれていた時期がありました」
「ほう」
「とても。とても昔のことですが」
「……」
何故かそれ以上は聞く気にならなかった。
この女の過去。
そういえば、当たり前のことだが、コイツにも子供の時代、そして党員になるまでの時間が存在したのだ。
そんな当然のことを、今更のように気が付いた衝撃で、会話の続きを促してその場で確認することすら失念した。
ただ、また無言で食事に戻った美しい彫像めいた女の唇に視線が向かう。
いつになく、普段は全くそんなことは無いのに、ぺたりと黄色いサフランのソースが、艶やかな紅に色を添えているのに目を奪われる。
「エレーナ」
「?」
「ついているぞ」
「……」
こちらの言葉の意味を理解するのに刹那もかからなかった。
即座にナプキンを手にとると、対象をわずかにも外すことなく、完璧な位置と動きで目的を果たす。
指摘してきた相手の視線、所作でそれくらい瞬時に把握して、対応するなど造作もない。
羞恥や困惑など、微塵もなかった。
完成された美的機能体そのものの反応と動作だった。
一部の隙の無いそんな女だからこそ、先ほどまであった色彩のコントラストが脳裏に焼き付いたまま離れない。
どうしようもなく我儘で攻撃的で、原初的な欲求が、優れたフォルムの口腔器官によって喚起されていく。
もう間もなくこんな風に、くつろいで食事をすることも難しくなるのは間違いない。
最期の一線を越えて、始まってしまったらもう、安穏とした時間など消え失せてしまうに決まっている。
ならせいぜい、今のうちに思い切り済ませてしまおうと、そう思った。




