第三部5
1940年、2月。
凍てつく厳冬のモスクワ。
クレムリン大公宮殿において「カテリーナの間」として知られる、帝政ロシアの栄華を象徴するその広間。
かつての主である皇帝たちが愛でた絢爛な装飾に囲まれたそこで、今まさに歴史的な二か国間条約が締結されようとしていた。
俺は自分の目の前で背中を向けてテーブルに着いた二人の外交責任者の後頭部越しに展開する光景に満足する。
かたや我がソ連の外交委員モロトフと、日本の使節であるその男。
そして見守るようにそれぞれの随員、担当が囲んでいるその姿。
ことさら日本側のヤツラの顔色には、傑作なもんがあった。
皆一様に、青白い顔で、明らかに固まってやがる。
まあそれも仕方がないかもな。
あの『一部の違法性もない国際法にも完全に準じた合法的虐殺行為』が相当トラウマになってるんだろう。
本来の予定になかった不意打ち的な俺のサプライズ登場からこっち、ずっとそんな感じだ。
そんなに素敵な感じで盛り上がってくれると、思わずこちらもサービスしてしまいたくなるってもんだ。
にっこりと心からの笑顔が出ちゃうじゃないか。
それが余計に効いてしまったのか、ますます青ざめる日本側使節一同をよそに、署名捺印は粛々と行われていった。
さすがに代表たる男は落ち着いていたもので、その辺はこの時代の政治家だなと、かつての令和日本との違いに想いを馳せる。
わずかに硬く、緊張の色はあったものの、筆先が揺れることもなくさっと署名をかき上げた。
男……松岡洋右をのぞき込むように確認し、我が愛する日本に決定的な楔を打つべく、駄目押しの一手へと動き出す。
凍り付いたロシアの冬は、吹き付ける風雪があらゆる人の営みを拒絶しているかのようだった。
俺は執務室の窓から、そんな轟々と吹きすさぶ冷徹なブリザードを眺めていた。
(やはり圧倒的な勝利の後、停戦条約と共に即座にこちらから申し出てやったのがきいたな)
対日本への外交的決着は、予想以上に満足いくものだった。
本来ならばグズグズと1年以上かかっていたはずの中立条約。
それを、軍事的成功と従来から日ソ間の懸案になっていた『樺太における日本利権について継続協議すること』、事実上の棚上げにする提案をワンセットにしたのが相当効果的だったのだろう。
まさに飴と鞭で、完全に北進論を捨て去ったあの国はすぐに飛びついてきた。
さらには、史実よりも早い内閣の変更、本来ならまだ登場するはずがなかったあの男の抜擢というおまけまでつけて。
元々、停戦条約だけでも十分だとも思っていたから、余計にうれしい誤算だったのは間違いない。
(さて……)
間も無くかと。
そう思った矢先のこと。
「いらっしゃいました」
軽やかに冷え切った、秘書たる女の声が来訪者の到着を告げる。
すぐに扉が開かれ、先導するエレーナの後に続き姿を現したのは、この時期の国際社会における平均的な礼服であるモーニングを着込んだ、明らかに東洋系といえる顔立ちの男。
俺からすればなんとも馴染み深い、さんざん見知って一緒に過ごしてきた同胞そのものといえる存在。
日本人。
ああ、このロシアの凍土では明らかに馴染みない、『匂い』が立ち込める気がする。
どこか鄙びて、懐かしい、香ばしさと純朴さがない混じったような。
たぶん、この時代でもさほど食うもんは変わってないだろうしな。
否応なく郷愁めいたものに包まれる俺とは対照的に、国家代表たるに恥ずかしくない態度をとりつつも、隠しきれない緊張をうっすらと醸し出す男が、挨拶の辞を述べようとしていた。
「書記長閣下にはご機嫌麗しく。日本国外相、松岡です。このようなご歓待の場を用意していただけるとは、恐縮する次第です」
通訳の男が、僅かな時間差で同時並列に翻訳していくのを聞きながら、俺はきっちり日本語で理解していた。
しばらく聞いてなかったはずだが、まったく問題ないようだった。
ただ、どことなく自分が知る日本語の発音と違っているようで、随分と遠いところに来てしまったのだという、孤独感めいたものを感じたかもしれない。
(百年も違えば、イントネーションも変わるんだろうな……)
大丈夫。
これは俺が知る日本人ではない。
似てるけど非なるものだ。
その原型でルーツなだけで、厳密には別物ってことだろう。
だからいい意味での予想外、想像以上に葛藤やら呵責やらを感じないで済みそうなことに安堵する。
別にコイツラがどうなろうと俺は知ったこっちゃなかった。
予定通り、淡々とことを進めてしまえと、そう思う。
「丁寧な御あいさつ痛み入る。……先ほどは驚かせてしまったかな? ふふふ、私なりの歓迎のつもりであったのだが」
「完全にしてやられてしまいました。よもや書記長閣下が御姿を見せられるとは。私始め、日本の使節一同、驚きと悦びで、お恥ずかしい醜態を晒してしまったかもしれませんことをお詫び申し上げます」
僅かに肩の力がぬけただろうか。
プロトコル的とはいえ、この手の軽口というものはやはり有効なのだな。
そう思いつつ、今少し目の前の男に、恐ろしくも偉大な北の皇帝たる人間を印象づけようとする。
「ああ、気にしなくていい。諸君らにこの国の寒さは堪えるだろうしな。……まあとりあえず座りたまえ、飲み物はアルコールでよろしいかな? 極上のワインもあるのだが?」
「失礼いたします。それではせっかくですのでいただきましょう。私ごときに、書記長閣下が個人的な歓談の場を提供くださったご厚意に報えるものではございませんが」
「ふふ、なに、私は貴国、特に有能な政治責任者たる存在には敬意を持っているというだけだよ。残念ながら、近頃いろいろ『不幸なめぐりあわせ』が続いたがね」
「……っ」
ソファーの後ろに通訳を控えさせて着席した松岡が、こちらの含みを持った言葉にピリッと反応するのを見通す。
『不幸なめぐりあわせ』。
あのノモンハンの軍事衝突を、こう表現することが何を意味するのか。
今の日本きっての親露派たる男ならば。
史実よりもはるかに速い時期の登場は、必ず因果のさらなる加速を齎すはずだ。
「まことに。まことに大変不幸なことであったと痛感しております。外交のもつれと武力衝突は現生国家の常なれど、できることならば貴国とは金輪際、御免被りたいものですな」
一口、舐めるようにエレーナが用意したワイングラスを傾ける。
そうせずにはいられないという、やりきれない男の無念が漂っていた。
「おお、ならば私たちは本当の意味で友人になれるかもしれんな。なに、元々私も貴国との争いは心外ではあったのだよ。何せ我々は極東においてはただ平和的均衡、安定だけを求めているのでな」
「もちろんそれは私たちも同様ですとも。できうることなら、そうしたい。現在、亜細亜においては日ソ両国の協力強調こそが繁栄への道筋だと、わたくし個人としては確信しております。しかし……」
ぐいっと、今度は思い切った感じで煽った。
さぞかし、ワインの味は極上で旨かろうな。
こんな一大帝国の圧倒的専制君主が、親し気に酒を酌み交わしているのだから。
どれだけ高位と云えども、日本のいち大臣に過ぎない松岡の矜持を十二分に満足させるシチュエーションになっているはず。
さらにはこんな風に政治的見解で共感めいた雰囲気を醸し出してやれば。
「ふふふ、お互い内部統制には苦労していると、そういうことらしい」
「……おっしゃる通りです。我が国にも、貴国との友好を良しとするものもあればそうではないものもいる。ことさら」
グラスを煽る素振りを見せつつ、空になっているのを確認したらしい。
感情の行く先を持て余すように、所在なく持つ手を虚空に漂わせる。
「軍部における、意見の分裂にはほとほと手を焼いております」
言いやがった。
こんな内部事情漏らすようじゃ、政治家失格だぞ。
でもそんな松岡こそ、俺が必要としているものだった。
こんだけ歓待して個人的友誼を示してやれば十分だろう。
史実と同等かそれ以上にこいつはソ連シンパになってくれるはず。
そのうえで、最後の駄目押しをすると。
「ははは、どこも変わらぬよ。国家運営とはつまり、ほっとけば勝手にバラバラに別れ喰い合い混沌としつづける、人間集団をどうするかということに尽きるのだ。残念ながら貴国は歴史的な経緯、国民性、文化風土と、中々意見統一を図るには難しい環境なのかもしれぬな」
「我が国のことをお詳しいのでしょうか?」
「神権と政軍権がそれぞれ独立して存在する、二重権力構造。いうなれば欧州における、世俗君主と教皇のような関係性が、あの決して広いとは言えない島国国家の中で延々と続いていたわけだ。封建性と中央集権制を往ったり来たりしているように見えるのもそのせいではないか?」
「おぉ……っ」
「ある種、決定的に硬直化しないための上手い仕組みだったのかもしれぬが。広大な外部世界とつながってしまったときには、それは弊害としての側面が強くでるのだろう。……と、少々語りすぎてしまったかな? ふふふ、知った風なことをいったものだ、門外漢の浅知恵だと笑ってくれたまえ」
「……まさか他国の事情、歴史と文化風土まで見通されている御慧眼に驚いております。書記長閣下は学術思弁の徒としても一流であられるようで」
「そんな持ち上げられるとこそばゆいが。なあに、『歴史的必然』から世界を見ようと努めているにすぎんよ」
「いえ、貴国がこうまで精強たるゆえんがよくわかったような気がします」
松岡はふぅっと、感じいるように嘆息してソファに深くすわりなおす。
エレーナが注ぎなおした、ワインの味も楽しんでくれているようだな。
じゃあ、そろそろいいか。
「時に松岡君」
空気を一新し、切り替えるように、それまでよりも鋭い語調で発した。
「ここだけの話だとして……。我々は貴国の南方利益について、一切の不干渉を是としているといえば、どう思うかね?」




