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第三部3

 1939年、暮れ。

 『史実通り』ノモンハンの軍事衝突が起こり、『史実を遥かに超えた』圧倒的ともいえる勝利を収めた後。

 ソ連の政治的立場を左右する重大なイベントが連続する時期に差し掛かっていた。


 もはやここまできたら、刻刻とカウントダウンを待つようなものだった。

 次から次に決定的な運命の分岐点がある地雷原に突入したようなもの。

 一瞬たりとも気を抜くことなどできない。


 本番は始まっている。

 俺は渦中の只中にいる。


 今後はもう、内務的なことに煩わされている余裕などないだろう。

 外交、対外武力行使についての決断を全うすることが肝要なのだ。


 俺はびっしりと『日本語で』書かれたメモを取り出し、今後の流れをまた復習する。

 何度も何度も、数え切れぬほど繰り返したこの行為。

 その終焉も間近に迫っているということだ。


 細心の注意を払っているが、もしこのメモを誰かに見られでもしたら……。

 それだけはなんとしてでも避けなくてはならない。

 俺以外の何モノも触れないよう、厳重に封印しているが、少しでも違和感を感じたらすぐに対応する準備はある。


 誰であろうと、知ってしまったものには退場願うしかあるまい。

 たとえ何が書いているか分かろうとも咄嗟にどうこうできるものではないかもしれないが、それでもリスクを摘み取る必要はある。


 目前にせまった日本からの特使への対応へと意識を向けつつ、俺はそう決意を新たにする。

 そして安全性に問題がないか確認するように、執務室をさっと見渡したときだった。


 扉の向こうから、罷免した元外交委員の到着が告げられたのは。



「今更私に、なんのご用ですかな?」


 たっぷりと隈のついた濁った眼に、倦怠に満ちた響きの声。

 かつての外交委員、リトヴィノフのようすはさもありなんというものだった。


「すでに後任のモロトフには引継ぎは済んでおります。主義主張の違いはあれども、彼の手腕自体は問題ありますまい。なにより……」


 一拍置いて、じっとこちらに粘度の高い視線を送りつつ。


「私を解任し、彼を後任に指名された当の御本人が一番それはわかっておられるでしょうに」


 はっきりといいやがる。

 俺は驚きとともに、感心した。


 かつても決して無能な人材ではなかったが、どちらかといえば、絶対権力者に対する怯えと遠慮が強く出ている男だった。

 それが一度挫折を味わって、一本筋が通ったというのだろうか。

 あるいは失うものが無いという開き直りが到達させた境地なのか。


 スターリンを前にして、なんら遠慮もものおじもない、胆力めいたものを感じさせる様に瞠目するような気持ちになる。

 だが、そんな印象の変化は微塵も漏らさず、解任された元外交官の無礼な態度を鷹揚に飲み込むように。


「久方ぶりの第一声としては、いささか不躾だが。君自身、あの処遇自体には納得していると思っていたのだがな?」


「はい、それは申し開きもありません。私のあの、北満鉄道についての判断が。国際協調を齎すと信じ、極東安定の一手と確信していた主張が、結果的にあのような最悪の事態を齎したのはわかっております。そしてお悩みのご様子だった書記長はむしろ私の提言を容れてくださったということも」


「ふむ、つまり?」


「……日ソの間に膨大な血が流れてしまった責任としては妥当どころか、贖うに足るには程遠いものだと思わぬ日はありません」


 昏い。

 暗い目つき。


 取り返しのつかない悲惨を齎してしまった自責と重圧に押しつぶされるのを必死で耐えている。

 そんな眼差しで床の一点を凝視する。


 これは。

 地獄を知る人間のものだ。


 ならばこそ、今まさにこの男は複雑怪奇な国際関係という魔境を一手に引き受けて差配する、外交官として完成しつつあるのかもしれない。


「ふむ、その通り。わかっているなら話が早い」


「……」


「まさしくあれはすべて『君のせい』に他ならん」


「っ」


「君があのような日本人に対する洞察を見誤りさえしなければ、あれほどの人命が失われることはなかったのだ」


「ううっ!」


 ぐらり、一瞬バランスを崩して身体が揺れた。

 それでも何とかそこに留まり、また姿勢を戻す。


 そうとう効いてるらしい。

 もうちょっとだな。


「およそ三万。それだけの日本人が憐れにも蒙古平原の露と消えた。我が精強たる機械化陸軍の前に、ほとんど抵抗らしきものもすることができずにな。敵対した相手といえども私もさすがに心が痛むよ。あまりにも彼らは弱すぎて……どれだけ愚かな身の程知らずだったとしてもだ」


「わ、わかっておりますっ!! あの地獄をもたらしたのが私だということはっ!」


 もう勘弁してくれと言わんばかりに、絶叫を上げた。

 そして、ふぅーふぅーと肩で息をしながら、しばし己を落ち着かせようとする。


「……もう、私にできることはありません。緊張関係が取り返しのつかないまでに露わになった時点での処遇になんらの異論も不満もあるわけがない。それでは、書記長にはお世話になりました、失礼いたします」


 一方的に言うだけいうなり、さっさと背を向けようとしやがる。

 さすがに開き直りが過ぎるなと、そろそろ本題に入ることを決める。


「まちたまえ」


 鉄の重みと硬さで、断罪するように宣言する。

 さすがのリトヴィノフもそこに含まれたものには、感じずにいられなかったらしい。


 逆らうことは許さん。

 命を取ることも辞さない。


 生殺与奪は一体だれが握っているか。


 それをはっきりと思い出させるだけの音と響き。


「確かに君は外交を司る者として致命的といえるほどの大失態を犯した、それは違いない。だが、だからと言ってやることがなくなったわけではあるまい。いやだからこそやるべきことができたのではないかね?」


 ピタリと足を止めて背中を向けたまま、首だけで振り返るようにこちらを窺う。


「やるべきこととは。わ、私はもうなにも……」


「かつて言ったはずだがな、『たとえ何があろうと根本的潜在的敵対勢力はあの国』だと」


「そ、そんな。ならばなぜあのような協定を結ばれたのかっ」


「国家間の政治関係に永遠普遍はありえん。ゆえにこそ、君にしかできんことがある。……まずはイギリスへいきたまえ。駐在大使としてな」


「今更私が英仏相手に何をできるとっ」


「現時点でどれだけ利害が対立しようと、完全に交渉窓口を絶やすわけにはいかん。君には従来通り西側との協調路線を模索するために動いてもらいたいだけだ」


「……この状況では、とても有効性があるとは思えませんが。たとえバルト政策において、『フィンランドの主権を尊重した』対応をし、危惧されていた軍事行使がなされなかったとしても、彼の国との協定は致命的なものとしか言いようがありません。ましてやすでに我々はポーランドを……」


 本当に変わったな。

 前なら絶対にこんな反駁はしなかったのに。


 これだけ言えるようならイギリスフランス、さらにはアメリカのヤツラともやり合ってくれるだろう。


「すぐに結果を出せとはいわん。どれだけ細く拙いものでも維持し続けることが肝要なのだ。……ああ、もう一つやってほしいことがある」


「?」


 これ以上何があるのかという疑念を隠そうともしない様子のリトヴィノフに、俺は最も重要な目的を告げた。


「ドイツ領内におけるユダヤ人隔離政策、その内容実態をつかめるだけ掴んでほしい。君の出自と人脈ならば、最も適当なはずだ」


 それはこの冬戦争が起こらなかった歴史においても、変わらぬはずのものだった。


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