第三部1
目が覚めると、一人だった。
共にいたはずの存在は、シーツに残された形跡と残り香のみ。
唸るような音を喉から出しながら、寝返りを打つ。
何時なのか時刻ははっきりとはしない。
でも朝をとうに過ぎた、昼近いことは間違いない。
毎日夜半から始まり明け方まで続く、執務の習慣。
それから体力と気力があれば、いつでも応じることが可能な最適な相手と動物的な欲求を満たしてからやっと眠る。
ここ数年、すっかり常態化した日常だった。
巨大な中央集権帝国を統べる、絶対的専制主義者の変わらぬ日々。
どうせしばらくしたら、完璧な見た目を持つ非の打ちどころのない愛人兼秘書が声をかけてくるのはわかりきっていた。
だから別に今がいつなのかなど気にすることなくまどろみ続けても、何ら問題などない。
そう胡乱に想いながらまた、眠りに堕ちようとした。
そして無意識に、いないはずの痕跡を求めて手のひらで人型にくぼんだ形のシーツを撫でる。
鋼鉄の感触と匂いを求めて。
確かにそれを感じたような気がした。
その持ち主たる女に起こされて、いつにない来訪者の予定があることを聞かされたのは、それからきっちり30分後のことだった。
ヤーコフ・ジュガシヴィリにとって、父親がどんなものかは一目瞭然だった。
後世の記録や証言、あらゆる歴史的事実を知らなくとも、その態度、振る舞い、視線が、説明される必要なく雄弁すぎるほどに示していた。
「しばらくぶりだな」
びくりと、それだけで震える両肩。
おずおずというのを体現したように、こちらを窺う卑屈な目。
「お、お久しぶりです、お父さん」
本当にこの父親の息子なのかと、こうして対峙すると全く信じられない。
ソ連という巨大国家の専制的独裁者が、結局最後まで省みることはなかったという事実も、納得するしかない。
それだけこの線の細いロシアの若者は、惰弱と怯懦、愚鈍と無様を体現していた。
「国軍ではきちんと責務を果たしているのかね?」
「は、はい、ぼ、僕なりにやっているつもりです」
無自覚の防衛本能で齎される自己弁護に塗れた言葉。
たったこれだけのやり取りだけで、卑怯と断じるにたる精神性をこうも表出できるものなのかと、唖然としそうになる。
こいつは。
なんて。
「『僕なりに』とはなんたる言い草だ。どのような個人的事情があれども同志国民ならば求められる結果は同じだろうが。……そんなことではやっていけんぞ」
「す、すみませんっ! そんなつもりじゃなくって……っ。ご、ごめんなさいぃ」
軟弱。
この調子じゃどこにいっても上手くやることは難しいだろう。
もう人間の出来ははっきりしている。
こいつは無能だ。
どうしようもなく、誰にも省みられることもなく、ただ人間世界で埋没して朽ちて消えゆくだけの存在だ。
そう俺ははっきりと確信した。
ただ只管永年培われたコンプレックスによって恐怖の対象である父親に卑屈にひれ伏し、醜態をさらすことしかできない、ヤーコフ・ジュガシヴィリを完璧に理解して把握してしまった。
……だからこそ。
「頭をあげなさい」
我ながらびっくりするほど穏やかな声色だった。
案の定、すっかり厳しい叱責の怒声が来るのを覚悟して固まっていたはずの、それを向けられた当の本人が最も衝撃を受けている。
唖然と呆けたような、愚鈍そのものといった顔でこちらを窺う様。
「え……っ?」
「もういい、わかっている。お前にはこの世界が乗り越えるには難しいものが多く、いろいろ困難なことも」
ますます茫然とする。
まあそんな反応もしょうがない。
俺自身、自分のこんな衝動が信じられないからな。
でもコイツのこの生まれついての凡庸さ、後天的な伸びしろの無さによって決定づけられた悲惨をどうしても拒絶できない。
グズで駄目で、どうしようもないからこそ。
純粋な憐憫と悲哀に包まれそうになる。
このスターリンとも山本雄介とも乖離した感覚は一体なんなのか。
かつての自分だったら、とてもこうはならなかったかもしれない。
恐らく、鏡を見るような同族嫌悪で鬱々と嗜虐的な攻撃性に包まれたかもしれない。
だけど今、絶対的権力者として君臨して短くない時間が過ぎ去ったからこそ、この劣等性の塊みたいな男が全く違うように見えるのだろうか。
こいつはかつての俺だ。
氷河期世代でなんら上手くいくことがなかった、社会の底辺を決定づけられた無能だ。
そんなやつを。
これ以上無下にして踏みにじることに何の意味がある。
何の価値もない、歴史の表舞台に出ること自体が分不相応なその他大勢の一人。
ゆえにこそ。
「急がなくともいい」
「と、とうさん?」
「できるところからでいいから、何か一つのことをやり遂げる努力から初めてみたまえ。お前の不出来はすべて自身のせいというだけでなく、父親たる私の責もある」
「えっ、えっ? そんな……っ」
やっと何を言われているのか理解がおっついてきたらしい。
茫然自失とした様子から一転、こんどは涙を浮かべて震えだす。
困惑と。
歓喜で。
「とうさんっ、ぼくっ、ぼくっ!」
嗚咽しだした。
向き合うテーブル越しにその肩に手をかける。
びくりと一瞬震えた後。
さらに激しい号泣が始まった。
こうしてこちらの歴史では恐らく、スターリンにとって唯一かもしれない、実子との対面は終った。
俺のこの対応がどんな因果の変節をもたらすのかはわからない。
だけど、このいかんともしがたい衝動はどうにもならなかった。
ただ、一連の陳腐なヒューマンドラマみたいなやりとりを、壁一つ隔てた場所にいる、愛人兼秘書の女に把握されているだろうことがなんとなく据わりが悪かった。




