第二部6
一面の重苦しい曇天の下、見渡すばかりの開けた大地がただ広がっている。
冬の名残たる白い色彩をところどころにこびりつかせた光景の中、俺はコート越しに芯まで犯すような寒さすら忘れそうになった。
どぉんっ!
と。
轟く砲声。
空の色よりなお重く圧する轟音、間も無く数キロ離れた目標が木っ端みじんに砕ける衝撃。
「素晴らしい……」
しばらく双眼鏡を覗いたまま、殷々と続く余韻に浸っていた。
そして視線を一転して、圧倒的な存在感を放つ鋼鉄の装甲機械を改めて眺め見る。
特徴的な傾斜装甲。
肉厚で重厚な車体、砲塔。
撃ち、走破し、制圧するという目的と意思を体現した機能美そのもの。
俺はこの『ありえなかった』はずの邂逅に柄もなく感じ入りそうだった。
まさか間にあうのかと。
そんなはずはないのに。
1938年、初頭。
モンゴル、満州国境の緊張感がいよいよ張りつめていこうという、この時。
これまで積み重ねてきた因果の変動。
それそのものが形になって体現したのを、慄然として思い知った。
軍からの定期報告に目を通していた時だった。
近々の計画、実施内容、結果の羅列が並んでいる表の中、ふと見落とすところだった一つの書き込み。
視線を戻し、意識の焦点があい、その意味を理解した瞬間。
「新型戦車の試作だと?」
思わず、吐き捨てるような声が出てしまった。
レポートを携え、必要に応じて質疑に応えるために直立不動で立つ技術将校は、てっきり不興を買ったのだとでも思ったのだろう、明らかに怯え、竦んでいる。
そんな、ただでさえどうでもいいと思っている部下の反応、気にしている余裕などまったくない。
まさかと思った。
この時点ではありえないはずだと。
だが論理的にはあれしかないはず。
半ば祈るような心持で聞いた。
「……コーシュキンのものだな?」
さようです。
確かにそう答えた。
思わずブルりと身体が震えてしまう。
ミハイル=コーシュキンといえば、もうわかり切っている。
『あれ』の生みの親。
ソ連が誇る傑作機、西側を戦慄させた赤い燕。
T-34。
傾斜装甲、幅広の履帯、強力な長砲身。
機械化軍団のドクトリンを根底から塗り替えた、『特異点』。
あれの試作がもうできた?
早すぎる。
史実では1939年の末だったはず。
フィンランドとの冬戦争を経てようやく産声を上げるはずの怪物が、2年も早く?
……因果の狂いがここにもまた、うれしい誤算という形で出てきたということだろうか。
初動の落ち込みが必然だった、五か年計画の改変、結果的には想定よりも全体の生産性が伸び、史実を凌駕したのか。
はたまた、トハチェフスキーはじめ、本来なら失われていた軍事、政治指導層の温存が功を奏したのか。
厳密にどのような連鎖が起こってこんな形になったのかはわからない。
正直、想定外でしかない。
組織力はともかく、こと純粋な兵器兵装の水準については期待など皆無、むしろ劣性にならざるを得ないことを半ば覚悟していたくらいなのだ。
……まあなんでもいい。
どちらにしろ間違いないのは。
俺にとってすさまじく都合がいいということだけだ。
「すぐに確認できるな? ああ、できれば司令も同席してくれればなおいい。無理なら私だけでもこの試作戦車とやらを実見させたまえ。……早々にだ」
殺風景なクビンカ試験場に広がる茫漠とした平地で、俺は改めて半身で振り返りながら、脇に控えていた男に問いかける。
「このA-34の量産はいつまでに可能かね?」
「はっ、現行式のものを流用すれば2年以内にはライン稼働の見込みです」
「1年でやりたまえ。ただし不具合は絶対に許さん」
「いっ、1年……っ! わ、わかりました、計画を策定いたしますっ」
うむっと、重々しく頷いて、ミハイル=コーシュキンの技術屋然とした神経質そうな姿に一瞥を与えた。
無理させ過ぎると、史実通り肺炎で死ぬかもしれないが、背に腹は代えられない。
「それでも形になるだけの配備が進むのは大分先になるでしょうな」
そしてまた今一人の、見事な体躯の偉丈夫たる職業軍人からの声にこたえる。
「君の理論を実践するのには、心もとないものかね?」
「いや、十分ですよ。もともと、現行機を想定したものですのでね。むしろ一部の性能向上を破綻なく加味しなくてはならないくらいです」
トハチェフスキーのうれしい誤算が悩ましいという声色に、こちらも鷹揚に頷いてやる。
「元よりこれだけに頼らなければ成立しないようでは話にならん。兵器性能などあくまでも軍事要素の一部にすぎん。……では、また後程、改めて今後の予定を聞かせてくれたまえ」
また一つ、歴史のピースを埋める必然が揃った。
そう確信しながら、来るべき時へと進んでいく実感に包まれていた。
視線の先では、同行させていたエレーナが興味があるのかないのかも判然としない様子で、Aー34を無機質に見上げていた。
彼女の立場と職務を考慮した上で、「よく見ておきたまえ」という俺の指示に従っている以上のものは何もないのだろう。
カーキ色のテーラードとタイトスカートの制服にシネーリ(軍用グレートコート)を重ねた姿が、無骨な鉄塊の前で背中を向けて佇んでいるのを、自然と目にとどめてしまう。
と、突如の冷たいひと巻きの風。
バイザータイプのフラシュカ(正帽)が飛ばないように機敏に抑えながら、避けるようにこちらを振り向いた。
揺れる金と碧青の色彩。
残酷なほどに美しい、殺戮兵器の精霊が顕現したかのような。
そうとしか言いようがない、刹那の完成された一幕。
(……笑っちまうほど、絵になる女だ)
居合わせた技術将校、整備兵からいくつかの溜息めいたものが漏れるのが聞こえる。
当の本人は皆の注目を集めているのに気が付いたのか、間も無く戻ってくると、いつも通り俺の後ろに位置を定めた。




