第二部5
北満鉄道。
それは中国の東北地方、満州のほぼど真ん中といっていい場所を横断して通る、旧帝制ロシア時代の資産である。
元々、東北軍閥時代の満蒙地域における経済利権の象徴そのものであったのだが、内外の政治状況が激変。
もちろん、内はロシア革命、ソヴィエト誕生。
外は日本による謀略的制圧、いわゆる満州事変。
特に、この時点から3年前に起こった後者によって、取扱いそのものを検討せざるを得ない段階になっていた。
ソ連にとっては、完全に列強の一柱たる国家の勢力圏の只中になったものの価値を、維持することの困難さと安易な妥協をよしとしないメンツと天秤に掛けざるをえなく。
対する日本は、巨大な勢力圏として成立しようとする場所の重要な交通インフラで大動脈たる鉄道路線を獲得するのが至上目的にならざるをえない。
つまりは大国間どうしの、まさにパワーゲームの象徴だったのである。
「それで」
極東からの報告書を、俺は指先で摘まんだまま聞く。
そこには、かつて帝政ロシアが莫大な血と金を投じて建設した域外資産の、あまりに安すぎる査定額が並んでいた。
「あちら側は何と言ってきている?」
意識的に、不機嫌そうな態度と表情を出してやる。
すると明らかに委縮し、切り出すのを躊躇う素振りを隠すこともできない、リトヴィノフがようやく口を開く。
「相変わらずの厚顔無恥ぶりです。彼らの提示額は、我々の要求する6億ルーブルの1割にも満たない。関東軍の連中は、もはやあれを自分たちの所有物だと思い込んでいるようですな。公然と鉄道を妨害し、ソ連側職員を拘束……事実上の強奪に近い状況です」
リトヴィノフの声には、確かに外交官としての屈辱が混じっていた。
だが、それ以上に圧倒的な権力で君臨する、冷酷な独裁者の機嫌を損ねかねないことの恐怖が勝っていた。
俺は静かに立ち、窓の外、雪の降り始めたクレムリンの庭を眺める。
そして一拍おくと。
「舐められたものだな……」
息をのむ様子が背中越しに伝わってきた。
「あの野蛮な東洋人ごときがっ!!」
いきなりの怒声。
静けさからの、一転した激情の発露。
スターリンならかくあるべきという、怒りの体現。
「先の汚点がどれだけ我がソヴィエトにとって重いものであったかっ。身の程を超えたたった一時の勝利に慢心し、すっかり一等国気取りとはな! ……それが図々しくも帝政時代から我らが脈々と受け継いできた血肉そのものを寄越せという。これが侮辱以外の何かなら是非聞きたいものだっ!!」
内心は淡々とさめ切ったまま噴出される、表向きの激高。
どうやら上手くいったらしいのは、完全に硬直して固まっている、背中越しに感じる憐れな観客の様子でよくわかった。
「お、お怒りは御尤もです。彼らの無礼極まりない態度は許しがたいものに違いません。しかし……っ」
怯え、震わせつつも、自分の職務と主義に殉じんとする男の声だった。
リトヴィノフは渡すべきだと、そう考えているのは明確。
何故ならそれが今のソ連で随一といって過言ではないリベラル国際協調主義者が至らざるを得ない結論だろうからな。
たとえどれだけ史実よりも国内情勢が安定的で、喉から手が出るほどに欲しがる日本をにべもなく拒絶することが選択肢の一つとしてありえても。
本来なら違うはずだった。
起こるはずだった、五か年計画による大飢饉、結果としての深刻な内政へのダメージ。
対外的安定が何よりの必至要件だったこの時期のソ連にとって、北満鉄道という鬼子は満州を抑えた日本に叩き値ともいえる価格で渡すしかないものだったのだ。
でもこの歴史では違う。
これまで積み上げてきた効率の最大化によって、『俺の』ソ連は比較的安定的な成長をしつつ、人材、体制ともにほぼ盤石といっていい状態を維持できてしまっている。
つまりはやる気になれば突っぱねることもできるはずだった。
おごり高ぶり、ロシア人何するものぞと調子こいてるこの時代の我らが御先祖様の鼻っ柱を思いっきり張り倒して、あるいは妥協を強要するか、あるいは全面的な敵対関係を齎すことだって。
……そんなIFの道筋すら、今の俺には照らしだされている。
しかし。
フー……っと、怒らせていた肩を落としつつ、わざとらしいくらいに重々しく嘆息してみせてから口を開く。
「腹立たしい。実に嘆かわしいことだが。……リトヴィノフ、君はどうやら今回の件、実利を取るべきだと、そう考えているようだな?」
「はっ……、関東軍が満州全土を飲み込んだ今、もはやあの鉄道は陸の孤島なのは明白。維持しようとすればするほど、費えが嵩む一方の火種でしかないかと。たとえどれだけ妥協的だとすれども、将来的な損益としては十二分におつりがくるものと愚考する次第です」
「ふんっ、多少の損失など我がソヴィエトの威信にはかえられぬがな。ただ、今少し時間が欲しいのも事実ではある……」
そこで思わせぶりに半身で振り向いた。
明らかにほっと安堵の表情を浮かべる、ユダヤ人外交官の姿。
「で、ではっ」
期待を隠せぬ様子で、前のめりに問うてきたから。
「うむ」
と。
「今回は君の意見を尊重しようではないか。工業投資と軍事化に回す資金が少しでも手に入るならば、決して悪いものでもない」
鷹揚にうなずいて見せた。
「あ、ありがとうございます、早速調整に入らせていただきます!」
現実的外交感覚が血肉になっている男は、よっぽど融和路線の採用がうれしいらしかった。
俺ももちろん、うれしい。
これできっと。
妥協的態度を取ったこちらを弱腰と喝破し、すぐに乱痴気騒ぎめいた動きが始まるのだろうから。
必要条件はこれで揃ったはず。
日ソ軍事衝突への道筋が。
リトヴィノフが退席した室内、茶器や資料を片付けるために動く秘書たる女の姿が視界をかすめていく。
「お下げいたします」
俺は深く座り込みながら、また窓の外の雪景色へと意識を向けた。
ふわりふわりと空気の動きに合わせて漂う、儚く凍り付いた肢体の匂い。
やはり鉄の香りと。
今は何故かそこに血の匂いも混じっているような気がした。




