第二部2
目が覚めると、鉄の匂いがした。
「お目覚めですか?」
ベッドから数歩離れた場所に立つ細い影。
どこか幼さすら感じさせる軽やかさと、一切の揺らぎらしきものがない冷えた知性。
本来なら並立しようがない逆説めいたものを無理矢理同居させた、そんな響きの声だった。
女……エレーナ・モロゾワは数時間前の極限的生理状態が想像できないほどに、完璧な党務職員としての貌で佇んでいた。
両手で湯気の立つカップを乗せたトレイを捧げ持ち。
金髪と碧青の瞳で端正というしかない怜悧な美貌が静かにこちらを見つめている。
カーキ色のテーラードスタイル、ソ連の女性職員の大半が身にまとっていたそれ。
シャツの袖、タイトスカートの先から絶妙な配分で露出させている、細く、白い四肢、あるいは胸元や首筋。
20を過ぎたばかりの身体のあらゆる場所から立ち昇るのが、もうすっかり近頃では慣れっこになった、この女の匂い。
無機質で硬く冷たい、金属物質の手触りそのものの香りだった。
「何時だね?」
乾いた喉から、かさついた声で聴いた。
素裸の身体をシーツの下からところどころ露わにしたまま、胡乱に顔を撫でる。
「11時になります。いつも通りのお時間です」
「そうか」
「どうぞ」
差し出されたカップをとった。
手渡す際の角度、僅かに触れた場所の蓋然的感触、違和感皆無の温度と質感、互いをもはや他人とは言えない程度にわかり合ってしまった仲であるのを、滑らかな挙動それ自体が示していた。
人民委員部所属の女職員を私的に使い始めたのは大した理由じゃなかった。
スターリンには元々秘書めいたものが無かったわけではないが、すべて男で、実際それでことは足りていた。
確か史実でもそうだったはずである。
偶々か、それまでの政治状況による必然だったのか、およそ最高政治権力の周囲で力を発揮する女性というのは、基本的に存在できない、あるいはしづらい状況だったのだろう。
だから実務的には何ら問題はなかったのだが、プライベートな領域のことはどうしてもおざなりにならざるをえない。
元々あった複数の愛人、恋人関係はほとんど清算してしまっていたし。
かといって身の周りの世話だけをさせるのに家政婦らしきものを使うのも億劫だったと、その程度の理由で。
そこで普段、何かの折につけ顔を見せ、業務的関わりを持つようになっていた、特別部局所属のタイピストだった女が、スターリンに個人的好意を持っていたのは都合がよかったのだ。
たとえ、それがラヴレンチー・ベリヤの差し金だったとしても。
まず間違いなく、あの陰湿かつ計算高い男の立身出世の手だったのは間違いない。
現在、グルジア書記長であるヤツがこれから中央へと上り詰めるための一つ、「お身の周りにご不便はありませんかな」と意味深に語りかけられたのは何時だったか。
党大会後の面会の時だったろうか。
そして仲介の末に、改めて関係を持ってからはもうすぐに手放せないものになっていた。
ただの素人ではなく、事務能力もあり、ちょっとした雑務程度なら対応させられたから。
公的な業務もこなし、私的な欲求の発散先としても兼ねられる、非常に『便利』な存在。
それが今、ソ連の頂点に立ち、絶対的専制者として完成しつつある俺、ヨシフ・スターリンたる山本雄介のエレーナ・モロゾワに対する認識に他ならなかった。
私的関係のすべてが姦計に陥る可能性があるなら、たった一つに絞った方が対応もやりやすい。
どうせまず筒抜けだという前提で関わる分には、むしろリスクコントロールになりうる。
場合によれば、意図的にノイズを与えることも……。
香ばしい苦味を味わいながら、チラリと視線を向けた先で感情を一切排した黄金律のような顔が静かに視線を返す。
僅かにも微笑んだり身じろぎをしたり、ありがちな情感を感じさせる一切の挙動を拒否したまま。
(この女もまた本来はこんなところにいなかったんだろうな……)
精密機械のような、人工物めいた風情が当たり前の愛人兼秘書の運命を刹那に想う。
俺が知る資料のどこにも彼女の名前など見た記憶などない。
恐らくは、あの大飢饉、あるいは大粛清という激動の荒波のどこかで人知れず退場していったのだろう。
もはや歴史の変動は確実なもの。
今後は僅かな判断の間違いも許されない。
そう、自分の目的、宿願を、呪いを、憎悪を、あらゆる負のエネルギーによって己という存在が構築されていく手応えに包まれた後。
「では。本日の予定を聞こうか」
空の器を受け取る女以上に、冷めて無感情な声で聴いた。




