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第一部16


 ナジェージダ・アリルーエワが死んだという報告を受け取ったのは、1929年のことだった。


 スターリンには当然、異性関係、いくつかの女たちとの付き合いがあった。

 その多くは革命以前の首都に居つくようになってからの、下級党員だったり、一市民として首都の一角に居を構える愛人だったりといった具合に。


 俺は特に問題なく、スターリンがそれまで相手していた女たちと付き合っていた。

 もちろん、親密な間柄なら当然の肉体関係も含めて。


 スターリンたる記憶と意識が、なんら違和感もなくそれを受け入れていたし。

 相手たる彼女たちもまた、全く疑念を持つこともない様子で、記憶通りのやり取りをそのまま継続できた。


 一応、山本雄介の人生でも経験がなかったわけではない。

 ただ、もっと惨めで陰鬱としか言いようがない青春だったのは間違いない。

 あの妥協的かつ発作的な、幸福感とは縁遠い、やけくそ気味の喪失。

 アパートの布団に入り、わけもわからず涙を流した、汚点としか言いようがない記憶。


 だから最初こそ、恐らく当時のロシア人の平均からも見ても整った容姿の持ち主である、見目麗しい彼女たちを我が物のように扱え、振舞えることに否応ない快感と共に、どこか悔しく情けない想いがあったようだった。

 ことさら、濃密な時間が終わった後の、必然的に酷く怠惰で空しくなるときには猶更そんな忸怩たるものが湧き上がって、持て余したことも少なくなかった。


 だがそれもしまいには慣れた。

 すっかり適応して我が物にした。

 いちいち思い悩むようなことでもないとわりきったのだ。

 繰り返すうちに、そういうもんだと己の一部に自然な感覚として根付くように。


 ただ、それほど欲求を持て余していたわけでもなく、他者からの視線や、万が一の危険性を考えて、必要最小限に絞るようなことはした。


 つまり結論としては、そっち関係のことは一切問題なかったのだ。

 唯一人、本来なら正妻になるはずだった彼女のこと以外は。



 ナジェージダ・アリルーエワがスターリンに会いに来たのは、10月革命を間も無くに控えた頃だった。



 元からそんな約束だったのだろう、満を持して将来を共にする予定の恋人に会いにきた彼女を俺はあくまでも『スターリンとして』迎え入れようとした。

 いや、そうせざるを得なかった。


 それまでの人間関係をまるで無視した、極端な対応などできるわけがない。


 だからある程度は覚悟していたのだ。

 恐らく史実通りに、このまま彼女と一緒になって、ここペトログラードで過ごすことになるのだろうと。

 久々に邂逅した恋人に激しく抱擁を繰り返し、辺境とはまるで違う首都の賑わいを前に、躁的にはしゃぐ彼女をなだめ、あるいは受け止めつつ、自室へと招いた後も。


 いよいよ、二人の時間を過ごすという段になったその時まで。


 でも蝋燭の灯りだけが照らす室内で見つめ合った途端、急に彼女の存在が揺らぎ、乱れだした。

 しっとりと落ち着いて、愛しい男を間近に迎え入れようとしていた女の中に、ぽつりと生じた何かが、初めはわけのわからない混乱と、徐々に明確な不信と拒絶と、最終的には気ちがいじみた狂騒へと変わっていくのを唖然と見守ることしかできない。


 必死でなだめよう、落ち着かせようとする俺を、まるで認識すら拒絶する不可知の化け物を見るような眼で。


「……違う。違うわ。あの人じゃないっ……」


 そして絶叫を上げた。


 俺は信頼できる仲間を呼んで彼女を預け、早々に帰すよう頼んだ。

 何事かと訝しがる彼らには、端的に『気の病のようなのだ』とだけ告げた。


 その彼女が死んだと、そういうことだった。

 もしかしたら元からその気質があったのか、あれ以来さらに状態は酷くなる一方で、精神的な病としか言いようがない状況が続いていたらしい。


 連絡してきた家族も、かつては将来の縁戚関係になるはずだった男という義理だけだったのは酷く素っ気ない、簡素な文面からも明らかだった。

 むしろ、そんな湿っぽさを感じさせない感じがありがたいような気すらした。


 死因もぼかしていたが、恐らくは……。

 そういうことだったのだろう。


 あれから3年、そんなことがあったことなどすっかり綺麗に忘れ果てていたはずだったのに。

 ふと訪れた時間の空隙で、なぜか思い出して心を囚われたようだった。

 果たして史実の彼女と、こちらの運命、どちらが幸せだったのだろうと。


(……いや、結局どちらでも)


 大して変わらないかもなと。

 自嘲気味に鼻で嗤った瞬間、事務官の呼ぶ声が耳に届く。


「同志書記長。どうぞお進みください」


 俺は立ち上がり、数歩進んで控え室の重い扉を押し開けた。

 途端、一挙に広がる全景のパノラマ。

 党会場たるクレムリン大宮殿に詰めかけた、凄まじい数の党員の姿。

 どこまでも見渡す限りの人、人、人の波。


 地を揺らし天まで轟き響く、数多の音の重なり。


 Ура! Ура! Ура! Ура!


 俺は壇上のマイクの前までたっぷり、愛すべき党員たちの激情を受け止めるように、ゆっくりと時間をかけていった。


(アカどもめ)


 やがて到着すると、改めて鷹揚に見渡す。

 ますます激しく、最高潮に達する興奮と歓声。


 Ура! Ура! Ура! Ура!


(お望み通り俺が……)


 堪能しつくして満足いくまでに数秒かかった。

 やっと片手を上げて制すると、前から順にしんと静まり返っていく。


 遂に完全なる静寂へと変わった直後。



「同志諸君」



 そう、語りかけ始めた。




 第一部完



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― 新着の感想 ―
独裁者スターリンの誕生ですね
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