第一部15
「ごきげんよう、気分はどうかね?」
俺は実に親しい友人にそうするように、気安げな調子で声をかけた。
酷く殺風景なその場所は、ただ周囲を壁に囲まれた広場で、切り取られたように展開する空が高い。
後ろ手に杭に固定され、目隠しをされた姿のトロツキーは恐ろしいほど冷静かつ沈鬱だった。
「……すべては貴様を見誤っていたことが原因だった。他の誰でもなく、まず最も警戒し、対処すべきは陰々と組織に根を張っていた狡猾な簒奪者だったようだな」
「ふふふ、我がソヴィエトが誇る英雄的才人にそう褒められるとこそばゆいな。まあしょうがあるまい、君があれだけの失敗を犯してしまったのは事実なのだから」
「そ、それも貴様らがっ!」
「なにせ……」
それまでの抑制的態度から一転、限界を迎えたように激高する男の声を遮って、言葉を重ねた。
「50万。それだけの無辜の人民の命が失われてしまったのだ。過酷な収奪で種籾分も食い尽くし、果てには腹を空っぽにして飢え、無残に死に絶えていった……。何も食うモノがなく、ひたすら時が過ぎるのを待つのはどのような心持なのか? さぞかし辛く苦しかったろうことだ」
自分で言っていて、我ながらひどいなと馬鹿馬鹿しくて笑いそうになった。
“たった”50万。
それだけで失脚させられるのだから、この男も可哀そうなものだ。
何せ本来ならその10倍以上の犠牲が出てたはずなんだからな。
歴史的視点で見れば、むしろトロツキーは未曽有の人災を最小限に抑えた功労者、救国の英雄でしかないだろう。
まあ、そんなことは俺以外の誰もわからないことだが。
「実態を秘匿して碌に報告もせずに、ただ数字目標を掲げた暴虐を私の目から巧妙に隠れて行っていたのは貴様だろうがっ!! 知ってさえいればっ! 現場の状況を把握していればこの私があんなことを許すはずがないっ!!」
最高の権威、組織の頂点に立って栄光を極めながら、一転して奈落へと沈み込みつつある男の咆哮が轟いた。
前もって指示をした通り、周囲から人気が完全に絶えた空間に虚しく響いていく。
「だが計画自体は君が策定したものだ。飢饉用の見積もりを否定して削減したのもな。知らなかったわからなかったというのが為政者として言い訳になるとでも思っているのかね?」
「ぐっぅぅ……っ、よくもいけしゃあしゃあとっ! ふぅーっ、ふぅーっ。 ……ふっ、ふふふふっ。 ははっ!」
激情が振り切れたように、突如笑い始めた。
イジメ過ぎただろうか。
まあ、こんな有能ヅラした男が壊れて醜態さらすところも一興ではある。
そう趣深い気持ちで眺めていたところ。
「はははははは、はぁっ! わ、私は予言しよう。この国は、いや、全ソヴィエトは必ずや旧態依然の意識的後退者によって滅ぶだろう! 恐るべき権力欲の化け物、俗物の権化、ブルジョワ以上の害なす者。我々はこの悪魔の台頭を手伝ってしまった、その責任があることだけは間違いないっ!! ブハーリン、カーメネフ、ジノヴィエフっ、私は君たちを許そうっ! 愚かにもこの男の口車に乗って私を囲い込み、その後自分たちもまた追い落とされていってまんまといいように使われた罪をっ! たとえまだ命だけは無事だろうとも、我々はきっと行く末は同じだ。運命共同体として、同類相哀れむとしようではないかっ! すべてはスターリンという名のおぞましき怪物を見抜けなかった、我々の蒙昧に他ならんっ!!」
魂の絶叫。
完全に透徹し、達観し、凍結したはずの俺の心を揺さぶるものがあったらしい。
やはりこの男の言葉には神がかり的なものが宿っている。
何か餞をやろう。
素敵な演説に、気の利いた悼辞で応えるくらいの気分になった。
「ふふふ、全ソヴィエトが滅ぶ? ああ、そうだね、どちらにしろそんなもんは長続きしない」
「……」
ふーっ、ふーっ、と肩で息をしながら停止する。
何を言われたのか、全く理解できない。
そんな様子で、唇をかみしめる。
「1939年、独ソ不可侵条約、ポーランド侵攻……」
俺は朗々と詩を朗読するように、呪文を唱え始める。
「……?」
「1940年、ドイツフランス侵攻。1941年、独ソ戦勃発……」
「はっ! ……なっ!?」
アメリカ欧州参戦、1942年 日米開戦、1945年 ドイツ降伏東西分割、原爆投下日本降伏世界大戦終了冷戦開始……。
微妙な抑揚をつけて、諳んじるようにただ記録された事実を語り続ける。
俺にとってはなじみ深い、大抵の人間なら当たり前に知っていたこと。
ただの一般的な歴史知識。
だけど目の前の男にとっては全く違う。
ありえぬ情報、知りえぬ時の向こうの予言。
「な、何を言っている……っ! いったいなんだ……っ、何なのだそれはぁっ!!」
1950年 朝鮮戦争勃発、1952年 アメリカ水爆実験、1962年 キューバ危機、1964年 ベトナム戦争……。
混乱の極みといった様子の、生贄の姿を一切省みることもなく続けていった。
未だ存在すらしていない単語も含んだ、全く意味不明の語句の連なりを。
理解できるわけがないことを前提に。
そして。
「……1990年 ベルリンの壁が崩れ、1991年にソ連は崩壊……」
詩編の最期を、祈るように語り終える。
わざとらしく演じ気味の風情で、しんみりと余韻に浸るようなそぶりをしてみせる。
「……いや、まさか。あ、ありえん。そんなわけは……っ」
流れるような汗と激しい呼吸で尋常じゃない状態の男の中に、理性と悟性が激しく明滅して、最後に突如巨大なブレークスルーが巻き起こったのか。
極度の緊張状態からの急激な虚脱、臨界を超えた瞬間の身体反応を示した後。
俺は信じられないものを目の当たりにすることになる。
「『未来予知』だと? そ、そんなことがありうるのかっ!?」
……素晴らしい。
ああ、なんたる知性。
洞察。
この男はこれだけですべてを察し理解したのだ。
まるで非現実的仮定を僅かな言葉と情報の断片から導き構築し、答えを出してしまう。
俺は一人の人間が持ちうる能力の煌き、その可能性に打ち震える。
生まれ出でてから数十年、生物のいち個体がこうまで至れるものなのだと、純粋に感動したのだった。
だからこそ。
こんな素晴らしく貴重な、奇跡のような存在を無下にして摘み取る快感、全能感に酔いしれる。
「ふふふ、驚いたよ。やはりレフ・トロツキーは偉大な傑物であった。実に感動してしまった。しかし、非常に名残惜しいものだが、そろそろ時間のようだ。では、君の最期をお手伝いしてくれる彼らに後はお願いしよう。ああ、人民裁判の時と同様、やはり“たまたま”特に犠牲が酷かった地域の者たちになったらしい。お互い思うところがたくさんあるだろうし、ゆっくりと濃密な時間を過ごしてくれたまえ」
「っ!!」
最後に事務的な通達事項を告げ終えると、さっさと背を向けた。
そして処刑場の重い鉄扉を閉めると、もう何も聞こえなくなった。




