04:皇帝来りて-4
4.巨人と傭兵
霜の巨人がリングに上がる。一歩足を踏み出すだけで、ズンと地響きが鳴るほどの重量。同じ「人」の文字を含めた名で呼ばれていようとも、決して同一にはならない圧倒的な差がそこにはあった。
第一戦も、第二戦も、決して戦って勝つに容易な相手ではなかった。けれど、これはまた次元が違う。隆々たる体躯を誇る巨人はその腕を振るうまでもなく、轟く吼え声だけで挑戦者を凍て付かせ、吹き飛ばしてしまった。
仮にその咆哮を凌いでも、巨人の手には持ち主の体躯に見合った巨大な鉈が携えられている。それで軽く薙いでみせるだけでも、また挑戦者は次々と冗談のように宙を舞って丸盆の外へと追いやられていった。
「……強すぎて観客も静まり返る勢いなんですけど、レインナードさん、本当に大丈夫でしょうか」
ここまで十人が挑み、誰も彼もが大鉈の間合いの先に踏み込むことすらできずに敗北を喫している。レインナードさんが腕の立つ傭兵だということは分かりつつあるつもりだけれど、いくら何でも相手が悪くないだろうか。
薄ら寒い気持ちでシェーベールさんに言ってみるも、
「まあ、自分の順番をまだかまだかと待ちわびてうるさいくらいだろうな。周りに迷惑がられていないかは気にかかるところだ」
「あ、そういう……」
どこまでも生真面目に返されて、逆に肩の力が抜けた。そっちかあ……。
私が脱力するのを他所に、今や闘技場には奇妙な緊張が満ち満ちて静まり返っていた。霜の巨人という肩書に誤りはないらしく、夏も間近の季節にありながらリンク上には白く冷気が漂い、霜すら張っている。一方で氷が珠になったかと思わせる双眸には透き通った輝きがあり、確かな知性が窺えた。
知性と言えば、これまでの戦いもそうだ。彼は明確に探し、求めている。自分が武器を振るうに足る相手を、矛を交えるに相応しい相手を。これまで場外敗北に追い込まれた面々は、おそらくその望みを満たすには足らなかったのだろう。ゆえに、戦う前に追い返した。我が前に立つに及ばず、と。
ある種の傲慢とも評し得る姿勢でありながら、不思議と観衆は巨人への不平不満を口にせずにいた。ただ固唾を呑んで見守っている。いつしか、知らず知らずのうちに観客も同調していたのだ。そして、同じように待ち望んでいる。彼が戦うに足る相手が現れるのを。
――そして、その時はやって来た。
『それでは、十一人目の挑戦者の登場です! ご存じの方もいるでしょう、かつてエブルの国で名を馳せた〈獅子将軍〉! それを討ち取った傭兵――奇しくも、出生はこの場に相応しきキオノエイデ! 北の国よりやってきた〈獅子切〉、ヴィゴ・レインナード!』
高らかに謳い上げる司会が大仰な身振りで通路を示せば、口上に応えるように靴音を鳴らして石畳を進んでくるシルエット。
いつも通りの軽装に槍を携えた、何一つ構えたところのない風情。鋼に似た銀の髪と、夕焼けを思わせる橙の眼。槍を手元でくるりと一回転させ、掴み直すと共に宙を一閃。一連のパフォーマンスが目を瞠るほどに流麗であったのに反し、挨拶代わりに右手を挙げる仕草はいかにも気安げなのだ。そりゃあもう、観客も沸く。鼓膜を圧する大歓声。熱狂は最高潮。
今日一番の昂揚を見せる闘技場、その後押しを受けてレインナードさんはリングへと上がる。その間際、橙の眼が辺りを見回し――
「あ、見つかった」
ばちこーん、とぶつかる視線。にかりと輝く笑顔が眩しい。ぶんぶん振られる手は元気溌溂を通り越して、腕白の語が浮かんでくるくらいだった。周囲がこれまでとは違った意味のざわめきを発する真っ只中、俄かに他人の振りをしたい気持ちが沸き起こってきたけれど、約束を破るのはよろしくない。
そっと息を吐き、観念して手を振り返す。ささやかに、あくまでもささやかに。
「なるほど、お嬢ちゃんはあの傭兵を見に来た訳か。旦那かい?」
もっとも、リングへ応じて返したこと自体に変わりはない。お陰で、また後ろの席のおじさんがこちらに好奇心を向けてくれてしまった模様。
「仕事の関係で契約を結んでいる傭兵の方です」
答えるだけ答える間も、後ろを振り向いたりはしない。今はとにかく、リングに集中していなければならないのだ。
霜の降りた丸盆の中央で、両雄は対峙している。私より頭一つ以上背が高いのだから、レインナードさんだって二メートル近い長身であるはずだ。それなのに、巨人は更にその倍はあるように見える。もう縮尺が狂ってやしないだろうか。
「紹介はされたが、一応名乗っとくわ。ヴィゴ・レインナード。傭兵だ」
「……我が名はゲルー。北の連峰より招かれた。貴殿は戦うに足る戦士であると期待する」
レインナードさんの陽気な名乗りに応じ、低くしわがれた声が語る。ざわ、と場内に一瞬のどよめき。巨人が言葉を発したのは、これが初めてだった。
『おお……ゲルー氏、初の発言です。これはレインナード氏が認められた証でしょうか、期待が高まります。――では、試合開始!』
司会の人が興奮した声で言い、開戦の号令が発される。途端、二つの人影は弾けるように走り出した。
互いの間にあった短くない距離は一瞬で消え去り、接敵。巨人が振りかぶる大鉈は肉厚で、見るからに重い。まともに受ければ槍は折れてしまうだろうし、鎧ですら砕けてしまうかもしれない。しかし、歴戦の傭兵は巧みだった。
槍の柄を刃に合わせたかと思うと、表面を滑らせるようにして受け流す。槍の穂先が弧を描き、手元で握り直された時には、既に相手の懐へ入り込んでいた。猛然と繰り出される槍、されども穂先は巨人の纏う革の装甲を穿つに留まる。皮革の切れ端が空中に飛び散って凍るばかりで、それ以外の損傷を与えるに及ばない。
巨体に反して機敏な動きで穂先を避けると、巨人は岩塊じみた太い脚でもって反撃に出た。初めは側面から薙ぐように、次は正面から突くように。息をも吐かせぬ蹴りの連撃を、それでもレインナードさんは淀みなく捌ききる。時に槍を支えに宙へ跳び上がり、時には凍てついたリングの上を転がって。
レインナードさんが回避を選んだからか、巨人はますます攻勢を強めつつあった。蹴りに交えて、鉈の強襲が加わる。……けれど、それをこそ狙っていたのかもしれない。巨人が両足でリングを踏み締め、鉈を振るわんとした瞬間、レインナードさんの輪郭が霞んだ。
目にも止まらぬ疾走。鉈の振り下ろされる軌道を掻い潜ると、一足で巨人の足元へと飛び込む。凍ったリングに浮く霜を蹴立てての滑走、刹那に翻る銀の穂先。すれ違いざまに革鎧の間隙へ斬り込むという絶技によって割られた巨人の膝から、赤い血ではなく白い冷気が噴き出した。
「おいおい、霜の巨人ってのは、正真正銘霜でできてんのか?」
巨人の後方で体勢を立て直し、槍を構えるレインナードさんが目を丸くさせる。それも当然、巨人の傷はパキパキと音を立てて白く覆われていったかと思うと、瞬く間に塞がってしまったのだから。
「我が肉は氷晶、我が血は凍て水、我が息は――吹雪」
ゆっくりと振り向く巨人の口腔へ、急速に魔力が収束していく。その兆しだけで、何が起こるのか……何をしようとしているのか察するには十分だった。
ぞ、と背筋が粟立った、次の瞬間。
「―――――――‼」
大きく開かれた巨人の口、そこから迸ったのはまさしく吹雪だった。
試合の開始当初に参加者を追い返す為に発していたものとは、まるで比較にならない。対象を芯から凍てつかせる暴風雪の咆哮。もはや声とも音とも聞こえず、ただただひたすらな圧力として鼓膜から全身を軋ませる。
レインナードさん。その名前を口にしたのも考えてのことではなかったけれど、呟いたところで声にならなかった。観客席は不可視の魔術障壁によって守られ、暴風雪も直接には届かない。それでも、空気そのものを遮断する訳ではないのだ。障壁を越えて広がる冷気が唇を凍えさせていた。
会場に控えている魔術師が誰かしら手を打ったのか、観客席が冷え切っていたのもごく短い間のこと、すぐに暖かさが取り戻される。それを肌で感じながらも、意識が逸れることはなかった。目と鼻の先で繰り広げられる戦いに、視線が吸い寄せられて離れない。
――だって、あの人は吹雪を断ったのだ。
白い嵐に一歩も退くことなく、怯えることもなく。それどころか、獰猛なまでに好戦的な笑みを浮かべて槍を振るった。銀の穂先に灯るのは鮮やかに赤い炎、頭上から斬り伏せる一閃が押し寄せる白色を左右に分かつ。雪だけでなく、氷だけでなく、吹雪そのものを。
レインナードさんを中心に左右に引き裂かれた吹雪が観客席を守る障壁に衝突し、空中を一面に真白く覆う。すぐに氷雪は地面へ払い落とされたけれど、あれを生身の人間が喰らったらと思うとゾッとした。一瞬で氷像と化していたに違いない。
「よもや、氷雪を断つか」
さしもの巨人も驚いた様子だった。驚き、それでいて楽しげに笑う。割れ鐘を幻視させる大絶笑。それはもう楽しそうに、二人は刃を交える。
レインナードさんは吹雪を断った空隙へと身を躍らせ、巨人はそれを真っ向から待ち受ける。それからの戦いは互いに鉈と槍を用いているのに、真正面から殴り合うが如き様相を呈していた。
刃の嵐とばかりに縦横無尽に振るわれる肉厚の鉈を、細身の槍が打ち返す。刃の側面を叩いて逸らすこともあれば、刃と穂先が噛み合って弾き合うこともあった。その度に折れるのではないかと思うほどに槍の柄がしなる。
三合、四合と打ち合いを数えていられたのも最初の数秒だけだ。絶えず上がる金属音が、また聴覚を歪ませる。今鳴った音を聞いているのか、前に鳴った音の余韻を聞いているのか。もう何を聞いているのか分からない。実況が口を挟む隙すらない。誰もが唖然としてリングに釘付けになっていた。
その光景を目の当たりにした私が何よりも驚いたのは、その応酬においてレインナードさんがほとんど素の肉体だけで拮抗していることだ。
遠目にも、躍動する体躯が魔力を纏っているのは分かる。ただし、それはあくまで戦闘中に手数を割かずにいられる程度のものでしかないのだ。予め仕込んでおいた魔術陣もなければ、口頭での詠唱もない。エドガール卿ほどに人知を越えた魔術師でもなければ、そこまで過程を省いてしまっては、十全な効果の発揮は望むべくもなかった。にもかかわらず、その程度の強化で拮抗している。
相手は身の丈倍に迫る、霜の巨人だというのに。
「なかなか見事に扱う。――が、それだけではあるまい」
「おうともよ。雇い主が見に来てくれてっかんな。ここは一丁、やる時ゃやるってえトコも見せにゃなるめえ」
一際強く叩きつけられた鉈は、受け止めた槍の柄が震えてたわむほど。鍔迫り合いめいた膠着は、ほんの一呼吸、二呼吸ほどだっただろうか。
互いに互いを押し退け後方へ距離を取り、霜を蹴立てて着地。そうして交わされた最初の会話がそれだった。何を呑気な、と胡乱な目になりかける。
「ライゼル」
その時、不意に横合いから小さな声で呼ばれた。誰がとは悩む必要もなく、シェーベールさん以外にない。ちらりと視線を向けてみれば、更に密やかな響き。
「注視するのなら、これからだ。ヴィゴが多少、本領を開帳する」
本領、と反射的に問い返しかけ、声には出せずに止まる。リングから猛然と立ち昇る魔力の気配を感じた。
「赫炎」
落とされたのは、吐息に近い囁き声。
その声を発端として、槍の穂先に赤い光が灯る。吹雪を斬り裂いた一瞬の煌めきではなく、ゆらゆらととした陽炎を伴う炎。一帯に漂う冷気を退け、白く凝る霜をも溶かす輝き。
氷雪を溶かす炎を脅威と見て取ったか、或いは好敵手の用意が整ったと踏んだか。やおら巨人が腰を落とし、太く長大な足でリングを踏みしめる。次の瞬間、場内の空気が激しく揺れた。
リングを踏み割るほどの爆発的な突進。あんなもの、ダンプカーがアクセルを全開にして突っ込んでくるようなものだ。ひ、と漏れかけた悲鳴を辛うじて飲み込む。ただの人であれば間違いなく死を確信する肉薄を、レインナードさんは未だ笑みを絶やすことなく迎え撃った。
再び演じられる剣戟の応酬。けれど、それは全くの再現ではない。槍が纏う赤い炎の恩恵でもあり、レインナードさんの攻勢が激しさを増しているからでもあるのだろう。巨人の腕の端々が抉れ、欠けてゆく。炎で溶かされては即時の復元とはゆかないのか、鉈を持つ腕の肘が内側から斬り裂かれるに至ると、ついには腕そのものが落ちてしまった。
これぞ最初にして最大の隙に他ならない。レインナードさんが更に一歩踏み込む。これで勝負が決まるのでは、と思ったのは私だけではないはずだ。
「うそでしょ」
なのに、気付けば呆然とした声が漏れていた。
レインナードさんの足が降り積もる氷と霜を踏み砕く。あと一手で勝負がつくだろう。誰もがそう思ったに違いない刹那、よもや巨人は落ちた腕が握っていた鉈を足で蹴り上げた。炎を帯びた槍が肩に命中するのも意に介さず、巨人は残る腕で注意に浮いた鉈を器用にも掴み取る。
「レインナードさん!」
喉から飛び出したのは、今度こそ悲鳴だった。
槍から流し込まれた炎によって、巨人の肩が内側から爆散する。しかし、握り直された鉈が振るわれたのもまた同時。胴を右から左に抜ける軌跡に、一瞬頭の中が真っ白になった。
「大丈夫だ、寸前で回避している。浅い」
けれど、全身の毛が逆立つような、怖気のする感覚は隣の席からの注釈で辛うじて治まった。本当ですか、と問いたいのも山々ながら、今はリングから目を離すのも躊躇われ、ただただ頷くことしかできない。
目を凝らしてみれば、確かに危惧したほどの負傷ではないようにも思われた。霜に覆われた白いリングだからこそ、見て取りやすい。直撃の瞬間に槍で巨人を押し退け距離を取ろうとしていたらしく、主として引き裂かれたのは衣服と、その下に仕込まれた革の胴巻きだけで済んだようだ。
着地した足元に、霜を溶かして点々と落ちる赤色。出血が全くなかった訳でもないようだけれど、少なくとも大流血には至っていない。ホッと一息なんて到底吐けないにしても、気持ち的にはまだマシだ――なんて、見ている側は気が気じゃないというのに。
「器用なもんだ! そうこなくっちゃなあ!」
肝心の人は、何かもう興が乗る一方なのを隠しもしないのである。心底から楽しそうで、心底から喜んでいる。これが強敵と対峙した時の日常茶飯事であるというのなら……なるほど、スヴェアさんの気持ちも今なら少し分かる。
危うい、と一口に言ってしまうのも違うかもしれない。ただ、その楽しさに呑み込まれて、いつかそのままどこかに消えていってしまうのじゃないか。そんな言いようのない不安感が込み上げてならないのだ。
「ウチの皇帝様様だな。まさか、こんなに楽しめるとは思ってもみなかった。わざわざ遠いトコから来てくれたあんたにも感謝するよ。いくらでもやり合うにやぶさかじゃねえが――今回は後もつかえてるしな。次で締めにしねえか」
「……異存ない」
軽いトーンの誘いには、意外にも迷う素振りのない同意。
もっとも、巨人の方も後がないのかもしれなかった。ただでさえ肘から下を失った右腕は、槍を受けて爆散したお陰で肩から完全に吹き飛んでいる。鉈を振るうにも、あれでは相当にバランスが取りにくいはずだ。
静かな合意の下、対峙するふたりが鉈と槍を構え直す。
「決着をつける前に一つ訊いときてえんだが、火に焼かれると治んねえのか?」
「否、いずれ時の流れるうちに。……戦う相手よりも、己を憂いよ。その槍も業物と見受けるが、既に軋みを上げていよう」
巨人の淡々とした指摘に、レインナードさんはただ笑うだけで答えなかった。或いは、答えられなかったのかもしれない。いくら業物でも、あれだけの猛攻に晒されて無傷で済むとは考えにくい。それを踏まえて、次での決着を求めたのだろうか。
短い会話が途切れた後に残ったのは、ひりつく沈黙。実況するはずの司会者も、観客も、私もシェーベールさんも、ひたすらに黙っていた。
一拍、二拍。――痛いほどの静寂の末に。
すわ地震かと飛び上がりかけるほどの轟音。リングを踏み砕いて飛び出すのは、双方等しく。ただ、速さだけが違う。私の目では、レインナードさんの姿はもはやかすかな残像としてしか捉えられなかった。
先手を取れれば、確実にレインナードさんが勝つ。それは観客も、対峙する巨人も分かっていた。ゆえに、彼は吼える。
吹雪を伴う方向は物理的な圧力となり、接近者に襲いかかる。正面から突き抜けようとしたレインナードさんの身体がわずかに揺れる。その一瞬、隙とも言えない隙だけで、巨人には十分だったのだろう。
巨人の体躯、それに見合う長大な得物。先に相手を間合いに捉えたのは、巨人の方だった。振り下ろされる鉈は、断頭台のギロチンが如く。吹雪を踏み越え、睫毛までを凍らされながら駆けるレインナードさんは身体を捻り、紙一重その一撃を躱す。最低限の挙動に留めたのは、突進の勢いを削がれるのを嫌ったからだろう。
されど、巨人もその思惑は読んでいた。振り下ろされる鉈が、リングを打つ前に軌道を変える。兜割りの一撃が、側方からの薙ぎ払いへ。……されど、戦事の読み合いにおいて、あの人が後れを取るものか。
立てた槍の柄で刃を受け止めつつ、手の中で長柄を滑らせて石突で鉈を上へと叩き上げる。歯の浮くような金属音を立てて分厚い刃が宙を泳ぎ、これで完璧に巨人の迎撃は捌いた――と、思ったのに!
「砕けた⁉」
考えるより早く飛び出した声は、完全に裏返っていた。
レインナードさんの握る槍の柄が真ん中から砕ける。幾度も巨人の振るう鉈とぶつかり合い、限界がきていたのかもしれない。
観客がどよめくのも意識の外、もう手を組んで祈る体だった。どうかどうか、と何に何を祈っているのかも自分で分からないまま、ひたすらにリングの上を見つめていることしかできない。
カン、と砕けた槍の半分が音を立ててリングに落ちる。
「劫焔」
囁く声。折れた槍を握り直し、構える横顔には少しの焦りもない。不敵なまでの余裕。槍を握る手が大きく引かれ、弓弦を引き絞るに似てしなやかに伸びる腕は過たず投擲の姿勢に他ならない。
放たれる瞬間を待つ槍から、轟と溢れ出す深紅。穂先から迸る紅蓮の炎は刃ばかりか、担い手すら飲み込まんばかりに燃え上がる。己の手が焼けてゆくのも構わず、レインナードさんは次の一歩を強く踏み締めた。
霜を、氷を、舞台を成す石板を諸共に踏みしだき、勝負を決める一投が放たれる。乾坤一擲、燃え盛る炎が残光の尾を引いて翔ぶ。
奔る赤の輝き。時間が間延びしたかに錯覚する静寂。――そして。
「貴殿は、確かに、戦い、そして破れるに相応しい戦士であった」
かすかな称賛は、爆音に混じる。右胸に槍を受け、半身をほとんど消し飛ばされながら、それでも巨人は最後に告げた。
「奇縁に感謝する」
「言ったろ、そりゃこっちの台詞だ」
淡雪のような微笑みと、明朗陽気な笑顔で笑い交わす。そうして、歴戦の傭兵と激戦を繰り広げた霜の巨人は地響きを立てて倒れた。
一拍遅れ、実況がレインナードさんの勝利を高らかに宣言する。観客席からは今日一番の大歓声が沸き起こり、特別席の国王陛下と皇帝陛下でさえ、惜しみない拍手を送っていた。
かくして、武闘大会の第三戦も挑戦者の勝利で決着した。
第三戦に続く第四戦は「南海諸島の魔術師」が辛くも十人近い挑戦者を勝ち抜き勝利を収め、「東方の剣士」は騎士団の騎士と互角の戦いを繰り広げて引き分けになったらしい。らしい、としか言えないのは、実際に戦いを見ていないからだ。
第三戦の観戦で全ての気力を使い果たした私は、もうその後の試合まで見ていく元気がなかったのである。巨人との死闘でリングが今まで以上に破損していたので、その修繕の為に再びの休憩時間が挟まれた。その隙に医務室にもぐりこんでレインナードさんと合流し、そのまま帰ったのだ。
……まあ、その医務室でもいろいろあったのだけれど。
「いやー、久々に楽しかったな!」
まず扉の前に立った瞬間、そんな声が聞こえてきて真顔になった。
本来、一般の観客は医務室を含めた関係者以外立ち入り禁止区域を訪ねることはできない。そこを「契約している傭兵の人が出場し、負傷したようなので様子を確かめないと」とか何とか言い張って、手八丁口八丁どうにかこうにか突破してきたというのに、肝心の人がこれである。
「まあ、これがヴィゴの悪癖だ」
ため息を吐いていたら、シェーベールさんが肩をすくめて言った。なるほど……。
ともかくも、無理を言って入り込んできたからには引き返す訳にもゆかない。扉をノックし、許可を待ってから引き開ける。
「失礼します」
扉の中はこざっぱりとした、医務室の名前に相応しく清潔感のある空間になっていた。見える範囲ではベッドが六床、その奥に衝立で目隠しをされた診察室があるようだ。ベッドはどれも空いているので、声の主は衝立の向こうにいるのだろう。
何となく私が先頭に立ち、一列になって部屋の奥へと足を進める。
「すみません、お取込み中ですか?」
「んにゃ、大丈夫だ」
衝立の前でもう一度声をかけると、今度はよく知った声で返事があった。こうして聞く限りでは、取り立てて疲れたり苦しんでいる風でもなく元気そうだ。
ほっと胸を撫で下ろし、衝立の脇から顔を出して覗いてみる。
「失礼しまーす……」
すると、ちょうどこちらを向いていた橙色と目が合った。お、と目を丸くしたレインナードさんが、くしゃりと笑う。
「よう、さっきは手え振り返してくれてありがとな。振り返してもらえなかったら、試合開始前から精神的ダメージを負うとこだったぜ!」
「それは良かった、恥を忍んだ甲斐がありました」
「そこまで言うか⁉」
「冗談です」
「真顔で冗談言うなよ、ビックリすんだろ……。あ、髪飾り着けてくれてんだな」
「ええ、とても素敵なので」
ちゃんと毎日着けてますよ、なんて付け加えてみたら、レインナードさんは何日前かと同じ嬉しそうな顔になった。そんな顔をされると、こっちまで照れてしまう。
「んで、バルドゥルはどしたよ? 一人なのか?」
「ここにいる」
「なんだ、後ろにくっついてたのか」
いけない、後ろがつかえていた。そそくさと衝立の前から横に避けると、シェーベールさんが入ってくる。
衝立の奥のスペースは、ごく普通の診察室といった様子だった。シンプルな机と医師と患者がそれぞれに座る椅子、そして簡易ベッド。レインナードさんも椅子に座って手当てを受けていたようだ。
黙々とレインナードさんの腹部に包帯を巻いていくのは女性の先生――というか、これは明らかに手当て真っ只中では⁉ レインナードさんも上を脱いでいるし、何故にそんなに軽く入室許可を……!
「あれか、見舞いか迎えか? コレ終わったら、俺ももう帰れるぞ。賞金は後でもらえるらしいし」
締めの式典は自由参加らしいからな、とレインナードさんはあっけらかんと言う。な、何から何まで軽い。
あの激戦の後で、少なからず怪我をしているのに。それもレインナードさんの中では気に留めるに値しないことなのだろうか。とんでもない人だ。
「……そうですね、とりあえず手当てが終わったら帰りましょう。怪我をされたんですから、安静にしていてくださいね」
と、そう言って。不意に思い出した。
「ところで、右手の具合はどうでした? 随分と派手に術を展開していたようでしたけれど」
脳裏に反芻されるのは、あの決着の瞬間。折れた槍に無理に炎を纏わせようとしたのがいけなかったのかもしれない。溢れ出した焔は穂先のみならず、その総身を覆い尽くしていた。あれでは槍を握っていた手まで焼けていたはずだ。
レインナードさんの顔を見て問うと、何故か一瞬の間。挙句の果てには、そっと顔を逸らされた。……これは、何ですか、もしかして。
「君はこの傭兵の仲間か何かか?」
嫌な予感で見つめる目に力が入りかけた時、傍らから女性の声が上がった。先刻入室を許可してくれた声であり、すなわち今レインナードさんの手当てをしてくださっている先生だ。
「仲間といいますか、仕事上の付き合いのある人間です」
「そうか。だったら、ようく言い聞かせておいた方がいい。戦いに興じるのは個人の趣味嗜好であるので結構だが、文字通りに手を焼くほど熱中するのはいかがなものかと思う」
そう言って、鮮やかな赤い髪の先生はレインナードさんの右手を指差した。
その指先へと目を動かしてみれば、鍛え抜かれた筋肉でごつごつとした腕――その肘近くまで隙間なく包帯が巻かれており、治癒魔術の魔術陣が描かれた術式符まで貼られている。記述されている陣の内容からして、今手当てをされている腹部よりも明らかに重傷だ。
「レインナードさん」
久しく覚えのない、低い声が喉から出た。妹を叱る時だって、こんな声を出したことはなかったかもしれない。
呼ばれた方の人は露骨にびくりと肩を跳ねさせた後、そっぽを向いたまま「まあ、そういうこともあるよな」と訳の分からないことを言っていた。ぴくり、とこめかみの辺りが痙攣した気がする。
「レインナードさん」
「……へい」
二度目の呼び掛けには、さすがに何か感じるところがあったらしい。肩を窄め、短い応答。
「仕事に支障を出さない程度に留める、とご自分で言っていたでしょう」
「いやさ、留めてはいるだろ。死んでなけりゃ、運営の方で傷の治療はしてくれるっつー取り決めになってたし」
「死ななければいい、という問題ではないでしょう」
ここで追及を緩めてはいけないと思って、三度畳みかける。生憎と返事はもらえなかったけれど。ぴよぴよと音程の狂った口笛は、いくら何でも答えと認める訳にはゆかない。
ああもう、とため息の一つでも吐きたいくらいではあったけれど、結局は私もそこまで声を大にして物を言えるような立場でもないのだ。スヴェアさん――傭兵ギルドを通じて契約を結んでいる身の上に過ぎない。レインナードさんの素行について物申したいことがあるのなら、それこそスヴェアさんに伝えて窘めてもらうのが筋なのかもしれないし。
「……この件について私は大手を振って口を挟める身分でもありませんから、これ以上は控えておきますが。それでも、あなたが怪我をしたら心配する人間がいることくらいは覚えておいていただけると嬉しいです」
溜息は飲み込み、それだけ言って口を閉じる。すると、ややあってから「おう」と返事があった。ばつが悪そうに、包帯を巻かれていない方の手で頭を掻きながら。
四度目はきちんと答えてもらえたのだし、私のお小言はこれで終わりにしておくとしよう。
「何はともあれ、激戦お疲れ様でした。強敵からの勝利、おめでとうございます」
遅くなりましたが、と付け加えると、逸らされていた顔があっさりとこちらに向き直る。にかりとした笑顔。
その反応を分かりやすいと言えばいいのか、現金だと言えばいいのかは判断がつきかねる。だとしても、何でもないお祝いの言葉で喜んでもらえるのなら、それはそれで嬉しいことだった。
「ああ、ライゼルも応援ありがとうな」
「応援というよりは、ただおろおろして見ていただけですけれどね。これ以上手当てのお邪魔をしてもいけませんし、外で待っているようにします」
いいでしょうか、とシェーベールさんに顔を向けて問う。これまで黙って私の隣に立っていた人は、短く「構わない」とだけ言って頷いた。
ただ、待ち合わせ場所をどこに指定するかが問題だ。もしかしたら、レインナードさんは外に出たら試合を見ていた観客に囲まれたりするかもしれない。その時には、やっぱり余計なオマケはいない方がいいだろう。
そうした計算もありつつ言ったのだけれど、
「いや、もう処置は終わる。腕の方は先に済ませていたからな」
包帯を巻く手を止め、先生が口を開いた。
「腹の傷は明日には治っているだろうが、腕の方はもう少しかかる。どうしても使いたければ明後日から使えないこともないが、医者としては一週間安静にしておけと言いたいところだ」
そして、何故かその説明を、私の方を見て言うのである。本当に何故。患者ご本人が目の前にいるのですが。
「何でライゼルに言ってんだ」
同じことを思っていたようで、レインナードさんが怪訝そうに問う。それにも先生は平然としたまま、巻き終えた包帯の始末をしながら応じた。……やっぱり、私を見ながら。
「話を聞かない、するなと言ったことをする。その手の患者は医者にとって極めて厄介なものだ。そういう場合、患者に言うことを聞かせられる目付がいると助かる。いや別に、誰にその疑いがあるとは言わないがね」
先生は飄々として付け加えるものの、この流れで何を言わんとしているか分からないほど、私も鈍感ではない。
これまで接してきた印象として、レインナードさんが怪我をしたからといって大人しく安静にしていると思えるか言われれば、全くの否である。これくらい平気と言って、普段通りに過ごしてしまう図しか思い描けない。
それに、レインナードさんに早く傷を治してもらいたい気持ちがあるのも本当だ。仕事上の都合だけでなく、心配してしまう感情的な要因として。
「毎日顔を合わせる訳でもありませんから、限界はあるかと思いますが……なるべく善処します、とはお答えします」
頷いて答えると、今度はレインナードさんが私を見た。
えっ、とでも言いたげな驚きの表情をしていたけれど、この際だから見えなかったことにしておく。自業自得ということで、大人しくお節介を焼かれてください。
「では、スヴェアにはそう伝えておこう。ヴィゴ・レインナードはライゼル・ハント嬢が見張ってくれると」
「えっ」
「あァ⁉」
「何と」
しかし、先生の口からさらりと飛び出したまさかの名前には、三者三様の驚きの声を上げずにはいられなかった。
私と、レインナードさんと、シェーベールさん。綺麗に三人で顔を見合わせた後、揃って先生を見る。言われてみれば、その赤い髪も、今になって気付いた青い眼も、どこか見覚えがある気がする。
「スヴェア・ルンドバリは姉でね。私はロニヤ・ルンドバリ、王立グリシナ病院で医者をしている者だ。今後また顔を合わせることもあるだろう、よろしく頼む」
――と、最後に今日どころか今月で一番の驚愕情報に直面した後、私たちは闘技場からの帰途につくことになったのだった。
武闘大会を含めた北の皇帝の来訪を歓迎するお祭り騒ぎは、大盛況のうちに終幕となった。幸いなことに武闘大会では一人の死者も出ることなく、北の皇帝は自国出身の傭兵が活躍したということで大層ご機嫌だったという噂だ。
数日も経てば、街もいつも通りの落ち着きを取り戻してゆくことだろう。けれど、まだ今ではない。
闘技場から清風亭に帰った時ると、レインナードさんの活躍は早くも女将さんたちに伝わっていた。宴会好きな節のある女将さんからは「今夜は宴会だよ!」の号令が飛び、は有難く参加させていただくにやぶさかでないのだけれど、レインナードさんは利き手である右手を怪我したばかりである。
「あのな、ライゼル? わざわざ食わせてもらわなくてもな、左だって同じように使えっから」
よって、私が強制的に口にご飯を食べさせたりもした。特に他意はない、純粋な八つ当たりである。
「そうですか。でも、左手はお酒を飲むのに使いますよね。怪我人の飲酒は褒められたことでもない気がしますが。――はい、口を開けて」
「はい……」
当初こそレインナードさんも抗議の姿勢を見せていたものの、ギルド主導の契約に関わる相手の機嫌を損ねると面倒なことになると諦めたのか、途中から大人しくなった。微妙にしょんぼりしていたけれど、これで少しくらい懲りてくれればいい。
ちょうど清風亭の二階に空き部屋があったこともあり、宴会の夜はレインナードさんもシェーベールさんも泊まっていった。翌朝に一階の酒場で揃って朝食を食べ、その後で解散。
私は学校へ、レインナードさんは槍の研ぎ直しと柄の新調をすべく武器店へ。シェーベールさんは傭兵ギルドに顔を出しに行くとのことだった。しばらくは皆それぞれの用事に手を取られ、以前のように気軽に顔を合わせることもないかもしれない。
そう思うと、少しだけ寂しい気もしないではなかった。
「よう、お帰り……」
なんて、しんみりしていた気分は一日の授業を受け終え、清風亭に帰ってきた瞬間にどこかへ飛んでいった。
何故か、レインナードさんがいたのである。げんなりした顔で酒場の床にモップをかけており、どうやら開店準備の手伝いをしているらしかった。一応、右手はちゃんと使わないようにしているっぽい。
「……こう訊くのも間抜けな気がしますが、何をされているんですか?」
「雑用」
それはそうだろうし、見れば分かるのだけれど、根本的にそういうことではない。
「どうしてここに?」
「たぶん、バルドゥルがスヴェアにチクった。あの医者の妹先生の方からも、何かしら報告が飛んだのかもな。いつもの武器屋に寄って帰ったら、宿の契約が勝手に終了させられててよ。ご丁寧に傭兵ギルドが一枚噛んだ格好で、こっちの宿に部屋が取り直されてた」
「はあ……。いえ、勝手に宿の契約を解除するのは、いくら何でも問題なのでは」
「前に使ってた宿、ギルドの持ちもんだったからな。所属してる傭兵は安く使わせてもらえてたが、それが裏目に出た」
モップで床を擦る手を止め、レインナードさんが溜息を吐く。
「武闘大会で案の定ちょっと派手にやったってのと、お前さんに言われりゃ多少大人しくしてるとかの話聞いて、こっちに放り込んで一緒にしとこうとか思ったんだろ。空き部屋があるのは今朝の時点で確認済みだったからな」
「ああ……」
確かに、シェーベールさんなら清風亭の最新に近い情報を持っている。何しろ、今日の朝まで滞在していたのだから。
「まあ、この方が便利は便利なんじゃありませんか。数日は近くに使える手があった方がいいでしょう。片手が使えない訳ですから」
「飯は一人で食えるぞ」
「そうですか」
「いや、ほんとにな。ほんとに大丈夫」
「そうですか」
「その真顔で繰り返すやつ止めねえ? 俺の話聞いてくれてる?」
「聞いていないと言ったら、観念しますか」
じっと目を見て問い返すと、レインナードさんは急にしどろもどろになってしまった。うんともすんとも言わずに、目が泳いでいる。ものすごく泳いでいる。
「冗談ですよ。八つ当たりは昨日の夜に終えて、満足しましたから。何か助けが必要になった時には呼んでください」
それでは、と軽い会釈をして二階へ続く階段の方へ足を向ける。
「ライゼル」
直後、呼び止められた。
「はい?」
踏み出した足をそのまま止め、肩越しに振り返る。
まだ右手に厚く包帯が巻かれたままの人は、その手で頬を掻きながら「あのな」と口を開いた。
「飯は食わせてくれなくていいが」
「しませんよ。そんなに怯えなくてもいいじゃないですか」
「怯えてねえよ。――じゃなくて、夕飯、いつもこの一階で食ってんだろ? 一緒に食わねえか」
「何だ、そんなことですか」
「そんなことって何だよ」
「改まった風だったので、もっと別の言いにくいことでも言われるのじゃないかと」
「そんな用件ねえだろ」
「それも確かに。レインナードさん、夕ご飯は何時くらいがいいですか? 私は少し課題を片付けておきたいのですけど」
「そっちの都合がついた時でいいよ」
分かりました、ではまた後で。そう言い交わし、改めて階段へと足を向ける。夕食をご一緒するからには、早めに課題や予習を片付けてしまわなければならない。
そういえば、レインナードさんと戦い、惜敗した霜の巨人は商工ギルド保有の氷室で療養中なのだという。ある程度身動きができるようになるまでは氷室で眠り、冬を待って北の山脈に帰る予定なのだそうだ。今朝の登校直後にアルドワン講師にバッタリ会って、教えていただいた。