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04:皇帝来りて-1

1.不穏な手紙



 傭兵ギルドの入り口の扉は、年季の入った分厚い木で作られている。子どもの手には軽くないけれど、長年の山を駆け回って鍛えられたのが幸いした。ノブを握り、体重を乗せて一気に引けば、そう難しいこともない。

 ぎ、と扉が重い音を立てた。

「いらっしゃい、ライゼル」

 扉を引いた隙間から顔を覗かせると同時、スヴェアさんの声が迎えてくれる。

 こんにちは、と会釈をして歩みを進める最中には、広いフロアのテーブル席で世間話に花を咲かせている人たちからも声が掛かる。「お疲れさん」とか、「よく来たな」とか、そういった労いのものだ。傭兵ギルドの一員ではないながらも、快く迎えてもらえる。有難いことだった。

 方々に挨拶を返しながら、手招きされるままにスヴェアさんの前のカウンター席へと足をすすめる。私が椅子に腰を下ろすのと前後して、ホットミルクの注がれたマグカップが置かれた。……何故か、スヴェアさんはいつもこれを出してくれる。

 今の私はそこまで小柄でもなければ、体格的にそう華奢な方でもない。髪だって、ごく普通に括っているだけだ。子どもっぽく見える要素はないはずなのに、このギルドの人たちはやけに子ども扱いするのである。ホットミルクに罪はないので、それはそれとして美味しくいただく次第であるのだけれども。

「いただきます」

「召し上がれ。手紙は読んでもらえたかい?」

「ええ、はい。確かに拝見しました」

 ホットミルクを一口飲んでから、頷き返す。

 件の〈碧の女帝〉の課題を提出してから、今日で七日になる。次の資金稼ぎに目星をつけ始めるには早過ぎるし、それ以外でギルドに依頼を出すような用事もない。しばらくは訪ねることもないかと思っていたのだけれども――ところがどっこい、先日下宿先に手紙が届いたのだ。

 差出人はスヴェアさん。封筒の裏面に書かれた差出人情報に傭兵ギルド長の肩書が併記されていた時点で、個人的なものでないことは分かっていた。わざわざギルド長がどうしたのだろう、と首を捻りつつ開封してみれば、資金稼ぎに手ごろな依頼が来たので都合はどうかと誘うものだった。自分で次の案件を探すには早くとも、案件の方からやってきたのなら断る理由もない。

「詳しいお話を聞かせていただけますか」

「少し長くなるかもしれないけど、大丈夫かい?」

 念を押すようにスヴェアさんが問う。その意図は明白だ。ちらりと窓の外を見てから、もう一度頷き返した。

 学院からまっすぐ向かってきたとはいえ、元々傭兵ギルドまでは距離がある。一方で日本同様に四季のあるこの国では、徐々に日が長くなり始めていた。日中の活動時間も少しずつ延びている訳であり、今もまだ窓の外は十分に明るい。一時間や二時間とどまっていたところで、そう差支えはないはずだ。

「お願いします」

「あいよ。……王都の南に、ソノルン樹海があるのは知ってるかい?」

「クストールの森の更に南ですよね? 磁石が使えないとか、森のエルフの隠れ里があるとか、いろいろな噂がある」

 立地としては、王都から街道を南に下り、馬車を走らせて三日ほどの街から更に半日ほどの場所だったはずだ。そこにある広大な緑地の北側一帯をクストールの森と呼び、その森の奥深く――古のエルフの王が敷いたという境界を越えた先を、ソノルン樹海と区別して呼ぶ。

 クストールの森は磁石が使えて魔物もほとんど出ない、比較的安全な探索地だ。対して、ソノルン樹海はエルフ王が手ずから境界を築くだけのことはあり、一種の危険地帯として知られる。磁石は使えない、魔物はその辺を歩いている、毒草や毒キノコも多い……等々と、探索の難易度は劇的に上がるのだそうな。

 エルヴァ地下迷宮の三層目とでは、まるきり比べ物にならない場所らしい。実際に行ったことはないので、これもまた知識でしか知らないのだけれども。

「そう、今回の依頼はその樹海での薬草採取でね」

 言いながら、スヴェアさんがカウンターの引き出しから依頼書を取り出す。

 びっしりと文字の並んだ書面によれば、依頼主は商工ギルドが仲介した調薬師。依頼内容はソノルン樹海での薬草採取。必要数量は最低二リコ、多ければ多いだけ報酬に追加手当が発生。達成期限は依頼受理から二週間。報酬は半金を前払い、残りは納品後に依頼主の確認を終えてからの支払い。依頼の中断や不達成となった場合は、前金を全額返金すること。

 ざっと依頼書に目を通し、頭の中で算盤を弾く。前払いの半金で装備を整え、馬車代を工面しても、赤字になることはなさそうだ。……ただ、私で樹海に赴くのは自殺行為以外の何物でもない。詳しい人――レインナードさんの同行は必須であるし、報酬をどういう形で割り振るかも相談しなくてはいけない。

「悪くない条件だとは思いますが、私一人では判断ができません。レインナードさんは今日、どちらに?」

 その問いはあくまで一般的――決して、突飛なものでも何でもなかったはずだ。にもかかわらず、スヴェアさんはそっと顔を逸らす。

 露骨と言えば露骨な反応に、サーッと嫌な予感が背筋を撫でた。

「もしや、レインナードさんに伝えていらっしゃらないんですか?」

「……何というか、まあ……」

 いかにも答えにくそうな、もごもごとした呟き。

 スヴェアさんはさっぱりとした気性の、いつもはっきりとした物言いをする人だ。その人がこのような態度を取るのだから、もはや言葉での答えを待つ必要はどこにもなかった。……つまり、意図的に話を伝えなかったではないか。

「どういうことでしょうか。私一人では、樹海の採取依頼など無理です」

「いや、もちろん一人で行かせるつもりはないよ。バルドゥルを代行に立てるつもりでいたのさ」

「バルドゥルさん? ですか?」

 知らない名前だ。いや、まともに名乗り合った関係の傭兵の人なんて、レインナードさんしかいなくはあるのだけれど。

「俺だ。バルドゥル・シェーベールという」

 訝しむ背後で、聞き覚えのある声。振り返ってみれば、初めてギルドを訪ねた日に少しだけ言葉を交わした、あの黒髪の男性が歩み寄ってくるところだった。

 短く刈り整えられた黒髪といい、だらしなさの欠片もなくきっちりしている衣服といい、傭兵というよりは軍人や騎士といった単語が先に浮かんでくる。腰には剣を提げているので、剣を使う人なのかもしれない。

 近付いてきたシェーベールさんは私の一つ空けて右隣の椅子に「失礼する」と短い断りを入れ、腰を下ろす。やはり、すぐ隣に座ったレインナードさんはいわゆるパーソナルスペースの狭い、少し珍しいパターンの人なのかも――とか、悠長に思い返している場合ではない。

 カウンターに向き直り、改めてスヴェアさんを見つめる。普段は自信満々とばかりに溌溂とした人は、珍しいことこの上なく気まずそうな面持ちで嘆息した後、重々しい口振りで話し始めた。

「あのバカの悪い癖が出たって聞いてね」

「悪い癖、とは」

「商工ギルド主催の武闘大会に出ようとしてるそうじゃないか」

 武闘大会。薄明亭で聞いた、例のキオノエイデの皇帝来訪に関わるイベントのことだろう。

 そうらしいですね、と深く考えずに相槌を打ったものの、何故かスヴェアさんは一層に表情を渋くさせるばかりだ。

「アタシはギルド長ではあるけど、別に所属してる傭兵連中に武闘大会に出るなとか喧嘩を売り買いするなとか、そういった個人の都合に口を出す権利も義務もないんだよ。それが仕事に関わらない限り、本来はね」

「そうですね。逆に武闘大会の開催がギルドに関わることなら、スヴェアさんのお仕事にもなるのかもしれませんが」

「ああ。今回は商工ギルドを中心とした企画だからね。ウチはまだ出る幕じゃない」

「まだ、ですか?」

「参加者に戦いを盛り上げられそうな腕利きがいなかった場合は声を掛けると、予め耳打ちされてるのさ。お歴々の前で、あんまりにもつまらない戦いを見せる訳にはいかないじゃないか」

「ああ、なるほど……」

 サクラという訳ではないけれど、一定の興行的魅力を担保しようという保険のようなものだろうか。キオノエイデの皇帝陛下も観覧するのであれば、そういう計らいも必要だと判断されておかしくない。あまり盛り上がりに欠ける展開になってしまっては、この国の面子的なものにも関わってきそうだ。

「話を戻すけど、本来ならアタシも傭兵個人の行動にそうそう口出ししやしない。ただし、今回は別だ。アタシはここで()()()()()()()()()()()()。ライゼル、アンタとヴィゴは契約してるんだ。しかも、その契約にはギルド長(アタシ)が一枚噛んだ」

「……そう、ですね」

 頷きながら、内心少しばかり忸怩たる気分だった。

 参加宣言を聞いた時は呆気に取られてしまったのもあり、「出てきてもいいか?」という確認に深く考えず「どうぞ」と答えてしまった。この辺りは前回の地下迷宮探索でも痛感したことだけれど、本当に私のまだまだ至らないところだ。経験が足りなくて、考えが浅い。

 言われてみれば、確かにスヴェアさんの主張にも一理あった。自分で結んだ長期契約中に私事で怪我をして、本来の仕事ができなくなる――なんてことは、どこの国でだってご法度だろう。社会人としての責任を問われそうだ。

 さりとて、ヴィゴさんとて腕の立つ立派な傭兵の人ではあるのだ。仮に「死んでも自己責任」と注釈が付くような催しであるとしても、本当に死ぬような目に遭うまでやるとは考えにくい。

 怪我をしない程度にするとか、予め限度を決めて参加するつもりであるのなら、今の時点で咎めるのは少しやりすぎなのではないだろうか。……そう考えてしまうのも、未熟ゆえの甘さと言われれば否定できないけれど。

「ヴィゴは腕が立つ。それは事実さ。けど、戦いに絶対はない。仕事の途中で勝手されて、一人で降りられちゃあ困るってもんじゃないか。契約違反は信用問題だ。それが依頼を達成する為なら、どこで殺し合いしようが喧嘩しようが、アタシも怒りやしないがね。趣味で仕事に支障を出されちゃ困るんだ」

「レインナードさんは、確実に生き残る……もしくは、それほど手傷を負わない自信があって参加したのでは」

「そりゃあ、生き残りはするだろうさ。あのバカは腐っても〈獅子切〉だ。けど、それとこれとは、また話が別だね」

「シシキリ?」

「エブルには、かつて〈獅子将軍〉の異名を持つ将軍がいた。ガラジオスに来る前、ヴィオレタに雇われてエブルとの戦争に従軍していたヴィゴは〈獅子将軍〉の守る砦を攻めた際、一騎打ちでこれを討ち取ったという。それ故に〈獅子切〉と、そう呼ぶ者もいる」

 淡々としたバルドゥルさんの説明に、図らずもかぱっと口が開いた。腕の立つ人だとは分かっていたつもりだけれど、そこまで大きな武勲を上げていたとは。

「最終的に砦を奪取したのはヴィオレタ軍だったし、流れの傭兵の武勲を騒ぎ立てて軍が無能に思われても困るってんで、ヴィゴ自身の噂はそこまで大々的に流れちゃいないがね。それなりの腕の傭兵や騎士なら知ってる逸話さ」

 そこまで言って言葉を切り、眉間に皺を寄せたスヴェアさんは肩をすくめる。

「とにかく、あの馬鹿は戦うのが大好きらしくてね。目的と手段が逆転してるんじゃないかと思うくらいだよ。依頼を達成する為に戦ってるのか、戦う為に依頼を受けてるのか。強敵と戦えそうだと聞けば、喜んですっ飛んでくからね。それで死にかけるような大怪我してきても『あー楽しかった!』ってニヤけてるんだ、どうしようもないってもんじゃないか。アンタとの契約がありゃ、その悪癖も鳴りを潜めるかと思ったんだがね」

 スヴェアさんの語り口に熱が入る一方ながら、私はうんともすんとも答えかねた。何しろ、私はレインナードさんの好戦的な部分に触れたことがないのだ。地下迷宮の探索でもよくよく面倒を見てもらって、何くれと親切にしてもらった。

 陽気で人懐こい朗らかさがある一方、冷静に状況を俯瞰して手を打つことができる腕利きの傭兵。そういう印象の人に、自分の命さえ軽んじているのではないかと思えるほど好戦的な一面がある。本人をよく知る人から聞かされても、どうにも上手く想像ができなかった。

「ともかく、こっちもヴィゴの勝手に付き合っちゃいられないからね。ライゼル、バルドゥルと一度試しに動いてみてくれないか。最悪契約を結び直すことも考えて、相性確認のお試しって訳だよ。――もちろん、今ここで返事をしてくれなんて無茶は言わない。三日もあれば、答えは出せるかい?」

 どうやら、この話が今回の呼び出しの本旨だったらしい。

 スヴェアさんの顔は真剣で、冗談で言っているとは到底思えない。私とレインナードさんの契約を主導したギルド長の立場としては、ギルド側に非があると捉えられかねない状態での契約破棄は望ましくないのだろう。そうなる前に、シェーベールさんとの契約変更をも視野に入れている。

 私とすれば、ある程度人柄を知って信用が置けると判断できている分、レインナードさんに続投して欲しい気持ちが強い。そうは思えど、今の状況で主張しても問題がややこしくなるだけだ。

「分かりました、少し考えてみます。今日はこれで失礼しても?」

「もちろんさ、手間暇かけさせちまって済まないね」

 スヴェアさんが頷くのを確認し、ホットミルクを飲み干す。ご馳走様でした、と添えて椅子から立ち上がると、どうしたことやらシェーベールさんまで立ち上がる様子を見せた。……おや?

「本来すべき者でなくて悪いが、帰りは俺が送ろう。じきに暗くなる。一人歩きは危険だ」

「あ、はい、お気遣いありがとうございます」

 ちらりと見た窓の外の街並みは、夕焼けで赤く染まり始めている。しかし、ギルド長推薦の人物とはいえ、シェーベールさんとは今名前を知ったばかりの間柄だ。帰り道の同行を頼むには、少しばかり躊躇われる気持ちがないでもない。

「心配はいらないよ、バルドゥルはウチのギルド一の生真面目堅物だ。アンタを守る盾になりこそすれ、取って食う狼にはなりやしないよ」

 しかし、こちらの考えを見透かしたようなタイミングで言われ、断り損ねた。ギルド長がここまで太鼓判を押すのなら、断る方が失礼になりそうだ。

「では、お手数をお掛けしますが……」

 お願いします、と頭を下げる。レインナードさんに近しく、私より頭一つは背の高い人の顔を見るには、かなり視線を上向きにさせなければならなかった。傭兵をする人は、やはり体格のいい人が多いのかもしれない。

「ああ、供をさせて頂こう」

 こっくりと頷き、スヴェアさんに目礼をしたシェーベールさんが入り口の方へ歩き出す。改めて周囲に挨拶をしてから、私もその後に続いた。数歩先を行くシェーベールさんは扉を開けても自分が通るのではなく、扉を支えたまま私へ先に通るよう促す仕草を見せる。

 その姿は、自然と七日前のことを思い出させた。薄明亭にご飯を食べに行った時も、レインナードさんが同じように扉を支えてくれていた。

 ……さて、これから何がどうなるやら。

 ありがとうございます、とお礼を言って外に出るすれ違いざま、小さな嘆息が漏れた。シェーベールさんがちらりと私を見たのが分かったけれど、今は敢えて気付かなかった振りをする。

 何はともあれ、今は宿に戻るのが先決だ。

「下宿先はこちらです。少し距離があるのですけど」

 こちら、と道を指し示すと、シェーベールさんは「分かった」と軽く応じて歩き出す。再びその後ろをてくてく歩きながら、どうしたものかと困った気持ちでいっぱいだった。



 私とレインナードさんは傭兵ギルドを仲介し、一種の雇用契約を結んでいる形だ。かといって、頻繁に連絡を取り合うような間柄かと言われれば、そうでもない。そもそも電話もメールもないこの世界では、手紙が主たる連絡手段だ。密に連絡を取り合うにも限度がある。

 レインナードさんへの手紙なら、傭兵ギルド宛にすれば内部で渡してもらえる。けれど、今それをすると私がレインナードさんに連絡を取りたがっていることが、ほぼ確実にスヴェアさんにバレる。それは避けておいた方がいいような気がした。

 よって、取れる手段は一つに限られる。――薄明亭だ。

「おう、嬢ちゃん! 今日はどうする? 俺の一押しは日替わりだぜ!」

「じゃあ、それでお願いします」

 今日も元気のいい店主の親父さんに答え、カウンターの隅の席を拝借する。

 スヴェアさんからの提案を受けてから、私は学院での授業が終わると薄明亭に足を運ぶようになった。前に来た時のやりとりから察するに、レインナードさんはこのお店の常連のはず。だったら、運よく鉢合わせることがあるのではないかと、その可能性に託した。――けれど、これで三日目だ。

 三日通って三日とも会わなかったのなら、縁がなかったのだろう。折角だから、手紙くらいは残しておこうと思うけれど。

「はいよ、お待ち!」

 待ち時間を有効に使うべく手持ちの筆記用具で手紙を書き始め、それが概ね書き終わった頃、ちょうど注文した料理も完成したらしい。溌溂とした声と共に、目の前に次々と皿が置かれた。メインのカツレツにサラダとスープ、厚切りのバゲット。それから、ベリーソース添えのパンナコッタ。

「いただきます」

「おう、いただいてくれ!」

 軽く手を合わせ、フォークを手に取る。

 ここ三日ほど食事のついでに世間話に興じた結果、私が微妙に苦学していることは親父さんの知るところとなった。その結果、これだけの量を格安で提供してくれるようになってしまったので、有難いやら申し訳ないやらだ。私ができることは大してないけれど、その内できる範囲で何かお礼をしよう。

 その事情を抜きにしても、このお店を知ることができたのは本当に運が良かった。カツレツは噛めばじゅわりと肉汁溢れ、野菜たっぷりのスープはまろやかな中にも旨味が凝縮されている。狐色のバゲットは香ばしく、サラダの秘伝のドレッシングの甘味と酸味も絶妙なバランス。ベリーソースの赤が白に映えるパンナコッタも、控えめな甘さが食後にちょうどいい。

 今日も薄明亭のご飯は最高だった。余は満腹じゃ、なんて冗句が脳裏を過るくらいに。ぺろりと一つ残さず平らげ、食後のお茶まで頂いた後で席を立つ。

「ご馳走様でした、今日も美味しかったです」

「おう、お粗末さん!」

「ところで、親父さんに一つ頼みがあるのですけど」

「頼み? 何だい?」

「もしレインナードさんがご飯を食べに来られたら、これを渡していただけますか」

 代金を支払いがてら、さっき書いた手紙を差し出す。わざわざエプロンで手を拭いてから手紙を取った親父さんは、ぱちくりと目を瞬かせた。それから、何やら納得した風の表情を浮かべる。

「ここんとこ毎日来てた目的は、こいつかい」

「これも、というところですね。親父さんのご飯を食べたかったのも本当です。毎日通いたいお味ですからね」

「ハッハッハ、そりゃ嬉しいねえ! ヴィゴが来たら渡しとくが、急ぎなんじゃねえのかい?」

「急ぎというか、一種の賭けでした。三日の間に会えればよし、会わなければそういう巡り合わせなんだろうと」

 肩をすくめて笑ってみせると、親父さんは途端に眉間に皺を寄せて難しい表情をした。怪しみ、疑う目顔。

「まさか、何か危ねえことに手え出すんじゃねえだろうな?」

「とんでもない。きちんと護衛がつきますよ」

「なら、いいがね。どこに行くんだい?」

「それは秘密って奴で」

「何でえ、ケチ臭えぞ嬢ちゃん。……ヴィゴの奴には内緒にしとくからよ、な?」

 お茶目に片目を瞑って見せる親父さんは、どうも私の考えなどすっかりお見通しのようだ。自然と口元に浮かんだのは苦笑で、それは敗北宣言にも似ていた。

「ソノルン樹海に、ちょっと薬草を摘みに。ちゃんと別に護衛の人もついていますから、そう危険なことはないと思いますよ」

「思いたい、の間違いじゃねえのかい。あの樹海は人が迷うことで有名だぞ。――嬢ちゃんまで、進んで危ねえことに首突っ込むこたねえだろうによ」

 そう言って不満そうにしながらも、親父さんは手紙を突き返すことはなかったし、

「戻ってきたら、ちゃんと顔見せに来るんだぞ」

 そう言って、バゲットを一本持たせてくれた。ますます有難い、これで明日の昼食代が浮きそうだ。

「すみません、何から何までありがとうございます」

「何の何の。そんじゃあ、くれぐれも気を付けてな」

 手を振って見送ってくれる親父さんに頭を下げ、薄明亭を出る。そうして向かうのは、もちろん傭兵ギルドだ。


「ああ、ライゼルかい。待ってたよ」

 バゲットを小脇に抱えて傭兵ギルドを訪ねると、待ち侘びた風のスヴェアさんに迎えられた。今日は珍しく、フロアでたむろしている傭兵の人も少ない。その数少ない人の中には、しっかりシェーベールさんの姿が含まれてはいるのだけれど。

 いつも通りにカウンター席に座れば、お決まりのホットミルクが出される。お礼を言って一口飲み――

「とりあえず、物は試しで行ってみます」

 まどろっこしいのは嫌いなので、すぱっと本題に入ってみた。どう切り出そうかと迷っていたのだろう、そわそわした風のスヴェアさんは目を丸くさせ、それから眉尻を下げて笑った。

「すまないね、こっちの事情で迷惑を掛けちまって」

「こちらにとっては、特段の損になることでもありませんから。貸し一つということで大丈夫です」

「見掛けによらず、強かなことだねえ」

 スヴェアさんが苦く笑うけれど、敢えて肩をすくめるだけの反応に留めた。

 私はまだまだ経験不足で未熟だけれど、いつまでもそうある訳にはいかないし、そう思われていてもいけない。せめてものパフォーマンスとして、それくらいは演じてみせないと。

「じゃあ、明日付で依頼を受理することにしとくよ。――で、これが前金のお前さんの取り分。装備や消耗品は用意しておいたし、特別にタダでケーブスン傭兵ギルドへ転送するってことで、今回の件は口外無用に頼むよ。特別待遇の噂が広まると面倒だし、ヴィゴが知ればへそを曲げるに違いないからね」

「分かりました。下宿先には事情を説明しておかなければいけないので、どこにどれくらい外出するかくらいは伝えても大丈夫ですか?」

「そうだね、それくらいなら構わないよ」

「ありがとうございます。転送は帰りもですよね?」

「本当に抜け目ないねえ。ああ、帰り分もこっちで負担するよ」

「ありがとうございます。では、その条件で」

 ケーブスンはクストールの森からも程近い小都市だ。歩いても半日程度でクストールの森へ行けるし、上手く採集がすすめば森の中で一泊するくらいで戻れるかもしれない。

 幸い、明日明後日は学院が休みの週末だ。休み明け一日目は魔石加工学でアルドワン講師だから、事情を説明してお願いすれば、どうにか少しくらい融通をきかせてもらえる……気がしなくもない。それから先は、時間との勝負だ。どれだけ早く薬草を集められるかにかかっている。

「なるべく早く戻ってきたいので、明日の夜明けから行動を開始したいのですけど、大丈夫ですか?」

「アタシは構わないよ。問題はバルドゥルだね」

 言って、スヴェアさんはフロアの方を見やる。話を聞いてはいたのだろう、返事はすぐに返ってきた。

「俺も構わない。学生の身であれば、早く戻れるに越したことはないだろう」

「決まりだね。ケーブスンにも話しておくよ」

「お願いします」

 そうして、実に速やかに依頼の受理は成った。

 ギルドからの帰り道は、前回同様にシェーベールさんが送ってくれた。樹海には何度か依頼で足を運んだことがあるというので、あれこれお話を伺っていたら、清風亭まではすぐだ。

「ありがとうございました。明日からは、お世話になります」

「ああ。任務を達成し、君を無事に返すのが俺の仕事だ。任せてくれ」

 宿の前で「また明日」と挨拶を交わし、別れる。扉の前に立った時点で伝わってきてはいたけれど、中はもう随分と賑やかなことになっているようだ。

 二階を宿泊施設、一階を酒場として割り振っている清風亭は、これからの夜の時間も稼ぎ時だ。酒場のスペースで忙しなく動いている女将さんや旦那さんの邪魔をするのは気が咎めたけれど、明日からの予定について伝えておかなければならない。

「こんばんは、只今戻りました。お話しておきたいことがあるので、少しだけお時間をいただいて構いませんか」

「ライゼル! お帰り、今なら大丈夫だよ。どうかしたのかい?」

 忙しいだろうに、女将さんはにこやかに笑って応じてくれた。本当にいい人たちなのだ。

 お仕事の邪魔をしてはいけないから、とにかく可及的速やかに話をしてしまわなければならない。急なことで申し訳ないと前置きをした上で数日王都を出でてソノルン樹海へ向かうことを伝えると、お二人はギョッと目を丸くさせた。同行するのはレインナードさんなのかと訊かれたので、そうではないと答えるとまた更に驚く様子だったけれど、口外無用の契約があるのでこれ以上の説明はできない。

 女将さんと旦那さんは多分に物言いたげな面持ちをしてはいたものの、「明日は早いのでもう寝ます」と逃げに入る私を引き留めることはなかった。サッと踵を返し、背中に視線を感じながら二階に上がる階段へと足を向ける。

 荷物は大部分をギルドで用意してくれるそうだから、私が持っていくものは弓矢と身の回りの物程度でいいはずだ。今から慌てて用意しなければいけないようなものはない。明日の用意を終え、ベッドに入ったのもまだ夜早い時刻だった。

 こういう状況なのだから、布団にもぐってもすぐに寝付けはしない。如何せん私はそこまで神経の太い方ではないのだけれど、明日は四時起きだ。眠れなくても、目を閉じてじっとしている。目を開けて何かしようとしたりしない――と己に命じているうちに、いつしか寝落ちていた。



 翌朝は、きちんと午前四時の早朝に目覚めることができた。まだ少し肌寒い空気の中、荷物を再確認して身支度を整え、ひっそりと清風亭を出る。空は快晴。ケーブスン周辺も晴れていればいい。

 そんなことを考えながら、人気の乏しい朝の街を一走り。意気揚々と傭兵ギルドの前に到着し、アナイスさんにもらった懐中時計で時間を確認してみる。朝の五時十五分前。集合時刻は五時だから、悪くない時間であるはずだ。

 もう中に入って待たせてもらえるだろうか。そう考え、扉のノブに手を伸ばす。

「陰険なことしてんじゃねえよ!」

 その瞬間に響き渡ったのは、よく知った声の――全く知らない怒鳴り声だった。

 この展開を予期していなかった、なんてカマトトぶる気は、さすがにない。ないけれど、この剣幕には「わあ……」と声を漏らさずにはいられなかった。ノブを握ろうとした手が反射で跳ね、カチャリと音を立てる。

「陰険とは人聞きが悪いね、あんたが契約を踏まえずに勝手な行動に出たのも悪いとは思わないかい」

「誰が踏まえてねえってんだ! そりゃあ武闘大会に出るとは言ったがな、仕事に支障が出る傷を負うまで見境なくやるほど馬鹿じゃねえ! 第一、それが不満なら直接俺に言うべきだろうが!」

「ヴィゴ、ひとまず落ち着け。じきに彼女も来る」

 じきに来るどころか、もう来ています……とは、さすがに心の中で呟くだけに留めておく。この状況で元気に割って入れるタイプではないのだ、私は。

「なかなか激しいことになっている……」

 とりあえず、空を見上げてみた。爽やかに青い。出発の朝には相応しい好天だ――とか、現実逃避をしている場合でもないのだけれど。

 ここまで激しい展開になっているのは予想外であったものの、運が良ければこうなるのではないかと見込んで行動していたのは事実だ。ある意味では、全て私が裏で糸を引いて現状を引き起こしていたと言っても過言でない。それゆえ、ここで腰が引けるということ自体はないのだけれど、如何せん初めに聞こえた怒鳴り声が少しばかり衝撃的ではあった。あんな風に声を荒げることもあるのか、と。

 人間とは多面的な性質を持つものだ。私に対して穏やかに気配りを示してくれていたのも、それこそ全き優しさと気遣いによるものだろう。今示されている勘気によって、それらへの感謝が目減りすることは決してない。

 深々と息を吸って、吐く。扉の向こうではまだ喧々囂々怒鳴り合う声が聞こえているけれど、もうそれで止まることもなかった。握り損ねたノブを掴み直し、勢いをつけて引き開ける。

「おはようございます」

 同時に、意図して平然とした声を作って張り上げた。場違いにすら聞こえる呑気な挨拶が、広いホール内に散っていく。

 優秀な傭兵の察知能力が発揮されたのか、私が扉を開け始めた時点で怒鳴り声は消えていた。代わりに、真ん丸く見開かれた三対の眼がこちらを見詰めている。まさに絶句という体で、ヴィゴさんに至っては、ぽっかりと口を開けて固まっていた。

 コツ、と靴音を立てて足を踏み出すと連動して三人の視線も一緒に動く。三人……いや、正確には怒鳴り合う二人とそれを仲裁する一人は、フロアの中央で対峙していたものと見えた。いつものカウンター席に座ってフロアへ向き直ると、ちょうどいい具合で全体像を視界に収めることができる。

「おはようございます」

 改めて三人を正面から見つめ、もう一度言う。その繰り返しに何の意図を見出したのやら、三人が三人ともぎくりとした気まずそうな表情になるのが、少しだけ愉快な気もしないではなかった。

「は、早かったじゃないか、ライゼル」

「おう……その、何つーかだな……」

「朝も早くから、見苦しいものを見せてすまない」

「いえ、どうぞお構いなく。時間までに結論を出していただければ、特に申し上げることもありませんので」

 すっぱり答えると、三人は再び目を丸くさせた。……これも少し子どもらしからぬ言い分だったかな。

 私が口を出すとすれば、このままゴタゴタし続けて出発が遅れそうな流れになってきた時だ。十分に便宜を図っていただいた上で受けた仕事である以上、しっかり完遂しなければならない。その目的に対して支障が出ない限りは、大人たちがどんなやり取りをしていようと私が文句をつける筋合いもないはずだ。

 あくまで「特に関与しません」という体で座っていると、レインナードさんが「とにかく」と低く押し出すのが聞こえた。

「契約してんのは俺だ。俺が行く」

 あまりに強く、確固たる響きを持った声。決して譲らぬと、そう言外に告げているのがありありと分かる音だった。

「仕方がない、元はと言えばアタシが隠れて先走ったのが原因だ。雇い主には受託傭兵が一人増えたと報告しておくよ。報酬については、追加分をアタシが支払うってことで手打ちにしてくれるね」

 観念したとばかりに深い息を吐き、スヴェアさんが口を開く。

「俺だけじゃ問題があるってのか」

 けれど、どうにもレインナードさんは虫の居所が悪いらしかった。それはもう不満げな声での追撃。これも自身の矜持に関わることではあろうから、そう簡単に譲れないというのも分からなくはない。

「問題はないね。だが、アンタには前科がある。好き勝手戦って大怪我して帰ってきたのも、二度や三度じゃきかないだろう。これまでは、それでも支障はなかった。アンタが一人で動いているだけだったからね」

 今はそうじゃない、と告げるスヴェアさんの眼差しには、もう動揺らしい動揺もなかった。王都の傭兵ギルドを統括する女傑。威風堂々とした佇まいで、自分に渋面を向ける傭兵を見返す。

「もうこの際だから一切合切喋っちまうとするがね、アタシはアンタのそういう危うさをどうにかしておきたい訳だ。アタシはこのギルドの長として傭兵を統括するが、同時に利益を上げるのも仕事の一つでもある。アンタは使える傭兵だが、同時にひどく計算しにくい。すぐにまたどこぞの土地へ流れていくなら、アタシもここまでしやしなかったさ。……だが、ライゼルとの契約を結んだだろう」

 それはこれから未来の数年にわたり、王都を拠点にすると定めたに他ならない。しかも、ギルドが主導した長期契約を結んだ上で――と、スヴェアさんは丁寧に現状を確認してゆく。

 ただ単に現在の状況を一つ一つ挙げてゆくだけの言葉には、反論のしようもない。レインナードさんも黙って話を聞いていた。

「その前提がある以上、アタシは契約が無事に履行されるよう監督する義務がある。アンタは強敵と見ると見境がなくなるが、それを抜きにすれば人が好い類だ。ライゼルが契約してくれれば、一つの重石になって悪癖が鳴りを潜めるんじゃないかと踏んでいたんだが……黙っていて悪かったね」

 最後の一言は、レインナードさんではなく私に向けたもののようだった。スヴェアさんがちらりと視線を寄越したので、首を横に振ってみせる。

 それぞれに利益を得る為の仕事なら、言外の思惑が動くこともあるだろう。そして、それを他者に開示する必要は必ずしもない。第一、こちらだってこちらの思惑の下に暗躍していた格好だ。お互い様というものである。

「その辺りについては、どうぞお気になさらず。こちらはこちらで利をもらっていますので。ギルドに関することでスヴェアさんが手を打つのは、その職務の内かと思います。私が口を出すことでは」

「……まだ学生の割に、なかなか物の分かったことを言うねえ」

 そう言って肩をすくめ、スヴェアさんの目線がレインナードさんへ戻る。

「ヴィゴ、アンタは仕事に支障を出すような真似はしないというが、本当に魔が差さないと言えるのかい。それを疑わせるだけの前科が、アンタにはあるんだよ。ライゼルとの契約はギルドが主導し、今後に繋がる貴重な先例になると、アタシは期待している。万が一にも不履行なんて事態を起こさせる訳にはいかないんだ」

「だとしても、裏でコソコソする大義名分にはならねえだろ」

 レインナードさんの眼が剣呑に細められるも、真っ向から見返すスヴェアさんも引かない。……私個人の勝手な見方ではあるけれど、たぶん、これは後回しにするよりも今衝突しておいた方がいい問題なのじゃないだろうか。

 今までの仕事ぶりを見るに、スヴェアさんは決して横暴な人ではなかった。言わないことはあったかもしれないにしても、私もギルドも損をすることがないよう、上手く采配を振るってくれている。

 そのスヴェアさんがここまで手を回して動き、レインナードさん本人も過去の行動自体は一貫して否定していない。第三者として話を聞いているシェーベールさんもだ。だから、レインナードさんの行動については、本当にそういう傾向があるのだろう。

 レインナードさんは依頼を受けて遂行する中で、過去に何度か大怪我をして帰ってきたことがあった。むしろ、そういう大怪我をするような任務にこそ挑んでいく節があったのかもしれない。

 その傾向はスヴェアさんをして危ぶむほどで、私との長期契約を結んですぐにその危惧を彷彿とさせる事態が起こってしまったが為に余計に慌ててしまった――と、今回の問題はそうして起こったのではないかと思う。

 おそらく、根はそれほど浅くない。下手に後回しにすると、もっと複雑化する恐れもあった。まずはこれを前哨戦としてもらい、これから追々意見のすり合わせをしたり、調整したりしていってもらった方がいいのでは。

 ただし、そろそろ出発の時間が迫っている。これ以上長引くようなら、一端の落としどころを見つけて、続きはまた後日にしていただきたいところだけれど。……ここで私が口を挟んでいいものかな。

「いずれにせよ、この話は今ここで決着がつくものでもないだろう。もう予定の時刻になる。当初の予定に沿って行動する方が重要ではないか」

 ひっそり悩んでいたところ、至極冷静な声が上がって瞬く。

 声の主はシェーベールさんで、その言葉にはスヴェアさんもレインナードさんも異論はなかったらしい。双方険しい表情を浮かべてはいるものの、流れる空気自体からは刺々しさが失せつつあった。

「では、そろそろ出発しましょうか。ちょうど時間も頃合いです」

 ひとまず話が落ち着くところに落ち着いたのなら、今はそれで良し。時計へ目をやりつつカウンターの椅子から腰を上げ……そこで、一つ今更なことに気が付いた。

「私とシェーベールさんはギルドの方で一通りの準備を整えていただきましたが、レインナードさんは」

「夜のうちに整えといた。いつでも行けるぜ」

 前回の地下迷宮探索の際にも使っていた、見覚えのある肩掛け鞄が示される。若干被り気味に答えてくれた辺り、とにかく早く出発してしまいたいという思惑が透けて見えるようだった。

「では、問題なさそうですね。出発しましょう。――荷物と、それから転送機でしょうか。それらはどちらに」

 こうなったら、流れで動き出してしまった方がいい。誰にと名指しする訳でもなく問えば、シェーベールさんが近くのテーブルに歩み寄っていき、そこに置いてあった二つの鞄を取り上げて「これだ」と示した。爪先の向きを変えて私の方へ歩み寄ってくると、片方を差し出してくれる。

「ありがとうございます」

 自分でも使っていたような、背負い鞄だった。矢筒をぶつけないように腕を通してから、次はスヴェアさんに目を向ける。

「こっちだよ」

 フロアの中で一際奥まった場所、カウンターの脇に設けられた扉を示す人の表情には、既に寸前までの険しさはない。スヴェアさんの先導に従って、私、ヴィゴさん、シェーベールさんの順で後に続く。

 扉の奥はごく小さな造りの部屋になっていた。床に敷かれた分厚い絨毯の上には、凄まじく緻密な魔術陣が描き込まれた布が重ねられている。壁際のデスクに置かれているのは、操作盤だろうか。色とりどりの魔石が嵌められた、細かな彫刻と鮮やかな塗装の施された一抱えほどの円盤。

「ケーブスンのギルドに話は通してある。転送が済んだら、まず向こうのギルド長を訪ねな」

 操作盤の方へ向かうスヴェアさんに「分かりました」と頷き返し、絨毯の上に足を乗せる。厚く、意外に硬い感触を踏み締めて陣の中へ入っていこうとすると、不意に背後から腕を掴まれた。反射で顔を振り向かせれば、未だ少し表情の硬いレインナードさんが私を見下ろしている。

 どうしましたか、と問う代わりに小首を傾げてみせれば、あくまで生真面目な面持ちのまま口が開かれる。

「転送魔術はどんなに腕がいい奴がやっても、ごく稀に途中ではぐれることもあるとかいう話だ。……念の為な」

 その言葉を聞きながら、そうだったと今更に思い出した。今まで転送魔術のお世話になったことがなかったので、すっかり意識から抜け落ちていた。

 転送魔術――いわゆるワープの不確定さについては、かねてから議論されていた。現在主流となっているものは、あのエドガール・メレス卿の考案した術式構築理論によって、旧来に比べ劇的に安定性が向上したという。それでも違う行き先に飛ばされたり、二人を同時に転送して別々の場所に到着するようなトラブルも、百回に一回くらいの割合で未だ発生するらしい。

「私は運がいい星回りのようなので、あまり心配はしていませんが――そうですね、念の為に」

 とはいえ、策を講じておいて悪いことはない。軽く笑ってみせると、レインナードさんもようやっとわずかに表情を緩めた。

 私はレインナードさんに確保され、レインナードさんは私を確保して。その後ろに単独のシェーベールさんが続く。三人がきちんと魔術陣の中に立ったのを確認してから、スヴェアさんは操作盤に手を触れさせた。

「起動するよ。準備はいいかい」

「はい、大丈夫だと思います」

「じゃあ、気を付けて行っておいで。――転送元コード・四七六二五八、ガラジオス、スヴェア・ルンドバリ。起動承認。転送先コード・七七九一二〇、ケーブスン」

 凛と諳んじる声が響き、細い指が操作盤の上を踊る。五、四、三、とカウントダウンが始まるにつれて、徐々に室内に満たされる魔術が濃くなってゆく。

 ――そして「零」の声を聞いたと同時、ふわりと身体は浮遊感に包まれた。

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