14:節制の民-2
2.森のエルフの王
エルフ族――いや、ローラディンさんの魔術の腕は凄まじいの一言に尽きた。
自分の他に人間三人と馬車を一台転送するというのに、魔術陣を描くこともなく、さほど長い訳でもない詠唱だけで事を成す。アルマでも個人による転送魔術の行使は目の当たりにしているものの、あちらは魔道具と魔術人の併用であったと記憶している。起動までにかかる手順の点で言えば、まず比べ物にならない。ローラディンさんが卓越した魔術師であるという、端的な証明だ。
もっとも、現在の状況下において里の中へ外部から直接転送を図るのは、さすがに警備の都合等から問題があるのだろう。私たちが降り立ったのはエルフの里から程近い森の中だった。もしくは、森の外から魔術で転移を図る時は、まずここに降りる決まりになっているのかもしれない。
周囲は馬車が数台停められる程度には開けた空間として整えられており、地面を平らに均して草木を払った道も敷かれていた。ただし、道は一本だけしかない。
その先にエルフの里があるのだとすれば、やはりこの場所は転送魔術の発着場のような施設として機能しているのだろう。外から徒歩で来る者を最初から想定していない場所という訳だ。
一本きりの道の傍らには、衛兵らしき鎧で防備を固めた人の姿もあった。もちろん、その人もエルフだ。
「全員いるな? では、私の後に続け。馬車は最後だ」
ローラディンさんの指示で隊列を組み、道の方へと足を進める。ローラディンさんが通過する時も衛兵の人は一礼してみせるだけで、それ以上の反応はなかった。
「お勤めご苦労」
ローラディンさんさんもまた、端的な一言だけを残して進んでゆく。
広場から歩いたのは五分かそこらで決して長くはなかったけれど、おそらく実際の移動距離は体感よりも長かったのではないかと思う。途中で魔術の気配を何度か感じたので、空間圧縮や、或いは予め通行の許可が下りている人を先導にしなければ通過できないとか……その手のトラップが仕掛けられていた可能性が高い。
「さあ、ここが我らの里だ。森の外の者は滅多には入れぬ。存分に珍しがるといい」
その末に到着した樹海のエルフの隠れ里は、ローラディンさんがそうおどけてみせるのも納得の佇まいをしていた。
一際深い緑の中に石垣と木柵で境界が敷かれ、その上端から空へときらきら輝く粒子が立ち昇っている。光の粒が薄い膜となり、その奥の様子は薄ぼんやりとしか見えないのが余計に好奇心を掻き立てるようでもあった。いずれにしても、厚く魔術的な防備が敷かれているのは間違いない。
道の正面には大きな門が設けられており、門の左右にまた衛兵の方が立っている。彼らに対してもローラディンさんの態度は変わることなく、衛兵の方々も黙して頭を下げ、門を開けるだけだった。その姿を見ていると、今更に些か空寒いような気がしてこないでもない。
もしかしなくとも、ローラディンさんはその幼げな見掛けに反して、エルフの里の中で相当に力ある人なのだろうか。今のところ、全てのポイントで顔パスで通行許可が出ている。……いや、エルフの里の王の密使として動いている人の地位が低いはずもないのか。
さりとて、正面から「あなたは偉い人なんですか?」などと訊けようはずもない。黙々と足を動かすに徹する。もちろん、目線があちこちに飛んでしまうことばかりは止められないのだけれど。
「綺麗なところですね」
「そうであろう。森の外の街がどうとは言わぬが、私にはこの里が最も快い」
辺りを見回しながらこぼした言葉に応じてくれたローラディンさんの口振りは、いかにも誇らしげだった。部外者ながら、その気持ちは私にも分からなくはない。
里を成す建物群は明るい色味の木造で、円形や曲線を主とした意匠の繊細な装飾が施されている。大通りも端から端まで平坦そのもので、穴やひび割れの一つすら見当たらない。まるで全てを計算した上で絵に描いたような、整然として調和の取れた佇まいだった。
ただし、戦時下であるからか、人の気配は乏しい。それも家の中に籠って息をひそめているというより、そもそも誰もいないような印象だった。人間換算では十歳前後にしか見えないローラディンさんがこうして働いていらっしゃるので、里の方々もそれぞれに仕事で出払っているのかもしれない。
そのまましばらく歩くと、大きな広場に出た。中央には真白い大樹が天を突かんばかりに聳えており、その枝葉は広場を半ば覆わんばかりに広く影を落としている。樹齢何千年とかで済む規模なのだろうか、これは。
白い大樹の威容に圧倒されていると、不意にローラディンさんが足を止めて背後を振り返る素振りを見せた。自然と一行の足が止まり、先導の動向を伺う空気が流れ始める。
「馬車とその主は、ここで待機せよ。食糧や薬は後で里の担当の者が買い付けにくるゆえ、まだ売り出してくれるな。それ以外の娯楽品や嗜好品は、欲しがる者があれば売って構わぬ。我らは節制を旨とする民ゆえ、そう多くはなかろうがな」
「へい、承知。――ただ、この里での通貨はどうなってますかね? 俺は今のとこ、アシメニオスのネルしか持ち合わせがねえんですが」
「いくらかは森の外の貨幣を持っているはずだ。そうでなければ、手間をかけるが物で替えてもらえるか。上手く話し合って、双方納得の上で取引をするように」
「難しいことをおっしゃる――と言いたいところだが、信用を得たと思うことにしときますわ。分かりました」
ローラディンさんに答えたイジドールさんが、続けて「ライゼル」と私を呼んだ。ローラディンさんに引き続き、後方を振り返ると馬車を牽く傀儡の馬の隣に立つ人と目が合った。
「俺は一旦ここでお別れだ。剣呑なことはそう起こりやしねえだろうが、一応、気を付けて行ってこい」
「はい。イジドールさんも、恙なく目的を果たされますよう」
そう短く言い交わし、馬車とイジドールさんを広場に残して先へ進むことになった。
再び先頭を切って歩き出したローラディンさんが言うに、私たちの参戦はアルサアル王の予見するところであり、今この時にも到着を待っていらっしゃるそうなのだ。
「王の館までは、距離がある。少し歩くことになるが、問題はないか」
こちらを肩越しに振り返り、ローラディンさんが小首を傾げてみせる。その確認にも、否やはなかった。今はエルフの里の王に謁見し、状況に対する理解を深めるのが先決だ。個人的な興味関心を引き合いに出す場合ではない。
「大丈夫です。シェーベールさんは、何か気になることなどは」
「特にない。大丈夫だ」
念の為の確認にも、簡潔な返事が返される。であれば、もはや悩むことはない。
「では、行こう。アルサアル王は、あちらの居館におわす」
ローラディンさんは静かに頷き、行く手の遥か先を指差した。深く考えず、示された方向を目で追う。
里の家並みの向こうに、また大きな樹が佇立していた。ややもすれば、広場の樹よりも大きいかもしれない。明かりの灯る立派なお屋敷が、その中腹に載せられている。奇妙なことに、その館を避けて……いや、包むようにして枝葉が生い茂っているようにも見えた。
「あれが」
唖然として呟く私に、ローラディンはあっさりと「あれだ」と答えた。
アルサアル王の居館は、巨大な樹の上にある。訪ねる為には自力で木を登れ――などという無理難題が求められることはさすがになく、幹に沿ってぐるりと螺旋状に階段が設けられていた。とはいえ、これなら大丈夫そうだと呑気に思っていられたのも、ほんの短い間のことでしかなかった。
山や街を歩くのには慣れているつもりでも、延々と続く階段を上り続けるという経験は久しく覚えがない。徐々に徐々に高度を上げていく階段は、木の根元に立っていた時には全く想像し得なかった難敵だった。なんというか、こう……肉体的にというよりは、精神的に。
今の今まで忘れていたというか、思い出さないようにしていたのだけれど、私は高いところがあまり得意ではないのである。同じ高所でも崖のような場所であれば、足場の確かさでもって割合に平静を保てる。しかし、この階段はどうだろう。
樹皮に打ち込まれた分厚い板はしっかりと固定されているようで、体重をかけても軋んだり、揺らいだりする気配はない。板自体の横幅もそれなりにあるので、決して狭い通路でもなかった。それでも手すりのない、合間合間から下の景色が見える空中階段なのだ。
――やばい。結構怖い。
目的の館まで半分ほど上がってきたところで、限界がきた。
「あのう、ローラディンさん、少々よろしいでしょうか。――誠に申し訳ないのですが」
「うむ? どうした」
「手を繋いでいただけませんか……。お恥ずかしながら、高いところがあまり得意ではなく……」
今の隊列は先頭にローラディン、その次に私、最後尾をシェーベールさんが守る形だ。この状況でシェーベールさんを頼ることはできないので、必然的に前にいる人にお願いすることになる。
私の要請を受けたローラディンさんは肩越しにこちらを振り返ると、意外にもにこりと笑った。
「よい、よい。そなたは私より百も若い幼子だ。我慢することはない」
「ありがとうございます……」
そうして小さな手に手を繋いでいただき、何とか這う這うの体で階段を上りきった。里の中を突っ切るよりも、よほど長い時間を階段の上りに費やした気がする。そういう意味では、少し歩くという前置きも間違ってはいない。
樹上の館の門前にも、やはり鎧姿の衛兵の方が二人立っていた。彼らもまたローラディンさんに何を言うこともなく、頭を下げるだけで粛々と扉を開ける。ローラディンさんは私の手を引き、勝手知ったる風で館の中をすいすいと進んでいった。
長く広い廊下を通り抜け、いくつもの扉を通り過ぎる。天井から吊るされた魔石灯や、点々と立てられた燭台の火が磨き上げられた飴色の木目の床を照らし上げ、樹上の室内と言えども暗くはない。窓の外も不思議なほど枝葉に塞がれてはいなかったので、時に燦燦とした陽光を浴びながら更に歩くこと暫し――やがて大きな扉の前に辿り着いた。
重厚な木の扉の表面に精緻な彫刻で描かれているのは天から降り注ぐ光と、その恩恵を浴びる草木だろうか。細部まで見事に彫り込まれた表層を、控えめに添えられた色彩が尚一層に引き立てていた。これほど立派な扉の向こうにいらっしゃる方とくれば、自然と候補は絞られてくる。
そっと吐き出した息は、情けないことに震えていた。宮廷魔術師を志す以上は、いつかは国王陛下に謁見する……まではいかなくとも、我が目で見ることもあるかもしれないと考えたことはある。しかし、まだ学生の身分で、しかもエルフの里の王に謁見の機会を賜るとは思ってもみなかった。
心臓はばくばくと早鐘を打つようで、胃までしくしくと痛みだすような気がした。社会人をしていた時だって、ここまで強烈に緊張したことはない。
「そう青くなるものではない。そなたの幼きことは、我らの皆が承知している。常と変わらずにあればよい」
そんな内実は、どうやら筒抜けであったらしい。
「……はい」
こそっとローラディンさんに囁かれ、どうにかかすれた声を吐き出す。今の私は、一応まだそれを理由にすることが許される年齢であると言えた。少なくとも、表面的には。
「うむ。では、参るぞ」
ローラディンさんがそう言って繋いでいた手を離した途端、扉が内側から開けられた。誰かが中から引き開けたのかと思えば、扉の向こうに人影はなく、また気配もない。
「アルサアル王、ローラディン戻りましてございます」
「よく戻りました。こちらへ」
美しいと形容される声の具現、或いは理想のような響きだった。穏やかであり、涼しげであり、柔らかく優しげな。
ローラディンさんが足を踏み出すのにつられて、内心おっかなびっくり続く。
樹上の館の内部という状況が嘘のように、広い部屋には柔らかな光が満ち満ちていた。正面の壁に設けられた大きな丸窓にはバラ窓を思わせる装飾が施されており、梢越しに降り注ぐ陽光に複雑な陰影を与える。天井には瀟洒なシャンデリア状の魔石灯が吊るされ、きらきらとした輝きを降らせていた。
清く眩く、けれど目を焼くほどの強さではない。それらの光を一身に浴びるようにして、その人は私たちを待ち受けていた。
流れ落ちる滝を思わせる白金の髪と、宝石めいた紫の双眸。薄絹の長衣を纏う、すらりとした長躯。額を飾る緑を帯びた冠は、まるで摘んできた花枝を編んだかのように瑞々しくあるのに、艶の薄い金の質感が自然物ではないのだと知らしめる。
たおやかに微笑む彼の人は、まさに私が日本で読んだ物語の「エルフ」そのものだった。かつてラファエル卿と相対した時に直面したのとはまた違う、どこか浮世離れした神憑り的な麗しさを湛えている。
「〈碧礫〉ライゼル・ハント、〈極光の織り手〉バルドゥル・シェーベール、本日をもって参戦と相成りました」
丸窓の前に佇む王の在所は私たちが歩む床から三段ばかり高く作られており、その前で足を止めるとローラディンさんは軽く一礼し、朗々と響く声で続けた。
その少し後ろで真似をして礼を取ってみたものの、どうにもこうにも緊張は拭えない。ただ、そんな状況でも多少は頭が動く余地も残っている。たぶんこれは極限まで簡略化された状態なのだろうなとは、何とはなしに思った。
本当はもっといろいろ細かい作法とか、段階とかがあるのだと思う。仮にも「王」として呼ばれる方に謁見するのだから、ない方がおかしいはずだ。それでも私がこういう状況で右も左も分からないから、まごつきそうな儀礼的な部分を省いてくれているのでは。
室内には護衛や傍仕えの役割なのだろうエルフの方が何人か壁際に立って控えていらっしゃったけれど、特にこちらに視線を向ける素振りもない。ひとまず、お子様の右往左往は見逃していただけるようだ。……なんというか、ここまでくると自分が子どもだの大人だのと気にしていたのがおかしく思えてくる。
相手は私より遥かに幼く見えようとも、余裕で齢百を超す長命の種族なのだ。二十三だの十七だの、合算して四十だのと言ったところで、並べて子どもや赤ん坊のようなに見えているに違いないのだ。変に気にしていないで、正しく一番年少の新入りという認識でいた方が建設的だし、何より気楽というものかもしれなかった。
そう開き直ると、少しだけ周囲の会話に耳を傾ける心の余裕が出てくる。
「また、ライゼルはこちらの状況を推し量り、物入りであろうと察して商人を伴う機転を見せております。商人は中央広場に待機しておりますので、後ほど勘定方の者をやって必要物資を買い受けます。よろしいでしょうか」
「構いません。商人の方にも、失礼のないように」
「かしこまりました」
「――ライゼル、我らが里の苦境を思っての配慮、感謝します」
「とんでもございません。お役に立てて何よりです」
しかし、急にこっちに振られては話は別だ。
ローラディンさんとの会話から流れるようにこちらへ水を向けられ、危うくひっくり返った声が出かける。辛うじて変な声は出さずに済んだと思うけれど、びくりと跳ねた肩までもは抑えきることができなかった。そして、エルフの王はそれを見逃しはしなかったのだと思う。
「そう硬くなることはありませんよ。幼き身の上ながら我々の戦いに加わる決断を下した勇敢には、わたくしも敬意を表します」
「……恐縮です」
「同時に、わたくしはあなたが状況を打開する切り札になるとも目しています。あなたが得ているもの、あなたが得つつあるもの、それが助けとなる。――銀の鳥に託して、声を南に。悲しき魂を解き放つ術を、一刻も早く手中に収めるのです」
その言葉を聞きながら、ともすれば軽くゾッとする思いだった。千年万里を見通すエルフの王という肩書は伊達ではないのだ。
王がおっしゃっているのは、間違いなくソイカ技師との縁のことだろう。ソイカ技師と小鳥の件は私とレインナードさん、デュナン講師しか知らないことだ。それを知り得ているという時点で、並大抵のことではない。
死者の魂を籠めた人形への対策を講じるとしたら、魂の浄化か人形の解体の二択になる。前者は教会の扱う奇跡の範疇であり、魔術師や傭兵が容易に成し得るものではない。必然的に手札は後者の魔術的なものに絞られるので、巡り巡って私にご下命されるに至った――と理解はできる。
そう考えていた時、不意にエルフの王がシェーベールさんを呼ぶのが聞こえた。
「バルドゥル、あなたはライゼルの護衛を。そして、最終局面では存分にその腕を振るってもらわねばなりません」
心得ました、と答える声は短い。過去に騎士をしていたという経歴の賜物か、私と違って少しも気圧されたり竦んだ素振りのない、堂々たる態度だった。すごい……。
「ライゼルも、己の役割に不満はありませんか」
「はい、ございません。可及的速やかに対策を講じられるよう努めます」
「ええ、よろしく頼みます。あなたならば、きっと果たしてくれると信じていますよ。何か困ったことや助けがほしいことがあれば、ローラディンに相談なさい。あなた方は私が迎え、私が言祝いだ客人でもあります。全ての同胞が、喜んであなた方を支えるでしょう」
「お心遣い、ありがとうございます」
改めて頭を下げる。そこまでバックアップ体制を整えてくださっているのなら、私も十分自分の仕事に集中できそうだ。
求める解が明確に定められているだけに、そこに至るルートを見出すのもそれほど難しいことではない。見出したルートを踏破すること自体がおそろしく大変そうだという、根本的な問題はあるにしても。とはいえ、ソイカ技師という一流の魔術師の知恵をお借りできれば、どうにかならなくもないはずだ。
できればラビヌで考案された人形兵に関する文献類がほしいところだけれど、さすがに王城で封印されているか、デュナン講師が持っていたとしても貸し出し許可は下りないだろう。ソイカ技師が把握していることを願うしかなかった。
どこか落ち着ける場所に連れて行ってもらえたら、まずはソイカ技師に連絡を取ってみよう。それから……と頭の中で計算していた時、不意に衣擦れの音を聞いた。
はたと我に返れば、エルフの王が段上の在所から下りていらっしゃる様が目に飛び込んでくる。いくら何でも、これは想定外の事態過ぎる。驚いてローラディンさんへ目を向けるも、肩越しにこちらの様子を窺っていたらしい人はお茶目にウインクをしてくれるだけだった。心配はいらないということなのか、どうなんですか何なんですかそのリアクションは。
私の頭が静かに混乱の最高潮に達しつつある傍らで、エルフの王は段差を下りきるとまっすぐこちらへ歩み寄ってきた。見上げるほどの長躯は、ひょっとしたらレインナードさんよりも上背があるくらいかもしれない。
ライゼル、と呼ぶ王に「はい」と応じはしたものの、お世辞にも聞き取りやすい返事ではなかったはずだ。声はかすれていたし、震えてもいた。それでもエルフの王は穏やかに微笑んだまま、私を見下ろして告げる。
「あなたの始まりに何があったとしても、それはあなたの瑕ではない。あなたに注がれる愛は、決してあなたの瑕を埋める為のものではない。初めから、そんな瑕などありはしないのですから。――走るならば、己の為に走りなさい。誰かに献じる糧ではなく、己の手に勝ち取る為に。走るあなたの軌跡は世界を回す。これからの道行を、楽しみにしていますよ」
そう言って最後に私の肩を叩くと、王は踵を返して段上の在所へと戻っていく。
「ローラディン、ライゼルとバルドゥルはあなたの館に滞在するのでしたね?」
「はい、そのように手配を済ませてございます」
「よろしい。不自由のないよう、よく支えるのですよ」
「かしこまりましてございます」
一通りの用も済んだのか、その後はローラディンさんと王の間で軽いやり取りがあった後、退室する運びとなった。確かに怖がるようなことも、礼儀作法を咎められることも、何一つ起ってはいない。しかし、やっぱりまあ、何というか緊張も極限だったのだ。
「……緊張した……」
王の居室を後にし、長い通路を逆戻りに歩いて館の外まで出ると、その途端に肺の中身が空っぽになりそうな勢いで口から息が漏れた。
「ライゼルは真面目よなあ。ヴィゴは王の御前でも、兵士の中にいる時と大して変わらぬ顔で平然と喋っていたぞ」
「それはヴィゴさんの心臓が強すぎるからなのでは……」
或いは、それだけ傭兵として確固たる自信があるからなのか。どちらにしても、私が真似できることではない。
「ともかく、この後は私の館に連れてゆく。そこがそなたたちの宿となるのでな。――ほれ、ライゼル、また手を繋いでいこうぞ。帰りは帰りで怖かろ?」
「お世話になります……」
「俺はまた後ろからついて行こう。仮に君が足を滑らせたとて、掴まえられるように」
「よろしくお願いします……」
ローラディンさんに手を繋いでもらい、シェーベールさんに後ろの守りを頼んで、やっとの思いで上ってきた階段を下りていく。これもまた、謁見の時とは別の緊張感があった。何しろ上ってきた時と違い、常に視線が下を向くのだ。階段の三分の二ばかりを下るまでは、内心ビクビクしっぱなしだった。
初めて「王」と呼ばれる方に謁見した最初の機会は、こうして最初から最後まで緊張し続けて終わった。