12:吊し人の蛮勇-2
2.少女の決断
消沈している、か。……まさに、その通りだ。今の私はどうしたものかひたすらに迷い、困り、沈み込んでいる。
こちらが立ち竦んだまま返す言葉に詰まっていても、ルラーキ侯爵は特に気にする風でもなく静かに歩み寄ってくる。もっとも、その姿も以前に市場で対面した時と同じ幻影ではあるので、足音が生じるはずもない。ただ、以前とは違ってその姿も分かりやすく陽炎じみていた。
普通に立っている分には、彼の人物が真実そこにいるかと錯覚するほどに精細な幻影であることに変わりはない。しかし、数秒も眺めていれば、それが実物でないことはすぐに知れる。何しろ、時に揺らめき、時に霞みと不自然極まりない現象が間々発生するのだ。
そのように実体では決して起こり得ぬイレギュラーが頻発すれば、目の前にあるのが魔術によって投影された幻影であると察するのは容易い。とはいえ、それは術者の技量の低下を示すものでは決してなかった。
高度遮蔽の術式で守られたお屋敷の中に幻影を飛ばして投影するなど、ほとんど無茶な曲芸のようなものなのだ。並みの魔術師であれば、ここまで至れず弾き返されている。多少幻影が揺れているとしても、これほどまでに原形を保ちながら送り込んで意思疎通が図れているという時点で、かえって術者の技量の凄まじさが推して知れるというものだった。
前回の対面の際に述懐されていた通り、招かれ人という身の上に甘えることなく研鑽を積まれたのだろう。尚、私はもちろん同じようにできる気はしないというか、そもそも自分の分身を遠方に飛ばすという術式自体がまだ手札にない。
半ば畏怖するに近い心持ちでもって近付いてくると幻影を見つめていると、おもむろに部屋の中ほどで足を止める。そうして紡がれ出す言葉は歌うにも似て、幻影の揺らめきとは異なる確かな響きを備えていた。
「君は賢く、その年齢の割に分別があるように見える。ゆえに、私の息子と君の傭兵は結託して企んだ。賢い君なら自分たちの意図を察し、その根底にあるものを汲んでくれるだろう、とね」
「……それは私の資質によるものではなく、単に招かれ人として生まれついた副産物に過ぎないのでは」
苦笑を演じて誤魔化すのも、皮肉に走って斜に構えるのもできなくて、ひどく半端に淡々とした答えになってしまった。
そもそも私が賢いと評されるのは、勉強ができるという側面が目につきやすいからだろう。人生二度目である分、同年代の子どもとは単純に経験値が違う。勉強の仕方とか、設問に対する答え方とか、上手いタスク処理方法とか。そういう前知識によって効率化が図られているから、とてもよくできる子どものように見えるだけの話でしかない。
そういう経験則が生かせるところでは、それなりの成果を上げることができる。裏を返せば、そういう手札の効果のない分野では、必ずしも上手くやれているとは言い切れないのが実情だった。要するに、この世界に特有の状況。……学院では貴族社会にまごついて夏前まで孤立していたし、戦事ではレインナードさんに助けてもらってばかりだった。
「結局のところ、私が上手くやれていたことなんて勉強くらいのものです。足手まといであることに変わりはない」
苦く吐き出せば、ルラーキ侯爵はゆるりと肩をすくめてみせた。
「努力を続けることができる、というのも一つの特筆すべき技能だよ。そう自虐することはない。君の傭兵も、私の息子も、積み重ねた年季が違う。今の歳で君がそれに並ぼうというのは、少し先を見過ぎている」
「ごもっともです」
否定しようもない、全き正論だった。だから、私も今ここに独りでいることになっているのだろう。
同年代の中では賢い部類に入るけれど、ただそれだけの半端者。戦力に数えるには足りず、戦場では己の身を守れるかどうかも怪しい。そんな生半可な身の上でしかないから、あの人たちは水面下で手を尽くさねばならなかった。私が危険に晒されることのないよう、行動理念の根底にある家族の保護に悩まなくていいように。
逆を言えば、そういう厚意に気付くことができ、利害の計算をして無謀な行動を自重できると判断されるくらいには、私の薄っぺらな小賢しさも信用されてはいたと言えるのかもしれない。ここまでお膳立てしておけば、そう無茶な行動はしない。大人しくしていることこそが最良なのだと理解し、自分たちの言い分に従うだろうと。
実際、その通りではあった。レインナードさんという唯一にして最大の鬼札を失うのと引き換えに、自己と故郷の保護が約束された。今ここで私が現状に逆らうメリットはなく、そもそも逆らえるだけのカードもない。……だからこそ、ここで侯爵が関わってくるのが不穏だった。
この人は、おそらく招かれ人が何もしないでいることを良しとはしない。招かれた理由相応の働きをしてみせよと、そう思っている節がある気がする。
「それで公爵閣下におかれましては、如何なるご用件でこちらに?」
軽く息を吐き、意を決して問う。侯爵は未だ底知れぬ泰然とした空気を纏ったまま、小さく肩をすくめてみせた。
「君はどうしたいか、と思ってね。本当にこのまま、大人しくこの屋敷に監禁されているつもりかな」
「されていたい訳ではありませんが、逆らう踏ん切りもつかないというのが実情ではあります。これほど精巧な遮蔽術式は容易く抜け穴を作れるものではありませんし、仮に作れてもすぐに察知されて対処されてしまう。……それに、ここまでして私の身を案じてくださったというご厚意を無下にするのも躊躇われます」
「聞き分けのいいことを言う」
「形振り構わず駄々を捏ねるには、少し自我が成長し過ぎました。或いは、単に臆病なだけでもあります。これだけの手を尽くして守っていただいているのに、それを裏切るという行動の重さに竦んでいる」
「なるほどね。君の身の上では、まあ、無理もないことだろう。私もそこまで多くの先例を見てきた訳ではないが、平民生まれの招かれ人は珍しい。我々のような全く違う文化にルーツを持つ人間であれば尚のこと、他者が自分に傅くという事実を手放しに受け入れるのは難しいものだ。人を使い、人に仕えられ――それが平常であるという環境に身を置き、慣れるという経験が必要になる」
納得の目顔での一言には、心の中で「でしょうね」と相槌を打つに留めた。侯爵家に伯爵家。そんな家に生まれていれば、自然と慣れるものなのだろう。
生憎と私は今も昔も人に指図することにも、人に傅かれることにも無縁の生を送ってきた。自分のことは自分でやるべきだし、可能な限り他者へ手を差し伸べ、助け合うべきだと思っている。それがこの世界における故郷での一般的な立ち居振る舞いだったし、この世界に生まれる前に培われた自己意識でもって考えても何ら違和感のない理屈だったから。
「しかし、大人の指示に従うばかりが子どもに許される選択ではない。向こう見ずな冒険は子どもの特権ではないかな」
「随分と分かりやすく唆される」
「年若い少女が大人の男たちに良いようにされるのでは可哀想じゃないか」
「それは語弊があり過ぎる言い方かと思いますが」
「そうかな? まあ、その辺りは些末な話さ。――前にも言ったろう? 私は君の先達を気取っている。後進に目を掛け、手を貸さなくてどうするという話だよ」
あくまで鷹揚に侯爵は語る。それもまた、一つの本音ではあるのだろう。
同じ時代に生まれた招かれ人として、ルラーキ侯爵が一種の善意から私を気に掛けてくれていることに間違いはない。ただし、やはりそのベクトルはレインナードさんやラファエル卿とは全く違う方向を向いているのだ。私という招かれ人が状況に関わることで、この世界の求めるような変動が起こることを期待している。
もちろん、それが嫌だとか悪いとか言うつもりは毛頭ない。誰しも自分なりの目的を持ち、その為に生きているものだ。見返りを求めない善行、無償の愛でなければいけないなんて理由はない。……そう考えれば考えるほど、あの人はどうしてこんなことをしたのかと悩まずにはいられなくなってしまうけれど。
「賢い君とは、理屈や論理を挟んだやりとりをするのはかえって逆効果だ。ゆえに、単刀直入に訊くとする。――君は、君の傭兵のところに行きたいとは思わないか。ヴィゴ・レインナードに会いたくはないか」
初め、その言葉に返したのは沈黙だった。
行きたくない訳ではないし、会いたくない訳でもない。そんなのは当たり前だ。けれど、その感情だけで突っ走れるほど、私も幼くはなかった。とりあえず戦場に飛び出してみて、後はどうにかなるなんて無邪気な楽観は抱けない。
「その問いに否、と答えることは決してできません。けれど、私は子どもでも、ただの子どもではない――招かれ人として、是と答えることもしません。してはならない、と思います」
それは、あの人たちが信用してくれた私の賢さをかなぐり捨てる行為でもある。いくら感情を煽られても、意図してそう図られているのが分かっていればこそ乗ってはいけない。
きっぱりと言い返せば、侯爵がゆっくりと瞬きをする。
「なかなかに強情な理性だね」
「それこそが招かれ人の特性の一つでは」
「かもしれない。……少し君を見くびっていたようだ。君は賢く、自分を律する理性が強い。勢いで押し切るのではなく、少し腰を据えて話をした方がいい」
「ここでお開きにするという選択肢は」
「ないよ」
「即答……」
あまりの断言ぶりに、些か目が遠くなった。
こうやって接してみると、ラファエル卿がルラーキ侯爵に複雑な態度を取るのも、何となく分からないではない。他者よりも多く、遠くのことを見通し、その視座でもって動き、動かそうとする。なかなか特殊な御仁だ。
「では、改めて問答を始めよう。――君は何故、この屋敷からの脱出を躊躇う?」
真正面から私を見つめ、侯爵が問う。ある意味では、学院の講義中に設けられた演習よりもよほどに緊張する質疑応答だった。
「躊躇うのではなく、まず物理的に難しいからです。人の目が多く、警備も手厚い。そして何より、遮蔽の術式が超えるに容易ではありません」
「それらの問題の対処にあたっては、私が助力をしよう。君はこの屋敷から出ることができる。何に阻まれることなく、何を苦労することなく。これで最初の障害は越えたね。他に気になることは?」
「屋敷を出たとしても、移動が容易ではありません」
「迎えは手配してある。逆に訊くけれど、問題になるのは『移動手段』だけかね? 行くべき場所の見当は?」
「確信はありません。それでも、目星はついています」
「なるほど、よろしい。――さて、君は屋敷を出て、行くべき場所に行く手段を得た。この上でまだ何を躊躇うね?」
「……仮に目的地に無事に到着することができたとしても、私では力不足である可能性が高くあります。戦闘の中で命を落とすのも困りますが、足手まといになってあの人の迷惑になるのも嫌です」
「君は既に並みの魔術師よりも相当に使える部類だがね。しかし、その懸念も分かる。君は故郷と家族を守る為に宮廷魔術師を志したのだったか」
確認の目顔には、黙って頷き返す。
「であれば、約束しよう。この件に関連して、君の故郷と親族に累が及ばぬよう、私の方でも手配する。尚且つ本件に関する戦闘その他の案件によって君が死傷し、学院の在籍が困難になった場合にも、責任をもって君の求めたものを実現させてみせる。君の故郷はブノアの所領内だったね。彼とは旧知の仲でもある。ルラーキ候ロワイ・デュランベルジェの名において、君の家族と君の村が存続する限り永年の庇護を確約しよう」
な、と間抜けな声が口を突いて出た。何ですって、と月並みな台詞を吐きかけ、辛うじて寸前で踏み止まる。ひたすらに驚愕する私を他所に、侯爵はあくまでも平然としていた。
「後は……ああ、足手まといになるリスクだったかね? 実のところ、それこそ心配する必要のない話だ。むしろ、君を庇護する者たちは別の心配をしている」
「……別の、とおっしゃいますと?」
「森林への適性が非常に高く、魔術も弓もよく使う狙撃兵。前線では喉から手が出るほどに欲しい人材だ。だからこそ、君の傭兵は君を置いて行った。同行させれば、後方で援護などという比較的安全な役割を与えてはもらえないと分かっていたからだ。自分の傍に置いておければまだしも、最悪の場合には君が単独で運用される。自分の手が届かないところで君が傷つくことを、彼は恐れた」
静かな語りに答える、何度目かの沈黙。
おそらく、あの人がただひたすらに私や私の故郷を心配して独りで発ったことに間違いはないのだろう。ラファエル卿も、ルラーキ侯爵も、そこについては一切の疑いを挟んでいなかった。……私自身だって、信じがたい気持ちがないではないものの、そうなんだろうなと思わないでもない。
でも――でも、だ。
「私だって、あの人が心配ですよ。あの人が強いのは知っています。過去に戦争で大層な戦果を挙げたことも。……だからといって、今回も同じようにいく保証なんてどこにもない」
「そうだね。そして、そんな不安と心配を抱えた君を引き留めるしがらみは、今この時をもって全て解消された訳だ」
今こそ理屈ではなく感情で考えたらどうかね。侯爵はにこりと笑んで言う。
悪魔の囁きとは、こういうもののことを言うのかもしれない。そんな不敬な思考が脳裏を過る。まさに「悪魔のように細心に、天使のように大胆に」だ。丹念に外堀を埋めて、優しく背中を押す。その先の決断が、本当に自分の意思なのか分からなくなるくらいに。
「とことん唆すおつもりですね」
「唆すとは人聞きが悪い。将来有望な後進に援助を申し出ているだけだとも」
「物は言いよう、の典型を見ている思いです」
肩をすくめて言い返す。事ここに至っては、もうそれほどかしこまった態度を見せる意味もないような気がした。事実として、侯爵も私の雑な態度を咎めるどころか、気に留める気配すらない。
今となっては、確かに私の足を止める悩みは何一つ存在していなかった。仮に戦場で斃れたとしたって、故郷と家族への援助はなされる。私が死ねば、家族は悲しむだろう。けれど、今度はれっきとした意味と価値を遺せるのだ。何も悪いことはない。
死ぬのが怖くない訳ではない。あんなものを二度と味わうのは御免だという思いもある。……ただ、今はそれよりも他に私を突き動かすものがあった。或いは、私がこれからどういう振る舞いをするか――することにするか、という選択の時なのかもしれない。
「……あの人と出会ったことは、王都に来てから一番の幸運だったのだと思います。そして同時に、分岐点でもあった」
「彼にとっても、君の存在は紛れもない特異点だったろうね。傭兵ヴィゴ・レインナードに関する噂話は一通り耳にした」
「それが良い意味であればいいのですけれどね」
皮肉でも何でもなく、そう願って止まない。私という人間に遭遇し、何か得たり変わったりしたことがあったのだとして――それがあの人にとって悪くないものであったのなら。それ以上に幸いなことはない。
そう思えばこそ、胸の奥底に潜むものが無視できなくなってくる。理屈だけでは割り切れない、様々な感情がない交ぜになった混沌。その根底にあるのは、ひどく身勝手な恐怖と忌避感だ。
ここで目を閉じて耳を塞ぎ、時が過ぎるのを待っていたら、安全に事件の終結を迎えられはするのだろう。けれど、それでは取り返しのつかないものを失う。
あの人が戻ってきても、きっとこれまでと同じようにはいられない。私はあの人にとって徹頭徹尾守らなければならないものとなり、私はあの人に手を尽くし守ってもらってしまったという負い目ができる。対等に並んで立つことは、永遠にできなくなってしまうのではないか。
そういうちっぽけなプライドによる忌避感がある一方で、もう一つの根源的な恐怖は叫ぶのだ。――それでいいのか、と。
レインナードさんは強い。そんなことは分かっている。あんなにも強い人でさえ、用心に用心を重ねる。その必要があるのが戦場なのだ。万が一を考えずにはいられず、万が一がいくらでも起こり得る場所。……そこで、私ではなくレインナードさんに「もしものこと」があったら?
その時、私は許せるだろうか。耐えられるだろうか。
かつて私が家族に味わわせた悲嘆を、あの人の家族に味わわせることを。今度は私自身がその悲嘆を味わう当事者となることを。何もしないで、その結果を受け取る狡さを選んだことを。
「一つお伺いしておきたいのですけれど、侯爵は先見の奇跡を駆使されている訳ではないのですよね?」
「うん? ああ、もちろんさ。君もそうかもしれないが、私は信心に薄い性分でね。私を選び、招いた神に思うところはあるが、それはこの国の教会が語る信仰ではない。ゆえに、教会の用いる奇跡は使えない。単に情報を得やすい立場を利用した俯瞰の真似事さ」
「つまり、これから先の未来を予め知っている訳ではない」
「もちろん。戦況を動かすのは、その場にいる者たちだけだ。今はまだ何も決まっていない」
侯爵はきっぱりと言い切る。それなら、私が足掻いて変わることもあるのかもしれない。使える兵がいれば、有利に動く戦況も、少なくて済む消耗もあるはずだ。
……そう思っていながら、この期に及んでまだ少し腰が引けてしまうのが、我ながら情けないのだけれど。
「おや、選択は定まったかと思ったのだが、まだ何か不安なことがあるかね?」
海千山千の猛者居並ぶ貴族社会で長らく君臨してきただけのことはあるのか、侯爵は私の内実も見透かしているようだった。首を傾げて問うてくる人に、返せるのは苦笑しかない。
「不安、と称するのが正しいのかは分かりません」
小さく息を吐いて呟く。自分でもよく分からないけれど、ただ悩ましいことであるのは確かだ。
あの人がラムール石の飾りを置いていきながら他のものを残していかなかったのは、戦いに必要だと判断したからだろう。つまり、危険だからついてくるなという言外のメッセージに他ならない。また同時に、その意図を私が読み取れないはずはないと信じた証でもあるのかも。
その思いを投げ捨てて会いに行ったら、いくらあの人でも呆れ、私を疎むようになってしまうのではないだろうか。それもまた、ひどく恐ろしいことだった。こんな切羽詰まったような状況で、そんな女々しいことを考えている場合でもないのに。
「では、何だい? せっかく同類の先人が目の前にいるのだ、試しに言ってみなさい」
侯爵は「言ってみなさい」と言葉では促す体を取りつつも、回答の拒否を許さない物腰の強さがあった。私も万全の状態であったら、何かしら言い返したり誤魔化したりといった小細工をしたかもしれない。しかし、とてもではないけれど、今はそんな余裕も余力もなかった。
「全ての厚意を無視して勝手なことをしたら、愛想を尽かされてしまいやしないかと」
「それはないね」
だというのに、腹をくくって吐き出した一言には呆気ないまでの即答が返される。
目を丸くする私の前で、侯爵はさも当然とばかりの顔をして続けた。
「彼は彼で、自分の好きに――思う通りにしている。君に詳細を伝えることなく、許可を得ることなく。君に怒られ、詰られる覚悟で打って出た訳だ。互いに同じことをしているだけのことだよ」
とことん唆す気だな、というのが、その答えを聞いた時の最初の思考だった。何が何でも、この人は私を旅立たせる気なのだ。さりとて、その誘導に唯々諾々と従うのでは「招かれ人」の意味がないというものだろう。
振り返るだに、私は本当に何もかもが半端だ。子どもも演じきれず、大人にもなりきれない。気遣いを振り切ってまで無鉄砲に走り出せる幼さはなく、さりとて一人前の顔をして肩を並べるには成熟が足りない。だからこそ、せめて走る理由くらいは自分で確たるものを掴んでいたい。
あの人の前に立った時、竦むことなく言い返せるだけの理由を。
「心は決まったかい?」
軽く深呼吸をし、改めて侯爵を見返す。やはり私の思惑は見透かされているようで、柔らかな微笑みと共に尋ねられた。
「はい。私は私の為に、再び走り始めることにします」
「よろしい、君は君の心の赴くままに走りたまえ。――であるからには、唆した長上として餞別を渡そう」
結局「唆した」って言ってるじゃないですか、とツッコミを入れる度胸はさすがにない。
私が黙っている間にも侯爵はおもむろに手を伸ばし――かと思えば、その指先から赤い光の粒が流れ始めた。何事かと見ている間にも光は小さな蝶の群れとなり、私の傍へと漂ってくる。こちらに近付くにつれて高度を下げ、左手へと舞い降りる仕草を見せたかと思うと、手首に巻き付く飾りとなった。
二巡三巡と重なる金の鎖に大小いくつもの赤い蝶が連なった、きらきらと輝く美しい装飾。
「それがあれば、この屋敷を抜けられる。他にもいくつか仕込みをしておいた。時間がないので、ここで説明はしない。君なら自分で解析できるだろう」
「ありがとうございます。……時間がない、とは?」
「じっくりとお喋りを楽しんでしまったからね。私の本体がラファエルの足止めをしているのだが、さすがにそろそろあの子も焦れてきている。これ以上の時間稼ぎは難しい。この機に私が接触してくるというだけで、あの子が事態を察するには十分だ。遠からず、この屋敷に戻ってくる。そうすれば、もう君は二度と出られない」
「急ぎ移動します」
大股に足を踏み出し、ベッドの方へ向かう。鞄を背負い、弓矢を収納した矢筒を腰に提げた。少し迷ってから、あの白い短剣もベルトに差す。持っていくのは変わらないとしても、すぐに抜ける位置に携えておくかどうかは、まだ少し悩ましい。
斯様にして慌ただしく出発の準備を始める私を、侯爵はどこか懐かしむような顔をして眺めていた。
「この屋敷は私が幼少を過ごした場所でね。隠れてあちこちに抜け道を作ったものさ」
「随分とやんちゃな幼少期を過ごされたようで」
「そのお陰で、君はまた走り出せる。世の中、何がどう巡って繋がるか分からないものだね」
「幼かりし頃の公爵閣下に、心より感謝申し上げます」
「どういたしまして。……この部屋からは門の裏手に出られる。そこに迎えを派遣しておいた。上手く合流して包囲を抜けなさい」
ああ、そうだ、これも渡しておかないと――と言いながら侯爵が懐から取り出したのは、何やら不思議なオブジェのようなものに鎖を通したネックレスだった。
天球儀を模していると思しいオブジェには何かしらの魔術が施されているのか、組み合わされた何本ものリングがひとりでにくるくると回っている。その中心にはコンパスの針のようなものが浮かんでおり、今も一方向を指し続けていた。
学院で習ったり見聞きした魔道具ではないけれど、どことなしか見覚えがあるような気がしないでもないフォルムではある。
「これは『青の羅針儀』の複製品。王都の中央広場にあるものは観光用の飾りだが、本物は王城の最奥でその役目を果たしていてね。このレプリカは本体と動きを同期させてある」
語られる説明を聞きながら、思わず侯爵とその手のオブジェとを見比べてしまった。どうりで見覚えがある訳だ。
「そんな大層なものを、お借りしていいのですか」
「もちろん、その為に持ってきたのだからね。陛下にも許可は得てある。心配はいらない」
喋りながら、侯爵がネックレスをこちらへ差し出す。その意図は問うまでもない。
ありがとうございます、とお礼を言って左手を伸べ、羅針儀のレプリカを受け取った。重さはさほどでもないけれど、おおよそ私の掌にすっぽりと収まる大きさなので首に掛けるには向かない。どこかに吊るすか、矢筒にでも提げるか……また後で考えるとしよう。
「羅針儀は夏の初めに一度針を作って北を指し、七日間をかけて南を指して消えた。まるで、何者かの足跡を追うかのように」
「何者かが北方からこの国へ入り、七日間かけて南へ抜けた」
「左様、観測担当の術師も同じ見解を示したよ。――そして今、また羅針儀は南を指している。ここまで言えば、後はもう分かるだろう。君なら」
「はい。たくさんのヒントをありがとうございました」
レプリカの鎖を手に巻き、手に握り直してから頭を下げる。これがなくとも目的地に到着できる自信はあるけれど、道しるべは多いに越したことはない。
「うむ、気を付けて行きたまえ。そろそろラファエルも癇癪を起しそうなのでね、頃合いだ。――南の音。七の囲。蔓草刷いて小路指す。復唱!」
「!? な、ナノネ・ナナノイ・ツルクサハイテショウジサス」
急な詠唱に驚く間もなく、命じられるがまま反射的に聞いた文言を繰り返す。その途端に足元で魔力光が迸り、絨毯の上を走って模様を描き始めた。蔓に似た意匠のその紋様が、一種の転送魔術を意図したものだと気付いた時には足元から身体が消えてゆこうとしている。
ハッとしてルラーキ侯爵へ目をやれば、晴れやかなまでの笑顔。
「よい旅を」
その一言を聞いたと思った次の時、視界が暗転した。