11:正義の使途-3
3.傭兵と騎士
デュナン講師が戻ってくるまでに、それほど長い時間がかかった訳ではない。にもかかわらず、戻ってきた時は一人ではなかった。しかも、その同行者がまた意外な人物であったから、私もレインナードさんも目を丸くしてしまう。
「いやはや、君はつくづく妙な星の巡りにあるようだね」
苦笑混じりに肩をすくめてみせる美貌の人。多忙で王都にいないと聞いていた、ラファエル卿だった。
「王都にいらっしゃらないと聞いていましたが」
「昨日のうちにグザヴィエから連絡が届いて、慌てて戻ってきたのさ。君が狙われているとして、君一人ならいくらでも君の傭兵が守り抜くだろう。問題は、君以外のものについてだ」
デュナン講師と並んで研究室に入ってきたラファエル卿は、そのまま二人揃って作業机の方へやってくると、私とレインナードさんの向かいに腰を下ろして言った。前置きもなく本題に入ってきたのは、それだけ事態が火急のものであるという証でもあるのだろう。
もちろん、私としてもその見方を否定する気はさらさらない。言われていることは分かっている。どうしても故郷のことが真っ先に気になってしまうけれど、王都における拠点としてお世話になっている清風亭も、事態が深刻化してくれば巻き添えを食う可能性は否定しきれない。
「現在、急ぎ騎士団――もとい、私の部隊で君を保護する手配を進めている。まだ全てに認可が下りた訳ではないが、下りないということも有り得なかろう。父にも話を通しておいたし、君は貴重な情報源であると共に我々は王都の治安を維持する責務を負っている。この事態を前に何もせずにいることは許されない。保護は通告であり、君の意見が問われることはないと言っていい」
「……無理もないことかとは思います」
重苦しい気分で同意を答える。周辺への被害を考慮してのことであると言われれば、大人しく受け入れるより他にない。元はと言えば、アルマで私が欲を出して敵を探ろうとしたのが発端でもある。
あの時探ろうとしたことで、向こうにこちらの情報を与えることになった。それゆえに敵方が接触を図ってきて、その結果として得られた情報があるにしても、手放しに喜べるかと言えば、決してそうではない。私が大人で、この国の治安維持に関わる仕事についていたのならばまだしも。
ひそりと嘆息していると、不意に隣から「なあ」と声が上がった。
「それって、俺もくっついてっていいのか」
「もちろんだとも。親しい人間が傍にいれば、ライゼルも少しは心が休まるだろう。隊から人手を割かずに済むのも助かる」
ラファエル卿はあっさりと首を縦に振る。レインナードさんも一緒に来てくれるのは助かるけれど、これも傭兵ギルドの契約に含まれるものだろうか。一度ギルドに顔を出して、その辺りの詳細を詰めておいた方がいいかもしれない。
「その期間中、ライゼルはどうしてろってんだ。どこかしらの屋敷の類に籠りっきりか? 学校は?」
「申し訳ないが、しばらくは登校を自粛してもらうことになるだろうな。私としてもライゼルの権利を尊重したいところではあるが、事情が知られれば周囲の反発は免れ得まい。家の名で反論を封殺するにも限度がある」
「登校を強行してできなくもねえが、それはそれで面倒って訳か。――どうする、ライゼル」
私が考える間にも、会話は進んでいく。それでも一応、ちゃんと耳を傾けて内容を把握自体はしていた。
どうする、という問いが登校するか否かということであれば、この答えもまた最初から決まっている。
「登校停止はやむを得ないことかと思います。周りを巻き込む危険性が高いですし、学院の中で被害を抑えるよう立ち回るのは容易なことでもありませんから。今後の講義に関する資料だけいただいておければ、隔離期間中も自主学習ができて助かるのですけれど」
「そんなら、今のうちにその先生さんと一緒に他の先生のとこ回ってきたらいいんじゃねえか。また後で来ようったって、保護場所から出してもらえるか分かんねえだろ。俺も俺で、こいつが目の前にいるうちに今後のことを確認しときてえし」
こいつ、とラファエル卿を示しながらの言葉には、確かに一理あった。
ラファエル卿管理下の保護施設のようなところに入ったら、気軽に外出することもできなさそうだ。いや、ラファエル卿はそこまで厳しく制限を課したりはしないかもしれないけれど、こちらの気分として憚られる。
その前にできる限りの用事を済ませておいた方が良いに違いない。
「そうですね、デュナン講師がよろしければ」
「それくらいお安い御用だよ。今日は不在の講師もいなかったはずだし、たぶん一周してくれば用事は済むんじゃないかな」
そう喋っている最中にデュナン講師が椅子から腰を上げるので、私もまた立ち上がる。受講している講義の分だけ、講師の先生の研究室を訪ねなければならない。さっさと動くに越したこともなかった。
レインナードさんとラファエル卿に「行ってきます」と断ってから、早くも廊下に出ようとしている先生の背を追う。
「おう、気を付けて行ってこい」
「委細はユベールが心得ているだろうが、何かあったら私の名前を出しなさい。〈紅玉の獅子隊〉の総意であると明言して良い」
「ありがとうございます」
最後に軽く会釈をして、研究室を出た。相変わらず、そこここの研究室から変な色の煙が見えたり、謎の音がしたりと廊下に立っているだけでも騒がしさが押し寄せてくる。
ここから最も近いのは、治癒魔術学の先生の研究室だ。ただでさえ大きな館で、講師陣の研究内容が周囲に干渉するのを防ぐ為に部屋同士の間隔が広く取られている。私が受講している講義の中では一番近いというだけのことで、すぐそこという近さではない。
一周して戻ってくるまでには、少し時間がかかるかもしれない――と足を踏み出した時、
「それにしても、ハントさんは数奇な縁にあるというか、不思議なものに好かれるというかだねえ」
妙に感嘆したような声が聞こえてきて、思わずが目が瞬いた。歩きながら隣を見上げてみれば、レインナードさんより随分と近い場所から見下ろす眼差しが向けられている。
「あちこちで事件を起こす危険勢力に狙われたかと思えば、その一派の亡国の戦士に一方的な情報提供をされる。それと同列に語ると怒られそうだけど、ルカのこともさ」
「ソイカ技師ですか?」
「そう。僕が夏期休暇にルカを訪ねてサインをもらえって課題を出すのは毎年のことなんだけど、未だかつて達成した生徒がいなかったんだよね」
「えっ」
ついつい素の声が出た。衝撃の新事実。ただのフィールドワークだと思っていたのに、そんな曰く付き(?)の課題であったとは。というか、よくそんな鬼畜めいた難易度の課題を出し続けていらっしゃったな……。
「ルカは腕は文句なしに超一流だし、自分が認めた人間には面倒見がよくて親身なんだよね。問題は、その『認めた人間』が滅多に現れないってことなんだけど。――で、ハントさんは初のサイン獲得者な上に、あいつの鳥ってオマケ付き。あの偏屈にどんだけ気に入られたのかと思って。しかも、この前に手紙届いてさ。『ライゼル・ハント嬢に良く教えるように。半端なことを教えるくらいなら、俺の下に寄越せ』なんて書いてくるんだよ」
「ソイカ技師には、非常によくしていただきました」
何だか少しむず痒いような気分で、そう答える。そう答える他に言葉が思い浮かばなかった、とも言うけれど。そこまで言ってもらえるのは身に余る光栄だ。
「うん。君はルカによく面倒をみてもらって、ルカは君にそうしてもいいと判断した訳だ。僕だってハントさんといい生徒だと思っていたけど、あのルカーシュ・ソイカにそこまで言わせるとなると、何かもう一種の尊敬が湧いて出るんだよね」
デュナン講師がおどけた仕草で肩をすくめてみせる。ソイカ技師と良好な関係を築くkとができたのが、どうやらデュナン講師にとってまた別種の評価軸としてカウントされたらしい。
「ラフィだって、君のことを『妹弟子』なんて言ってるしね。君の師匠ならルイゾン師よりもルカになりそうなのに。……だから、僕も少しくらいお節介を焼いてみたって紛れるでしょ」
「紛れる」
「もし護衛の手が他に必要になったら、連絡して頂戴よ。すぐに動かせる人形で、戦闘用のがいくつかあるから」
デュナン講師がにこりと笑んでみせる。その言葉に「ありがとうございます」と述べる一方で、それほどまでの状況に陥っているのだと思うと寒気を禁じ得なかった。
それからの六つの研究室を訪ねて回る道行きは、幸いにも大過なく済んだ。アルドワン講師のところでは少々波乱と言えなくもない事態が発生したりもしたけれど、当初の目的は達成され、こちらのお願いは聞いていただけたので問題と言えるほどのことでもない。
ラファエル卿が師事していたように、デュナン講師も学生時代にアルドワン講師に教わっていたことがあるのだろう。詳しくは明かせないのですが、と前置きして事情を伝えた途端、「ユベール」と厳しい声がデュナン講師を呼んだ。
「その件には、大方ラファエルも関わっているのでしょう。いくら〈碧礫〉の銘を与えられているとはいえ、ハントさんはまだ学生です。あまり深く巻き込むものではありませんよ」
斯くて、大変に険しい表情で斯様な一言が発されたのである。これにはデュナン講師も「ラフィにはよく言い聞かせておきます」と返すのが精いっぱいだったようで、半ば逃げるようにして退室することなった。
いずれにしても、今日お願いに上がって、すぐに資料を用意していただけるはずもない。土台無理な話なので、追々デュナン講師を通じて届けてもらえるという。保護場所へ移動するにしても、数日は少しバタバタするだろう。ちょうといい猶予になるはずだ。
ホッと息を吐きつつレインナードさんとラファエル卿のいる研究室へと戻ると、
「おう、お帰り。用事は全部済んだか?」
真っ先に聞き慣れた声が飛んできた。
こちらの話し合いも一区切りついた後だったのか、レインナードさんもラファエルさんも既に席を立っている。今すぐにも行動開始せんとばかりの様子だ。
「はい、お陰様で」
「じゃあ、この後はラファエルの乗ってきた馬車に便乗して、一度清風亭に戻るぞ。そこで荷物をまとめたら、お前は先にラファエルにくっついて隠れ家に先行。俺は傭兵ギルドに顔を出して、ちょいとあれこれ話をしてくる。検討中だった依頼もできなくなったって報告しがてら、依頼書も返してこなけりゃなんねえからな」
「ああ……やっぱり、その辺りはいろいろ手続きが必要になってしまいますよね」
「そうだな。まあ、その辺は俺が全部片してくるから任せとけ」
レインナードさんが軽く請け合ってくれるので、今日だけで何回目になるかも分からない「ありがとうございます」を返す。私にもっとできることがあれば良かったのだけれど。
そういえば、ラファエル卿に尋ねてみようと思って忘れていたことを思い出した。私が北方の神に関わると思われる事件の解決に協力すると志願すれば、故郷に守りの手を割いてもらえたりしないだろうか。……ただし、私がそういうことを言い出すとレインナードさんまで巻き込むことになるのは確実だ。かといって、私だけで志願するのはレインナードさんが許さない気がする。
後で隠れ家に着いてからでも、改めてラファエル卿とレインナードさんと話してみよう。
王立魔術学院から直行してきた立派な馬車が清風亭の前に横付けされた時点で、女将さんたちは異常事態を察していたに違いない。表の扉をくぐってすぐのところでで待ち受けていて、私とレインナードさんが順に扉をくぐるのを見るなり大きく息を吐いた。
「今度は一体何事だい?」
「ちょいと面倒事でな。しばらく外に出てることになった」
「そこまで長くかけずに戻りたい気持ちはあるのですけれど、どうなるかは分からないので……。戻るまでの間、部屋のお掃除をお願いできますか?」
レインナードさんと私が相次いで口早に言うと、女将さんも長々と問答している暇はないと察したのかもしれない。分かったよ、と肩をすくめてみせると、わずかに表情を緩める。
「部屋のことは任せておきな。その外出ってのも、いつも通りに二人一緒でなんだろ?」
「この後はちょいと別行動になるけどな。俺も俺で片付けとかなけりゃいけねえことがあるし。そんでも騎士団の精鋭部隊が面倒見るっつってるから、心配はねえさ」
「そうかい。細かいことは分からないけど、ちゃんとライゼルを守っておやりよ」
「当然、そのつもりだ」
きっぱりと言い切ったレインナードさんが私の背を軽く押し、二階へと繋がる階段の方へと促す。騒がしくならない程度の速足で階段を上がり、途中の廊下で分かれて各々の部屋へ。
部屋を引き払う訳ではないので、アルマに向かった時のような旅支度で構わないはずだ。探索用の鞄にあれやこれやの荷物を詰めていると、思いがけず外から部屋の扉を叩く音が聞こえた。
階段を上がったのは私とレインナードさんだけ、他に長期で部屋を借りている人はいない。……となれば、自然と選択肢は絞られる。
「何かご用ですか?」
問いながら、来客の確認をするよりも早く扉を開ける。予想通り、廊下に立っていたのはレインナードさんだった。
「ご用だが、確認してから開けろよ」
「この状況で、他に訪ねてくる人もいないかと思いまして。――どうかしましたか?」
肩をすくめて返し、先を促す。レインナードさんはまだ少し不満げな顔をしていたけれど、時間がないのはお互いに了解していることだ。小さく息を吐いてから「俺は」と切り出した。
「先に出て、傭兵ギルドに行ってくる。元々の荷物も大してねえしな」
「分かりました。ラファエル卿が用意してくださった隠れ家の場所は、ヴィゴさんも聞いてるんですよね?」
「ああ。悪くねえ場所を用意したっつってたから、快適は快適なんじゃねえかな」
そう言って一度口を閉じると、レインナードさんは荒っぽい手つきで頭を掻く。どうやらまだ話は終わりではなく、何かを言い淀んでいるように見えなくもない。……この急ぐ最中に。
さっきから、どうにもらしくない振る舞いだ。私がそう思っていることに気付いたのか、一瞬目が合うとレインナードさんはばつがわるそうな顔をした。
「悪いな、俺も俺で調子が狂ってんだ。……たぶん、こいつは戦争騒ぎになる。ちょっとした小競り合いじゃねえ、それなりの規模の戦闘がどこかで起こる」
俺は、初めてそれが怖いよ。
低い声で呟かれた内容に、知らず目が見開く。怖い? レインナードさんが? そんな感情が存在していないんじゃないかと思えるくらいに果敢で、勇猛に見える人なのに。
「もちろん、俺自身が戦うのがとか死ぬかもしれねえのがってことじゃなくてな。お前がそれに巻き込まれて、最悪のことが起こったらと思うとさ」
付け加える台詞で、小さく「ああ……」と声が漏れた。そういう意味でなのか、と。
「ヴィゴさんが傍にいてくれたら、仮に巻き込まれてもどうにか切り抜けられるんじゃありませんか」
「そう尽くすでいても、戦場じゃ何が起こるか分からねえもんだ。どんな不測の事態、不慮の事故が起こるやら定かじゃねえ。お前は安全な場所にいられるなら、その方がいい」
「……そうですね」
他に返せる反応もなく、月並みな台詞ばかりが口を突いて出る。
実家にいた頃に山で狩りを教えてくれていたサロモンさんも、常に細心の注意を払って先導してくれていた。敵らしい敵がいない山でも、それだけの配慮がいる。それが危険しかない戦場であったら、どれだけ大変なことだろう。
そもそも、私をいろいろな仕事に連れて行ってくれたレインナードさんにしても同様だった。どんなに簡単な仕事でも入念に準備をし、出先では危険がないように目を光らせて面倒を見てくれた。ギルドの契約で別途費用が出ているにしても、大変だったはずだ。割に合わないことになっていなかった保証もない。それよりも更に負担を増やすのは、いくら何でも気が咎めた。
だろう、と頷いてみせたレインナードさんが、未だ少しの笑みの片鱗も窺えない真剣な表情を浮かべて続ける。
「敵がお前個人を狙ってくるなら、いろんな手を打ってくるはずだ。もしかしたら、どうにもならねえ状況で俺がお前の傍を離れなきゃならねえことも出てくるかも分からん。そういう時はラファエルなり、あいつの部下なり、計算できる戦力の傍にいろ。絶対に一人になるな」
「あんまり想像したい事態じゃありませんが、そうするように努めます」
「絶対にそうしろ、絶対に。――それから、故郷が心配なのは分かるが、無謀な駆け引きもするんじゃねえ。下手にこの事件に関わろうとすれば、さっき会った先生が心配してたように、前線にまで引っ張り出される可能性が出てくる。前も言った気がするが、お前がそうやって無理して死ぬような目に遭ってまで何かしてほしいとは、家族も思わねえはずだ。分不相応な成果を求めて戦場に向かっても、良いことにはならねえ。それを覚えておけ」
まっすぐに目を見て告げられる言葉は、紛れもなく私の思考を見透かすものだった。
レインナードさんも、とっくに気付いてはいたのだろう。私がどうにかして故郷の守りを厚くしたいことを。その為になら、どんなカードを切ってもいいかと思っているかを。……だから、デュナン講師の研究室では、あんなにも厳しい声を上げて止めた。
とても親身になってくれていた人だから、こうして言葉を尽くしてくれるのは分かる。けれど、どこか不安でもあった。まるでもう二度と会えないから言えることを全て言っておこうとしているかのような、妙な性急さのようなものを感じる。
「ヴィゴさん」
咄嗟に手を伸ばし、その腕を掴む。レインナードさんはゆっくりと瞬きはしたけれど、拒みも振り払いもしなかった。それなのに、嫌な不安感が胸に込み上げてくる。
「何だか、どこかに行ってしまうように聞こえるんですけど……傭兵ギルドに行ってくるだけですよね?」
「何だ、され慣れねえ説教で弱気になったか? 俺が今ここでお前の手を放す訳ねえだろ」
こちらの不安に反し、レインナードさんはあっけらかんと笑う。……確かに、それはそうだ。ここで「ハイさよなら」とする人ではない。そんなの、分かりきったことだったのに。
「そういう訳ではありませんけど」
「まあ、俺も調子が狂ったついでに、らしくもねえ長話しちまったしな。さっさとギルドに用事を済ましてこねえといけねえし、お前も下に馬車待たせてる。時間を取らせて悪かった」
「いえ、全然大丈夫です。ヴィゴさんも、私の護衛として目を付けられているかもしれません。気を付けて行ってきてください」
「おう、分かってる」
頷いたレインナードさんが一歩下がるので、自然と腕を掴んでいた手も離れる。解放された手が扉のノブを掴み、ゆっくりと閉めてパタンと音を立てた。
しんとした静寂の中、扉の向こうでかすかな足音が上がり、階段を下りていくのが聞こえる。思えば、この数ヶ月はずっとレインナードさんが傍にいた。それはそれで大概にすごい話ではあるものの、慣れてしまえば単なる日常でしかない。
今、その日常が久しぶりに変わる。そう思うと何だか少し心細いような気がしてくるのだから、人間とは不思議だ。それ以前は一人でいるのが普通で、当たり前のことだったのに。
「……子どもでもあるまいし」
半ば自分に言い聞かせる為に呟き、踵を返して荷造りを再開する。
レインナードさんがあれだけ警戒しているのだから、私も単なる旅の用意ではなく、相応の装備を整えていくべきだろう。弓矢と短剣だけではなく、持っていける限りの魔石とか。鞄のあちこちに魔石を入れた小袋を突っ込んだせいで鞄は大分重くなってしまったけれど、いざという時に手札がなくて困る方がいけない。
多分に重装備めいた鞄を背負い、弓矢と短剣の装備も確認してから部屋を出る。階段の下では心配そうな顔をした女将さんと旦那さん、それからラシェルさんの姿があった。
「すみません、ちょっと行ってきます。たぶん、そんなに長くはかからないと思いますから」
気を付けて、と口々に掛けてもらえる言葉に会釈を返し、玄関の扉を押し開けて外に出る。馬車は出入り口のすぐ前から少し移動してはいたものの、ほんの数歩分のことでしかない。大股に歩み寄ると、馬車の傍らに控えていた御者の男性が戸を開けてくれたので、お礼を言って乗り込む。
「準備はもういいのかい」
「粗方は。消耗品の類は、また後で調達させていただけると助かりますが」
「もちろん。指示をもらえれば、ご所望のものを用意しよう。――ジョス、出してくれ!」
驚くほど広い馬車に向かい合って座りながらのやり取りと並行してラファエル卿が御者の方に指示を出し、馬車が動き出す。
こういう時、物語では窓に布が掛けられて外が見えなくされていたり、目隠しをされていたりして目的地の場所をあやふやにさせようという計らいが間々見られるものだ。幸いにして、私の身にはどちらも降りかかることはなかったので、周囲の様子はしっかりと窺うことができる。
馬車は大通りを走り、王都の中心部に向かっているようだった。貴族の邸宅が並ぶ、良からぬ者に狙われている可能性のある人間を連れて行くには、あまり適切ではないのじゃないだろうか。
「どこに行くか不安かな?」
「……不安というよりは、もしも再度の襲撃があった場合に被害が大変なことになってしまうのではないかと」
「なるほど、実に冷静な見方だ。だが、奴らも正面切って騎士団と事を起こす気は、少なくとも今はないものと思われる。この国の全てを向こうに回して構わぬというのであれば、ちまちまとした陽動など仕掛けまいよ。騎士団の目が常に光っている場所であれば、そう軽く手出しはできないはずだ」
ラファエル卿が軽く肩をすくめてみせる。言われてみれば、確かにその論もあながち間違っていないように思われた。
私とレインナードさんを襲った時も、奴らはわざわざ別の場所で爆発事件を起こして騎士団の意識をそちらへ向かせてからという念の入れようだった。それなり以上に周到で、それなり以上に用心深い側面があるのは間違いない。
同時に、私を襲いはしたものの、そこまで何が何でも始末したいという訳でもないのだと思う。そうでもなければ、監視しておかなければならない手駒に全てを投げっぱなしにして自分が先に帰ったりするはずがない。とはいえ、あちらも私に対して悪感情を隠しもしなかった。隙あらば殺しにくる、という可能性までも否定するものではない。
「いずれにしましても、しばらく御厄介になります」
「何、構わんさ。日頃もさして顧みられることのない私の別邸だ。ようやく日の目を見ると思えば、使用人たちも喜ぼう」
「別邸……」
しかも、普段は使っていない……。私のような庶民では逆立ちしても出てこない台詞である。内心慄く私を他所に、ラファエル卿はあくまで穏やかに気さくに会話を回してくれ、暫しの馬車移動も退屈を覚えることは全くなかった。
やがて到着したのは、王都内の一等地――シュザン地区の一隅だ。馬車が停まったのも、これが普段はあまり顧みられることのない別邸だというのが信じられない大豪邸の前である。正門の前でごく短い待機時間があったかと思うと、自動で門が開いて馬車がその間を進んでゆく。
馬車はゆっくりと石畳の道を進んでゆき、窓からは見事に手入れのされた前庭が窺える。色とりどりの花々、きっちりと剪定された木。どこを取っても立派としか言いようがない。純粋な建物見学で訪れていたのなら、そこらじゅうを歩き回って目に焼き付けようと勤しんだことだろう。
――しかし、その呑気な思考が不意に切り替わる。
魔術師としての知識と感覚が、明確な警鐘を鳴らしていた。決して気のせいではない、看過してはならないと。
「ラファエル卿」
「どうしたね、そのような怖い顔をして」
私が敢えて呼び方を変えたことに気付いていないはずもないだろう。それでも、この国一番の騎士と謳われる御仁はあくまで平然として首を傾げてみせる。
「何故、門を閉ざしたのです」
「馬車を通す為に開けた門だ、通り抜けたのならば閉じるのは当然のことではないかね」
「言葉遊びをするつもりはありません。今しがた発動したのは、このお屋敷に対する一切の干渉を阻む高度遮蔽の術式でした。私を隔離する以上、そうした手段を取るのは理解できます。でも、まだもう一人が到着していません」
明白に詰問するトーンを作って言い募るも、ラファエル卿は動じない。座席の背もたれに身を預けたまま、じっと私を見つめている。
一体、この人はどういうつもりなのだろう。先ほど起動した術式は、肌感覚的に予め設定した例外を除いた一切の外部干渉を防ぐ一方で、おそらくは私の脱走も防ぐ役割も持っているものと推察される。この場所に連れてきた以上、下手に周囲をうろつかれては困るという判断もまた、理解の容易い論理ではある。
しかし、そもそも私自身が迂闊に外に出るべきではないと理解しているのだ。わざわざこんな騙し討ちのようなことをする必要はどこにもなく、ラファエル卿とてそれは分かっているはず。……ならば、もっと別のところに理由があるのでは。
「私とヴィゴさんを分断して、ヴィゴさんを騎士団で使うおつもりですか」
「君はつくづく冷静で頭がよく回る。宮廷魔術師を目指すのは止めて、私の隊で腕を揮わないかね?」
「ラファエル卿」
はぐらかす一言を前に、今までで一番強い声が出た。
ラファエル卿は「軽口が過ぎたか」と苦笑する素振りを見せたかと思うと、
「君の傭兵は、ここには来ない」
やおら表情を引き締め、そう言い放った。
私の傭兵が、ここに来ない? 発された言葉の意味は分かるのに、何を言われているのか訳が分からなかった。
「……何ですって?」
問うて質すというよりは、ただ単に沈黙し続けていられなかったがゆえの問いを口にすると、ラファエル卿は上着の懐から何やら取り出す。そうして掌に乗せて差し出されたのは、見覚えのある薄桃色の色彩。
「何故、あなたが、これを」
問う声は不覚にも掠れていた。それでも、無理からぬことだろう。
ラファエル卿が私に差し出していたのは、あのアルマでの山越えの旅の最中――私があの人に私がラムール石の飾りだったのだから。




