10:運命の輪は回る-4
4.それぞれの岐路
――来る。
そう感じた瞬間、考えるよりも早く身体が動いていた。刃を地面に向けて短剣を捧げ持ち、口早に唱える。開式。
「白輝・黒晶・輝石の境界。――私の眼はあなたを見据え、私の声はあなたを阻む」
足元に散りばめた石が一斉に魔力を放ち、防壁を生成する。その間際、視界の全てを覆い尽くしたのは怖気が走るほど底なしの黒色だった。黒。……いや、あれは闇だ。どこかの深い深い冥闇が、剣を通じてこの場に顕現している。
あまねく生命を呑み込む、原初の恐怖。その具現。しかし、この窮状にあっては素直に畏怖に震える暇などなく、かえってそれが幸運でもあったのだろう。
ごおん、と大きな鐘を錯覚させる音を聞く。その余韻も消えやらぬうちに襲いかかってきたのは、巨大な手に握り込まれているかのような圧力だった。ぬばたまの暗闇に締め上げられた防壁が軋み、じりじりと押し込まれてゆく。少しずつ、けれど確実に後退する防壁に磨り潰され、地面に撒いた石が外側から順に砕け始める。
短剣を掲げているはずの手は、今や素手で防壁の向こうの闇を押し返しているかの如き感覚に囚われつつあった。指先はかじかんで痙攣し、息は詰まって喉を痛ませる。怖い。辛い。苦しい。脳内を席巻する思考は、不思議とどこか他人事のようでもあった。痛いし怖いし辛くて苦しいのも事実ではあるけれど、今はそんなことにかかずらっている場合ではない。
そう決めたのに、頭の中に入ってくる。湧き出してくる。――ならば、それは私自身から生まれるものばかりではなく、あの闇から染み出すものに他ならない。
教会の祝福を受けた短剣で拮抗できる事実を含め、それは一つの可能性を示唆してもいた。善くあれかし、と説くからには、比較対象として善くないものがなければならない。信心薄い私でも、その説話は知っている。
創造神と相反する、対になる神。過去において大陸を我が物にせんと侵略戦争を引き起こし、北の果てに封じられた悪神。堕落を謳い、苦痛を喜び、悪逆を是とする一柱。
その神に付随する要素の一端を引き込んでいるだけだとしても、これほどの脅威だ。何としても凌ぎきって情報を持ち返り、騎士団に通報せねばならないし、何をしてでもその脅威が村に及ぶのを防がねばならない。……そして、この場にいるのは、私一人だけではないのだ。
私の私利私欲で、撤退の選択肢を奪ってしまった。せめてそれを埋め合わせるだけの働きを、してみせなければならない。
ひゅうひゅうと笛にも似た音を立てる喉では、もうまともに言葉を紡ぐこともできなかった。代わりに折れそうな肘を意地だけで伸ばし、ひたすらに短剣へ魔力を注ぐ。どうにか後退し続けてきた防壁を止めるまではできたものの、すぐにはそれ以上押し返すのも難しい。
今はどうにか現状を維持し、機を見て反転攻勢に出られれば――
「お前はどうして、そうなんだろうな」
頭の中で計算を巡らせていた時、不意に背後から声がした。
足元の石を避けて槍が地面に突き立てられたかと思うと、後ろから二本の腕が伸びてきた。大きな掌が私の手ごと短剣を握り込み、少しでも気を抜けば落ちてしまいそうな腕を支えてくれる。
「『守ってやる』じゃなくて、『助けてくれ』って言やあいいんだ。子どもなんだから」
頭のすぐ上で声がする。……分かっている。
そう頼めば、きっとレインナードさんは私を助けてくれてしまうだろう。でも、子どもとも大人ともつかなくなってしまった曖昧な心が、どうにも半端に踏み止まらせてしまうのだ。
私たちの間にあるのは、利害関係の一致とも言える契約に基づくものだけ。家族でも、親族でもない赤の他人。その無関係さを承知の上で甘えるのは、一度は大人になってしまった自我が躊躇わせる。家族や故郷だけを思って他者を巻き込むのは、潔癖さにも近い若さがダメだと騒ぐ。
そもそも一方的な理由で利用させてもらうには、私たちはもう親しくなりすぎた。
「まあ、お前は傭兵じゃなくて魔術師だもんな。その辺の感覚が違うのは仕方がねえか」
傭兵は目的を果たす為に動く。時には小狡い手も使うし、いろいろな計算も巡らせる。
囁く声と一緒に、触れた手から注ぎ込まれるものを感じた。短剣の祝福を拡大させる魔力。感覚がなくなりそうな手を癒す術式。呪いを阻む防壁は私の術式で、私が創り出したものだ。それにレインナードさんが干渉することはできない。だから、私を支えてくれている。
「何にしても、意地を張ろうとしたんなら最後まで張り通せ。手伝ってやるから」
与えられるものが、この期に及んでまだ増える。萎えかけていた腕に力が戻り、防壁も少しずつ押し返せるようになった。
「奴のところまで押し返せば、否応なしに全部消し飛ぶだろ。一気にいくぞ」
分かりました、と声に出して答える余力まではなかったので、頷いて了解を示す。
低い声のカウントダウン。一秒ごとに鼓動の高鳴りがいや増し、解放の時を待つ魔力が収束の密度を上げる。ゼロの宣言を聞いたと同時、残る魔力をありったけ短剣へと注ぎ込んだ。別のラインから雪崩れ込む魔力と混ざり合い、爆発的な光が生まれる。
視界を焼く白は、ほとんど痛みに近かった。
路地を満たす光が消えるまでに、どれほどの時間がかかったのかは分からない。一瞬だったのかもしれないし、数秒だったのかもしれない。それも気になるものの、今は頭の中に入り込んでいた余計な感情がすっかり消えた解放感で上手く頭が動かなかった。
これまで全身を苛んでいた圧力も消えて、身体も随分楽だ。痛みの残滓はあるけれど、じきに薄れて消えるだろう。何はともあれ、状況は落ち着いたと言っていいはず。
「結界も消えたが、鎧の野郎も消えてんな。……まあ、撤退しねえ訳もねえとは思っちゃいたが」
安堵とも虚脱ともつかない状態でぼんやりしていたところ、分かりやすく不服げな声が聞こえてきて我に返る。まだ目はチカチカしていて、周りの景色はよく見えない。
「何か、周囲に残っているものは、ありませんか」
「何か……欠片みてえなもんが一つ落ちてるな。鎧か兜か、その辺のじゃねえか」
「拾いに行きたいのですけど」
「分かってる、ちょい待て」
その前に、という一言と共に大きな掌で目が覆われた。そっと瞼が下ろされ、あたたかなものが掌を通じて伝わってくる。痛みを和らげ、違和感を軽くしてゆく、これは――
「ヴィゴさん、治癒魔術が?」
「戦働きもする傭兵稼業にゃ、継戦能力も重要だからな。さすがにちぎれた腕を新しく生やすとか、吹っ飛んだ内臓を作り直すとかまではできねえが」
「そこまでできたら、治癒魔術師を本職にした方がいいですよ」
軽口を叩いているうちに、目の痛みも治まってきた。頬の辺りでパリパリする感触もあったので、もしかしたらまた少し血が流れて固まっていたのかもしれない。
「よし、これでいいだろ。本当は一度医者に診せておくのが一番だけどな」
「大丈夫です。もう全然痛くありませんし、ちゃんと見えてますし」
「そう言うだろうとも思ってたよ」
頭の後ろでため息。掌が目元から離れると、すっかり目の痛みも落ち着き、いつも通りに見えるようになっていた。ホッと吐き出した息は、今度こそ掛け値なしの安堵によるものだったと思う。
「ありがとうございます。……結局、助けてもらってばかりで」
「そうだな。助けるのは構わねえが、もうちょい俺が助けやすいように立ち回ってもらいてーもんだ」
口調は軽く言いながら、レインナードさんが私の横をすり抜けて歩き出す。地面に突き刺していた槍を回収しつつ足を向けた先は、あの鎧の戦士が倒れていた路上だ。そこに、何やら黒い金属片のようなものが落ちている。
レインナードさんが爆破した鎧や人形の素体の破片が残っていない中、それだけ残っているというのは逆に不自然極まりない。あの人が意図的に残していったとみるのが妥当なのではないだろうか。
「どこのどれとは言えねえが、さっきの野郎の鎧のパーツとかっぽくは見えるな」
レインナードさんが金属片を拾い上げ、こちらへ戻ってくる。駆け寄るほどの元気はなかったから、短剣を鞘に収めしな一歩ずつ地面を踏み締めてゆっくり歩き、合流を図った。
「他に気になることとかはありますか?」
「紋章があるのと、裏に文字が彫り込んである。俺にゃ読めねえやつだ」
歩く速さの差の分だけ、レインナードさんの方が詰める距離も長い。すぐに傍まで歩み寄ってきた人が手に持ったものを差し出してくれたので、受け取って検めてみる。
黒い金属という印象に誤りはなさそうであるものの、ただの板ではなく少し湾曲していた。レインナードさんの見立て通り、あの人の鎧を構成する一部分だったのかもしれない。表面には王冠を頂く盾と山脈を背にした狼の紋章。湾曲の内側の面には粗く文字が彫り込まれている。……確かに、これは読める人の方が少ないはずだ。
「古代文字ですね。ラビヌと書かれています」
「ラビヌ?」
レインナードさんが怪訝そうな声を上げたと同時、路地の入口の方から人の声と重い足音が聞こえてきた。はたと思い出して上空を見やれば、光で紡いだ文字が浮かんでいる。いつのまにやら、レインナードさんが救援要請を上げていてくれたようだ。
ちらと視線をやってみれば、レインナードさんもその到着に気付いていたらしい。音源の方へ顔を向け、少し難しい表情をしている。
「本職が来たな。俺が奴らと話すから、お前は休んでろ。何か気になったこととか補足することがあったら、そん時は都度割って入ってくれ」
「分かりました」
レインナードさんの指示に頷くのと前後して、足早で重い靴音が路地に入ってきた。
反射的にその数を数え始めてしまったのは、一種の職業病のようなものだ。それにしても、思ったより数が多い。少なく見積もっても二十人はいそうだ。しかも、その衣装もまた目を引く。濃紺の揃いの装束の上に軽装の鎧を重ねており、胸の徽章は赤い宝石と獅子。どこかで見たような色彩と衣装だった。
もしや、あの部隊は……と内心で怪しんでいる間にも、一行は近付いてくる。先頭に立って一団を率いてくるのは、身にまとう色彩とはまた少し違うトーンの明るい紺青の髪をした男性だ。歳は三十後半か四十過ぎというところだろうか。
無言でレインナードさんが私の前に出て、濃紺の集団から隠すように立ちはだかる。その警戒を見て取ったか、紺青の髪の男性はある程度距離を残したところで足を止め、恭しく礼を取ってみせた。その出で立ちの物々しさに反し、朗らかで穏やかな物腰なのが少しだけ安心する。
「お初にお目にかかります。私はグザヴィエ・ヴァイヤン、ラファエル・デュランベルジェ卿が麾下として王立騎士団は〈紅玉の獅子隊〉に名を連ねる者です。宝石盗人出現の知らせを受け、ライゼル・ハント嬢を救出すべく参じました」
「なるほどな。怪しいほどに早えお着きだと思ったが、兄弟子がこの状況を予期して手勢を配備してたって訳か」
「左様でございます。ラファエル卿は件の宝石盗人の暗躍とハント嬢の安全について、非常に心配しておいででした。有事の際には可及的速やかに救出に向かうよう指示されておりましたので、我々も急ぎ駆けつけた次第ですが――さすがの〈獅子切〉殿におかれては、此度もご活躍のよう」
「まあな。予測できる危機にも対応できねえんじゃ、護衛として雇われた意味がねえだろうよ」
「ハント嬢の傍に、あなたのような傭兵が控えているのは実に幸いでした。可能であれば、詳しいお話をお伺いできればと」
「こっちも事情を話すにやぶさかじゃねえが、今は肝心のお嬢ちゃんが盗人撃退の余波で倒れる寸前だ。また別の日にしてもらっていいか」
「なんと……。ハント嬢は大事ありませんか」
その問いに、レインナードさんもすぐには答えなかった。自分が答えていいのかどうか、判断に迷ったのかもしれない。実際、私を名指しにするに近い言い回しであるので、レインナードさんに答えさせてしまうのも申し訳ない話だ。
私を庇ってくれる人の背の横から顔を出し、グザヴィエ卿へ「はい」と応じる。
「ヴィゴさんのお陰で、どうにか平気です。ただ、今は事情聴取に応じられるだけの余力がありません。明日以降――できれば、ラファエル卿に直接お話させていただければと思うのですけれど」
「ラファエル卿は多忙につき、只今も王都にいらっしゃいません。他の者では障りがございますか?」
しかし、それは少し意表を突く答えだった。王都にいない?
「では、どちらに出掛けておいでですか? サパン? それともオルムですか?」
そう口にした途端、辛うじて察せる程度にグザヴィエ卿の纏う空気が変わった。ほんのりと鋭さを帯びる。それを感じ取ったのはレインナードさんも同じらしく、手振りで後ろに隠れているように示されたけれど、まだ隠れる訳にはゆかない。
私が持つ騎士団への伝手で、最も有力なのがラファエル卿だ。その御仁が王都に不在であるというのなら、何とかして連絡を取らなければならない。その為には、今目の前にいる人たちを伝うのが一番確実で早いはずだ。
グザヴィエ卿も、今までは私を単にラファエル卿が気に掛ける子どもとして見ていたのかもしれない。それが先の問いによって変わった。子どもは子どもでも、一連の事件について何かを知っている子どもであると。それならば、話を聞いてもらえる道筋も見えなくはない。
「何故、そのように思われたのですか?」
「この国において連続して起きている事件の根底に流れる企みについて、近しく触れたことがあるただ一人の方だからです。……ああ、いえ、だからこそ、違いますか。サパンでもオルムでもない、どこか別の場所に足を運ばれていらっしゃる? 事件の捜査をするにしても、街中で跡形もなく吹き飛んだ自動人形の核など見つけるのも容易でないはず。よしんば欠片が見つかったとしても、情報を拾える状態ではない。そのような現場では、ラファエル卿をお連れしても時間を無為にしてしまう可能性が高いですものね」
長広舌になってしまうのを承知で、思っていることを全て述べる。その結果として発生した変化も、想定の範囲内ではあったものの、さすがに緊張までもは抑えきれなかった。
グザヴィエ卿はそれまでの朗らかさを打ち消し、まるで別人のように鋭い眼差しで私を見ていた。
「ハント嬢、あなたはどこまでご存じいらっしゃる」
「知っていることは、それほど多くありません。ただ、断片的に知り得た要素を繋ぎ合わせ、推測しているに過ぎませんから」
首を横に振って答えると、グザヴィエ卿は小さく顎を引くだけの首肯とも言えない所作を見せた。続きを喋りなさい、ということだろう。まだ怪しんでいるものと見える。……当然のことではあるけれど。
「ただし、先の交戦でまた少し新しく得られた情報があります。その提供を勿体ぶるつもりではありませんが、こちらとしても情報取得の労力に見合う収穫がなければ困るのが本音です」
「もっともな要求ですな。あなた方は騎士ではない。傭兵と市井に暮らす学生の身の上とあらば」
「はい。――ですので、その辺りのことも含めて、なるべくならラファエル卿とお話をさせていただければ、非常に有り難く存じます」
我が儘を申し上げてすみません、と最後に一応の気持ちの表明として頭を下げてみせる。つい今さっきとは決定的に質を異にした空気の中では、怖気づいていないと装うだけでも一苦労だ。それでも、ここで仕損じることは許されない。
どうにか見切りを付けられずに話を進める。そうでなければ、意地を張った意味がないのだから。
「さすがはラファエル・デュランベルジェ卿の妹弟子であらせられる」
ややあってから聞こえてきた言葉に、危うく「え」と間抜けな声が出かけた。驚いてグザヴィエ卿へ目を向けてみれば、決して笑ってもいなければ当初の朗らかさが戻った訳でもなかったけれど、眼差しの鋭さがほのかに和らいで見えるような気がしなくもない。
「ラファエル卿は、あなたについて『年若い少女ながら、的確に物事を見て分析する力がある』と評しておられました。また『あの子が何か情報を持っているようなら、それを明かしてもらえるよう交渉せよ』と、私に指示を残してゆかれた。ラファエル卿に可能なことであれば、私の判断で報酬として供して構わないと――名代に立つ許可まで下さる念の入れようで」
「……そう、でしたか」
何とか相槌は打ったものの、半ば呆気に取られた思いだった。ラファエル卿はそこまで読んでいたのか。私も子どもではないつもりだったのに、この国を背負って立つ大人の手腕の凄まじさをまざまざと見せつけられては感服するばかりだ。
「あなた方は、何がしかの新しい情報を得た。それは間違いないものとお見受けする。血の涙を流すほどの奮戦の後とあらば、今日にと乞うのも憚られる。明日の午後にでも詳細を伺いに訪ねたいが、いずこへ参ればよろしかろうか」
「差し支えなければ、午後三時に王立魔術学院へお越しください。この件について話すには、疑似生命工学のユベール・デュナン講師にご同席頂いた方が良いと思います」
「承知仕った。――では明日、また」
軽く頷いてみせると、グザヴィエ卿は躊躇うことなく踵を返した。その後方に控えていた人たちも、一様に踵を返して路地を出て行く。到着の時とは逆に、グザヴィエ卿を最後尾として。
その背中を見送りながら思うことは、そりゃあもう多々ある。勝手に約束を取り付けてしまったから、明日の朝一でデュナン講師に話をしに行かなければいけないとか。アルマに引き続き――いや、今度こそ本格的に事件に巻き込まれてしまったマズいとか。
されども、今はそれ以上に気になる薄ら寒い可能性が脳裏にチラついてならないのである。
「もしかして、私は血で汚れた顔で対面していた……?」
「意地張ってヤンチャすりゃ、そういうこともあるわな」
信じがたいというより、シンプルに信じたくない気分で呟けば、隣からさらりとした口調の一言。現実をストレートに突き付けられた私は、文字通り顔を覆って呻くしかなかった。
「なんてことを……」
「向こうも一仕事した後だって分かってんだから、別にそんなしょげることねえだろ。分かりやすい証拠のお陰で、向こうも今日は引き下がることにした訳だしな。顔を見せてやっただけで穏便に帰ってくれたと思えば、差し引きゼロってもんだ」
ガックリと肩を落とす私とは対照的に、レインナードさんはあっけらかんとしている。
その意見にも一理なくはないかもしれないけれど、血に汚れた顔をしておきながら、そうと知らずに偉そうな口を叩いていたと思うと居た堪れないどころの話ではない。明日の面会が別の意味で恐ろしくなってきた……。
思わず遠い目になっていると、一転して真剣そのものの声が「それより」と呟くのが聞こえてくる。おっと、まだ気を抜いていいタイミングではなさそうだ。
「どうも、とんでもねえモンが出てきた感じになってきたな」
どうやら、レインナードさんも事態の根底に横たわるものに気が付いていたらしい。……考えてみれば、それも当然かもしれない。
彼の国について、私は疑似生命工学を学ぶ過程において知識を得た。他方、レインナードさんは生まれ育った国がゆえに自然と――否、ある種の必然として知っていたのだろう。
「そうですね。まさか、ラビヌ……北の果ての亡国の名前を見ることになるなんて」
そうだな、と相槌を打つ声は低い。
その名で呼ばれた国は、約千年の昔――かつてキオノエイデの北の国境を兼ねる山脈を越えた更に向こう側、大陸の北端に実在していた。南の隣国キオノエイデと並び、魔術研究に勤しむ学術国家として大陸でも指折りの強国として知られていたという。決して貧しい国でも、発展が遅れていた国でもなかった。……なのに、滅びた。
その原因こそが、今はラビヌの旧領土の奥深くに封じられた神の存在に他ならない。
北の悪神と呼ばれる神と、それを奉じる軍勢によるラビヌ侵攻と滅亡。神と対峙する大戦が、この大陸では神話の物語でも何でもなく、れっきとした史実なのだ。
千年前の史実が、千年後の今に追いついてきた。その可能性を文章として理解はできても、襲撃を受けた身の上でありながらもどこか現実味が薄く、実感することはまだできない。
「……一体、これから何が起こって、どうなるんでしょう」
「さてな。それを見定める為にも、騎士団やラファエルが動いてるんだろうよ」
レインナードさんの声も困惑半分といった響きをしている。だから、という訳でもないだろうけれど……ひどく寒々しく心許ない気分だった。




