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08:力無きものたちの為に-6

6.再々戦・上



 目覚めは少し窮屈で、少し暑かった。現在滞在しているのは、この夏の季節にあってさえ内部空間がある程度は涼しく保たれている脅威の館だ。本来なら暑さを意識することはそれほどない。なのに、何故――と言われれば、何もかんもが隣で寝ている人のせいである。

「狭いです」

「そりゃ一人用だからな」

 呟くと、案の定すぐに答えがあった。

 平時からあれだけ感覚器官の鋭さを見せ付けてくれる人である。私が起きたことに気付かないはずもないだろうと思ってはいたけれど、その通りであったらしい。

 身体を起こしながら、傍らへと目を向ける。呑気に欠伸などしてみせてくれている人は、律儀に「おはよう」と口にしてから起き上がった。その顎には今でこそ伸び始めた髭がちらほらと見えるものの、朝食をとる頃にはきちっと剃り整えられるのが常だ。

 振り返ってみれば、レインナードさんは意外なほどその手の身嗜みを疎かにすることのない人だった。単に自分の外見をきちっと整えておきたい主義なのかもしれないし、或いは私という子どもで女が相手だからと気を遣ってくれているのかもしれないし、はたまた他の全く違う理由があるのかもしれない。わざわざ訊くのもどうかという気がするので、いずれにしても真相が判明することもないだろう。

 気を取り直して「おはようございます」と答えつつ、軽く身体を伸ばす。普段に比べると窮屈な寝方をしていまったけれど、どこか身体が痛むというほどのことでもなかった。

「今日の計画はどうしますか」

「坊主の確保に向かうか、報告書を完成させるかだろ。好きな方選んでいいぞ」

 二人順番にベッドから下りつつ、会話は続く。好きな方を選んでいいとは、また剛毅な……。

「……では、森に向かいましょう。ヤルミルくんがまた移動していたら、捕捉し直すのに時間がかかります。今は彼の確保を優先すべきです」

「報告書の方は後回しにして大丈夫か?」

「完成までの目途は立っていますので。その前に島長の使いが再度訪ねてこないとも限りませんが、森に入って帰ってくるくらいの時間は稼げるよう手を打っておきます」

「具体的にはどんなよ」

 ベッドから離れ、部屋の出入り口に向かおうとしていたレインナードさんが足を止め、こちらを振り返る。今日の行動――作戦に関わる話であるからか、その眼差しは少なからぬ鋭さを帯びていた。

「こちらの身元を明かすと共に館と癒しの泉の関係について調査中である旨を開示し、譲渡について判断の一時保留を求めます。あちらも私の肩書を引き合いに出して状況鎮圧の協力要請を出してきているので、そこまで軽んじられることもないのではないか……という些か希望的観測にはなってしまいますが。それから、勝手にお名前を出すことになってしまうものの、不審あらば現在島長の居城を訪ねているラファエル卿にご確認いただきたいと添えておくつもりでもあります。さすがに彼の方の名前を出されては無視できないでしょうし、そちらに判断を仰ぐという一手間を入れられるはず」

 少々長くなってしまったものの、一息に今後の見解を喋りきる。それまで黙って話を聞いていたレインナードさんは「そうか」と頷き、

「ライゼル、ちょいそこ座れ」

 まるきり予想と違う反応を示したのだった。

 そこ、と示されたのはベッドサイドに置かれている椅子だ。急にどうしたのだろう、そんなにおかしなことを言ったつもりはないのだけれど……と疑問に思わないではないにしろ、座れと言われて拒否する理由もない。

 時間的な余裕にしても、未だ差し迫っているというほどではなかった。耳を澄ましてみるだけでも、館の中がまだ静まり返っていることは感じ取れる。ヴァネサさんもまだ起きていないようだった。昨日の大事件の心労の余波かと思えば、痛ましいの一言に尽きるのだけれど……。

「何でしょうか」

 ともかくも、示された椅子に腰を下ろしつつ問い掛ける。

 レインナードさんも私に対面する形でベッドに腰を下ろしていたので、その面差しがよく見えた。物憂げというか、何やら悩ましげな面持ちをしている。そうして大きく息を吐くと、重々しい口振りで切り出した。

「自分の名前と肩書を出して島長に物申せば、相応の責任を負うことになる。ラファエルの名前を出すのもそうだ。奴との繋がりを認め、周りに広めることにもなりかねねえ。……その辺りの事情は、全部理解した上で言ってるか」

「はい」

 低い声が告げるのは、とどのつまり私に対する心配でしかない。何より、問われているのも昨日から考え続け、既に腹をくくった内容である。頷いて答えるのに、少しの迷いも躊躇いもなかった。

 その即答が気に入るものではなかったのか、レインナードさんは眉間に皺を寄せ、ますます難しい表情になってはしまったものの。

「お前がそこまでする義務はねえだろ。義理はないでもねえかもしれねえが、義理を果たすにしたって荷が大きすぎる。それが分からねえほど、お前の頭は動きが浅くもねえはずだ。それでも、そうするのか」

「そうしたいと思います。そうしなければならない理由が、どこにもないとしても」

「……念の為に訊いとくが、俺の知らねえトコでヴァネサに借りを作ったりはしてねえよな?」

「もちろんです。この件に関して、ヴィゴさんが知らない事情は何一つ存在しません」

 重ねてきっぱり即答してみせると、一呼吸分の間。じっと私を見つめた後、レインナードさんは深々と息を吐いた。

「なのに、そこまですんのか」

「『そこまで』と評する感覚に全面的に同調できるかはともかく、現在想定していることは全て実行したいと思っています。――義を見てせざるは勇無きなり、などという定型句を気取るつもりもありませんが、ここでできることをしないでいては心残りになる気がするので」

 いつか聞いたような台詞だな、と思いながら最後の一言を付け足す。レインナードさんも同じことを思っていたのか、少し眉を上げる素振りを見せたけれど、それ以上は何も言わなかった。

 ややあってから、乱雑に頭を掻く仕草。また困らせてしまっただろうか。

「……ったく、お前はつくづくとびきりの優等生でとびきりの問題児だよ」

「自分でも面倒なことを言っている自覚はなくもないので、扱いかねるようでしたら、スヴェアさんに契約解除を打診された方が良いかなとは思いますが」

 できれば王都に戻ってからにしていただけると助かります、と十割保身で付け足したりなどしてみる。今この場で手を離されてしまったら、さすがに困ってしまうので。

「何言ってんだ、この問題児お嬢ちゃんはよ」

 しかし、レインナードさんは一転して軽妙な仕草で肩をすくめてみせるのだった。

「俺がそれくれーで手を引く甲斐性なしだったら、とっくにバルドゥル辺りと交代してるぜ。俺が言ってんのは俺に手間ァ掛けさす心配すんじゃなくて、自分がしんどい目に遭わねえように気にしろっつーことだよ」

「……一応、その辺りもなるべく考慮しているつもりではあるのですが」

「なるべくと言いつつ、割と軽く除外されがちな気がするけどな」

 こちらに向けられる視線がじっとりしてきた。私もここで「そんなことはありません」と言い切れるほど厚顔ではないというか、前科があるだけに何も言えない。そっと目線を外すと、おそらくは意図的だろう大仰なため息が聞こえた。

「そんなだから、ちゃんとくっついてて目ェ光らせてねえとなって思われる羽目になんだよ。もうお前の方がスヴェアに言って恩に着せた方がいいぞ、俺に『コイツから目ェ離すと何仕出かすか分かんねえから、後先考えずに楽しく戦ってる場合じゃねえ』って思わせて立ち回らせてんだからよっぽどだ」

「あのう、それは普通にご迷惑なのでは」

 問い返しながら、思わず頬がひきつった。

 レインナードさんは周りが危ぶむほどに戦うのが好きな人だ。そんな人が「戦ってる場合じゃない」などと思わされるのは、大分本意でないというか、一種屈辱的な状態なのではないだろうか。

「嫌々やってたらそうかもな。でも、俺は別にそーとは微塵も思ってねえし、お前がとんでもねえのはそれはそれで悪かねえと思わせてくるトコだよ」

 しかし、私が割合真剣に冷や汗を流しそうな心持ちでいるというのに、返事は拍子抜けするほどにあっけらかんとしているのである。少しの険もないというか、それに類似した感情が無さ過ぎるあまりに今度は私が沈黙する番だった。混乱とも狼狽ともつかないものが、答える言葉を奪っていた。

 他方、語る声の軽やかさに反して、そこに含まれた意図はまるで反比例するかのようだ。決して非難されている訳ではない、と思う。けれど、呑気に「お世話になります」などと答えるのも憚られた。そんなに軽い話題ではないのだから。――だって、それこそ先に引き合いに出されたスヴェアさんが頭を痛めていたくらいだ。

 レインナードさんが戦いに楽しみを見出し、それゆえに我が身を危険に晒す傾向があると気にしていた。その悩みが、まさか今になってこんな形で落ち着いたというのだろうか。俄かには信じられないと踏み止まらんとする自分がいる傍らで、レインナードさんが言うのならそうなのだろうと受け入れる自分もいる。……いや、今はこの件について考え込んでいる場合ではない。

「とりあえず、何か不満があったら遠慮なく言ってください。なるべく解消できるように努めたいとは思います」

「へいへい。――逆に、なんだ、俺もちょっと仕事以上に踏み込み始めてるところがあるかんな。その辺が負担になってきたら、スヴェアとかバルドゥルに相談するようにしろよ」

「それはないと思いますけど」

 本当にそう思ったので答えただけだったのに、レインナードさんは反応に困ったような顔をしていた。喜んでいいのか、別のことを言えばいいのか迷っているようにも見える。

 何故にそんな態度を、と首を傾げかけ――もしかして寸前の私のような心境を味わっているのかと思い至り、深く考えるのは止めようと再度己に言い聞かせることになった。この短期間で二回。実に意気地のない話である。



 対話を終えた私たちが身支度を整るべく部屋を出て、一通りの作業を終えた後もヴァネサさんは起きてこなかった。疲れて寝込んでいるのなら、わざわざ起こすのも申し訳ない。

 食べるものや飲むものは厨房の冷蔵庫の中に昨日の残りがある。行動の邪魔にならない程度に胃に入れてから、食堂の机に「ヤルミルくんを確保してきます」と書いた手紙と島長の使いが訪ねてきた場合の対応指示書を残し、大部分の荷物は置いて戦闘装備で館を出た。

 夏空は朝早くとも全天が白みつつあり、既に辺りは薄明るい。視界の確保に気を遣わなくて良いのなら、移動の足も鈍らずに済む。朝靄が漂う森を、レインナードさんの先導でひた走った。

「今のところ、坊主は罠の中から出た気配はねえな。破られれば俺に知らせが来る程度のチンケな罠じゃあるが、知らせが来るだけでも今は使えるだろ」

「ええ、ありがとうございます。どこから突破されたか分かっているだけでも、追跡の助けになります」

 ヤルミルくんの射程を想定に入れ、索敵の魔術は半径四キロほどを目安に展開している。レインナードさんが言うように、感知できる範囲内でそれらしき動きはない。

 どの程度の接近で向こうに勘付かれるかは分からないものの、純粋な射程距離は向こうの方が上だ。先手を取られるリスクは常に念頭に入れておいた方がいい。幸い、早朝で辺りには靄が残っている。いざとなれば、それを転用した防壁を前面に押し出して距離を詰めるのも有りだろう。

 前を走る人の背から目を離さないように意識しつつ、周囲の索敵を並行する。時折先行する人が後ろからも見えるように側面へ手を出し、指の動きで何がしかを伝えてくれることがあった。いわゆるハンドサインだ。

 森に入る狩人は、必ずしも一人であるとは限らない。故郷にいた頃でもサロモンさんが私に狩りを教える為に連れ歩いてくれたこともあれば、日々の糧を得るのではなく害獣の対処として複数人で連携して動くこともあった。そうした場合には声を発せないことも間々あり、簡易的な符丁としての手話を用いるのも珍しくない。

 私が知っているものは、予めレインナードさんに伝えてある。以前に自身を指して「学がない」と評していたことがあったけれど、それは単に学歴がないだけのことであり、本質を語るものでは決してない。普通以上に聡い人であるし、頭だって相当に切れる。教えた手話はすぐに覚えてしまったし、今もそれで残りの距離を適宜教えてくれていた。

 間を置いて提示されるカウントダウン。残り四キロ(リコ)、と伝えられた時は背筋が少し冷えた。つまり、いよいよ彼の射程に入り込むことになる。……しかし、その後も予想外に周囲は静かなままだった。

 ――残り二リコ。

 そう伝えられた時は肩越しに窺う視線も添えられたので、初めてこちらからも手話で返した。

 ――射線の通る位置を探す。見つかり次第射る。

 私の持つ弓は故郷の山の木からサロモンさんが削りだして作り、司祭さんが祝福を授けてくれた逸品だ。通常の弓よりも射程を伸ばす補正効果を持っているけれど、それでも巣の状態では五百メートル(レーメト)が上限だ。

 それ以上の長距離で中てようと思うと、魔術的な補強は不可欠となる。特に今回は命中させること自体が目的ではなく、捕縛用の術式を込めた石を届けるのが本旨でもあった。いつも扱う矢より重みがあるだけに、魔術も複数を組み合わせる必要がある。

 ――了解。誘導する。

 レインナードさんの応答へ頷き返しつつ、手に握った矢へ術式を込めてゆく。

 狙い射るに相応しいポイントに到着したのは、果たしてほんの数分と経たない時刻のことだった。レインナードさんが仕掛けた罠はヤルミルくんの居場所を中心に半径一キロの同心円上に位置するという。ならば、それより遠くにいて罠が破られた形跡がない限り、こちらが先手を取れる確率も皆無ではない。

 レインナードさんの指示で差し掛かった低木の茂みの裏に身を潜め、目標地点の様子を窺う。朝靄で少々視認しづらくはあるものの、微動だにしない直立姿勢を保つ二頭の馬型自動人形の姿が見えた。その背後に接続された戦車の荷台には、片腕と片足のない少年型の自動人形が座り込んでいる。俯いた影が落ちかかり、その顔は窺えない。

 ――距離一七四二レーメト、無風。

 レインナードさんの観測に頷き、腰の右脇に括り付けてきた矢筒から弓を抜く。弓そのものに魔力を込めることで張られる弦に矢をつがえ、引き絞った。

 矢に込めた術式は三重。一つ目は遠距離狙撃の補強、二つ目はヤルミルくんの拘束。そして、最後の三つ目が戦車を曳く二頭の馬の拘束だ。拘束の術式を二つに分けたのには、もちろん明確な狙いがある。

 仮にヤルミルくんが拘束できたとしても、戦車が動いては離脱の目を残すことになってしまう。館の前での再戦時と同じ轍を踏む訳にはゆかない。双方を確実に押さえるつもりだった。

 細く息を吐き、吸う。普段と違って詠唱を省く難しさはあるけれど、そこまでの速射は求められていない。細かく正確に術式を組み上げてから、一瞬レインナードさんと目を見交わす。意思の疎通にはそれだけで十分だった。

 開式(セット)、と決まり文句を心の中で呟く。それでスイッチが入る。魔力を集中させた右目がズームするように二キロ近い距離を見透かし、標的を克明に視認させた。命中箇所を算定、鏃の向かう先を微修正――完了。

 頭の中で始まるカウントダウン。三、二、一……びょう、と矢が風を切る。

 朝靄を貫いて翔ぶ矢は、文字通りの瞬きの間に標的の許へと達した。命中の直前、まだ空中にある間に括り付けた魔石が弾け飛び、周囲に緑の燐光を振りまく。光は飛散すると同時に蔓へと変わり、荷台ごと少年を、馬具ごと二頭の馬を縛り上げた。

 馬は嘶きを響かせながら、もんどりうって地面に倒れる。一方で、荷台にいる少年は未だに身動きをする様子がなく、

「――しまった、釣られた!」

 彼の俯いていた顔が仰向けになったのが目に入った刹那、叫んでいた。

 体躯が縛り上げられるがまま天を向いた少年の顔は、完全なる無表情だった。目には黒い淀みも何もなく、そもそも光の片鱗さえ窺えない。……それは、正しく森の外で見た数多くの自動人形たちの姿に等しく。

 退避を、と続けて叫ぶ間もない。術式越しに狙撃の気配を感知する。射られる光条。周囲の靄に干渉、光を拡散させ弱める防壁と成す。予め想定しておいただけに、辛うじて間に合った。

「ライゼル!」

 なのに、語気荒く叫ぶ声を聞く。身体が横から抱え込まれ、問答無用の勢いで引き寄せられる。

 その最中、()()()()()()()()()()()()

 私を庇って抱え込む腕を掠めて地面に突き刺さったそれは、見間違えようもない金属の鏃光る矢だ。その鏃がわずかに飛沫と嗅ぎ慣れたにおいを纏っていたのも、決して気のせいなどではなかった。彼は私の真似をし、更に改良したのだ。

 私たちが自分を追ってくるのではないかと想定してはいたものの、おそらく彼は索敵の術式までもは手札に持っていないのだ。敵がどこから来るかまでは分からなかったから、囮を作って敢えて先手を取らせることにした。先に射させることで居場所を割り出し、カウンターで射返す。

 そのやり口まで、あの大雨の山道での狙撃戦を思い出させるかのよう。この期に及んでそこまでの策を練られるとは、その執念に感服するばかりだ。

「すみません、彼の方が上手でした」

「今回のは仕方ねえさ。向こうの方が明らかに準備期間が長かったからな」

「恐縮です。――ひとまず、この場を離脱してどこかに隠れましょう。今なら靄の防壁がまだ生きている。ヤルミルくんからの目隠しになるはずです」

「あいよ!」

「それから、腕、痺れ始めてますよね。勝手に治療しますが」

 私を抱えて走り出すレインナードさんの背に向け、光と物理矢が断続的に射かけられてはいたものの、未だ手札として残している白靄の防壁に阻まれて命中するには至らない。であれば、多少の会話をする余裕くらいはあった。

「そりゃ助かるが、解毒の魔術まで使えんのか?」

 周囲の木々を利用して身を隠し、離脱の一手を図りながらレインナードさんが疑問の声を上げる。

 その反応ももっともで、解毒は治癒魔術の一種に含まれるものの、毒の詳細を把握していない状態では効きが悪い。人体に害をなしている物質を除去するという根本的な対処方法もあるものの、そこまで大規模な治癒魔術を使える腕の持ち主は宮廷魔術師でも多くはないと聞く。

 もちろん、私はまだそこまでの術式を拾得していないし、まず治癒魔術自体がそこまで得意ではなかった。医師や薬品の手を介さずに魔術という不思議スキルで治癒するという概念は、未だ私の中で根付き切らないのである。

「使えるか使えないかで言えば使えません。でも、これだけは狩人なら最初に習うんです」

 抱えられた身体を捻り、矢が掠めたレインナードさんの腕を検める。左の二の腕。治癒魔術は得手でなくとも、魔力を照射し傷の様子を探るのは索敵の延長としてみれば慣れたものだ。

 厚手の革のジャケットが防具の役目を果たしたようで、そこまで傷は深くない。ただ、血が出るほどに肌を掠めているのも確かであり、加えてこの独特のにおい。厄介さの度合いで言えば、間違いなくこちらの方に軍配が上がる。

 それほど強くはないながらも特徴的な芳香を持つナティス草は、狩人御用達として知られる薬草だ。これから抽出した痺れ薬を使った狩りはアシメニオスでも一般的であり、ナティス草の麻痺の中和は狩人が最初に教え込まれると相場が決まっていた。万が一にも自分で作った毒で自分が麻痺しないように、と。

 ナティスの毒は速効性の高さに比例して、持続性はそれほどない。ただし、それは日を跨いでまでは残らないとか、そういう次元の比較だ。この急場ではできる限り早く除去した方がいい。……いい、のだけれども。

「彼は随分と濃度の濃い薬を作ったようです。本腰を入れて処置をしなければ」

「今は無理だな。落ち着くまで待ってくれ」

 口早な返答。レインナードさんの森を駆ける足は速く、まだ少しも緩まる気配がない。本音を言えば、すぐにでも足を止めて治療させてほしいところだった。しかし、それでヤルミルくんの追撃を受けては本末転倒だ。

「分かりました。それまで毒の回りと抑えるようにしておきます」

 傷の具合をスキャンしていた術式を解毒に変更。全てを中和しきることはできないにしても、傷口の周辺に留めるべく操作する。

 まだ小さかった頃、誤ってナティス毒を塗った鏃で指を傷つけてしまい、サロモンさんに解毒してもらうへまを踏んだことがあった。ナティス毒の解毒だけはきちんとできるのは、その経験があるからなのだろう。狩りの師匠が治してくれたという事実と、そうやって治されたという実体験。それが魔術行使において不可欠な確信を作り出す。

 ただし、ヤルミルくんの使った薬は相当に濃い。魔術での解毒だけでは不安が残るので、些か乱暴な手段に出る必要がありそうではあった。――でも、決して解毒できないものではない。

 心臓が少しバクバクし始めているのは、ただ心配が尽きないからだ。何も嫌な予感の類がしているからとか、そんなことではない。絶対に。

「ところで、あいつはどういう理屈で動いてんだ? もう弓を射られる状態じゃなかったろ」

「彼本来の素体は弓を射られる状態ではなかったので、核を入れ替えたのだと思います。おそらくは自分で自分の核を抜き出して、別の……五体満足な自動人形の素体に埋めた」

「あァ!? んなことできんのかよ」

 核って心臓みてえなもんじゃねえの、とレインナードさんが驚きというよりは戸惑いに近い声を上げる。そう言いたくなるのも分からないではなかった。

 自動人形について説明する時、往々にして核は「心臓のようなもの」と語られる。その形容も決して間違ってはいないのだけれど、全てを正確に説明できている訳ではない。あくまでも「心臓のようなもの」であって「心臓」ではないのだから。

「自動人形が単体でできるかと言えば、自らの存在の保護が活動原則として規定されている以上は無理です。でも、人間を攻撃するという第一条項違反を成しているだけに、全ての項目が無効化されていると見るのが妥当でしょうね。それなら抜け道はある」

 そこまで喋って、一度後方を振り返って目を凝らす。徐々に間遠になっていった狙撃も、少し前から完全に止んでいた。こちらが射程の外に脱したというよりは、防壁を突破できずに諦めたのだろう。

「追撃が止まりました。そろそろどこかに腰を据えましょう」

「了解、適当に良さそうなところを探すわ。――で、その『抜け道』ってのは?」

 流れで話が終わるかと思いきや、意外とそうでもなかったらしい。促されるのであれば、こちらも話すにやぶさかでなかった。この情報を頭に入れておくことで、何かしらレインナードさんの役に立つこともあるかもしれない。……この後、また戦闘の機会が控えている訳でもあるし。

「そもそも自動人形は核を胸部から取り出されても、必ずしも即行動停止する訳ではありません。核が素体と離れると核に込められた魔術の効果が届かなくなるので、結果として行動を停止する。つまり、抜いた核を自分の手で持っている限りは行動を停止しない」

 実際、そうやってメンテナンスをする事例もあるのだ。

 取り出した核を自動人形の手に持たせ、意識を保たせて問診をしながら調整を行う。そうすることで問題の炙り出しが早く済むこともあったり――とまで語るのでは蛇足になるので、説明は省いておくにしても。

 ああ、と相槌を打ちながら、レインナードさんはちょうど通り過ぎた太い木の裏に回り込んだ。並行して探っていたヤルミルくんの気配も、戦車の傍に戻ったきり動いていない。完全に持久戦を決め込む構えか。

「それで別の素体に移した瞬間に、自分の意識もそっちに映るって感じか?」

「ええ。元の素体での記憶は大部分が頭部に保管されているので、かなり記憶もあやふやになっているはずです。それでも意図としては一貫した行動を取っている辺り、執念の賜物というか何というか……すみません、上着を脱いでもらっていいですか?」

「おう。つーか、脱ぐのはいいんだが左手の動きがイマイチ鈍いんで手伝ってもらえっか」

「もちろんです」

 やり取りの傍ら、レインナードさんは私を地面に立たせてくれてから自分も木の根元に腰を下ろす。解毒の魔術を途絶えさせないよう気を払いつつ、座る人の左側に回り込んでジャケットから腕を抜かせた。

 わずかに強くなる血の臭いに、少しだけ眉根が寄る。半袖のシャツに滲んだ赤色は、幸いにもさほど広範ではなかった。

「坊主の新しい素体は、やっぱ森の外の奴の流用か」

「その可能性も否定はできませんが、ヤルミルくんが山を見張っていたように森の中の道を見張っていた自動人形もいておかしくありません。そちらを破壊して使っている方に私は一票を投じますね」

 シャツの袖を捲り上げ、鞄から取り出した水袋の水で軽く傷口を洗いながら言葉を続ける。必ずしも今説明しなくてはならないことでもなかったけれど、胸中に揺蕩う緊張が我知らず饒舌にさせていた。

 振り返ってみるに、つくづく奇妙な事件だ。黒幕の誘導があったにしても、ヤルミルくんの行動はこれまで疑似生命工学の技師たちが想定していた範囲を大きく超越している。

 これが実験室の中で起こった出来事であれば、今後の自動人形制作の発展に寄与する事例として注目を集め、後世に残る記録になったのかもしれない。この状況では、ただただ痛ましい少年の反抗としか形容できないけれど。

「まあ、話を聞いてるだけでも敵は相当に周到そうな感じがするしな。山だけ見張っといて良しとするタイプにゃ思えねえ」

「ええ。なので、私たちが幸運にも出くわさなかった、或いは見つからなかったのではなく、先にヤルミルくんが自分の新しい身体にするべく壊していた。その後のヤルミルくんの動きが鈍かったのは新しい素体に慣れるのとナティス草の痺れ薬を作っていたから……というのが、今のところの推測ですね」

「確かに、ありそうな話だわ」

「そして、ヤルミルくんが戦車を与えられていたように、森の中の監視役は姿を隠す魔道具を与えられていたのだと思います。山を行く人間を狙うのとは違って、距離や高低差のないところで襲撃をしないといけなかったでしょうから。ヤルミルくんは、それも奪って使っている可能性が高い。――これまでと違って、彼が射るまで彼を感知できなかった」

 少なからず歯痒い告白をすると、レインナードさんはぱちくりと瞬いて私の顔を見た。そうして驚くほどには私の索敵性能を信用してくれているのだとすれば、光栄なことではある。

「今もか?」

「今は既に存在を確認した後ですから、捉え続けています。ヤルミルくんは魔術による索敵を躱す効果のある新装備を入手しているようです。それを用いたまま動かずにいれば、魔術を介して探る限りは捕捉できない。逆に、動けば隠蔽の効果も半減します。魔術による気配探査は回避できても、範囲内の物理移動を探るタイプの索敵には弱い」

「なるほどね、今はそっちで捕捉してるって訳だ」

 ええ、と頷き返し、水袋を木の根元に置く。そろそろ頃合いだった。ここまで準備が整ってしまえば、状況に対する見解を示す体で話を続けるのも躊躇われる。物理的に、違う用途で口を使わなければならない。

「あちらが予想外の手札を持っていたのは驚かされましたが、逆を言えばこれで全ての手札は明らかになったと見ていい。ヤルミルくんは自分の元の素体を囮に私たちを仕留めるつもりだったようですが、その目論見は破れた。この後は私たちが主導権を握ります。――ので、ヴィゴさんには活躍していただかないといけません」

「まあ、そりゃそうだな」

「なので、少々荒っぽいやり方になりますが、我慢してくださいね」

「あ?」

 今なんて、と怪訝そうな顔をする人の顔から努めて視線を外し、洗っていた左腕の傷口に据える。

 私とは比べ物にならないくらいに太く、ごつごつとした手首を掴む。軽く引いてみても抵抗はなく、レインナードさんの左腕はあっさりと私の目前へやってきた。ライゼル、と窺う声が聞こえてはいたけれど、答えることはしない。

 小さく息を吸って吐き、頭を下げる。目の前の創傷へ開いた唇を押し付けると、掴んだ手首がびくりと震えた。

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