08:力無きものたちの為に-4
4.新たな混乱
ラファエル卿から癒しの泉の館に戻れと指示もあったし、南の街についてもソイカ技師と先刻対面した近衛隊の人たちから報告が上がり次第、戦士団の方で対処してもらえるだろう。もはや部外者の出る幕ではない。
かくして、森の中を二人並んで引き返すことになった。ソイカ技師が離席しているので、自動人形の小鳥も私の外套のフードの中に収まって待機モードになって久しい。時折吹く風が木々を揺らす音だけが響く森の中を、黙々と歩いてゆく。走りはしない。寸前に目撃した光景による気鬱と、出会ったばかりの人の厚意で難事から逃れたという罪悪感じみたものが走るだけの気力を奪っていた。
会話らしい会話もないまま夕まで歩き続け、これまでと同じように手早く食事を済ませて就寝する。夕まではとぼとぼ歩くだけであったものの、根本的に時間的余裕のある道行きでもないのだ。明日はまた早朝に起き、今度こそ走っていくことになるだろう。であるからには、さっさと寝なければいけない。
それは重々分かっているつもりなのに、どうしても気持ちが昂って落ち着けなかった。瞼を閉じると、昼間に見た森の外の惨状が浮かんできてどうしようもない。
虚ろな鉱石の眼球。乱雑に破られた胸郭。砕けかけた指。投げ出された四肢。壊れた人形。言ってしまえば、それだけのことでしかない。でも、あれは間違いなく亡骸でもあったのだ。
どこかの家庭の、誰かの家族が殺された姿。――つまり、あの荒野は一面が死体で埋め尽くされた地獄に他ならなかった。
冷静に記憶しておこう、なんて思っていられたのも初めのうちだけだ。大きな木の幹に背を預けて座るレインナードさんの横で外套を被って横になりはしたものの、その後はもう全然。目を閉じてからは瞼の裏に地獄が反芻される度に息が詰まりそうになり、どうにか細く息を吐いて平静を取り戻すという繰り返し。無意味に、ただただ時間だけが過ぎていく。
横になった時は、まだ辺りに夏の明るさが残っていた。それが完全に消え去って、暗くなってもまだ寝付けない。
「ライゼル」
ふと、暗闇の向こうから声がした。寝た振りをするかどうか一瞬悩み、全て分かっていて声をかけているのだろうから無駄だと気付いて止める。驚くほど気配に聡い人なのだということは、これまで何度も思い知らされていた。
はい、と押し出した声は、どうしてか少し掠れていた。
「寝られねえか」
「……はい」
「あんなもん見りゃあ、無理もねえよな。俺にはただの壊れた人形やぬいぐるみの山でしかねえが、お前にしてみりゃ、また少し違った風に捉えられてんだろうし」
はい、と同じ言葉を三回繰り返すのも躊躇われ、沈黙を答えに代える。レインナードさんなら、それでも察してくれるのではないかという甘えもあった。
「どう言うのが正しいのかも分かんねえが、おぞましいとか、怖いとか、いろいろ思って辛い気持ちにもなるだろ。そういう時には――まあ、なんだ、誰かが傍にいると気持ちが落ち着くこともある」
「……つまり、どういうことです?」
「一緒に寝るか。今日だけな」
そう告げたのは、ひどく気遣わしげな声だった。
私たちの間で普段以上に距離が近くなる時、レインナードさんは決まって気まずそうにしたり、表向き難色を示したりするものだった。なのに、今はそれがない。それだけ私の状態が危ういと心配してくれているのかもしれなかった。
「……お言葉に、甘えて良ければ」
「いいさ。しんどい時は気にせず頼れ。お前は、まだまだお子様だからな」
その言葉にも、本来の私なら内心で少なからぬ反発感を覚えていたことだろう。見かけは子どもでも、中身はそこまで幼くもないのだから、と。けれど、今は私の根幹を成すはずの意地でさえ張りきることができなかった。
……言い訳をさせてもらうのなら、あの光景こそ私がかつて生きていた場所とは全くの別世界そのものだった。かつて駆け出しの大人をしていた頃だって、あんな凄惨な景色を見たことはなかった。ニュースでしか知らない遠い異国では、そういう凄惨さも現実のものではあったのかもしれない。でも、冷たい言い方になってしまうけれど、それはやはり私にとって遠いどこかの話でしかなかった。
この世界で再び生まれてからも、大事に育ててもらった。戦火や災難とは無縁だった。その点、レインナードさんはまだ二十六歳であるとはいえ、傭兵としてのキャリアは短くないと聞く。ヴィオレタとエブルの戦争で名を挙げたのも「前」の私と同じか、それよりも若いくらいの頃だったのだろうし。そんな人に慰められていると、なけなしの意地も萎んでいく。
この日の夜はレインナードさんも敷布の上に横になり、私を抱えて眠ってくれた。それでもすぐに寝付けた訳ではないけれど、背中に回された腕の確かさとか、ほのかに感じた身体の温かさとか、そういうものが少なからず安心させてくれたのだと思う。
いつ寝られたのかは分からないけれど、気付いたら朝になっていた。
「おはよう。調子はどーだ」
「おはようございます。ひとまず体力は回復した気がします」
「無理する必要はねえぞ。辛けりゃ担いで走ってくだけだしな」
「とりあえずは自分で走ってみます。走れなくなったら、その時は」
「あいよ、担いでく。あんま気負わねえでな」
会話の傍ら、これまで通りに支度と食事をして移動を再開する。今日の空は曇りがちだけれど、雨の兆しが見えないのは僥倖だった。雨の中の強行軍は、まだしばらく遠慮したい。
「ところで、一連の事件をお前はどう見てる? 敵の目的とか」
「……当初は資源の大量確保が狙いかと思っていましたが、実際にはもう少し踏み込んでいましたね。略奪対象をより高品質な魔石に絞っていた。自動人形の核に使われる魔石は質がよく、ちょうど心臓くらいのサイズに整えるので、結構大きいんです。再利用するにしても、かなり使い出はあると思います」
昨日よりはゆっくりとしたペースで走りながら、これまで通りに会話を交わす。今回に限っては作戦会議というよりも、私が気鬱に沈み過ぎないようにという配慮の方が強かったのだろうけれど。
「飛行可能な自動人形か使い魔で空から種を蒔く。それが発芽したら、遠くから操って騒ぎを起こす。北側で主要施設を散発的に襲わせて戦士団の意識と手を割かせた裏で、南の街を制圧して自動人形の核を根こそぎ奪う。まあ、上手くやられちまったと言わざるを得ねえわな」
「はい。どうやって魔石を持ち帰ったかは分かりませんが、鳥型の自動人形なり使い魔なりを派遣していたのなら、それに持ち帰らせることもできるのじゃないかと」
「摘出も自分でさせてりゃ、早めに集められそうだしな。お見事なもんだぜ」
お見事、と褒める言葉は字面に反して忌々しげな音をしている。私も心境としては同じようなものなので、頷くに留めた。
「となると、ラファエルの奴が本当にただの休暇でここに来てたのか確認しておきたくはあるな」
「ラファエル卿に? 何故です?」
「アシメニオスは水面下で装備の大規模改修を進めてる。明確に何かの脅威を想定してる訳だろ。――で、ここで自動人形の核の大量略奪が起きてる。つまり、他所で狂った自動人形の軍勢が編成されるかもしれねえ訳だ」
それがアシメニオスの想定している脅威なのかどうかは気になるよな、とレインナードさんは肩をすくめる。
言われてみれば、と頷きたくなる一方で、あるかなきかの警戒心が頭の中でストップをかけた。全てを一つに関連付けて考えるのは、今の段階では少し危うい気がしないでもない。ただし、そう言われても一笑に伏せないくらいにはタイミングが合致してもいる。
「もしそういった思惑があったのだとしても、何が起こるかの確信はなかったのかもしれませんよね。ここで確実に事が起こると分かっていたのなら、ラファエル卿一人では派遣しなかったのでは」
「かもな。休暇ってのも半分は本当で、偵察くらいの感覚だったのかもしれねえ。……何にしても、アルマもアシメニオスも事態の一端には触れた。それぞれで何かしらの対策を練るだろ。後は本職の連中に任せときゃいい」
「そうですね。何か分かったことがあれば通報するのは市民の義務かもしれませんけど、事態に対処して動くのは戦士団や騎士団のお仕事であって、学生が首を突っ込んでいいことでもありませんし」
「おう。その辺をきちっと弁えてんのはいいことだ。直面した事件に一喜一憂して深刻がるのは当事者になった気分で昂揚するかもしんねえけど、そんなもんは気分でしかねえからな。近所の喧嘩ならともかく、こりゃ下手すりゃ戦争騒ぎだ。半端な気持ちで首突っ込みゃ、後で泣きを見る。本気で当事者になるつもりでもなけりゃ、野次馬根性は引っ込めとくべきだわな」
戦争。その言葉にヒヤリと背筋が冷えた気がした。振り返ってみれば、私が宮廷魔術師を目指そうと決めたのもヴィオレタとエブルの間で戦争が起こったからだった。
「肝に銘じておきます。……ヴィゴさんは、仮に戦争になったとしても、そちらに行ったりはしませんよね?」
「そりゃあな。お前みたいな手のかかるお子様を放っとく訳にゃいかねえよ」
「人をものすごい問題児みたいに」
「お前はものすげえ優等生だけど、部分的にものすげえ問題児だからな」
ぼそりとした呟きに、あまりにも真剣過ぎる声で返されて沈黙する。おかしい、そんなはずじゃなかったのに……。
その後の道のりも順調ではあったものの、明確に移動速度を落としている分だけ、一日の移動距離は往路に比べると短い。ラファエル卿との待ち合わせの約束もあることにはあるけれど、あちらの用事も一朝一夕で済むものではないだろうと楽観した側面もある。
癒しの泉の館への到着は明日へと持ち越し、復路二度目の夜も森の中で越すことにした。細く灯した明かりで夕食をとっていると、
「薄っすら霧が出てきたな。冷えそうだ」
魔石ランプの明かりが微妙にぼやけ始めていることに気が付く。レインナードさんの言葉に触発されて周囲を見回してみれば、確かに夕の薄闇が白く濁り始めていた。
「寒くなりそうなら、くっついて寝ますか?」
「……昨日ああしたからって、これからも同じようにしていいってことになった訳じゃねえぞ」
今回はまた例によって渋い顔をしていたけれど、レインナードさんも結局は「風邪でも引いたらまずいからな」と言って拒絶することはなかった。さすがに昨晩とは違って、横に並んでくっついて暖を取るだけではあったけれど。
気温が下がり気味であるからか、昨日とは違った意味で少し寝づらい。旅慣れた傭兵の人はそうでもないのだろうけれど、私が眠るまで見守ってくれようというつもりか、寝物語のようにぽつぽつと話をしてくれた。
南海諸島に着いたら何をしようか、とか。新学期が始まったら素材探しの予定を組んでみようか、とか。それから――
「卒業したらどうすんだ? やっぱ宮廷魔術師になって、王宮に入んのか」
「今のところ、それが第一目標ではあります」
「さよか。そういや、何で宮廷魔術師になろうと思ったんだ。この国じゃあ、結構な茨の道だろ。よっぽど研究したい魔術があったとかか」
「いえ、特にそういうことでもなく……発端はすごく即物的というか、完璧な私情ですよ」
「私情?」
「ヴィゴさんもよくご存じでしょうけれど、五年前でしたか、ヴィオレタとエブルが戦争を始めましたよね」
「ああ、もうそんなに前になんのか」
「はい。――実家の母は服を仕立てるのを仕事にしていて、ヴィオレタの布が手に入りにくくなるかも、とか喋ってるのを聞いたんです。今考えれば、そんなにすぐ困る訳でもなかったのかもしれませんし、幸い私が実家にいた頃には大した影響もなかったのですけど。でも、その時はまだ妹たちも小さかったので、何かできることはないかと考えたのですよね」
「……それで、あの学院に入って宮廷魔術師になろうと考えたってか? 随分飛躍しすぎじゃねえか?」
驚きとも呆れともつかない声で言われて、唇の端に苦笑が浮かぶ。無謀な考えだと言われれば、それも否定はできない。
「故郷に便宜を図るには、それくらいの地位がないと駄目かなと思いまして……」
「考えは分からなくもねえが、他にやりたいことがあったりしたんじゃねえのか。母さんの仕事を継いだりよ」
「私は元々父について山に入って狩りをする方に偏っていたので、母の仕事は妹のどちらかが継ぐんじゃないかと」
「そうかい。――じゃあ、そのまま狩人になろうとは思わなかったのか」
「狩りの仕事も好きではありましたけど、魔術で身を立てるのは家族の中で私しかできなさそうなことだったので」
そう答えると、不意に沈黙が落ちた。静まり返り過ぎた森の中は、やはりどこか落ち着かない。胸騒ぎがする、とまで言うものではないにしても。
「お前は」
「……はい?」
「どうも不思議なお嬢ちゃんだな。目的意識ははっきりしてるのに、そこに自分がいるようでいねえ」
「? 私はいますが」
「どうだかな。――だって、お前は」
一度も自分がやりたいことを喋ってねえ。やった方がいいと思ったことをやってるだけだ。
低く告げる声に、うんともすんとも答えられずに沈黙する。その声の重さにぎくりとしたのもあるけれど、レインナードさんの言う「やりたいこと」が事実として思い浮かばず、図星を刺されたからでもあった。
夜の間は漂っていた霧も、明け方になると消えていた。相変わらず鳥の鳴く声すら聞こえない空間で、朝露を払いながら起き上がる。各々が敷布の上に座り直す間も、静かなものだった。
昨晩の眠り際の会話がまた頭の中で尾を引いていて、そこはかなとない気まずさが残る。そのせいだろう。
「南洋諸島に着いたら、何かどっかでパーッと遊ぶか。そんで、お前のやりてえことを探すんだ」
……とか思っていたのは、私だけだったらしい。
ケロッとして言われ、一度脱いだ外套を空中で振るおうとした手も止めてポカンとする。その反応がお気に召すものではなかったのか、怪訝そうに「何だよ、その顔は」とも言われてしまったけれど。
「いえ、何がどうという訳でも」
「ない顔にゃ見えねえけどな。――別に、お前の方針を悪いとかいけねえとか注文をつけやしねえよ。家族が好きで、大事だから、そうしてやりてえって気持ちも分かるさ。だからって、少しくらい何か自分のもんがあったっていいだろ。……あ、自分がない訳じゃねえって補足はまた後でにしといてくれ。綺麗な菓子とか、美味い菓子とかを楽しみにする趣味がお前にあるっつーのは、俺も承知の上だ」
それでも、と敷布の上で胡坐を掻いたレインナードさんは、真っ向から私を見つめて言った。
「それだけじゃあ勿体ねえだろ。お前の家族だって、お前が身を粉にしてまで尽くしてほしいとは思ってねえんじゃねえか」
「……そう、ですね」
アナイスさんは手紙でいつも「辛くなったら帰ってきていい」と書き添えていてくれた。バベットさんやシモンさんが何かと薬草の類を送ってくれるのも、健康で元気にいられるようにと気にしてくれるからだ。サロモンさんも、妹たちも、先生も、同じように気に掛けてくれている。
私は故郷を守るという私情で王都に進学したけれど、それで自分を損なっては意味がない。その言葉は、微塵も異論を口にする余地のない正論だった。
「心に留めておくようにします。……ただ、ちょっと気になってきたんですけど、ヴィゴさんて私をお菓子に目がない食いしん坊みたく思ってません?」
「んなことねえよ。年相応な感じでいいこったとは思ってるけど」
「婉曲な肯定に聞こえる……」
「何でそんな後ろ向きなんだよ……」
「ヴィゴさんが急に真面目なことを話しだすので」
「俺だって、たまにゃあ真面目な話をすることもあらあな」
最後には笑い混じりの雑談になり、いつしかすっかり和らいだ空気の中で朝食を済ませる。癒しの泉の館まではもう走って二時間もかからないところまで来ていることもあり、起床から出発までは今までで一番早かった。
何しろ、ここ数日の食事は携帯用の保存食ばかりだったのである。ヴァネサさんにお願いして、何か温かいご飯を分けていただきたい。冬だったらもっとひもじい気分になっていたことだろうから季節が夏なだけまだマシだと、そう自分に言い聞かせ続けるのも空しくなってきた。
全ての準備を終え、鞄を背負い直して走りだす。未だ不自然なまでに森の中は生命の気配が絶えていたけれど、警戒を絶やすことはしなかった。森の様子がおかしいということは、それ自体が何かしら異常が発生し続けているという証に他ならないのだから。
癒しの泉の館へ到着したのは、予想よりも早い一時間半後だった。何度もお世話になって申し訳ないけれど、やっと一息吐ける――などと、その時は呑気に考えていたのだ。
「おかしいな」
館が見えて来た時、おもむろにレインナードさんが呟いた。声には出さなかったけれど、考えていることは私も同じだった。
「あまりに静かすぎますね。この時間なら、もう起きて活動を開始しているはずなのに」
索敵の魔術は展開し続けているものの、館の周囲には人っ子一人として気配がない。館の裏手に築かれた菜園や井戸周りにすら。ならば、館の中にいるのかと思ったところで、今ここでそこまで調べるのは難しい。
癒しの泉の館には様々な魔術が施されている。その一つが内部の保護と隠蔽を意図したものであり、こちらの術式を弾いてしまうのだ。探るにしても、一度館の中に入ってからでないと無理だろう。
どちらからともなく足を早め、残りの距離を走りきる。そして目の当たりにすることになったのは、荒らされてこそいないものの、あちこちに大きな足跡がいくつも残された庭という異様だった。
「自動人形が押し寄せた――とかいう訳でもなさそうだな」
庭の外縁で足を止め、レインナードさんが渋い声で呟く。その見解には、私もまた同意するところだ。
レインナードさんの隣でしゃがみ、目線を地面に近付ける。これだけたくさんの足跡が残ったままになっているのだから、読み解けることも少なくない。
「これは人間の足跡です。それも大人で、かなり体格がいい。ここからパッと見で何人と正確に読むのは難しいですが、少なくとも五人以上。滞在時間はそんなに長くなかったし、出ていったのもつい最近ですね。たぶん、異変が起こったのは今朝です」
「さすが狩人、足跡を読むのは得意ってか」
「よく鍛えられましたので。……自動人形なら、足跡がほぼ均等につくんです。それに比べれば、かなりバリエーションに富んでいる。歩幅と足跡の深さから計算するに、ヴィゴさんにも近いくらいの体格の男性かと思われますが」
「そりゃつまり、島の戦士団の連中ってことになんねえか? 自動人形騒ぎでてんやわんや、たぶん負傷者も出てるだろ。この館に用しかねえじゃねえか」
「癒しの泉の水を買い上げるのではなく、泉ごと接収しにきたとかでしょうか。その割に、周囲に人気はなさそうですが」
「そうだな。屋敷を確保した後って風にも見えねえ。確保した後なら、大量に人員を寄越して水を運び出してるはずだ」
「……逆に、完全な無人になっている可能性も低くはあります。館から主を引き剥がして、泉が枯れては元も子もない」
中に入ってみるか、とレインナードさんが足を踏み出す。庭の足跡を消さないように、大きく敷地の外を迂回してゆくので、私もその後に続いた。
私たちは既にヴァネサさんに館への出入り許可をもらっている。物理的に鍵がかけられていればその限りではないにしても、魔術的に出入りを禁じられることはない。戦士団の人も、おそらくは同様の措置が取られているはずだ。
街から離れた森の中に住んでいるとはいえ、この島の住人であることに変わりはない。むやみに戦士団の人員を拒めば角が立つ。そもそも戦士団が自分たちに対して強硬な態度をとるとも思ってはいなかったのじゃないだろうか。
珍しいお客に小さな子たちが寄ってゆく。そこで人質に取られでもしようものなら、ヴァネサさんにはなす術もない。
心臓が肋骨の奥でばくばくと音を立てている気分だった。どれほど近付いても、館の中からは声の一つも聞こえてこない。前に滞在した時は、あんなにも賑やかだったのに。
先を行くレインナードさんが玄関の前で足を止め、重厚な造りのノッカーに手を伸ばす。鈍い音が二度上がるも、やはり反応はない。レインナードさんも一応扉を叩きはしたものの、返事があるとは思っていなかったのだろう。
躊躇う素振りもなくノブに手を伸ばすと、握って捻る。一拍の間の後、小さく息を呑む気配。
「……開いてる」
小さな声。それに被って、キィと軽い音がした。