01:惑える魔術師の卵たち
クローロス村が牧歌的な農村そのものの佇まいであり、建物も木造が基本であったのに対し、王都ガラジオスはいかにも都会的な空気が漂っている。石や煉瓦で造られた街並みは少なからず先進的な趣を醸し出し、通りには数限りないばかりの人が行き交う。そうした人たちが纏う衣装も、田舎の村に比べると彩り鮮やかでバリエーション豊かであるように見えた。
まさに大都会、華やかなりしアシメニオス王国は王都ガラジオス。その街の中心部に「青の羅針儀」と呼ばれる名所がある。中央広場にそびえる、名前通り青みを帯びた鈍い銀色のオブジェがそれだ。
天辺までの高さは、目測でおおよそ五メートルばかりだろうか。野山を駆け回り、健やかに育った今の私の身長が一七〇近く。それでも台座だけで私の身の丈の二倍はありそうだから、もはや巨大と形容しても不足はない。
見上げるほどに大きく、重厚な造りの台座の上の中空には、見慣れないものが浮かんでいる。それは一見、羅針儀ではなく天球儀のようだった。
細かな文字が刻まれた幾多の巨大なリングが、時に重なり、時に離れて回転している。如何なる魔術によるものか、空中に浮かび出た文字列そのものが回っていることもあった。回るリングと文字列の中央には、球体が一つ鎮座している。
つるりとした、青い銀の珠。しかし、それは時として姿を変えるのだという。それこそ羅針儀にあるような針へ。その針は一本の時もあれば二本の時も、それ以上多く現れたこともあるのだとか。
幾千年前の昔、アシメニオス王国が興される際に尽力した魔術師によって「青の羅針儀」は作られたと伝承は語る。羅針儀は王国に降りかかる苦難を指し示し、針の先には何らかの凶事がある。針が多い時はそれだけ深刻な凶兆なのだと、今日まで人々は語り伝えてきた。
――要するに、半分おとぎ話の観光名所なのだ。
「遠くの危険より、近くの困難を導いて欲しい」
などと、大絶賛川浚い肉体労働中の私は思ってしまうけれど。
空しい息を吐きつつ水面へ目を落とせば、暗い顔をした少女がこちらを見返していた。もちろん、他ならぬ私である。癖の強い薔薇色の髪は肩を過ぎるほど、アナイスさんにもらった髪留めでまとめている。緑の眼がいつもより色を濃くして暗く見えるのは、単に陰になっているからだろう。……たぶん。
広場の隅を流れる用水路じみた小川は石畳の地面より一メートルばかり低く掘り下げられており、どうしても日が当たりにくい。脛が浸かる程度の水位しかないのと、広場からの視線が切れるので衆目を集めなくて済むのは不幸中の幸いであるものの、どうしたって顔を上げると目に入るのだ。
暢気にくるくると回る、あの羅針儀が。そう見えるのは純然たる八つ当たり以外の何でもないと、頭ではそう分かっていても。
暦の上では春になったとはいえ、四月も半ばではまだ肌寒い。そんな時期に川に入るのは、どう考えても愉快なことではないし、そもそも私だってやりたくてやっている訳ではないのである。
「あの箱入り息子め……」
全ての元凶である同級生の顔を思い出し、自然と重苦しいため息が漏れた。
事の始まりは、一月ばかり前――入学当時にまで遡る。
司祭さんが以前から危惧していたように、身分差による軋轢が発端となった。明け透けに言うと、とある貴族の坊ちゃんと些か剣呑な間柄になってしまったのだ。あちらもいろいろと主張があるようなのだけれど、要は平民が大きな顔をしているのが気に食わないというのが主旨であると思しい。
ベルレアン伯爵の肩書で呼ばれる、セッティという貴族がこの国にはいる。王国の西方に領地を持つ裕福な一族で、その長男が今年で十六歳になるとか……なったとか……とにかく、そういう感じらしい。詳しくは知らないけれど。
学院は貴族の子弟に対する教育機関の側面も併せ持ち、厳密に入学の年齢は定められていない。王国法では十八歳から成人として認められるので、その数年前から入学することが多いらしいものの、十歳にもならない頃から社会勉強の一環として通う子もいれば、成人してから何らかの目的で短期間在籍する人もいるという。前者のような形であれば、幼年カリキュラムへの参加という体で試験も免除して在籍させてくれるのだそうだ。
補足しておくと、私の入学が十七歳になったのは村では十七歳で概ね一人前と扱われる風習があるからだ。その歳なら王都に一人で出ていって生活することになっても大丈夫だろう、と判断された。後は……まあ、なんだ、世知辛い話だけれど、貯金の都合もあったりなかったり。
ともかく、私は子どもの頃から司祭さんから多くを学んできた。王立魔術学院に通いたいと話した後は、それまでの比ではないレベルでしこたまに鍛えられた。お陰様で入学試験も筆記、面接と続いた後の実技ですら大過なくパスし、他の追随を許さぬトップ通過とか何とか。
司祭さんはやっぱりすごいんだ! と、私まで鼻高々になるのもやぶさかでないものの、そうなっている場合でもないのが、この話の空しいところだ。残念ながら、これらの試験模様で問題が全くなかったかと言われれば、それに是と答えるのは躊躇われるので。
入学試験の終盤、実技試験は数多くの宮廷魔術師が見守る中で行われる。その中には宮廷魔術師筆頭、生ける伝説と名高い〈破窮〉エドガール・メレスも含まれた。彼が発見、創作した魔術理論は数知れず――というのはさておき、実技試験は大層なお歴々に見守られて魔術を披露することになる。
ここで良いパフォーマンスを見せた者には、入学時点で宮廷魔術師から銘――国が認めた、一定以上の技量を持つ魔術師であることを示す証――を与えられることもあるという。ただし、ここ数十年……それこそエドガール・メレス以来、その光栄に浴した者はいない。
……で。
その実技試験で、大問題が起こってしまったのである。
通例、並み居る宮廷魔術師は大きなホールを使った試験場の上部に据えられた客席から試験の様子を見守っている。しかし、私のパフォーマンスが終わった後、一人の魔術師がその席から飛び降りてきたのだ。これには私も、周囲の魔術師も、試験官である先生方も目を丸くした。
「ハント家のライゼル! 面白い、実に面白いな君は! 君には、今はまだ決定的な欠落がある。君自身も無自覚であり、それが術に表れている。――だが、まずはよく掘り起こしたと褒めよう」
完全にポカンとする私の前に降り立ち、ご機嫌とばかりに喋り始めた人物こそが、この国の魔術師であれば知らぬ者はいないエドガール・メレスその人だった。
歳は三十そこそこくらいだろうか。長い金髪をゆるく束ねた、明朗快活な面差しの男性。パッと見では生ける伝説と呼ばれる大魔術師だとは思えないくらい、構えたところのない人だった。キラッと飛び散る光を幻視しそうな笑顔が眩しい。
「君には、まず〈碧礫〉の銘を与える。今はまだ碧い小石に過ぎないが、己を知り、弛まず磨き上げれば、やがては見事な玉となろうさ。我々に必要なのは、掌中への絶対的な確信だ。君はどうしてか最後の一歩、信じきれないでいるらしいがね。その不安を乗り越えた時には、また新たな――きちんとした銘を与える。この私が、改めて立派なものをね」
トドメにそう述べると、こちらの返事も聞かずにエドガール卿は帰っていった。唖然とすること再び、である。
その後は、もちろんちょっとした騒ぎになった。今まで新入生が銘を得たことはなかったというのに、よりによってエドガール卿が動いた。そこで終われば、それはそれで大問題にしても、面倒は少なかっただろうと思う。しかし、私に与えられた銘が問題だった。
――エドガール・メレスが手ずから銘を与えたが、要精進と言い残して消えた。
どっちだよ、とお歴々は思ったのじゃないだろうか。次代のエドガール・メレスとして珠のように扱えばいいのか、たまたまエドガール・メレスの目に留まった小石として見なかったことにすればいいのか。
その結果、私の入学模様は大層おかしなことになった。平民というだけで微妙に遠巻きにされるのに、エドガール・メレスの目に留まった一方で直々に「未熟者」と告げられる。話題性には富むものの、しっちゃかめっちゃかだった。
そんな様子であったので、いちゃもんをつけられ易い土壌は整ってしまっていたのだ。全くもって不本意ながら。
「どんな姑息な手段を使った、下賎の民め!」
そうして、私とセッティ家の長男の因縁は爆誕した。
入学の儀を終えた直後、初対面の開口一番に投げられた台詞がコレである。由緒正しきセッティ家、ベルレアン伯爵のご長男。主席の座を引っ提げて、華々しく学院デビューでもしようという腹だったのだろう。それを後ろ盾も何もない平民が掻っ攫っていった。
その怒りと、嫉妬か。そういった類の感情がない交ぜになり、斯様な台詞としてお出しされたのだとは想像がつく。或いは、エドガール卿が私に銘を授けつつも瑕疵を指摘していった事件も余計に気に入らなかったのかもしれない。そんな半端者が、というような感じで。
いずれにしても、私もライゼル・ハントとして生まれる前は新米ながらも社会人をしていた。一応は大人と呼ばれる身分にあった訳だ。その経験をもってして、十六歳の子どもならそういうことにもなるよね、と理解することもできる。
こちらにはどうしようもないことではあるけれど、だからこそ、ある程度は仕方のないこととして割り切っておこうと。しかし、どうも「敢えて触れずにおく」という行動を取るのは、子どもには――貴族の子弟でも難しいものらしかった。
「コレにかける意欲を、勉学に向けた方が建設的だと思うけどね……」
入学以降の日々を思い返すだに、遠い目にならずにはいられない。
開口一番の罵倒を皮切りに、少年の暴走は始まった。陰口悪口受講妨害は日常茶飯事、まあ厄介でいけない。私が真っ当な平民の女子であったら、とっくに心が折れてしまっていたのではないだろうか。
短いとはいえ社会人としての経験を積んできた分、精神的な負荷には多少耐性がついている。ハイハイ好きに言ってりゃいいさ、と流しておけば済むとしても、実害が出ないように対処するのは正直面倒だった。
早くも魔術師としてのプライドのようなものでもあるのか、あちらも大抵は魔術で何かしら嫌がらせを仕掛けてくるのだけど、その後始末が困るのだ。相殺しておくにしたって、手加減をしなければならない。
一度うっかり力加減を間違えて、強く吹かせ過ぎた風で吹っ飛ばしてしまった時など、カンカンに怒ってくれて大変だった。幸か不幸か講義中だったので、逆に事なきを得たけれど。
「君はここに遊びに来たのかね? 私も己の時間を削って講義を持っているのだ。私の邪魔をしないでもらえるかね」
とは、その時の講義担当の先生の発言である。見事にバッサリ。お陰様でセッティ家のご長男も真っ赤に。でもって、私を庇う気は全くないのを隠しもしないのが、一周回って清々しかった。
その先生のように、基本的に講師陣は「魔術師」であることに重きを置いている人が多い。身分とか権力よりも、自分の研究の方が大事なタイプとでも言おうか。なので、不真面目な生徒に余計な手間を取られるのを凄まじく嫌う。
この傾向にも助けられ、目下の学生生活はてんやわんやながらも、どうにか学習に差し支えは出ずに済んでいた。なまじセッティ家が力を持っているだけに、私に関わろうとする生徒も居ない。清々しいほどのぼっちという奴だけれど、今更その程度で不登校になる繊細さもなかった。
いきなりエドガール卿に発破をかけられてしまったように、やることも学ぶことも多いのだ。脇目を振っている余裕はない。邪魔になる場合は適当に対処し、それ以外は反応をせずにおく。それがベターというものだろう。
……もっとも、そう思って行動してきた結果が現在の川浚いなのだから、失策は失策だったのだろうけれども。
ともかく、そんな感じで事態の発端は一月前にまで遡るものの、今日には今日の別の原因がある。今回の件は、もうひたすらに場所と時間が悪かった。
王都の中央広場には、いつもたくさんの露店が並んでいる。せっかくの休校日で天気もいい。お昼を食べるついでに買い物でもしようと出掛けてきた――のが運の尽きだったなんて、思いたくはないけれど。
あろうことか、そこで遭遇してしまったのだ。問題の少年に。
「ハントじゃないか! 広場で物乞いの練習か? それとも狩人らしく雀でも狩りに来たのか?」
いくら何でも当人に向かって指摘はできないけれど、相変わらずどうにも下手な挑発である。もう少し意外性を持たせるとか、ウィットに富むとか、聞き応えのあるものにしてくれないだろうか……などと考えてしまうのは、シンプルに慣れと飽きがきているからだ。
人通りの多い広場で喧嘩を売り始める主に辟易しているのだろうお供の少年たちの引き攣った笑みも、こうして見れば痛々しいばかりでしかない。これまで様子を窺っていた感じ、彼らも好きで行動を共にしている訳ではなさそうだった。太鼓持ちというには消極的なので、伯爵家のご長男のお目付けというか、使用人のような形で義務的に連帯行動を余儀なくされているのかもしれない。
いつも疲れた顔をしている三人のお供のうちの一人が、私を見る度に申し訳なさそうにしていることにも、割と前から気が付いていた。考えてみれば、彼らの方こそ可哀想なものだ。いつもこうして連れ回され、むやみやたらに注目を集める中で聞きたくもない罵倒を聞かされ、見たくもない口論を見させられる。まだ子どもなのに大変だな、という同情を禁じ得ない。
そんなことを考えていたら、気が逸れているのが少々分かりやすく表に出てしまっていたのだろう。
「おい、聞いているのか!」
ワントーン上がった声が耳をつんざいた。どうも私が上の空だったのが気に障ったらしく、怒れる少年が足音も荒く詰め寄ってくる。
聞いてないので何でもいいから早くお帰りくださいませんかな、と思いはしたけれど、その本音を口に出したところでいいことは何もないので、黙って眼前の――私よりも小柄な少年を見返すに留めた。しかし、この彼、どうにも口答えしてもしなくても怒るきらいがあるのだ。
「この狩人風情が! いつもいつも、その眼が気に入らないんだ! 自分は賢い、自分は強い、そんな目をしやがって! 僕は選ばれたんだ、平民なんかに阻まれちゃいけないのに!」
予想通り、ますますのヒートアップを演じてくれた。
何をどうしろってんだ、というのが今の私の率直な心境である。そんな身上なんぞ知りませんが、十六にもなって中二病真っ只中ですか――とは、なけなしの自制心でまた口に出しはしなかったけれど、言って良いものなら言っていた。
ともかくも、この衆人環視の中で長丁場は御免蒙りたい。あまり騒ぎが大きくなって、衛兵さんを呼ばれるような事態に発展しても事だ。
どう収めたものかな、と思考を他所へ走らせていたせいか、
「お前が、お前が悪いんだ……!」
不覚にも、反応が遅れた。サロモンさんが見ていたら、お叱りを受けていたに違いない。いついかなる時も油断するべからず、と。
訳の分からない責任転嫁をしながら、顔を真っ赤にした少年は私が首に掛けていたネックレスをもぎ取った。ブチッと嫌な音を立てて千切れた鎖に通されていたのは、シモンさんがお守りにと贈ってくれたフクロウを意匠にしたタリスマンだ。
他人が身に着けていた装飾品を破損させた上、強奪する。まさか伯爵家のご子息がそんな行動を取るとは思いもよらず、呆気にとられた面もあった。私がポカンとしている間に、少年はあろうことか手に握った飾りを投げ捨てた。しかも、すぐ近くの道沿いを走る川の中へ。
ばちゃん、と上がった水音が、やけに大きく聞こえ――それで我に返った。
「君ねえ……」
考えるよりも早く、低い声が喉から飛び出していた。
子どもだからといって、何もかもが許される訳ではないのだ。この暴挙には、さすがに私もカチンと来た。後で面倒なことになるのも見え透いているけれど、そろそろ堪忍袋の緒も限界だ。ひとつ説教でもくれてやろうか。
「エジディオ様、あんまりです!」
しかし、次の瞬間に全く予想もしないところから叫ぶ声が上がった。
ぎょっとして目を向けてみれば、それは少年のお供の一人で、いつも申し訳なさそうにしていた子だった。仕える主にも負けず劣らず、顔を真っ赤にしている。――おそらくは、怒りで。
私が見てきた限り、彼は今まで何一つ主に口答えすることはなく、ひたすらに付き従う姿勢を貫いていた。それが課せられた役目でもあったのだろう。なのに、それが今はどうだ。
お気持ちは嬉しいけど、そんなことを言ってしまって大丈夫なの、君。他人事ながら心配になってくると、瞬間的に噴き上がった怒りは逆に落ち着いていった。私はあくまで赤の他人として彼の主と剣突しているだけで、妙な言い方になるけれど、立ち回りとしては一種気楽なものだ。けれど、あちらはそうではない。明確に伯爵家へ仕えている身の上だ。
これは私がやらかしたことになるのだろうか、いや私は何もしてないので責を負わされても困るのだけれど、それはそれとしてあの子まで巻き添えにするのは申し訳ない。久しぶりに味わう動揺が思考を急速に回転させるものの、意外にも私以上に動揺している人物がいた。
「うるさい、エリゼ‼ 帰るぞ! アシル、リュシアン、お前たちもだ!」
他ならぬ、抗議を受けた張本人である。伯爵家令息はそう喚き、靴底を石畳に叩き付けんばかりの剣幕で広場から去って行った。まさに嵐のような騒ぎだった。
お供三人衆の名前、初めて聞いたな。現実逃避気味にそんなことを思って眺めていれば、疲れた顔つきのアシルくんとリュシアンくんが慌てて主の背を追って駆けてゆく。しかし、三人目のエリゼくん――主を窘めるという大任を果たした少年は、今にも泣き出しそうな顔で立ち尽くしているばかりで立ち去る気配がない。
「君、えー、エリゼくん? 君も行った方がいいんじゃないかな。ここで時間を食ってたら、余計に面倒なことになると思うよ」
肩をすくめて言うと、エリゼくんは私を見返し、泣きそうな顔を一層くしゃくしゃに歪めた。
「でも、エジディオ様に取り上げられたものは、あなたの大事なものだったのではないのですか」
「そりゃ大事だけどね。いいよ、ちゃんと探して回収しておくから。君のせいでもないしね。お互いにこれ以上の面倒は御免でしょう、早く行きなさい」
答えるついでに手をひらひら振って追い立てると、エリゼくんはぐすんと鼻を鳴らし、深々と頭を下げてから踵を返して走りだした。彼も大変だな……。
「……ま、とりあえず地道に探しますか」
呟いて、川の方へ向かう。
人目を引く騒ぎになったせいで、あちこちから視線が向けられていた。王都の住民はもちろん貴族でない人の方が多いし、中央広場を訪れる類の貴族は更に少ない。向けられた視線の大半が同情や憐みであるのも分かってはいたけれど、さりとて喜んで受け入れられるものであるかといえば否だ。
「なんでこう、平穏に過ごせないかねえ……」
空しいため息が口をついて出る。今日だけで何度同じような息を吐く羽目になるのか、考えるのもおぞましかった。
探し物はどこですか。見つかりにくいものですか。
懐かしのフレーズをもじった文句が脳裏に浮かんでくるくらい、その後の捜索は難航した。この肌寒い季節に川の中をウロウロして、もうどれくらい経ったかは考えたくもない。魔術で探してしまえれば楽なのだけれど、これまた場所が最悪に悪かったのである。
王都の内部を走る川は生活用水として活用されており、これに個人が魔術を施すことは法で禁じられていた。ちょっとした探査魔術であろうと、かけた瞬間にアラートが鳴って衛兵さんたちが飛んでくるという。こんなことで御用になる訳にはいかないので、ひたすらに自分の身体を使うしかなかった。
エリゼくんの前では意地を張ってみせたけれど、普通に寒いし辛いし空しい。またしてもこぼしかけた嘆息を呑み込み、屈み続けたせいで痛む腰を伸ばす。青かったはずの空は、いつの間にか薄ら赤くなろうとしていた。……陽が落ちるまでに帰れるだろうか。
王都における私の住処は、司祭さんの古い知り合いであるという夫妻が経営している酒場兼宿屋の一室だ。学院の寮は平民の入寮を拒否してこそいないものの、かかる費用が文字通りの桁違いに凄まじい。お店の手伝いと引き換えに、相場よりもかなり安く部屋を貸してもらっている。
門限こそ設定されていないものの、女将さんも旦那さんも何も言わずに帰らなかったら心配するどころか、周囲に声をかけまくって探してくれてしまう確信しかないくらいにはいい人たちなのだ。なるべくなら事は大きくしたくない。なのに、日はどんどん暮れてゆく。
こんな物陰では、街灯の光だって満足には届かない。そもそも、その明かりとて日本のそれに比べれば明度が落ちる。夜になってしまったら、完全にお手上げだ。それとも、川の上で明かりを灯すくらいなら法に抵触せずに済むだろうか。一種の博打である面も否定しきれないけれど。
「ほんと、ついてないな」
さすが呻き声も堪えきれなくなってきた。とはいえ、惨憺たる気分ではあっても、涙が出てきていないだけマシというものだろう。泣いてしまったら、気持ちもそこで折れてしまう気がする。
「あーもう、止め止め。沈んでもしょうがない。絶対、見付ける。せっかく、贈ってもらったんだから……!」
殊更に明るい声を作り、ぱしんと頬を掌で叩く。冷たい水と、軽い衝撃で頭がはっきりした気がした。気を取り直して、また水面の上に屈みこむ。
「何だ、こんな時間に水遊びか嬢ちゃん」
――そんな時だった。頭の上から声がしたのは。
はたと顔を上げる。真っ先に目に入ったのは、暮れていく今の空模様を思わせる橙色の眼。川の縁にしゃがんで私を見下ろしているのは、短く刈り上げられた鈍銀の髪の男性だった。歳は二十半ばか後半くらいだろうか。お世辞にも柔和とは言い難い鋭い眼光が目につき、つい身構えてしまう。
この世界は日本ほど安全ではない。街中でさえ、スリや暴力沙汰が珍しくもないのだ。貧民街に行けば、もっと物騒なことが日常茶飯事だとすら言う。
「……いえ。探し物を、しています」
答える声は、自然と硬くなった。探し物、と鸚鵡返しに繰り返し、男性は目を丸くさせる。
「水路ん中に落ちたのか?」
「私が落としたのではありませんが、結果として水の中にあります」
「自分でやったんじゃねえってことは、事故か何かか? にしたって、もう暗くなるぞ。そろそろ帰った方がいいんじゃねえか」
男性は遠慮なくズバズバ突っ込んでくる。それでも嫌な感じがしないのは、冷やかしや野次馬気分で言っているのではなく、単純に疑問に思っているらしいことが窺えるからだろうか。
「いろいろと、込み入った事情ががありまして……」
けれど、ここで経緯を説明するのは億劫だった。
時間を取られたくないのもあるけれど、一連の事態を細かく思い出したくない。そんな内心のままに濁すと、意外なことに男性は「そか」と頷くだけでそれ以上の追及はしなかった。
「どんくらい探してんだ?」
「買い物が終わったのが三時過ぎだった気がするので、それから――」
「あァ⁉ もう二時間以上やってんのか⁉」
心底驚いたという風で、驚愕の一声。……ということは、もう六時近いのか。どうりで足の感覚も怪しくなってきた訳だ。
「そんなに大事なもんなのか?」
「大事です。王都で無事に過ごせるようにと、祖父が贈ってくれたお守りなので」
そうか、と男性は再び頷くや、その場からひょいと川へ跳び下りた。
しゃがんだ姿からでは分かりにくかったけれど、相手は相当な長躯の人だったらしい。今の私も決して小柄ではないはずなのに、頭一つ分は差があるだろうか。厚手のジャケット越しにも分かる筋骨隆々とした肉体も、屈強の一語が真っ先に浮かぶくらいなのに、川の中へ驚くほど静かに着地する。
何もかもに驚いて絶句する私の前で、男性は軽やかに笑った。
「んじゃ、一緒に探すか。お守りってのはどんな奴なんだ?」
「フクロウのタリスマンで、それなりに重みがあるので流れていきはしないはず――ではなくて、いえ、あの、悪いですので……」
うっかり流されるところだった。慌てて首を横に振るも、男性はからからと笑うばかり。
「細けえこと気にすんなって。ここまで話聞いちまったらよ、ハイさよならって帰ったところで後々まで気になるに決まってるかんな。あの嬢ちゃん、ちゃんと見っけられたか、まだ探してやしねえかって。だったら、ここで手伝って心残りを解消しといた方がいいだろ?」
「え、いや、そう……ですかね……?」
さも当たり前のように言い切られてしまうと、何となく否定しづらい。その言葉を信じるのなら、物凄くストレートな善意であるだけに。
「迷惑だったら帰るが、実際問題一人よか二人で探した方がいいだろ?」
しかも、追撃は否定しようもない正論ときた。
男性が実は何か企んでいたら、後で法外な報酬を請求されたら――と不安に思うところはないでもない。けれど、こうしてわざわざ助けを申し出てくれるのに疑うのは失礼だし、正直なところ信じてみたい気持ちもあった。
「……では、ご迷惑をお掛けしますが、ご協力お願いします」
頭を下げて言うと、男性は「おう、任せとけ」と力強く答えてくれた。
それから、二人で川底をひたすらに探した。きらりと光るものがあれば拾い上げ、確かめてみる。大体は瓶の蓋であったり、稀に硬貨であったりした。
「そういや、お嬢ちゃん、名前なんてーんだ?」
「ライゼル・ハントです。お兄さんは?」
「ヴィゴだ。ヴィゴ・レインナード。ライゼルは――あ、名前で呼んでいいか?」
「ええ、はい。どうぞ」
「おう、あんがとな。んで、ライゼルは何しに王都に来たんだ? じいさんにお守りを持たされるってことは、ひょっとして一人か?」
「そうですね、実家を出て王都には一人で来ました。……この春から、王立魔術学院に通うことになったので」
余計な発言になりはしないか、少し迷ってから打ち明けると、レインナードさんは「そりゃすっげえな!」と掛け値なしに驚いた風で言った。その声はクローロス村で聞いた祝福を思い出させて、少しくすぐったい。
「ありがとうございます」
「おう。……まあ、何だ、その、俺は学がねえんで、あんまり上手い言い回しができねえんだが、嬢ちゃんは見た感じ平民だよな?」
「羊飼いの祖父母、狩人の父、仕立て屋の母の家に生まれた生粋の平民ですね。レインナードさんは、どちらのご出身なんです?」
「キオノエイデだ。この国の北っ側にある」
「ああ、お隣の。人呼んで、〈北の魔壁〉。魔術研究に熱心な雪深い国だと本で読みましたが、やっぱり冬の期間が長いんですか?」
「おう。年がら年中雪が降ってるような、気候的にもなかなか厳しいトコがある国なんだわ。だから、使える人材は何でも使う。貴族もいることにゃいるが、無能な貴族より有能な平民のがよっぽど重宝される。俺が生まれて育ったのは、そういう国だった。でも、この国は違うらしいよな」
「……そうですね」
レインナードさんの声からそれまでの陽気さが消え失せると、私の答える声もつられて苦々しくなった。
村で静かに生きている分には、その現実を意識することは、それほどなかったのかもしれない。けれど、野心を持って王都に出てきた以上は、否応なしに直面する事実だった。
この国では、何をどうしても平民より貴族が優先され、優遇される。どんなに能力があったとしても、貴族でなければ思うままに力を活かせない。そんな理不尽だって、さほど珍しくはないという。
「魔術学院ってのも万民に開かれてるってのは建前で、結局は貴族ばっかって噂で聞いた。そこに通えるようになったってんなら、そりゃあ苦労して、努力したんだろ? その歳でやってのけたってのは、心底すげえと思うよ」
レインナードさんが紡ぎ出す言葉を聞き、私は束の間ばかり言葉を失った。王都に来てから今まで、積み重ねた努力や払った労力について言及されたことは、たぶん、ほとんどなかった。
どこからどう見ても平民の私が王立魔術学院の生徒だと言うと、大抵の人はすごいと褒めてくれる。ただ、その裏には「そんな才能があるなんてすごいね」という言葉が隠れている気がしたし、実際にそう言われることも少なくなかった。
それが悪い訳ではないし、少し勉強したくらいじゃ覆せない身分の問題があるからこそ、そういった表現にもなるのだろうと思う。意図したのではない、無意識的な認識の発露。でも、その度にほんの小さな反発を覚えてもいた。
私は平民という身分を押して、王立魔術学院に入学した。けれど、それは沢山の人に助けてもらい、自分でも努力を重ねたからだ。持って生まれた才能のお陰で、何も苦労しなかった訳ではない。それを当然のように言及し、認めてくれた。
「レインナードさんも、普通にすごいと思いますよ」
「俺が? そうか?」
キョトンとした声。無自覚なら、それはそれですごいことだ。
相手の内実を見抜き、的確に評価できる。それも一つの立派な長所だろう。……まあ、私も奇妙な人生を送ってはいても大人としての人生経験は少ないので、あまり偉そうなことは言えないけれど。
「レインナードさんは、お仕事でキオノエイデからアシメニオスに来られたんですか?」
「仕事なのは、まあ、そうだな。あっちこっち旅をしながら傭兵してるもんで、少し前まではヴィオレタにいた」
からりとした答えに「へええ」とつい呑気な声が出る。村ではまず見ない職種の人であるだけに、少なからず新鮮でもあった。
この世界における「傭兵」の語は、金銭で雇われて戦う人の総称として使われる。ただし、その仕事内容は意外と多岐にわたり、ヴィオレタとエブルの戦争に参加する人もいれば、魔物の討伐や行商人の護衛を専門にする人もいるらしい。傭兵ギルドに所属していても、冒険者や用心棒と名乗る人もいるとか。
とりあえず、お金で雇われて依頼主の代わりに戦ったりする人なのだと思っておけばいいはずだ。
「基本的に討伐の仕事ばっかしてきたんで護衛業は専門とは言えねえが、これも何かの縁だからな。何か傭兵の手が必要なことがあったら、呼んでくれや。格安で雇われてやんぜ」
そう言う声は、もうおどけるように陽気だった。つられて笑いながら、答える。
「それは助かります。学院の課題では、魔物も出る危険地帯に行く必要があることもあるらしいので」
「おう、首を長くして待ってらあ」
シモンさんから贈られたタリスマンは、その会話からしばらくして見つかった。辛うじて日が沈みきる前で、レインナードさんが川底のくぼみに嵌っているのを見つけてくれたのだ。
川から上がり、二人して川べりに腰かけて脱いだ靴を引っくり返し、入り込んだ水を追い出す。私はズボンの裾を折っていたのでそこまで濡れていなかったけれど、そのまま川に入ったレインナードさんはびしょびしょで悲惨なことになっていた。
「カッコつけねえで、ちゃんと折ってから入りゃ良かった」
唇を尖らせて言う姿に思わず笑いながら、最低限水の切れた靴を履き直す。
「ま、何にしても見つかって良かったな。これで俺も安心して寝れるわ」
「はい、本当にありがとうございました」
頭を下げて言うと、レインナードさんは「どう致しましてってな」と目元を緩ませて笑った。鋭い目付きの面差しは、笑うととても人懐こくなる。
一緒に川の中を探してくれたばかりか、タリスマンを見付けてくれたこともあり、私の中でレインナードさんを警戒する気持ちはすっかりなくなっていた。
「にしても、災難だったな」
「ですね。……田舎の村育ちを理由にするのも情けなくはあるのですけど、貴族の人たちに対してどう振舞ったものか、今一つ掴めなくて」
だからか、つい愚痴っぽくなってしまった。
貴族の単語から経緯を察したのだろう、隣で苦笑する気配がしたけれど、何を言うでもなく私の頭に大きな手を置いただけだった。川の水で冷えた手は、ぽんぽんと軽く頭を撫でて離れる。皆まで言うな、ということだったのかもしれない。
「身分を笠に着て妬む僻むしか能がねえ奴は、じき潰れるさ。――それよか、もう夜だ。嬢ちゃんが一人で出歩くには危ねえ。一人で王都に来てるってことは、どっかに下宿でもしてんのか? 送ってくから、もう帰ろうぜ」
優しい声で言い、レインナードさんが立ち上がる。何気ない風で差し伸べられた手を借りて、私もまた腰を上げた。
川に入るにあたり、持参していた鞄は近くの物陰に隠していた。隠蔽の魔術を施した甲斐あり、置いた時と変わらずそこにある。
ほっと息を吐いて鞄を持ち上げ、ふと気が付いた。
「レインナードさん、お荷物は?」
「あ、そこに放っぽったままだった」
あっけらかんと言って、レインナードさんは少し離れた石畳の上に置き捨てられていた二メートル近い棒状のものと、それに括り付けられた鞄を拾い上げた。あんまりな無防備さに「ひえっ」と裏返った声が喉から飛び出す。
「ぶ、不用心が過ぎるのでは!」
「まーまー、大丈夫だって。こいつは俺以外の奴は触れねえ特別仕様だからよ」
棒を肩に担ぎ、レインナードさんは胸を張る。持ち主以外が触れるのを阻む性質があるのだとすれば、何かしら魔術的な保護が掛けられているのだろう。
「武器――槍ですか?」
「おうともよ。自慢じゃねえが、結構な業物だ」
自慢げな述懐には、ある種の納得をもって「ですよね」と相槌を打つ。
武器でも家具でも、何かしら魔術が付与されたものは、往々にしてそうでないものに比してお値段が跳ね上がるものだ。術の複雑さや精度次第ではあるけれど、桁が一つ上がってもおかしくない。
サロモンさんに習って山で獣を狩ることも覚えただけに、今の私に武器への抵抗感はそれほどないし、その扱いにもそれなりの心得がある。いつか機会があったら、少しくらい見せてもらいたいところだ。勉強になりそうだし。
「使い始めて、結構長いんですか?」
「そうさなあ。駆け出しの頃に、ちょっとした伝手で――」
そんな話をしながら、広場を出た。
広場から徒歩十五分ほどの場所にある下宿先では、やっぱり女将さんと旦那さんが私のことを心配していて、探しに出る寸前だった。事情を説明し、レインナードさんを紹介すると、我がことのようにお礼を言ってくれたりして――その結果、酒場で軽い宴が催されたりもしたようなのだけれど、さすがに疲れていた私は最後まで見届けることはできなかった。
ただ、ベッドに潜り込んで眠りに落ちる合間、後で改めてお礼に行かなきゃいけないよなあ、とは思った。