07:怒れる戦車の島-2
2.絡繰島への旅
八月の終わりが見えてきても、まだ暑さは厳しい。昼間はもちろん、夜でさえ寝苦しさに呻く日々が続いている。生活に余裕のある人々が根本的な解決を図るべく、避暑地に出掛ける気持ちも分かる気がした。
こちらの世界ではエアコンほどに便利な冷房機器がまだ発明されていない……訳ではないものの、非常に高価な魔道具という扱いに留まる。日本がそうであったように、一般家庭にまで広く普及するレベルには遠く及ばない。魔道具そのものの構造も非常に複雑なので、お抱えの魔術師がいるとか、家に魔術に詳しい人がいるとかでないと継続的な運用が難しいというのが学院でも度々耳にした評価だ。
そこまで手間暇をかけるくらいなら、避暑地にある別荘に出向いた方がいい。そう考える風潮も根強く、夏には涼しい地方に出掛けるというのが富裕層のもっぱらの過ごし方なのだとか。
「考えてみれば、うちの村は山間にあって涼しかったので、元々が避暑地生まれみたいなものなんですよね……。王都の暑さはきっつい……」
「俺も雪国の農村生まれだからなあ……。普通に辛え……」
「去年の夏とかはどうしてたんですか?」
「涼みついでにキオノエイデとかの暑くねえとこ選んで仕事してた」
「合理的」
兎にも角にも、王都は暑い。旅の用意が整ってすぐ、私とレインナードさんは再び王都を発った。もちろん、目指すのは絡繰島アルマだ。けれど、最終的な目的地は意外にも南洋諸島である。
大まかに見ればアルマの近隣海域に属する南洋諸島は、風光明媚なリゾート地として名高い。せっかく近くまで行くのなら、とレインナードさんの発案もあり、フィールドワークを終えた後はそちらへ足を延ばしてみることになったのだ。順調に進めば、全ての課題を終えるまでにもそう日数はかからないはず。そう説明したのも追い風になったらしい。
有難いのを通り越して少々申し訳ないことに、その観光の日程の分までもレインナードさんが費用を負担してくれるという。やっぱり槍の加工への対価としても過剰なのではないかという気がしてならないものの、「俺の商売道具がそんなに安いってか?」と言われてしまえば、否定するのも躊躇われた。
「夏がただ勉強漬けで終わるってのも味気ねえもんだろ。それとも何だ、俺がお供じゃ嫌だってか?」
「いえ、それはもちろん、そうじゃありませんけど……」
「じゃあ、いいだろうが」
「何か根本的な理屈に齟齬を感じる……!」
更には斯様にして押し切られ、今回の旅は浮遊島へ出掛けた時よりも尚長くなる見込みである。それほどまでの長時間を親族でもない男性と共にするというのに、自分でもびっくりするほど不安感も警戒心も湧いてこないのだから、つくづく人生何がどうなるやら分からないものだ。
しかも、日程の調整や傭兵ギルドを通じた各種申請はレインナードさんが一手に請け負ってくれたので、私はただただ自分の旅の支度をするだけで良いという至れり尽くせり。それなりにまとまった期間のフィールドワークなので予備の筆記用具を買い足したり、探索用の装備の具合を見たりする必要はあった。しかし、私が旅の為にしたことといえば、本当にそれだけだ。
探索用の「装備」とて、何も大仰なものではない。実家から持ってきた弓と矢筒、革の胸当てと脚絆一式。防具は身長が伸びていた頃には折に触れて作り直してもらっていたけれど、成長も止まって久しい。実家にいた頃のように、頻繁に山に入る訳でない。今あるものを手入れをしながら使っていけば充分だと思うし、レインナードさんも学生であるうちはそれでいいと言っていたので、もうしばらくは今のままがんばってもらうつもりだ。
そうして用意を整えてから、私たちはまずギルドの転送機で南西海岸の港町レピスへと飛んだ。レピスは小さな町ではあるものの、青く透き通った海と赤茶の煉瓦造りの街並みの美しさでもって観光客にも人気がある。郊外の方には立派な邸宅が並ぶ一角もあり、別荘地めいた側面も持っているようだった。
機会があれば、この街をよく見てみるのも楽しいかもしれない。しかし、今は他に優先される目的がある。転送機で飛べば一瞬とはいえ、私たちの旅においてはレピスの街もあくまで中継点なのだ。あちこち見て回ることはせず、傭兵ギルドを出たらまっすぐに港へ向かう。もっとも、その後は急ぐも何もなくなってしまうのだけれど。
観光客でごった返す港から南洋諸島へ向かう船に乗ってしまえば、後は海模様が穏やかであることを祈って大人しくしている他ない。アルマまでも転送機で移動できればいいのだけれど、傭兵ギルドの設備で移動できるのは国内に限られる。一瞬で異なる場所へ移動できる装置は、異なる国の間で導入するには便利過ぎたのだろう。
いずれにしても、三日間の船旅は好天にも恵まれ、順調そのものだった。レインナードさんが上等な船のいい部屋を取っておいてくれたお陰もあり、快適すぎて恐れ多いくらいに。
「あんま小さかったり古かったりする船だと、たちの悪い客に絡まれたり、密航とかあって面倒な騒ぎに巻き込まれかねねえからな」
とは、初日の夜に船内食堂でご飯を食べていた時にレインナードさんが言っていた台詞だ。おお、剣呑……。
「やっぱり、こういう時は変に費用を惜しまない方がいいんですね。それができれば苦労はない、という話でもありますけど」
「そうだな。嫌な話じゃあるが、女子どもは何かと標的にされやすい。何かあっても自分で対処できるっつー自信があるんでもなけりゃ、護衛なり案内人なりをつけとくのが無難だ」
一人で出掛けようとしねえで、そういう時はちゃんと俺に声を掛けろよ――と、釘を刺されて恐縮したりして、その時の食事は終わった。相変わらず、面倒見の良すぎる人である。
その後も、船での日々は一貫して穏やかであり続けた。船内をあちこち探検したり、レインナードさんに魔術について話を聞いてみたり、槍の具合を確かめたりしていれば、退屈する暇もなく時間は過ぎる。
「島が見えたぞー!」
そんな声が船内に響いたのは、レピスを出航して三日目の午後だ。
甲板に出て水平線を眺めてみるのも趣深そうだけれど、一等船室には立派な窓がある。ちょうどレインナードさんも私の部屋に来ていた――というか、例によって暇をしている時は私の方の船室にいることが多いので、呼びに行く手間も省けた。
窓を外に向かって押し開け、顔を出してみると吹き付ける潮風に煽られた髪で一瞬視界を奪われる。軽く手で払って視野を確保し直すと、水平線の辺りに黒い影が窺えた。
「後もうそんなにかからない感じなんでしょうかね」
「かもな。一応、荷物をまとめるだけまとめとくか」
答える声は、ごく自然に頭の上から。ちらと背後を窺ってみれば、むしろ窓枠を避けて少し屈んでいる様子だったので、何ともはやさすがの長躯である。
それからはそれぞれの部屋に分かれて下船の準備をしたものの、元から荷物の多い旅でもないのだ。私物を鞄に詰め直し、周囲の邪魔にならないよう武装を携えれば、それだけで終わりになる。後はもう、甲板に出て島が近付いてくるのでも眺めていればいい。
上陸に向けて船員さんたちも慌ただしく動き始めているので、邪魔にならない甲板の端の方にいさせてもらう。島影は刻一刻と大きくなり、青天の空の下で輝く水面は美しいの一言に尽きた。
「ついに上陸ですね。レインナードさんは以前にもアルマに来たことは」
「さすがにねえなあ。一応、ギルドであれこれ調べたり話を聞いたりして、多少の情報は仕入れて来ちゃあるが」
「心強い……」
言われてみれば、アルマへ出掛ける話をした後からレインナードさんの外出する回数が増えていた気がする。旅にまつわる手続きの為でもあったのだろうけれど、ついでに情報集めもしてくれていたのだろう。
大抵は午前の涼しいうちに「ちょいと外に出てくる」と出掛けていき、暑くなる前に帰ってくるのが常だった。その後はまた私の部屋で涼んでいたので、それもそれで暑くなる時間帯に冷房役ができるようにという配慮だったのかもしれない。配慮が行き届きすぎている……。
「最初は技師の詰め所みたいなトコ行くんだよな?」
「そうですね。島長直轄の研究所を訪ねなさい、と言いつかっています」
「てことは、疑似生命工学の研究所ってやつか。確か、地図にも何か書いてあったな……」
そう言いながら、レインナードさんが鞄の側面ポケットから地図を取り出す。傭兵ギルドで買ってきてくれた、アルマ島の地図だ。島の全景と市街地、主要な採掘地に関する三枚組になっている。
傭兵という職業は、あちこちいろんな場所に出向くことも多い。その際には行く先の土地の地図が必要になることもあるけれど、仕事が終われば使わなくなる場合が大半だ。なので、不要になった地図はギルドで買い取り、また別に必要になった人が出た場合に比較的安く売るというサイクルができているのだとか。
レインナードさんが買ってきてくれたのも、そうして誰かが使った後のものなのだと思う。少しくたびれた感はあるものの、ちょうど見えた説明書きによると去年の秋に作られた最新版らしい。
「ああ、これだな。北の街の疑似生命工学研究所」
「北の街……。南と西と東にもあったりするんです?」
「んにゃ、北と南の二つだけだ。北側の方が大きいみてえだな。この船も北の港に着くし、島長の館も北の街にある。研究所は東側の街外れだな」
持っていた地図をこちらに傾け、レインナードさんが「ここだ」と指差してくれる。研究所が街中にあるとも思わないけれど、かなり外れの方だった。
疑似生命工学は理論を構築するだけではなく、疑似生命を吹き込む対象をも制作しなければ話にならない。その素材には木材に石材、粘土に金属と各魔術師の判断で様々な材料が使われる。加工するには少なからず音もするだろうし、そうした観点から人気の少ない場所が選ばれたのかもしれなかった。
「港は街中に近い感じですね。先に今夜の宿を取って、それから研究所に向かいますか」
「それでいいんじゃねえか。拠点の確保は重要だ」
地図を見ながら島に着いてからの予定を打ち合わせたり、時折飛んでくる海鳥を構ったりしているうちに、いよいよ島は黒い影ではなく細かな色彩が見て取れるまでに迫ってくる。熟練なのだろう船員さんたちはてきぱきと船を操り、港に入って錨を下ろすまでもあっという間だった。その後は、各々が身の回りを確認して下船するだけ。
私たちもそこまで大急ぎで島に下りなければならない訳ではないので、のんびり順番を待って船から下りた。船着き場から臨む街並みは、意外にもレピスに似た印象だ。石畳の道や、石材や煉瓦で作られた家々。それだけなら、どこにでもあるような街でしかないものの――
「あっ、すごく普通にいる」
「うん? ああ、自動人形か」
私のすぐ後ろを歩いていたレインナードさんが不思議そうな声を上げ、次いで得心がいった風のトーンで呟くのが聞こえた。はい、と応じながらも、目線はついつい街のそこここを巡ってしまう。
石造りのゴーレム、木組みの人形、華やかに着飾ったビスクドール。そうした数多くの非生命体がごく自然に街中を歩き、時に周囲と意思疎通を図っているのだ。お店の軒先で店員さんと値引き交渉をする、大きな二足歩行の猫のぬいぐるみさえいた。まるでおとぎ話の世界に迷い込んでしまったかのようだ。
妹たちがこの景色を見たら、きっと面白がってくれるだろう。この世界では、まだカメラは個人で所有できるレベルほど一般化されてはいないのが残念だけれど。
アルマ島における拠点は、港に程近い宿屋さんになった。南の海に浮かぶ島なので、やはり夏にはお客が増える傾向にあるらしいものの、店員さん曰く南洋諸島ほどの混雑に見舞われることはないらしい。お陰で無事に一人部屋を二つ確保できたので、フィールドワークに使わない荷物を置き、筆記用具やお財布の必要品だけを外出用の鞄に入れて再び街へ出る。
「アルマでのフィールドワークってのは、どういうことをやれってんだ?」
「まずは研究所にいる技師の方を訪ねて、作業模様を見学させていただいてレポートを書く感じですね。後は街や研究所で見かけた自動人形についての分析や所感をまとめるとか、自分でも自動人形を作って提出すると加点されます」
「どっちにしろ、まずは技師に会いに行かなきゃ始まらねえって感じか」
「そうですね。必須ではないそうなのですけど、全ての条項を満たせなかったら、どうしても満点を獲るのは難しくなるじゃないですか」
「そりゃそーだ。……研究所は大通りを東に曲がって、後は大体真っ直ぐっぽいな。こっちだ」
レインナードさんが地図を見つつ先導してくれ、街を歩くこと十数分。
やがて見えてきたのは、高い塀でぐるりと囲まれた巨大な建物だった。学院の「叡智の館」をも余裕で上回る大きさには、呆気に取られざるを得ない。正門と思しき扉の脇には、守衛室らしき小部屋も見られる。扉も大きく分厚い様子であるし、いかにも厳重警備といった様子だ。
島長の直轄する魔術研究所と考えれば、機密事項も数多く詰まっているに違いない。それを保護する為と考えれば、むしろ当然ではある。
「先生が連絡を入れてくださっているはずなので、門前払いされることはないと思うんですけど……ちょっと待っていてください」
それでも、本当に大丈夫だろうかという緊張は拭えない。レインナードさんには門前で待っていてもらい、私一人で守衛室へ向かう。
小部屋の中には予想通りに中年の男性がおり、私が近付いてくるのに目を留めると「ああ」と驚いた様子もなく手を挙げてみせた。こちらが答えるよりも早く、人好きのする笑顔と共に問われる。
「アシメニオスの学生さんかね?」
「はい、ユベール・デュナン講師の課題でお伺いしました」
「ええ、ええ、お話は聞いていますよ。……難しい課題でしょうが、がんばってください」
そう言うと、男性は手元の操作盤を叩いて門を開けてくれた。魔術で遠隔操作と自動化を図っているようだ。ハイテク! と、呑気に浮かれるには、先の台詞がどうにも不穏で悩ましいのだけれど。
難しい課題……。人に会ってレポートを書くというのが基本骨子の課題で、そう声を掛けられるということは、レポートを書くという方ではなく人に会う方にかかった言葉だと考えるのが自然だ。何かしら、人となりの独特な御仁なのかもしれない。まあ、魔術師だものな……。
少々薄ら寒い気分になりつつ、扉を開けてくださった男性にお礼を言って、レインナードさんに「中に入っていいそうです!」と声を掛ける。私とレインナードさんが足早に門をくぐると、程なくして背後で扉の閉まる重い音が上がった。
「守衛に何か言われたか?」
「『難しい課題でしょうが、がんばってください』と」
「何だそりゃ」
「会いに行く技師さんが気難しい方とかですかねえ……。ただ、それ以外は委細承知しているという風ではありました」
ぽつぽつと喋りながら、門の前から足を進める。遠目からでも研究所の建物が大きいこと、外壁に囲われた敷地が広そうなことは見えていたけれど、実際に中に入ってみると想像よりも更に広大だった。
門から建物までも、かなり距離がある。前庭も学校の校庭を思わせるほどの規模で設けられており、時にはここで自動人形の動作確認や、大きな材料の加工をしたりするのかもしれなかった。だだっ広い平地の端には、木材や石材のような資材が山と積まれている。前庭というよりは、屋外作業場と呼んだ方が相応しいようにも感じられた。
「ちゃんと学校から話が通ってた感じか。それならそれで助かりはするわな」
「はい。先に何人か学生が訪ねた後なのかもしれません」
「あ~。夏休みも半分終わりかけなら、そら俺たちが最初ってこともねえか」
ですね、と相槌を打ちつつ、ひとまず建物の方へ向かう。石造りの重厚な巨大建築は、初見の印象としては館というよりも城に近い。一方で正面玄関に近付くにつれ、ギコギコと木を切る音やカンカンと金槌で叩くような音が多種多様に聞こえてくるのが、どうにも不釣り合いというか異質な感を醸し出していた。
「何かこう、疑似生命工学の研究所って感じしねえな。職人の集会所みてえだ」
「疑似生命を吹き込む人形を作るには、大工仕事のようなことも必要になりますからね」
時間が許せば、それぞれの音の発生源を訪ねて作業模様を見学させていただきたいところではある。しかし、今はとにかく課題に着手してしまわなければならないのだ。
研究所の正面玄関に立ち、大きな扉のノブに手をかける。……前に先回りをされ、レインナードさんに開けられてしまった。先に入れ、といつものように手振りで示されたので、「ありがとうございます」と言い置いて一足先に歩みを進める。
扉の奥には広いホールがあり、入り口からすぐ横手に受付らしき窓口が見えた。中は普通の事務室のようで、何人もの人が忙しそうに動き回っている。その中の一人、女性が私に気付いたようで窓口のところまで来てくれた。こちらも速足になって、窓口へと歩み寄る。
「いらっしゃいませ、どのようなご用件でしょうか」
「アシメニオス王国王立魔術学院より参りました、ライゼル・ハントと申します。ユベール・デュナン講師の紹介で、ルカーシュ・ソイカ技師をお訪ねしました」
「かしこまりました。少々お待ちください」
にこやかに答えると、女性は部屋の奥へと戻っていく。守衛さんと同じで、私という子どもが訪ねてきた時点で訪問理由は分かっていたのだろう。手慣れた様子で屋内通信魔道具を手に取り、「ソイカ技師、ご来客です。正面玄関へお越しください」と通信相手に告げていた。
魔道具での通信を終えると、女性はこちらを振り返って微笑む。
「すぐに参りますので、そのままお待ちください」
「ありがとうございます」
軽く頭を下げ、窓口を離れる。レインナードさんは少し後ろに立ってやり取りを見守っている風だったので、そちらに合流しておくことにした。私が傍に寄っていくと、小さく首を傾げて口を開く。
「これから来る奴が、目的の技師なのか」
「そうですね。学院の先生のご友人で、人形作りが上手い魔術師の方だそうです。元々は傀儡魔術を専門にする魔術師の家系らしいんですけど、ここ数代は疑似生命工学にも研究を入れていて、その関係でアルマに引っ越したのだと言っていました」
「名家の魔術師って訳だ」
「ええ。先生も『ちょっと取っつきにくいけど、そういう魔術師と交渉するのも経験になるから』とおっしゃっていましたし、守衛さんの台詞も微妙に意味深だったので、よっぽど研究者肌の人なのかもしれないですね」
「要は偏屈ってことだろ」
「レインナードさん、何事も言い方ってものがあるんですよ」
そう思っていても、直球で言ってはいけないことは間々あるものなのだ。私のお小言にレインナードさんは「へいへい」と肩をすくめる風だったけれど、いざ対面すればきちんと言葉を選ぶ人だろうから重ねて言うことはしない。
それよりも「ちょい緊張してるな?」と察されていたことの方が問題だった。これでも平静を装っているつもりだったのに……。
「予め連絡されているとはいえ、お仕事中のところにお邪魔する訳なので……」
お茶菓子程度に手土産を持参してはいるけれど、やはり緊張するものはするのである。お仕事の制作中とかだったら、途中で手を取られるのは嫌だろうし。
「学院の講師とここの技師との間で話が通ってんなら、そこまで心配することもねえんじゃねえか」
「そうだといいんですけど」
はあ、と息を吐いた時、カツンと硬い音が聞こえた。何かと思えば、ホール奥に設置されていた昇降機の籠がこのフロアに到着し、誰かが降りてきたらしい。
そちらへ顔を向けてみれば、一人の男性の姿が見て取れる。黒髪を撫でつけた痩せた面差しの人で、歳はおおよそ三十代くらいだろうか。レインナードさんに比べれば小柄ではあるものの、その体躯の細さが相俟って縦に長い印象が強い。作業着を思わせる装束にエプロンめいたローブを重ねたスタイルは、確かに魔術師というよりも技師の呼び名の方が相応しそうだった。
ただ、銀縁の眼鏡の奥で灰色の双眸が剣呑に細められているのが、確かに少し取っつきにくい印象を作り出してはいる。やっぱりお仕事中で、普通に邪魔だったのかもしれない。……さりとて、こちらも何もせずに帰る訳にはゆかないのだ。
「お忙しいところ、ご対応いただきありがとうございます。私は」
「名乗りは要らん。生憎と俺は仕事が立て込んでいて手が離せん。何か知りたいことがあるのならば、他の技師を当たれ。どいつもこいつも自分の仕事や研究にかかりきりだが、中には手の空いている者もいるだろう」
ここはまず、ちゃんと挨拶から――という気合は、悲しいことに一瞬で潰えてしまった。
ポカンとする私を他所に、ソイカ技師は躊躇いの欠片もなく踵を返すと昇降機へ戻っていく。降りてきた時のまま止まっていた籠に乗り込むと、すぐさま上の階へと姿を消していった。ソイカ技師の研究室は上にあるんだろうな、とそれは想像がつくのだけれども。
「確かに、これは難しい……」
我に返った私は呻かずにはいられなかったし、
「何なんだ、あの野郎は」
隣からは大層低い声が聞こえてきていた。