番外-1:うつくしきみどりの
大陸中部において随一の繁栄を誇る、アシメニオス王国は王都ガラジオス。その中央広場は昼夜を問わず無数の人が行き来し、賑やかな喧騒に満ちている。
しかし、馴染みの鍛冶屋へ研ぎに出していた槍を引き取った帰り、青空の端がじりじりと赤くなり始める頃に広場へ立ち寄ったヴィゴは、見慣れた空間に奇妙な空気が漂っているのを感じた。まるで息をひそめて、何かを窺っているような。
はて、何事か騒動でも起こった後か。それにしては些か場所と時間が腑に落ちなくはあった。王都ともなれば、配備されている衛兵の質も高い。その名の通りに王都の中心近くに位置する中央広場は衛兵の巡回も頻繁で、しかもまだ日も落ちてもいない。
よほどの考えなしでもなければ、そう派手な騒ぎは起こさないはずだが……。首を傾げつつ、ヴィゴは近くの露店へと足を向ける。折しも、露店の店主は客と気まずげに話をしているところだった。
「……さっきの娘、まだ川にいるのかい」
「いるだろうよ、上がった姿を見てない」
ひそひそと囁き交わす声は、いかにも辺りを憚る風。その「さっきの娘」とやらが、異変の元凶なのだろうか。それにしては、やはりどうにも奇妙な空気であるような気もする。
「よう、そいつは何の話だ?」
頃合いを見計らって口を挟むと、店主と客は飛び上がらんばかりに肩を跳ねさせたが、声の主が誰であるか理解するや、ほっとした風で息を吐いた。
「なんだ、ヴィゴか。驚かせるな」
「そっちが勝手に驚いたんだろうがよ。んで、何があったんだ? 広場中、おかしな空気になってんぜ」
「ああ……ちょっとした騒ぎがな」
そう答えてから、店主は一瞬躊躇う目顔を見せたものの、ひそやかな声で続けた。
ヴィゴがガラジオスの傭兵ギルドに席を置き、王都を行動の拠点とするようになってから、既に二年近い時が過ぎている。広場の露店の主の多くとも顔馴染みであり、こうして大きな声では喋ることのできない話も教えてもらえる程度には顔が利いた。
「どこの貴族の息子だか知らないが、さっき散々娘子に絡んでやがったのさ。……可哀想だったよ。こんな公衆の面前で罵倒されて、挙句の果てに首飾りを盗られて川の中に捨てられちまった」
露店の店主がしかめっ面をしているのも道理である。予想だにしない気分の悪くなる話だ。陽気な男と形容されることも多く、大抵のことは大雑把に受け流す気質のヴィゴとて、さすがに渋面にならずにはいられない。
「そんなんで、何で誰も止めに入らなかったんだよ」
「……貴族に楯突こうとする奴なんて、そうそう居やしないよ」
後ろめたそうに言ったのは、店主ではなく客だ。このアシメニオス王国はヴィゴが生まれたキオノエイデ帝国と違い、強固な身分制度が敷かれている。
各領地を治める貴族が権勢を誇り、大多数の平民はその統治の下で暮らす。貴族に刃向うことは罪に等しく、最悪の場合には命を奪われる恐れすらあった。その環境下で己の身を守る為の振る舞いをしたとて、どうして余人が責められよう。
「それがここのお国柄って奴かい」
それを悪いと言うつもりも毛頭ないが、口に出せばかえって皮肉のように聞こえるだろう。一言呟くだけに留めたヴィゴはひょいと肩をすくめ、店主へ目を向ける。
「で、そのお嬢ちゃんは首飾りを探して川に入ったって訳か?」
「……ああ、そうだよ」
あの辺りさ、と店主が広場の一隅を指し示す。ヴィゴは示された方向へちらりと目をやると、
「ふうん、まだ居んのかね」
そちらへ向かって大股に歩き始めた。目を丸くした店主が「おい!」と声を掛けるのにも構わず、示された場所へと歩みを進める。
石畳の地面よりも一段低く掘り下げられたところを流れる川は、整備の手が行き届いていることもあり、どちらかと言えば水路と評した方が相応しい趣を持つ。元々の高低差の為に影が深く差す上に、今は暮れなずむ空の色と相俟って、内部は既に薄暗くなり始めていた。
水路の縁に立ってみれば、果たして一つの影が水路の中に見て取れる。腰を屈めて水面を注視している後ろ姿は、頭上の観察者に気付く気配もない。
「ほんと、ついてないな」
不意に、声が聞こえた。嘆きの深い、途方に暮れたような少女の声音は、何とも哀れだ。
「あーもう、止め止め。沈んでもしょうがない。絶対、見付ける。折角、贈ってもらったんだから……!」
しかし、その後に続いた独言は少なからずヴィゴの意表を突いた。
ぱしんと乾いた音が鳴るまでに至ると、感嘆に近い感慨さえ覚える。どうやら自らの頬でも叩いたらしいが、そこまでくれば口角も持ち上ろうというものだ。気丈なこった、と口の中だけで呟く。
明朗に響く声は、明らかに作ったものだろう。純然たる空元気。一連の行動がどうにかして自分を奮い立たせようとするものだとは分かり切っていたが、話に聞いた状況でそれができるだけで称賛に値した。じめじめと恨み言を吐き連ねるよりか、よほど好ましい。
ヴィゴの見下ろすすぐ先で、少女は再び探索を開始する。その姿をほんの数秒ばかり眺めた末に、ヴィゴは少女の頭上から声を掛けた。
「何だ、こんな時間に水遊びか嬢ちゃん」
殊更に軽い調子で掛けた言葉は、敢えて本心とは違うものを。深刻になり過ぎぬよう、できれば余り警戒を抱かせずに済むように。少女とて、我が身に起きた災難が多くの見知らぬ人間に知られていることを嬉しくは思わないだろう。
一瞬の間があり、少女が顔を上げる。
最初に目についたのは、柔らかな緑色だった。戸惑う中ですら消えることのない、強いものを湛えた眼。わずかに見開き、それでいてすぐに気を取り直したかのように鋭さを帯びるその緑が妙にうつくしく思えた。
「……いえ。探し物を、しています」
他方、答える声はやはり少し硬い。この状況下にあって無防備でいられる方が不安になるのも確かだが、怯えさせるのもまた本意ではない。静かにヴィゴは思考を巡らせる。
――さて、ここからどんな風に話を続けようか。