06:恋人たちの石-2
2.浮遊島の探索
浮遊島は、概ね二つの階層からなる。上層の都市遺跡と下層の地下鉱脈だ。
国の調査が入るのは主に上層の遺跡の辺りで、常にどこかしら調査しているのだけれど、何しろ浮遊島が広くて大きい。ある程度の期間で調査場所が変更されるので、その時の調査場所でなければ特別な立ち入り制限もされていない。拾得物の扱いに関しても、一定の自由が認められていた。
何かしら持って帰りたいものを見つけた場合は、その発見場所を記録して国の調査団に申請に行く。そこで物品を確認してもらい、持ち出して良いと許可が出た場合はもらって帰ることができる仕組みになっていた。
持ち出し禁止や回収が命じられるのは、主に浮遊島の歴史や風俗の分析の参考になりそうなものとか、新しい発見に繋がりそうなものなので、基本的に魔石や武具は制限を受けない。それで浮遊島とミスリル採掘がイコールで結ばれるようになったという訳なのだった。
ただし、国が継続的に調査を続けている遺跡であることに変わりはない。意図的に大きく遺跡を損壊させるような問題を起こすと、罪に問われて罰金の支払いが命じられることもある。私たちが気にしなければいけないのは、むしろそちらだ。
「浮遊島で魔物に遭う頻度って、どれくらいなんですか?」
「そう高くはねえと聞いてるな。国の調査団は魔物除けの結界を張って仕事をしてるから、どうしたってそれ以外の場所に被害が流れがちになる。その分だけ、割を食わされることにゃなるが」
「調査中の安全確保は必須ですものねえ」
今はまだのんびりと喋りながら、都市遺跡へと続く道をテクテクと進む。
グリフォン便の発着場や宿屋のある辺りは島の外縁に位置し、遺跡に向かうには少し歩かなければならない。かつての街道跡と思われる平坦な道を十数分も行けば、今はもう大部分が朽ちている高い隔壁が見えてくる。街をぐるりと囲う壁と道がぶつかる場所には大きな門が設けられているものの、既に扉は跡形もなく、出入りし放題になっていた。
門の傍らには立札があり、貼り紙の代わりに魔術で様々な文章や絵図が描かれている。直近の魔物出現情報や崩落危険個所、調査中の立ち入り禁止区域などの情報が一括してまとめられているようだった。
「今は中央の王城で調査が行われているようですね。ここ三日間では魔物の出現情報はなし。西の空中庭園近くで家屋が一つ倒壊したばかりなので注意が必要」
浮遊島の基本的な地図も、予めレインナードさんが用意してくれてある。後で照らし合わせてみるとして、今は先に必要そうな情報を書き写しておくべきだろう。
地上における季節は夏の盛りであるとしても、高高度の空にある浮遊島は寒い。王都では到底着ていられない厚手のジャケットの内ポケットからメモ用紙と万年筆を取り出し、ペンを走らせる。こういう時にスマートフォンでもあれば、パシャッと写真を撮って終わりにできたのにな。
「……一通りはメモしておきました。どこから行ってみますか? 発着場は都市遺跡の南側にあたりますから、行きやすいのは西か東ですね」
メモのインクが乾くのを待つ間、万年筆をしまいがてら隣の人に問うてみる。
浮遊島の有名スポットはいくつかあり、西は立札にも書かれていた空中庭園。東は闘技場で、北は大聖堂。中央はもちろん王城であるのだけれど、今は国の調査団が滞在しているので候補からは除外される。尚、南は人が入りやすいこともあって粗方探り尽くされた後らしい。
「ミスリルの武具を探すなら、東の闘技場が安直ではあるわな」
「では、最初の目的地はそこにしておきますか。街中はさすがにトラップのようなものもない、ですよね……?」
「一応、調査が入った部分については撤去されてるとは聞くな。ただ、こんだけのデカさだろ。道も建物も多いだけに、何がどう取りこぼされてても不思議じゃねえ」
「結局気は抜けない、と……。それはそう……」
はあ、と息を吐くと、頭上で小さく笑う気配がした。
「心配なら、手でも繋いでってやろうか」
「グリフォンの背中の上ほどではないので大丈夫です」
喋っている間にメモのインクも乾いた。レインナードさんに内容を確認してもらってから、ジャケットの内ポケットに戻す。これで再出発の準備は整った。
「まあ、東の闘技場までは最短かつ安全な経路が確立されてる。そこまで気負わずに行こうや」
そう言って、レインナードさんが爪先を門の方へ向けて歩き出す。行く手の門は見上げるほどの高さで、扉こそ失われているものの、未だ威容と評しても過言ではない佇まいを保っていた。
門の向こうの街も古びて朽ちつつある印象こそ拭えないものの、そこまで今にも壊れそうな危うい雰囲気はない。石造りという素材こそ似通っていながら、ガラジオスとは建築様式が違うらしく、建物の佇まいも曲線が目立つ。そこはかとなく異国情緒のようなものを感じないでもなかった。
念の為に、と周辺一帯に風を流して軽く魔力の反応を探る。前情報通りにめぼしいものは取り尽くされた後なのか、気に留めるに値するような気配は何もない。これなら報告することもないかと思っていれば、
「周到だな」
笑い含みの声が聞こえ、瞬く。本当に軽く浚うだけのつもりだったから、詠唱も省いた。それなのに私が何をしたか気付いていたらしい。
「灯台下暗しとも言いますから」
「確かにな。魔物がどっかから持ち出して、南側に捨ててくってのもなくはねえだろうし」
「はい。でも、やはり何もなさそうでした」
「ま、そう都合よくはいかねえもんさ」
近隣一帯は静まり返っている。魔道具や生き物、魔物はおろか、人の気配すら全くない。浮遊石の採掘場は都市遺跡の外にあるそうだから、グリフォン便の発着場の辺りで見た人たちも皆そちらへ向かっているのだろう。
扉のない、ただのアーチと化した門の下を通り過ぎ、いよいよ都市遺跡へと足を踏み入れる。がらんとした古い街並みはどこかよそよそしく感じられる一方で、未知の中を行く奇妙な昂揚感もあった。
かつて栄え、滅びた古代文明。シンプルに好奇心を刺激してくるワードだ。
「そういや、試験の結果っていつ頃に分かんだ?」
「今月下旬までに生徒の家に届けられるそうです。私の場合は、清風亭と実家にそれぞれ」
「案外かかるんだな」
「筆記試験ならともかく、実技や課題制作については一律で採点する訳にもいかないでしょうから」
雑談の傍ら、まずは門から直結する大通りを真っ直ぐ北へ。十字路に差し掛かったら、これを東側へ曲がる。元は相当に立派な都市だったのだろう。この街が遺跡と呼ばれるようになってからも永い時間が経っているはずなのに、通りの石畳は古びてはいても乱れてはいなかった。
古い石畳を踏み、雑談をしながら着々と歩みを進める。しばらくすると、家々の向こうに大きな建物が見えてきた。つい一月ほど前に訪ねた王都のものより格段に古めかしい、円形闘技場だ。
「あれだな。何か感じるか?」
私より遥かに上背のあるレインナードさんは、もっと早くに闘技場に気付いていたのだろう。こちらが声を上げるより早く、前方を指差して問う声が聞こえた。
まずは外壁の門のところで探ったのと同じ程度の、軽い感覚で風を走らせる。周辺の街中はこれまでと同様に特筆すべき反応はなし。ただ――
「おそらく、あの闘技場には何かしらの防衛術式が施されています。風が中まで入り込めない。元々公平を期した勝負が行われる場所であったのなら、その観点から一切の魔術的な干渉を阻む仕掛けがあるのかもしれません」
「てことは、中に入ってみなきゃ詳しく探れねえか、もしくは……」
「中に入っても探れない。目視で全てを捜索しなければいけないか、ですね」
「全部人力は勘弁してもらいてえトコだ。中に入っちまえば、そこまで妨害が入らねえと思いてえがね」
「大抵の場合、内向きか外向きかに偏りますからね。外からの干渉を阻むか、中での行使を防ぐか」
「その理屈で考えて、中に入っちまえば探れると期待してえところだ。――何にしても、今も生きた魔術が掛けられてんなら警戒は必要だわな」
そうですね、と相槌を打つ間にも、闘技場は刻一刻と目の前に迫ってくる。
長く放置されて煤けた印象が濃いのは否定できないながら、今まで見てきた街並みのどの建物よりもしっかりとした佇まいを保っている。外界から差し向けられる魔術を阻む仕掛けが施されているように、建物にもある程度は元の状態を維持する術が掛けられているのかもしれなかった。
「念の為に、手ェ繋いどくか。分断されるのが一番まずい」
闘技場の出入り口と思しい、都市遺跡の外壁の門によく似たアーチの前で立ち止まると、レインナードさんがおもむろに呟いた。右手に槍を持っているからだろう、差し出されたのは左手だ。日に焼けた、大きな手。
お願いします、と答えて手を取るのに迷うことはなかった。これから全く状況が窺えていないところへ侵入しようというのだ。私としても、手を握ってもらっているという事実で安心できる部分が大いにあった。
握った手は分厚くて、あたたかい。浮遊島の肌寒いくらいの気温の中では、その温度こそが一番安心させてくれるような気もした。
「――そんじゃ、踏み込むぞ」
低い号令に「はい」と応じ、手を引かれてアーチをくぐる。明かりのない屋内施設は薄暗く、けれど意外なほど埃や黴のにおいはしなかった。
アーチをくぐった瞬間には少しピリッとした感じがあったものの、例の干渉を阻む術式の作用境界を越えたというだけのことだ。通過した者に何かしらの効果を付加するものではないようだったので、気にするには及ばない。
建物の中に足を踏み入れ、最初に直面することになったのは広いホールだった。この都が生きていて闘技場も賑わっていた頃には、催しに関する受付とか物販とか、そういう役割で使われていたのかもしれない。
「中に入ってみて、どうだ?」
「探ること自体はできますが、微妙に制約を感じますね。たぶん、興行していた頃の仕組みがまだ生きてるんだと思います」
軽く風を走らせてみれば、建物の構造自体はすぐに把握できた。
この闘技場は円を三つ重ねたような造りで、さながらバウムクーヘンのような層状を成している。バウムクーヘンの真ん中の空洞部分が戦いの舞台となる砂地のフロアで、そのすぐ外側が客席。更にその外側が、今私たちの立っているホールを含めた通路の区画だ。
客席は舞台を見下ろす形で高さを取って作られているので、実際にはその下層にまたいろいろな施設があるようではある。戦う人の控室や救護室のような、運営側が使う部分になっていたのじゃないだろうか。別に出入り口があるようで、この表側からでは直接入ることができない造りになっていた。
それから、気になることは他にもある。
「客席と中央の舞台には別の術が掛けられているようです。外――ここから客席の様子を探ることはできますが、一度客席に入ってしまったら、再び外に出るまで魔術は使えない。逆に舞台はフィールド外で発動した魔術の影響を一切受けず、そこに立っている分には魔術の行使に問題はなさそうな感じですね」
調査結果をざっくり掻い摘んで説明すると、黙って聞いていたレインナードさんは「なるほどな」と頷いて正面の扉へと目を向けた。或いは、その向こうの客席へ。
「客は大人しく戦いを見てろ、闘士は十全に戦いを演じろって訳だ」
「そのようです。どこから探しますか? 武具を探すなら、闘士の人たちが出入りしていたであろう区画の方が良さそうでしょうか。表からだと直接は入れないようなので、舞台に下りて辿っていくのが良さそうですが」
「妥当だと思うぜ。そしたら、面倒だし客席突っ切って下りてってみるか」
了解です、と今度は私が頷いて返し、ゆるりと引かれる手に従って歩き出す。
まずはホール正面の傾いだ扉をくぐり、客席へ。中央の舞台をぐるりと囲んで見下ろす格好の配置は、まさしくすり鉢状に近い。扉が通じていたのは客席の中段やや上といったところで、舞台を一望するにもちょうどいい。……なので、私も分かってしまった訳だ。
「レインナードさん」
「おう」
「何かいます」
「いるなあ。ご丁寧に待ち構えてら」
眼下の舞台の中央に長大な剣を携えて佇立する、金属鎧で全身を固めた巨躯。霜の巨人ほどではないかもしれないけれど、地面に落ちた影の長さからして、レインナードさんの体格より一回りは大きそうだ。
鞘に収められていない剣の切っ先を足元の地面に埋め、重厚な籠手で守られた手を重ねて柄尻の上に置いている。まさに「騎士」の語を思い浮かべるに相応しい、堂々たる立ち姿だった。
「いかにも『かかってこい』って誘ってる感じじゃあるが、遊ぶ為に来てる訳じゃねえしな。一度外に出て、別の入り口でも探すか」
「それが無難そうですね。出入りできない封鎖された場所になっているはずはありませんから、どこかしらに通用口があるはず」
もしかしたら戦いたがるのでは、という内心の不安は問うまでもなく霧散した。内心ホッとしつつ答え、背後の扉へと手を伸ばす。傾いではいるものの、ついさっきは普通にレインナードさんが押し開けていた。だから、動かないはずはない。
「……レインナードさん、この扉って私の手で動かないくらい重かったですか?」
そのはずなのに、私が左手を押し付け、体重をかけてもびくともしないのだ。軋む音の一つさえ上がらない。最初からその形で固定されているかのように、わずかさえ動かなかった。
「うん? んなことはねえと思うが、ちょい待ち」
私と入れ代わりでレインナードさんが槍を持ったままの右手を扉に当て、力を入れる。けれど、やはり扉は動かない。その後は一度繋いでいた手を放し、私に槍まで預けて両手で押してみたり、蹴り破ろうと試みてみたりもしたのだけれど、見事なまでの無反応。
何らかの術で封じられているのかと思い、私が解呪を試みもしたのだけれど、どうもそういう訳でもないっぽい。槍を返し、手を繋ぎ直し、私たちは黙然と扉を見つめるしかなかった。
「……開きませんね」
「開かねえな」
「扉を蹴った足は大丈夫でしたか」
「あれくれーでどうにかなるような鍛え方はしてねえから大丈夫だ。ただ、どうにも妙だな。俺が壊せねえなら、魔術で概念的な――物理攻撃の無効化とかの防御が図られてるはずだ。逆に、それならお前が看破できねえはずはねえ」
「そうですね。扉を封鎖するという術式はかけられていませんでした。この闘技場そのものにかかる、もっと大規模な術式の一環なのかもしれません。もしくは、永い歳月で建物自体が一種の魔物化して意思を持ち、独自に封鎖している可能性も」
「どっちにしても、用意されてる道筋に乗らねえ訳にゃいかなさそうか」
「……現状、そう言わざるを得ない感じではあります。さっきまでは客席と舞台の行き来を隔てる結界も張られていましたけど、今は解除されているようなので」
「お膳立ては万端って訳だ」
はあ、とレインナードさんがため息を吐く。未知の敵と戦えそうなのに嬉しくはないのだろうか。私を連れての探索行で監督責任があるから、その辺を気にしているのかもしれない。
「仕方ねえ、気は乗らねえが下に向かう。抱えてっていいか」
「大丈夫です、お願いします」
答えたと同時、身体が浮かび上がった。繋いでいた手がまた離れたかと思うと太腿の辺りに腕が回され、一気に持ち上げられる。
「適当に掴まっといてくれ。走る」
はい、と答えるよりも早く、私を抱えたレインナードさんが走り出す。慌てて首に腕を回した時には、もう風のように客席の間の階段を駆け下り始めていた。
あっという間に最前列が目前へと迫り、しかし、それを待つことなく宙へと身を躍らせる。ひゅう、と風を切る音を耳元で聞いたのも束の間、鮮やかな着地。
すごいな、なんて呑気に思っていたら、
「ライゼル、警戒!」
「はいっ⁉」
鋭い声が聞こえて肩が跳ねた。
何事かと疑問に思う――よりも早く、うなじの毛が逆立つかのような感覚が走る。自然と視線が動き、舞台の中央に佇む鎧へと吸い寄せられた。
やはり、その中身は空洞なのだろう。兜の隙間には鬼火のように揺れる緑の光が灯り、今や膨大なまでの魔力がその内から漏れ出している。そして、剣の柄尻に乗せていた手を解き、右手で絵を握ろうとしている所作の意図もまた明らかだ。
「やる気らしいな。……後ろに下がって待機してろ。新手が出てくる可能性は低いとは思うが、何か出てきたらできる範囲で捌け。無理に対抗する必要はねえ。逃げるなり俺の方に引っ張ってくるなりして、自分の身を守れ」
私を地面に下ろしてくれながら、レインナードさんが囁く。分かりました、と答えつつ地面を踏み直し、そろりと傍を離れた。
この闘技場に残されている術式を見るに、なるべく公平な勝負を演じさせようという意図が感じられた。それを踏まえるのなら、この状況で増援が出てくる可能性は低い。それでも私たちが二人いるという点を加味して、もう一体の敵が発生しないとも限らなかった。
私が距離を取ったのを確認すると、レインナードさんが背負っていた鞄を地面に落として槍を構える。対する鎧も切っ先を地面に埋めていた剣を持ち上げ、両手で構え直す風。両者睨み合い――そして、ぎぃんと鈍い金属音が上がった。
先手を取ったのは、もちろんレインナードさんだ。正面から間合いを詰め、繰り出された槍の穂先を動く鎧は剣の峰を側面から合わせて逸らす。どうしても俊敏性では劣るのか、反撃に出ることまでは叶わずに防戦一方で旗色は悪い。それでいて槍の直撃を防ぎ、大きな損傷を免れ続けているのも事実だった。
「意外と上手い」
そんな感想がこぼれるくらいには、術式で操作されている傀儡の割に技術がある。それだけ精密に組まれた術で動かされているのかもしれない。
任意の物体を魔術で操作して従える系統の魔術は、古今東西ポピュラーなものだ。禁忌中の禁忌である死体を操る死霊魔術、人形やゴーレムを操る傀儡魔術なんかが有名どころであり、あの鎧も後者の傀儡魔術で動かされている可能性が高い。
……古代文明の傀儡魔術。これもまた、激しく好奇心を疼かせる文句だった。
「レインナードさん、その鎧を動かしている術を解析しても構いませんか! そこまで上手く動かす術の構築に興味があるのですけども!」
「そりゃ構わねえが――てことは、手加減して決着を引き延ばした方が良いか?」
「できれば! 動きを止める程度に壊すのは大丈夫です」
あいよ、と軽い返事があったかと思うと、風を切って翻る槍が器用にも傀儡鎧の持つ剣を巻き込んで跳ね上げる。剣を取り戻そうと手を伸ばした鎧は、その隙に正面からの蹴りをまともに食らって吹っ飛ばされた。
中身が入っていないにしても、フル装備の板金鎧だ。それを軽々と蹴り飛ばす上、鎧の胸部装甲がベッコリへこんでいるのが見えてしまった時には「すご……」と同時に「こわ……」という感慨が去来したけれど、それはともかく。
地面に落ち、ぎこちない所作で立ち上がろうとする鎧の元へ、レインナードさんは滑るように追い縋る。鎧が完全に体勢を立て直してくる前に蹴りと槍の殴打でもって追撃を入れると、その後も巧みに反撃の芽を潰していった。
剣を奪って脅威の度合いを下げた上で、壊しきらない程度にあしらってくれているのは明らかだ。この時間に解析を済ませてしまわないと。
「開式。伸ばすに遠く、澄ますに鋭く。私の眼は深きを見る」
口早に詠唱。風を通じて放った術式は、思いがけず簡単に鎧の中へ入り込んだ。
予想通りに内部は完全な空洞になっており、膨大かつ複雑な術式がその挙動を支えている。浮遊する都が遺跡と化す前――まだ繁栄を謳歌していた頃に組み立てられた術式であれば当然、現代で一般化されている魔術とは用いられている言語も論理も一風異なる。
こうなることを予期していた訳では全くないけれど、学院で古代魔術分析講義を取っておいたのが幸いした。古めかしい記述を読み解くと同時に、その意図を掌握する。物質構築術式。魔力補充術式。自立制御術式。更にもっと別の大きなものに紐づいた術式情報もあったけれど、そこまでは読み込まない。
おそらく、闘技場そのものの在り方に通ずるものだ。来訪者を感知するとか、それに合わせて傀儡を用意するとか、脱出を封じる手立てを講じるとか。そこまでは必要がないので、全カット。
気になるのは三点。いかにして傀儡を作り出し、魔力を与え、操っているのか。私も同じように傀儡を作って操ることができれば、弓兵に付き物の悩みである標的に接近された際の対抗策を得ることができる。外れる矢を射らずに済めばそれに越したことはないものの、私はサロモンさんほど人並外れて卓越した射手ではないのだ。手札は用意しておくに越したことはない。
しかし、いきなり古代文明の高精度術式を手札に加えるのは、難易度が高過ぎたかもしれない。式を読み解けない訳ではないものの、何しろ情報量が凄まじい。外国語の古典を並行して何冊も読みながら、それぞれの内容に即した謎解きをしている感覚とでも言えばいいだろうか。少しでも気を抜こうものなら、流れ込んでくる情報に溺れて押し潰されてしまいそうだった。
ズキズキと痛む頭を支え、意地だけで意識を繋ぐ。一瞬くらりとして視界が回りかけ、足元の感覚すら消えかけた。ハッと我に返り、前に出した右足で地面を踏み締めて間一髪耐える。あと少し、もう少しなのだから。
「ライゼル! どうした⁉」
足音の乱れを聞き留めたらしく、すぐさま声が飛んでくるのが、何というか――本当にすごいな、と思う。傀儡鎧をあしらいながら、等しく私の様子にも気を払っているのだ。何かあったら、すぐに助けに来られるように。
大丈夫です、と答えたいのが本音ではあったものの、今はまだその余裕がない。残りの術式を読み解くに全精力を注ぎ、
「いま、終わりました! もう大丈夫です」
最後の気力を振り絞って叫んだ。……直後、返事よりも早く重い破砕音を聞く。
はたと顔を上げれば、あの傀儡鎧の兜が真正面から貫かれていた。顔面に突き刺さった槍はそのまま横に振り抜かれ、鎧から兜をもぎ取る。放り捨てられた兜は地面を転がるばかりで、その内部の闇にはもう何の光も浮かんではいない。
術式の根幹は兜の方にないと見て取ったか、レインナードさんはそちらにはもう一瞥すらくれなかった。右手だけで槍を握ると、体勢を低く構え直す。――そして、銀色が閃いた。
一瞬の間の後、ざらざらと小さなものが落ちゆく音が上がる。瞬きほどの間に、一体何度その槍が振るわれたというのだろう。板金鎧は細切れの金属片となり、地面に小高い山を作っていた。あれほど完膚なきまでに器を壊されれば、いかに精密な傀儡術式とて維持することはできない。
既に魔術の気配は去っていた。この場に残るのは、ただの金属の山だけ。本当に、とんでもない。とんでもない腕利きの傭兵なのだ、あの人は。
「ライゼル!」
畏怖にも似た心境に浸る間もなく、大きな声が間近で聞こえた。肩を掴まれ、そうと理解した途端に気が抜けた。ついでに言うと、身体から力も抜けた。慌てた所作で抱き留められ、そのまま持ち上げられる。
「おい⁉ 大丈夫か、分析しようとして変なもんでも踏んだか?」
「……踏んでないです。一度に、たくさんの情報が入ってきたので、頭がぐるぐるしてるだけで」
「そうなるまでやるなよ――とか言うのは無駄か。試験前も勉強し過ぎでぶっ倒れてたしな」
呆れた口振りでため息を吐かれた。その件につきましては、ご迷惑をお掛けして誠に申し訳ございませんと反省しております。
レインナードさんは槍を持ったまま私を抱き直すと、戦い始めの時に下ろしたままになっていた自分の鞄のところに戻って回収し、肩に掛けた。きちんと背負わなかったのは、取りも直さず私を抱えているからだろう。一事が万事邪魔をしているのは分かっていたけれど、さりとて今は身体が動かない上に頭も痛い。動きたくても動きようがなかった。
「すみません、ご迷惑を」
「これくらい迷惑に入らねえよ。そもそも俺が『勉強になると思って』って連れ出したしな。……しっかし、ただ動く鎧を倒して終わりかコレ? 興行試合に寄せてんなら、勝った方に賞品の一つや二つあってもよかろうによ」
「それはたしかに」
「だよなあ。骨折り損のくたびれ儲けってやつかね。いや、俺は骨を折るっつーほど苦労してもねえけどさ」
あーあ、と落胆の滲む声に少し笑う。やっぱり楽勝は楽勝だったようだ――と感嘆するしかなかった、その時。
「ライゼル」
低い声で呼ばれる。その意図も、また問うまでもなく分かっていた。
また新しい魔力の気配。今私たちがいる舞台の中央辺りだ。もしや、連戦を強いる気か。レインナードさんは平気かもしれないけれど、まともに身動きも取れなくなった私を抱えてでは分が悪い。
一体何が、と首をひねって魔力の発生源へ顔を向け……ぽかんとした。
「字が」
「字だな。たぶん古代語だろ、アレ。俺読めねえぞ」
「読めるので、訳します」
「さすが」
舞台中央の空中、魔力の発生源には光る文字が浮かんでいる。レインナードさんの言う通り、現代で使われている言葉ではなく、学院の古代魔術講義で取り上げられるような古い文字と文法形式で綴られた文章だ。
「『戦士の勝利。判定・優』……あ、これ試合の判定結果の告知みたいです」
「なんだ、そういうアレか」
空中に浮かんだ文章を読み上げ、喋っている間にまた新しい文章が浮かんでくる。幸い、どれも読み解くには難しくない。特殊な言い回しが頻出するようなスラングとは対極の、事務的な通達文章であったのも助かった。
「『難易度四・打倒報酬、ミスリルシールド。無傷勝利報酬、ミスリルソード。優判定勝利報酬、ラムール石』……って、ええっ⁉」
文章が現れるがままに読み上げていき、そして我に返ってギョッとした。思わずレインナードさんと顔を見合わせる。抱き上げてもらっていたので、意外と顔が近かった――とかいう感情的な反応をするどころではない。
燦然と輝いて浮かぶ文章の下に突如として出現した物体を、二人揃って二度見どころか三度見した。
「嘘お」
「……ライゼル、お前ほんとに強運の星の下にでも生まれたのかもな」
レインナードさんが感嘆の声を上げるのも道理である。
いつの間にやらそこにあったのは、目にも眩い白銀の輝きを帯びた盾と剣であり、一塊の薄桃色の結晶だったのだから。