05:司祭長の懺悔-1
1.王都の教会
北の皇帝の来訪に沸いた六月が去り、七月に入って間もないある日にクローロス村から清風亭へ小包が届いた。手紙はよく届くけれど、小包は比較的珍しい。
アシメニオス王国王立魔術学院も、多くの日本の大学と同じように八月から二カ月間の夏休みを採用している。七月の下旬には長期休暇前の試験があり、学生たちもその対策で慌ただしく動き出す。そんな頃のことだ。
小包が届いたのは学院が休みの日の比較的早い時間で、女将さんの手を介して私の部屋に届けられた。綺麗な長方形で、それほど重さはない。
固く縒られた麻紐と何重にも巻かれた油紙の梱包を解いてみると、表面の丁寧に磨き上げられた木箱が現れる。飴色をした蓋の四隅には薔薇の彫刻が施されており、懐かしい意匠はサロモンさんの手によるものと思われた。山に入らない日には、よく家でこうした木を使った小物を作っていたっけ。
ドキドキというよりはワクワクしながら木箱の蓋を開けてみれば、ほのかに甘い匂いが鼻先を掠める。何だろうかと思っていれば、真っ先にドライフラワーの花束が目に飛び込んできて納得した。このお陰だったらしい。
ドライフラワーの横には、これもサロモンさんの作品と思しい円筒形の入れ物。拳を二つ重ねたほどの大きさで、中央の部分から上下に分離しそうな感じがする。パッと見で「前」の実家で茶葉を入れていた茶筒に似ていた。他には手紙が三通。司祭さんと二人の妹、それからアナイスさんが代表となった家族からのものだった。
円筒形の入れ物の中身も気になるものの、まずは手紙を読んでみることにする。まだ字も文章も鋭意練習中の妹たちの手紙は、アナイスさんの解説書が必須だ。地道に読み進めていくと、どうやら二人とも元気に羊追いを手伝っているらしいことが窺えた。この前に放牧先で見つけたという綺麗な花の押し花も手紙と一緒に入れてくれてあり、自然と口元が緩む。
次に、アナイスさんの手紙。元気でやっているかとか、困ったことがあればいつでも帰ってきていいとか、いつも通りの優しさに溢れた内容だ。花束と木筒についても触れられており、早くもここで詳細が判明した。
白い花弁の色形が綺麗に残った花束は、シモンさんが採ってきた薬草をアナイスさんが加工して仕立てくれたもの。空気を綺麗にする効果があるらしい。後でベッドの辺りに飾っておこう。
木筒の方は、本当に茶筒だったらしい。バベットさんが育てていたハーブが収穫できたので、それを乾燥させたものが入っているという。眠れない時や気分が落ち着かない時に煎じて飲むように、と書いてあった。今のところ不眠に悩んだこともないので、大事に取っておいた方が良さそうだ。
そして、最後に司祭さんからの手紙を開ける。内容は概ねアナイスさんのものと変わらなかったけれど、やはり王都での生活よりも学院での立ち居振る舞いや講義についての心配の方が多かった。
「魔術について迷うことがあれば、教会を訪ねなさい。サルナーヴ司祭長はかつて私が師事したこともある、人となりの確かな御仁です。何かしらの助言をくれるでしょう……か」
手紙はそう締めくくられ、司祭長への紹介状も添えられていた。魔術について、迷うことがない――訳ではない。もちろん。入学試験におけるエドガール卿の評価は、確かに的を射ていた。
傲慢なことを言うけれど、自分が優秀だという自覚はある。そうでもなければ主席で入学することなどできはしないし、エドガール卿から要精進の意図を含みつつも銘を下賜されることもないはずだ。ただ、そのくせ……いや、だからこそか。本当の超越者として立つには、何かが決定的に足りないらしいのだ。今の私には。
その漠然とした不足を、司祭さんも随分と骨を折って埋めようとしてくれた。様々な文献をあたり、時には遠方の知己に手紙で問うてまでしてくれたというのに、私はついぞ応えることができなかった。自分でも何がどうなって足りていないのか分かっていなかったから、応えようがなかったとも言えるけれど。
司祭長さんに会いに行けば、この不足を何か変えることができるのだろうか。……いや、それをここで考えたところで答えが出ようはずもない。師匠のお言葉なのだから、従ってみるのも一つの手だ。得体の知れない、けれど確固として存在する不足を「天才」と「凡人」の差とかいう、月並みな言い方で諦めたくもなかった。
まだ全ての手を尽くしきってはいないと思う。諦めて身の振り方を定めるには、まだ早い。早いはずだと、そう信じている。
「行くだけ、行ってみようかな」
時刻はまだお昼前。善は急げと言うし、今から行動を起こせば、何かしら後に繋げることもできるはずだ。
教会の組織構造がどうなっているのかはよく知らないけれど、王都の教会の司祭の長とシンプルに考えただけでも、地位が低くない訳がない。きっとお忙しいことだろうし、面会を求めるにしても事前に申請が必要になる可能性が高い。その申請だけでもできれば、今日のところは上出来だろう。
この世界でも、神は信じられている。
魔術なんてファンタジーな技術があるくらいだから、「神」という種族がいてもおかしくない気がするけれど、今のところ寡聞にして聞いたことはない。ともかく、神の教えを広める教会は人々の心の拠り所として、確固たる地位を築いていた。
アシメニオスで一般的に言う「教会」はエードラム教の教会であり、創造神を信仰している。教義としては、それほど突飛なものもない。善くあれかし、というのがクローロス村の司祭さんが事あるごとに口にする決まり文句だった。
要するに「創造神への感謝を胸に、善良な生涯を送りましょう」といった趣旨の教えなのだと思う。色々と説話もあった気がするけれど、私はそれほど信心深い方ではなかったので、そこまで細かくは覚えていない。
そんな半端者が足を踏み入れていいものかと一瞬悩んでしまうくらいには、王都の教会は荘厳な佇まいをしていた。クローロス村のものは司祭さんの自宅を兼ねた、民家に毛が生えた程度の規模だった。しかし、当然ながら王都の教会はそれとは桁というか、格が違う。小さなお城レベルだ。来る途中に通りがかった露店で買ったハムサンドを食べながら、半ば観光気分で来たのが早くも反省される。
急いで残りのハムサンドを口に押し込み、遅ればせながら身の回りを確認する。服装、普通。寝癖、なし。ハムサンドの食べかす――も、ないはず。……私もアシメニオス王国民としては、十七年のキャリアしかないヒヨッコだ。多少の不作法は神様も目を瞑ってくれると信じよう。
教会の敷地は広く、その外縁にはぐるりと高い壁が巡らされている。正面に据えられた大きな門が開け放たれており、教会に用のある人はそこから中に入るようだ。私もその人の流れに乗り、まずは門を通り過ぎる。特に用事を問われたり、手荷物を調べられることもなかった。
門を越えると、まず綺麗に整えられた花壇や東屋が目に入る。それらを横目に石畳を真っ直ぐ進むと、清風亭の部屋からも見えていた巨大建築が迫ってくる。出入り口にはシスターが控えており、礼拝堂へやってくる人たちへ声を掛けていた。
子どもが一人で教会へ、というのは目立つものなのかもしれない。シスターさんの一人と目が合うと、にこやかな笑みと共に「こんにちは」と挨拶をされた。
「お一人かしら? 今日はお祈りに?」
「クローロス村のテオフィル・セラフィーヌ司祭にご紹介いただいた者なのですが、サルナーヴ司祭長にお会いする許可を頂戴したくお伺いしました」
単刀直入に本題を切り出してみたものの、いきなり司祭長の名前が出るとは思わなかったのか、シスターさんが目を丸くさせる。
「こちらが紹介状です」
肩に掛けていた鞄を開き、手紙に同封されていた書類を差し出してみせると、戸惑い顔のシスターもやっと私が本気であることが分かってきたようだった。ただ、返答はない。どう答えたものか、判断がつけられないでいるのかもしれなかった。
「予め面会希望の旨の書面を作成して提出した方が良いということでしたら、そのように致しますが、どうでしょうか」
とりあえず、何かしらレスポンスがほしい。そう思って更に一押ししてみると、
「シスター・エマール。その方は私のお客人です。お通しして下さい」
よく通る、枯れた深みのある声が聞こえた。
その響きに引かれるようにして、礼拝堂の中へと顔を向ける。正面の壁の上部には見事な細工のステンドグラスが嵌め込まれ、それを背景にエードラム教のシンボルが掲げられていた。ステンドグラスを透かして淡い色彩を帯びた光に照らされた空間では、多くの人が手を組み、目を閉じ、祈りを捧げている。
声の主は、その空間のどこにいたのでもなく――礼拝堂の側面に設けられた扉から出てきたようだった。白い髪を撫で付け、縁の細い眼鏡をかけた壮年の男性。クローロス村の細身な司祭さんとは似ても似つかない、がっしりとした体格の御仁だ。
その姿をみとめたシスターさんが「司祭長」と呼びかける。それに頷き返すと、男性は私へと目を動かして手招きをした。
「ライゼル・ハント嬢、お待ちしておりましたよ。こちらへいらっしゃい」
まさか、ここで司祭長ご本人から許可がいただけるとは。クローロス村の司祭さんがこちらにも手紙を送って、先触れをしてくれていたのかもしれない。
これなら当初の目的を達成しようとしても、誰に咎められることもないはずだ。
「ご対応、ありがとうございます」
シスターさんに一言残し、軽く頭を下げてから司祭長の許へ足を急がせる。礼拝堂の端に沿って、迂回するように速足で。私が目の前で足を止めると、司祭長はにこりとした微笑みを浮かべた。
「ようこそおいでなさいました、ユーグ・サルナーヴと申します」
「ライゼル・ハントと申します。お忙しい中、ありがとうございます」
いいえ、と穏やかに応じた司祭長は背にしていた扉を開けながら、思いがけず楽しげな声で語る。
「長らく音信の絶えていた愛弟子の頼みですからね。テオフィルの教え子ならば、私にとっては孫弟子にあたる。弟子の世話を焼くのも師の役目であり、楽しみですよ。――さあ、こちらへ」
手振りで示され、扉をくぐる。その先には広い通路があり、しばらく歩んだ末に案内されたのは書斎のような部屋だった。
壁一面に据え付けられた書棚には、今にも溢れ出しそうなほど大量の本が詰まっている。一方で、ここが書庫のような部屋であるとも思えなかった。部屋の中央には重厚な執務机、ソファやローテーブルのような調度も置かれている。司祭長の私室とかだろうか。
「お掛けなさい。じきに飲み物も届きます」
「ありがとうございます」
再度促され、ローテーブルを挟んで据えられたソファの片方に腰へと下ろす。すると、ちょうどそのタイミングで扉がノックされた。
「どうぞ」
司祭長が許可を与えると、さっきのシスターさんとはまた違う女性がお盆を手に部屋の中へ入ってきた。楚々とした立ち居振る舞いでテーブルの傍へやってくると、薄青色のお茶が注がれたティーカップと焼き菓子を載せたお皿をテーブルに置き、何も言わずに一礼して去っていく。
召し上がれ、と促されたので、まずは「いただきます」と一口お茶を頂く。司祭長もカップに口をつける様であったので、ほんの短い間ばかり沈黙が落ちた。
「さて、テオフィルから話は聞いています――と言いたいところですが、それよりも先に気になっていることがおありですね?」
カップをソーサーに置くかすかな音と共に静寂が破られる。こちらもカップを置いて正面に目を向けてみると、思いがけず司祭長は悪戯っぽく笑っていた。意外に気さくな方なのかもしれない。
であれば、少しお言葉に甘えさせて頂こう。
「今日私がお伺いすることを、ご存じだったのですか?」
「ええ、知っておりましたよ。――けれど、あなたはこう続けたいのですね。どうして、と。テオフィルから伝えるにしても、日時までは伝えようがない」
司祭長は流れるように語る。その通りだった。
「司祭長と認められるには諸々の条件がありますが、最も重要視されるものに『七奇跡の習得』があります。退魔、浄化、治癒、対話、祝福、解呪、先見。あなたの訪問を察知したのは、この『先見』によるものですね。そう遠い未来のことまでも詳細に知ることはできませんが、半月程度先のことならば、いくらか窺い知ることができるのですよ」
「奇跡……」
教会の用いる「奇跡」は魔力と似て非なるものだ。魔術が魔力を基に個々人の技術によって様々な現象を起こすのに対し、教会の奇跡は信仰心に基づく祈りによって求める現象を招くという。
クローロス村の司祭さんも、もちろん折に触れて奇跡を披露されてきた。ただ、私に対しては一貫して「魔術の先生」というスタンスを貫き、教会や奇跡についてはほとんど語ることはなかった。……その辺りにも、たぶん、何かしらの事情があったのだと思う。
「そう、奇跡です。……テオフィルは、あまり語らなかったでしょうね」
司祭長が苦笑を浮かべる。私と同じことを思っていたのかもしれない。
どう答えたものか迷った末、小さく首肯だけを示した。司祭長はそうだろうと言わんばかりの表情を浮かべたものの、
「もっとも、それについては今ここで語るものでもありません。――今回はあなたの悩みについて話す機会ですからね」
そう言って、司祭さんの手紙に書かれていた内容を諳んじ始めた。……様々な魔術を行使することができるようになった一方、何かが少し足りない。風魔術への適性が飛び抜けて高い一方、それ以外の属性についてやや伸び悩んでいる節がある。
淡々として聞こえるほど落ち着き払った声で挙げられるのを聞いているのは、少しばかりの苦々しさを伴った。私にとっては、未だ儘ならない現実の再確認に他ならないのだから。
「テオフィルの見解に異論はありませんか?」
「ありません。私には、未だ何かが足りないようなのです。エドガール・メレス卿にも、同じようなご指摘を受けました。掌中への確信が足らず、最後の一歩を信じきれないでいるらしい、と」
再度頷いて返すと、司祭長はぱちくりと目を瞬かせてから「なるほど」と呟いて腕を組み、手で顎を摩った。
「エドガール卿が直々に、あなたへそう言ったのですね」
「はい。魔術学院の入学試験の際に」
「ああ、実技試験ですね? 宮廷魔術師が観覧するという……そういえば、シスターたちが噂をしているのを聞いた覚えがあります。今年は初めてエドガール卿が銘を授けた優秀者がいると。それが、あなたであった訳ですね」
その形容で頷くのは些か躊躇われる気もしないではないものの、事実は事実だ。浅く頷き返すと、司祭長はもう一度「なるほど」と呟いた。
「大枠は想像がつきました。エドガール卿も『確信が足らない』と口にする訳ですね」
「どういうことでしょうか」
これまでの情報だけで、司祭長は何かしらの結論が導き出せたようだ。私とは違って……いや、この不理解こそが超越者との決定的な差ということなのか。
「そう硬くなることはありませんよ。あなたは目の前にあるものに干渉する術を得手として、今ここにないものを新たに創り出す術にいくらかの苦手意識がある。要は、それだけのことですから」
「それだけ」
思わず鸚鵡返しに繰り返してしまった。それだけのこと? 本当に?
「私が思うに、あなたは至極現実的な人となりなのでしょう。火を起こすのなら火打石を使い、水を求めるのなら川から汲み、石を欲するなら土を掘る。そういうものだと認識している」
首を傾げる私に、司祭長はあくまで優しい口振りで説明を続ける。
それ自体は非常にありがたいのだけれど、かえって疑問は増すばかりだった。火も水も石も、そういうものだと認識しているとかいう話の前に、根本的にそういうものなのではないのだろうか。それが自然の摂理というものなのでは――などと、私がひたすらに頭の中へ疑問符を増やしていることは、対面している司祭長には一目瞭然であったに違いない。
小さく笑う素振りを見せると、司祭長は組んだ腕を解いてティーカップへ手を伸ばし、口をつけた。一呼吸分の間。
「無論、世界はそのようにできています。しかし、その事実をただ享受するのでは、魔道の深みに達することはできない。己の心ひとつをもって、無から有への変革を為さしめる。それこそが魔道と奇跡に共通する真髄です。どうやら、あなたはその心構えが少し弱いようだ。本来、その在り様では最初期に躓きがあるはずなのです。魔術の行使自体に揺らぎが出る。にもかかわらず、エドガール卿の目に留まるだけの成長を果たしているのは、果たして天稟か努力の賜物か……。風魔術には長けるというのも、風ならば自分の手で起こせるという認識があるからではありませんか?」
そこで言葉を切り、司祭長はカップを置いた手で軽く扇ぐ仕草をしてみせる。
その述懐と手振りを前にして、素直にハッとした。その通りだ、風は身一つで起こすことができる。だから、火や水や石を創り出すのに比べ、遥かに心理的なハードルが低い。
「魔術も奇跡も、元をただせば同じところから始まります。求め、願う事柄が、確かにここにあると信じること。それが全ての始まりにして、最も重要な根幹です。エドガール卿の言う『掌中への確信』ですね。テオフィルはあなたの優秀さに目が眩み、初歩的な部分を見落としていたのかもしれません。まだまだ若い証です」
司祭長がおどけてみせるのに、何とも言えない納得でもって少し笑う。司祭さんが逆に――というのは、少し分かる気がした。
初対面の算数の授業でやらかしてしまった印象が強すぎたのか、あの後も一貫して私を優秀な子どもとして扱ってくれた。可能な限り高度な分野まで教えようと手を尽くしてくれ、私が曲がりなりにも応えて形にできてしまっていたのも、司祭さんの傾向に拍車をかけていたのかもしれない。
そもそも、司祭さんは本職の魔術師でもないのだ。にもかかわらず、本当に多くのことを教えてくれた。時には一緒に調べながらということもあったけれど、そこまでして教えてくれた、教えられたということ自体がイレギュラーだったに違いない。それこそ司祭さんの優秀さの証だろう。
それにしても、全てを己の確信が左右するとは予想外の精神論だ。……いや、冷静に振り返ってみれば、そうでないはずがないのか。
世に魔力と呼称されるエネルギーは自然界に発生し揺蕩うものと、生物が意識的に生成するものとに大別される。後者は体力が肉体から成る力であるのに等しく、精神から成る力として発現するものだ。先日のレインナードさんのような大戦果を挙げるには、強靭な肉体が必要不可欠となる。ならば、同じ理屈で魔術師に確固たる意志が必要になるのも不思議ではない。
火を起こすならマッチ、水が欲しければ水道、鉱物が欲しければ採掘されたものを買う。日本で二十三年の歳月を生きた以上、根幹的な認識を今すぐ変えることはできない。でも――それでも、だ。
魔術師として立とうとするのなら、それを超えて強く信じなければならないのだろう。今ここに「無い」ものを、今ここに「有る」と創り出す。漠然と信じるのではなく、確信をもって。
「我々が神を信じ、祈りによって奇跡を招くように。あなた方は己の魔道を信じ、そして成すのです」
「……少し、目が覚めたような思いです」
ありがとうございます、と答えて頭を下げる。エドガール卿の謎かけめいた言葉の真意を推し量れただけでも、十二分な収穫だった。
「もっとも、魔術と奇跡は同一のものではありません。あくまで司祭としてからの観点となりましたが、少しはお役に立てたのであれば良かった。菓子の方も、召し上がりなさい。料理に長けたシスターがいるのです」
「頂戴します」
小皿に盛られたフィナンシェに手を伸ばす。端をかじってみると、ほのかに紅茶が香った。甘さも程よく、ハムサンドの後のデザートにはちょうどいい。どうぞ、とにこやかに促されるがまま、気付けば三つをぺろりと平らげてしまっていた。
最後にお茶を飲み干し、「ご馳走様でした」と改めて頭を下げる。
「この後に茶葉と菓子を包んだものが届きますから、そちらもお持ちなさい」
「重ね重ね恐縮です」
「かしこまることはありません、老人が孫を可愛がるのと同じですよ。――ただ、そうですね。到着まで今しばらく時間がありますから、もう少しこの老いぼれの思い出話にお付き合い頂けますか」
「もちろん、私でよろしければ」
喜んで、と応じたのに他意はない。ただ、全て織り込み済みで予め図っていたのだろうな、とも思わないではなかった。先見の奇跡があれば、今日のこの会話の流れを確認しておくのも難しくはないはずだ。
軽く居住まいを正すと、私が傾聴の姿勢に入ったと見て取ったか、司祭長は柔らかく「ありがとうございます」と微笑んで語り始めた。前置き通りに、遠い過去を懐かしむ眼差しをして。
「テオフィルは十年近く……私が司祭長となる前、この教会で研鑚を積みました」
「その頃から、とても優秀でいらっしゃったのですか」
「ええ、とても。彼は揺るぎない信仰心を持ち、素晴らしい奇跡を起こしました。齢十八の若くして退魔に浄化、治癒、祝福、解呪――実に五つの奇跡を習得した。ここ数十年、例のないことでした」
敬虔な信徒でもなければ、教会の内情に詳しくもない私には、それがどれほどに卓越したことだったのか実感をもって理解するのは難しい。けれど、それはとても稀有で素晴らしいことだったのだろう。ひそりと「私の自慢でもありました」と、その師が呟くくらいには。
……しかし、その才ある若者の未来が決して栄光に満ちたものにならなかったことは、他ならぬ私たちがよく知っている。
もちろん、クローロス村の暮らしが哀れなものだなどと言うつもりは毛頭ない。誰それが怪我をしたとか、病気をしたとか、怪しい毒にあたったとか。様々な用事で毎日のようにお呼びがかかり、忙しそうにしていたものだ。
一方で、そんな日常の中で司祭さんが嫌な顔をしていたことは一度もなかったように思う。無事に怪我人や病人が癒えればホッとして喜んで、どこそこの家でご飯をご馳走になったと嬉しそうに笑って。少なくとも私が知っている司祭さんは、そういう風に暮らしていた。
栄達とは無縁の世界だったかもしれない。それでも、決してあの村での日々も嫌ってはいなかった。いなかったはずだと、そう思いたいだけかもしれないけれど。
「……テオフィル司祭は、何故クローロス村に?」
「つまらない権力闘争が為ですよ。未だ超える者を見たことがないほど、彼は本当に才ある若者でした。不幸な生まれを恨まず、嘆かず、真摯に神に仕えた。ですが、神でなく人が、彼に報いなかった。心無い者が彼を蔑み、裏切り続けた。それゆえに、彼は人が神を信仰する行為に疑問を持ってしまった。私は彼を教え導く立場にありながら、守ってやることができなかった。……思い出話などと言っておきながら、懺悔となり申し訳ないことですが」
そこまで語って言葉を切る司祭長の表情には、深い悔恨が滲む。
表層的な話を聞くだけの私では、何を言っても空虚になるだけだ。沈黙を応答に替えるべく口を閉じたままでいると、不意に司祭長が鳶色の眼をこちらへ向けた。その眼には今までの一種好々爺然としたものではない、どこか底知れない光がちらついて見える。
――瞬間、私の頭の中でもスイッチが入った。
「あなたからも、伝えて頂けませんか。もう君を攻撃するものはない。君が居るべき場所もある。王都に戻れば、愛弟子の直接の助けにもなれようと」
「いいえ」
語尾が重なるほどの勢いで否定を発することに、少しの躊躇いもなかった。私は先見の奇跡など成しようもないけれど、それでもそうすべきだと分かっていたし、司祭長が暗に何を求めているのかも分かっているつもりだった。
「そのお言葉には頷きかねます。私はテオフィル司祭に多くを学び、多くを費やし育てていただきました。その矜持にかけて、王都で困りごとが多いからここにきて助けてほしいなどという台詞は、口が裂けても申し上げるつもりはありません」
続けてキッパリ言い切ると、司祭長は意外にも目を瞠る様子だった。この未来は見えていなかったのだろうか。
「そして、実際にクローロス村から師を呼び付けるほど困ってもいません。そもそも師が王都に戻りたいと思っているのかどうかすら、私には分かりません。そんな状態で急に差し出口を叩いては、かえって心配されるか、不信感を抱かれるのではないかと思いますが」
テオフィル司祭には、本当に長く師事した。それでも、未だかつてそんな言葉は聞いた覚えはない。単に私の前で言わなかっただけかもしれないけれど、私の前で口にしなかったのだから、私がそうすべきだと提案する道理もないだろう。
じっと司祭長の眼を見返して答えると、ややあってから「そうですね」と苦笑交じりの返事があった。
「確かに、そんな手紙を届けてはテオフィルを怒らせるだけでした。そも、私が償いたいだけの独善に巻き込もうなどと、失礼千万な話。――不甲斐ないところをお見せしました。老人の世迷言と、聞き流していただけますか」
「いえ、私は思い出話を聞かせていただいただけですので」
それ以上でも、それ以下でもない。この件については何も言いはしないし、何もしはしない。そこまで口に出しはしなかったものの、司祭長は察したようだった。
「テオフィルも、私のように優秀な教え子を持ったようですね」
苦笑に近い質の微笑みが浮かべられた時、部屋の扉が外から叩かれた。司祭長の許可を待ってから部屋に入ってきたのは、また違う顔のシスターさんだ。手にしたお盆には、いかにも丁重な風で白い布の包みが乗せられている。
それを見ると、まず先に司祭長がソファから立ち上がった。
「頃合いのようですね。今日のようなことは、もう二度と起こり得ないとお約束します。また何か困ったことがあったら――いえ、そうでなくとも気軽に訪ねておいでなさい。祖父を訪ねるようにでも」
「身に余るご厚情、感謝申し上げます」
シスターの持つお盆の包みを手に取り、私の方へ差し出す。それを押し頂いて、教会を辞した。
司祭長はわざわざ礼拝堂の外の門まで見送りに来てくださった。その行動に自分と私の関係性を周囲に示しておこうという親切があったのは何となく感じていたし、正直なところ感謝してもいる。ただでさえ後ろ盾に乏しい身の上、こうして頼れそうな縁故ができたのは心強くすらあった。
「……何か、予想外の疲れ方した……」
それでも、帰り道はそんなため息が堪えきれなかった。




