00:愚者は巡る
最後――いや、最期の記憶は断片的だ。
自分が何をしてどうなったのかは、一応きちんと分かっていた。案外呆気ないもんだとか、この末路は想像したことがなかったなとか。動かなくなって、冷えていく身体を感じながら、馬鹿みたいに呑気に思ったことも覚えている。
記憶がぶつ切りになっていくのは、そこから先だ。
最初に見たのは、ドラマなんかでお馴染みの灰色の霊安室。簡素な寝台の上で白いシーツを掛けて寝かされた、これまた真っ白い顔で目を閉じた若い女。――そう、私だ。私だったものだ。つまり、再び気が付いた時、私は自分の死体を見下ろしていたのである。枕元に立って、血の気のない顔を真上から。
もっとも、自分が死んだこと自体はとっくに分かっていた。どうしようもないこととして理解してはいたから、この時点でもさほど動揺はなかったように思う。ただ、ひたすらに困惑してはいた。
未練があると成仏できないとか、恨みがあると成仏できないとか。そういったエピソードはホラー漫画でもお馴染みのものだけれど、まさか自分の身に起こるとは誰が想像するだろう。恨み……の感覚は正直よく分からないけれど、未練がないとは逆立ちしたって言えやしない。だからといって、こんな風に半端な形で留まらせられても困るのである。
手を伸ばしたところで死体を動かせる訳でもないし、壁や扉を通り抜けられる訳でもない。万事やんわり押し返される感覚があるだけで、何一つ干渉することはできないのだ。どこか別の場所の様子を透視できるとか、その手の特殊能力が目覚めるようなこともなかった。
やはり、成仏するには当人の心持ちが重要になってくるのだろうか。未練はあるけれど、どうしようもないことは分かっているので早めにお迎えをください――なんて祈ってみたりもしたけれど、特に成果はなかったし、すぐにそれどころではなくなってしまった。
断片的な記憶にすら、克明に残る光景。……家族が霊安室を訪れたのである。
その一大事を前にしては、いくら何でも呑気にお祈りをしてもいられない。なにをどうしたって伝えられないにしても、気まずさと、申し訳なさと、いろいろな感情で頭がいっぱいだった。
最初に霊安室にやってきた父は、ずっとしかめ面をしていた。長いこと私だったものを見下ろしていたのに、結局何一つ言葉を発することはなく、黙ったまま霊安室を出ていった。ただ、その間際に唇を強く噛み締め、目元を手で押さえていたのが胸に刺さった。
母は最初から最後まで大泣きしていた。亡骸の冷たい手を握っては泣いて、血の気の失せた顔を撫でては泣いて。かと思えば、「どうして、何で」と責め、その次には「痛かったでしょう」と慰めようとして、自分の言葉にまた泣いていた。あんまりにも泣くので、病院の看護師に連れ出される始末だった。
そして、弟。歩くのもやっとといった様子の母を支えながら訪れた弟も、父によく似たしかめ面で私を見下ろしていた。父とは違い、それほど長く沈黙し続けることはなかったけれど、短い沈黙の末に唇を震わせて言った。
「ばっか野郎、ほんと馬鹿じゃねえの、姉貴……」
その一言で、弟の何かが決壊したようだった。
寝台に縋る母の背後で崩れ落ちるようにしゃがみこみ、馬鹿だ馬鹿だと何度も罵っていた。罵りながら、泣いていた。
「自分が死んだら、意味ねえだろ。馬鹿じゃねえの」
涙に濡れた弟の言葉は、ある意味では最も私の罪悪感を煽り立てた。
「 」
掠れきった声で吐き出された、その一言が最期の記憶の――本当に最後の断片だ。
一歩が絞り出した訴えを、私は一生忘れることはないだろう。……いや、まあ、既に死んだ身ではあるのだけれども。
ともかく、こうして私こと山澄千里は二十三歳の短い生涯を終えたのだった。
そりゃあ、心残りは多々ある。応援していたサッカーチームがリーグ一部に昇格するところを見たかったとか、ずっと読んでいた漫画の結末はどうなったのかとか、職場に迷惑を掛けてしまったとか、先立つ親不孝をしてしまったとか。
思うことはあっても、家族の悲しみ嘆く様を目の当たりにしていれば、どうしたって全てを理解せざるを得ない。覆水盆に返らず。起こったことは変わらない。何もかもがどうしようもなく、諦めるしかないのだと。
――が。
私自身にも全く訳の分からない話ながら、これが全き「が」なのである。物語じみて突拍子もない事態は、浮遊霊状態だけでは終わらなかったのだ。
「アナイス、ライゼルが笑った」
「あら、ご機嫌ね」
三度気が付いた時、私はくすんだ桃色の髪をした男性の腕に抱かれていた。何じゃこりゃあ、と声を上げようとして、それができないことに愕然とする。
「む、どうしたライゼル……」
「サロモン、どうかした?」
「さっきまで笑っていたのが、急に暴れ始めた」
「逆鱗に触れてしまったかしら」
からからと冷やかすような笑い声に、私を抱く男性は不満そうにする。その面差しは見るからに厳つかったけれど、青い眼の奥には確かな優しさが湛えられてあり、不思議と恐ろしく思うことはなかった。
「……大人しくなった」
ほんのりと嬉しそうに、男性が唇を緩める。それから、ぎこちない手つきで慎重に私を抱き直した。
その時点で「ん?」となったのだけれど、抱き直されながら視界が動き、今度こそ私は愕然とした。何じゃこりゃあ、と二度目は全力で叫んだ。ふぎゃあ、という泣き声でしかなかったけれど。
どうしてこうなった。まさにその言葉以外の何物も出てこない。まだ新米も新米とはいえ二十三歳の大人であったはずの私は、今や子ども――それも生まれて間もないような赤ん坊と化していたのである。泣きたい。泣いてるけど。そういう意味ではなくて。
「アナイス、泣きだした……!」
「ええ? サロモン、嫌われたんじゃないかしら」
「嫌われた……のか……」
男性はこの世の終わりでも来たかのような、悲壮な顔になった。頼む、嫌わないでくれ、とぼそぼそ呟くので、何だか無性に申し訳ない気分になる。
嫌うとかそういう話じゃないんですけど、と主張したい気持ちはあれど、残念ながら叶わなかった。何しろ、物理的に喋ることができないのである。全き赤ん坊と化した身の上では、ふぎゃふぎゃと泣くので精一杯であったので。
一眠りしたら全て夢だった――ということもなく、それから私は日々を純然たる赤ん坊として過ごした。細かいことは気にしない精神、もとい「今は赤ん坊、今は赤ん坊」と己に言い聞かせて平常心を保つべく費やした努力は誰か褒めてくれてもいいと思う。
そんな冗談はさておき、身動きも会話も満足にできない状況にあって、できるのは考えることくらいだ。未だかつてなくと自信をもって言いきれるほど、毎日毎日いろんなことを考えた。
何がどうなっているのか、夢を見ているのか。そう考えて、否と自答する。死者は夢を見ない。死んだこと自体が夢だったのでは、と考えたこともあったけれど、未だ色褪せることのない記憶が断固として夢想の肯定を許さなかった。
あの痛みは本物だった。あの悲しみも嘆きも本当だった。そもそも、そんなところまで遡って否定していてはきりがない。――私は死んだ。それは事実だ。死んで、何かが起こって、ここにいる。……ということは、いわゆる「転生」というものなのだろうか?
さりとて、平穏に過ぎていく日々の中では、思いついた仮説を証明するような事態が起こることもなかった。仕方がないので、何かと眠りたがる赤ん坊の身体に振り回されつつも情報収集に徹する。
まず分かったのは、ここがアシメニオス王国の東方に位置するクローロス村という土地であるということだ。かつて私が生きていた日本とは、多くが異なる場所だ。まるで違う世界、と形容しても過言ではないかもしれない。
電気もなければ、車もない。これまで見聞きできた範囲から想像するに、日本における江戸時代くらいの感覚のような気がする。よくファンタジー系のロールプレイングゲームで描かれている、少し昔のヨーロッパみたいな印象だ。ただし、意外と衛生面はしっかりしているし、電気がない割に家電に近しい道具もあるので、必ずしも現代とものすごく乖離している訳ではなさそうなのが面白いところだった。
そんな世界における私の両親――サロモンさんとアナイスさんのハント夫妻は、そのクローロス村で狩人と仕立て屋をして生計を立てている。サロモンさんはこの近辺では弓を扱わせれば敵う者はいないという凄腕で、アナイスさんもわざわざ遠くの町から依頼が来るくらいの有名人なのだとか。
そして、その娘である私ことライゼル・ハントは父譲りの薔薇色の癖っ毛、母譲りの深い緑の眼という実に色彩豊かな外見をしている。以前は普通の黒眼黒髪だっただけに、最初に鏡で自分を見た時は驚いた。
そんな新生・私の暮らすハント家はサロモンさんとアナイスさんの他、父方の祖父母であるシモンさんとバベットさんが同居する二世帯家族だ。犬遣いのシモンさんとバベットさんも独自に仕事をしており、三匹の大きな犬と共に羊を飼っている。サロモンさんが狩人を生業にしているので、たぶん、私は将来こちらの仕事を継ぐことになるのじゃないだろうか。
牧羊犬たちは名前をミモザ、カトレヤ、イリスといい、近所でも評判の大変賢い雌犬だ。忙しい祖父母や両親の代わりに、まだろくに歩けもしない私の面倒をよく見てくれた。日々しっかりと手入れをされている犬たちの毛並みは、いつもふかふかとして太陽のにおいがした。
良くも悪くも、子は親を選べないという言説がある。であるならば、私は最初に最大の幸運を引き当てたに違いなかった。温かなハント家の中で存分に愛され、慈しまれて育まれた。
サロモンさんに遺伝したものと思われる厳つい顔をでれでれにしながら、祖父であるシモンさんは日々私を構ってくれたし、祖母であるバベットさんも負けず劣らずよく面倒を見てくれた。というか、二人は割と頻繁に私を取り合って喧嘩をし、大体シモンさんが負けていた。
その結果、シモンさんが息子のサロモンさんに狙いを定めるようになったのは、さほど突飛なことではないだろう。この親子間も微妙に父親の方が強いパワーバランスにあるらしく、子どもとの触れ合いの時間を奪われがちになったサロモンさんは、居間の隅で煤けていることが多くなった。アナイスさんはそんな一家の様子を、ニコニコと笑って眺めていた。
ハント家は――クローロス村は、平和だった。
平和の中で、私はすくすくと育った。立って歩けるようになってからは、シモンさんとバベットさんの仕事についていって犬たちの背中に乗せてもらったり、気ままに野山を走り回って遊んだりと、激しく童心に帰ったりもした。お陰で、生まれる前の二十三年まで含めても、未だかつてない体力を誇っている自信がある。まだ五歳児なのに。
そんなある日、これまでの平穏を消し去ってしまう大問題が勃発した。
このアシメニオス王国ではエードラム教という宗教が国教に定められており、村にも教会がある。とはいえ、そこまで日常生活に宗教的制約はなく、日本における神社やお寺のような立ち位置に近いものと思われた。冠婚葬祭や季節のお祭りを取り仕切る役目に加え、学校――寺子屋のような側面を持ち、むしろそちらの面の方が重要視されている感もなくはない。
クローロス村の教会に勤める司祭さんも、子どもたちに読み書きや計算を始めとした一般的な勉強を教えてくれている。五歳の歳を数えた春から私もその教室に通うことになったのだけれど、外見は幼くとも私の頭の中にはライゼル・ハントとして生まれる前に生きてきた二十三年分の記憶や知識が詰まっている訳だ。……つまり、そこで盛大にやらかしてしまったのである。
初めて司祭さんの教室を訪ねた、まさにその日のこと。試しにと出された算数の問題を、勢い余って片っ端から全部解いてしまうなんて迂闊なことを。今まで暇で暇で、つい……と胸の内で自己弁護をしたところで、どうにもならない。
「おお、神よ……。この子はこの世に顕現なされたあなたの現身なのでしょうか」
大真面目に天を仰ぐ司祭さんを前に、私は内心「そんな大袈裟な」と独り言ちつつ頬を引き攣らせていることしかできなかった。
結局、初日にやらかしてしまったせいで勉強を教わる話もお流れである。真剣な顔で「私にお教えできることは、何もないようです」と言われてしまっては、返す言葉もない。挙句の果てには、神童などという称号まで頂いてしまう始末である。大したことは何もしていないので、逆に恥ずかしいことこの上なかった。
お陰で、これまで子供を演じて培ってきた平穏は台無し。その代わり、シモンさんの喜ぶこと喜ぶこと。
「ライゼルの将来は、こりゃ宮廷魔術師かのう!」
「あんた、気が早いよ。けど、早いうちから魔術を習っておくのは良いかもしれないね。サロモン、司祭様に話しておいておくれよ」
「……ライゼルがやりたいと言えば、な」
「最近、ずっとミモザたちと遊んでいるものねえ」
「むう、あの三頭とここまで通じ合えるとは……。やはり儂の後継者に」
「さっきと言ってることが違うじゃないか」
「ライゼル、どうする。魔術の勉強してみたいか」
「よく分かんないけど、やってみたい!」
「本人がそう言うなら決まりね」
家族会議でそう決まったので、サロモンさんはその日のうちに司祭さんに話をしに行き、許可をもらってくれた。ハント家は一家全員がバリバリ働いているので、とにかく逐一仕事が速い。そういうところも、素直に尊敬している。
斯くして、五歳になった私は勉強ではなく、魔術を習うことになった。……魔術。「前」の私の生きていた世界では、ゲームや漫画の中にだけ存在する技術だった。この世界では、そんなファンタジックなスキルが現実に存在し、日常生活でも活用されている。科学技術の代わりに魔術技術が発展してきた世界、と形容してもあながち間違いではないのかもしれない。
そう言えば、RPG感覚でモンスターと呼びたくなる、人を襲う危険種の動植物もこの世界には存在しているらしい。学術的な定義がある訳ではないながら、そういうものは「魔物」と呼んで区別される。
近くの山でも時折魔物の姿は見られ、年に二回や三回という程度ではあるものの、村の大人たちで山狩りをして対処することがあった。私が山に遊びに行く時も必ず三頭の犬のうちの誰か、或いは皆がくっついてきたのも、魔物に対する警戒の意味もあったのだと思う。
ハント家では「魔術師」と呼ばれるほど魔術に長けた人はいないけれど、それぞれ生活や仕事に必要な魔術は習得している。私もまだ山で遊ぶにしても大人の目の届く範囲にしているけれど、ゆくゆくは奥の方へ入ることもあるかもしれないし、仕事をするには魔術を使えた方がいい。そうした計らいでもあるようだった。
「――さて、ライゼルさんにはこれから魔術をお教えする訳ですが、既にご家族から習っていることはあったりしますか?」
「ありません! なにも分かりません!」
「元気なお返事で大変よろしい。では、初めから説明していきましょうね」
教会の司祭さんはまだ三十過ぎくらいのお兄さんなのだけれど、物腰穏やかで優しいだけでなく、とても頭がよくて魔術にも詳しいと村中から頼りにされている。私のような子どもにも、少しも嫌な顔をすることなく丁寧に教えてくれた。
司祭さんの魔術講義が始まってからというもの、私は山に遊びに行くのも忘れるくらい夢中になった。魔力という魔術を扱う為の根本要素たるエネルギーを感じ取ることに始まり、その扱い方を一つずつ学んでいく。これまで全く知らなかった、完全に常識の埒外にあった新しいことを覚え、自分のものにしていく。それがシンプルに面白かった。
さすがに自分を「神童」と自称できるほど自惚れてはいないつもりだけれど、我ながら出来は悪くない方なのではないかと思う。一年目で一通りの基礎を修め、二年目には簡単な魔術なら一通り使えるようになった。司祭さん曰く「稀に見る習熟速度」だとかで、大いに褒めていただいた。やったぜ。
「ライゼルさんは風の魔術に天稟がありますね」
「他のはあんまり上手くない? ですか?」
「いいえ、風の魔術が飛び抜けて上手いという意味です」
「ほんとですか!」
そんな会話を交わしたのは、魔術を習い始めて二年目の秋のことだ。二日ぶりの講義をウキウキと受けに来た中での雑談だったのだけれど、いつも通り生真面目な顔をしながら司祭さんが褒めてくれたのでニヤニヤしてしまった。
読み書きや計算の教室は広い礼拝堂を使って行うけれど、魔術の講義は礼拝堂裏の小さな部屋で行われる。通い始めた頃はほとんど毎日のように授業が開かれていたけれど、二年目に入ってからは二日おきくらいの頻度になった。
もちろん、教わることが少なくなってきたという訳ではない。単に私も忙しくなってきたからだ。最近は羊追いについていって遊ぶのではなく、きちんと仕事としてシモンさんに同行している。犬たちとの意思疎通もきちんとできるようになったので、バベットさんの代わりを務めているのだ。
尚、バベットさんが羊飼いの仕事を離れることになったのは、別に身体を壊したとか、そういった理由ではない。逆にめでたいことで、つい先日アナイスさんの懐妊が発覚したのだ。バベットさんがアナイスさんに代わって家のことを担当するようになったので、私がシモンさんにスカウトされたという次第である。
「これでライゼルはじいと毎日一緒だのう! 羨ましかろう、バベット!」
「ふんっ!」
「ぐはっ⁉」
そんな大人げない会話の末に、バベットさんの鉄拳がシモンさんに炸裂したこともあるにはあったけれど。とりあえず、ハント家は今日も平和だ。
「じいちゃん、鼻血」
「ぬおっ! 熊殺しの腕は衰えておらなんだか」
「……あんた、今、何て?」
「あっ、いや、何でもない、何でもないぞ!」
「黙らっしゃい、聞こえてたんだよ!」
「ま、待て、落ち着け、話せば、話せば分か――」
シモンさんの命乞い(?)は、無情にも繰り出された追撃と共にフェードアウトしていった。というか、今とんでもない台詞が聞こえたような? 熊って、あのデカくて速くて強いの三拍子揃った、あの猛獣ですよね? 熊殺しって何……と、私の心に一抹の疑問と畏怖を沸き立たせる一幕があったりもしたけれど。
一応、今日も変わらずハント家は平和、のはずである。たぶん。
暑い夏の日に生まれたハント家二人目の子どもは長女こと私に続いて女の子で、ベレニスと名付けられた。
妹が生まれる頃には私の魔術を扱う腕もまた少し上がり、風を操って遠くにある事物を探ることもできるし、強弱も温度調節も自在にできるまでになっていた。クローロス村は比較的涼しい土地ではあるものの、夏になればそれなりに気温は上がる。冷たい風を吹かせると妹が笑ってくれるので、それも嬉しかった。
ベレニスはアナイスさんと同じ鳶色の髪と緑色の眼をしていたけれど、髪質に限っては私やサロモンさんと同じで、ふにゃふにゃうねる癖っ毛だ。今は綺麗なつるつるスキンヘッドのシモンさんも、若い頃は大層な癖毛だったそうである。あまりにも強すぎる、癖っ毛遺伝子。
「ねーちゃ、ねーちゃ」
「なあに、ベレニス」
ベレニスが生まれてからはバベットさんも羊追いの仕事に戻り、私も妹の面倒を見るのが仕事になった。
私がこんな風だから、ひょっとしたら妹も「そう」なのではないかと、当初は淡い期待やら不安を抱いていたものだ。しかし、こうして見ている限りでは、どこをどう見てもただの赤ん坊でしかない。安堵すればいいのか落胆すればいいのかは、正直よく分からなかった。
今のところ、私の真相についてはまだ誰にも喋っていない。六歳を過ぎて充分舌も回るようになったので、事情を説明しようと思えばできなくもなかった。それでも、何となく踏ん切りがつかないのである。
ハント家の人たちも、私が打ち明けた話をしたところで一蹴したりなんかしないとは分かっている。でも、自分たちの元に生まれた子どもがそんな奇妙な有り様であると知らされるのは、やっぱりあまり愉快なことではないのではないのじゃないだろうか。そう思うと、どうしても口を噤んでしまうのだ。
「ねーちゃ」
「はいよー、何ですかー」
幸いにも、ベレニスは私に懐いてくれている。モミジみたいな手を伸ばしては、ぺしぺしとあちこちを叩く。かつての人生では小生意気な弟はいたけれど、妹に恵まれたことはなかった。初めての妹という存在は懐いてくれていることもあって、素直に愛しく思えた。
そして、私が八歳になった春、二人目の妹――リリトが生まれた。バベットさん譲りの黒髪に、サロモンさんやシモンさんと同じ青い眼をした子だった。
リリトはお喋りなベレニスとは真逆に寡黙な子どもだった。かと言って、決して大人しかったり、引っ込み思案な訳でもない。それどころか、活発さの点で言えばベレニスを上回るくらいだったと思う。お陰で三歳になる頃には五歳のベレニスと衝突することも少なくなく、私はしばしば姉妹間闘争の仲裁をする羽目になった。
こういう時、二十三年を生きた後で良かったとつくづく思う。本当にただの十一歳だったら、とてもじゃないけど妹たちの取っ組み合いの喧嘩の仲裁なんてできなかったに違いない。
この頃になると司祭さんから習う魔術も複雑化してきて、古い文献を引っ張り出してきてあれこれ調べてみたり、逆に最近開発されたばかりだという術を試してみたりすることも増えた。風を介しての調査探索精度だって、ぐんと上がった。
その結果、妹の世話係からジョブチェンジ――今度はサロモンさんと山に入ることになった。狩りや弓の扱い、動物の捌き方――慣れとは恐ろしいもので、最初こそビビりまくったけれど、いつしか普通の作業と化した――を習ったり、逆に風の魔術を使って探索をしてサロモンさんの補助をしたり。その合間にまた教会で魔術を習い、私は着々とこの地に住むものとして成長を遂げていった。
しかし、私が十二歳になったある日。
永遠に続くかに思われた平穏を揺るがす、恐ろしい情報が村にもたらされた。隣のヴィオレタ王国とエブル帝国が、戦争を始めたというのだ。ヴィオレタはアシメニオスの南東部に位置し、エブルは更にその東だ。どちらも国土が接しているけれど、比率としては圧倒的にヴィオレタの方が大きい。
「王はひとまず、どちらにも手を貸さないでおくことにしたようだの」
「その方がいいじゃないか。戦争なんかしたって、いいことはありゃしない」
「ヴィオレタの布、手に入りにくくなるかしら」
「その方が問題だな……」
大人たちが難しい顔で話し合いをする中、私は素知らぬ振りで無邪気にじゃれついてくる妹の相手をしていた。子どもが口を挟むには、少し難しい話題だ。
とは言え、ハント家には幼い子どもがいる。収入について不安が出てくるのだけは避けたい。これでも私はこの世界では人並み以上に計算のできる部類だから、最悪どこかの商家にでも奉公へ出る手があるかもしれないけれど、それだって堅実と言えるかどうか。
ハント家には慈しみ育んでもらった恩があるし、幼い妹たちを不憫な目に遭わせたくもない。私はかつて親不孝をし、弟もひどく悲しませてしまった。だからこそ、今度はちゃんとしたい。
「先生、王立魔術学院にはどうしたら入れますか」
隣国の戦争開始の報が入った翌日――教会を訪ねてそう問うと、私を見返す司祭さんはぽかんと目を丸くさせた。
司祭さんに師事して、早いもので七年近くが経っただろうか。その間に身をもって知ったのは、この人が本当におそろしく出来る人だということだ。単に知識が豊富なだけでなく、それを活かす術をも持ち合わせている。
村の祭事は毎回きちんと非の打ちどころなく実施してくれるし、魔物退治で傷を負った人を癒す手腕も見事で、それどころか自ら討伐隊に加わることもあった。人間や動物の病や怪我にも詳しいから、村の気難しいおじいさんたちだって司祭さんの話は聞く。
とにかく、有能の代名詞のような人なのだ。ここまでものすごく出来る人なら教会の要職に就いていていいのではないかと思うのだけれど、何故かこんな辺鄙な村でひとり司祭をしている。
そんな司祭さんが驚愕するという事態は、まず村では起こらない。けれど、今はまさにビックリ仰天という言葉を体現したような驚きっぷりだった。
「どうしたんです、藪から棒に。王立魔術学院は、一応……建前上は万民に開かれている学習機関ではありますが、平民が通うには難しいところですよ」
「でも、卒業すれば宮廷魔術師になれるんでしょ?」
「平民が宮廷魔術師になれない、なってはいけないという明文法はありませんね。ですが、前例もありません」
きっぱりと言って、司祭さんは頭を振る。否定してこそいないけれど、その仕草の示す意図は明白だ。
日本人だった頃にはほとんど無縁のものだった身分制度は、アシメニオス王国では未だ確固として存在している。貴族と平民には厳然たる格差があり、貴族に比べて平民は可能なことや許されていることが断然少ない。本当はもっと根深い問題や感情があるのだろうけれど、平民しかいない平穏な村と日本人の感覚に染まりきった私の頭では、まだ少し実感の薄い話でもあった。
しかし、これが私の頭で考えた、なけなしの最善なのだ。実現できるものなら、どうにか実現したい。
「どうして宮廷魔術師になりたいんです?」
「安定した収入と、社会的な保障を得られるかと」
そう答えた直後、しまったと思った。明らかに十二歳の子どもが口にする台詞ではない。案の定、司祭さんも「何ですって?」とポカンとしていた。
「……ヴィオレタとエブル、戦争始めたでしょ? お母さんが、布が買えなくなるかもって」
「それで少しでも安定した立場を、と」
確認する目顔に頷き返してみせると、司祭さんはやっと少し納得したようだった。なるほど、と呟いて顎をさする。
「親孝行を志すのは大変結構ですが、王立魔術学院に入学するにはいくつもの課題があります。一つ、魔術の実技を含む入学選抜試験を通過すること。二つ、学費及び在学中に発生する諸々の費用を用意すること。三つ、これが一番厄介ですが――」
司祭さんはもったいぶって言葉を切り、私を見る。
何だか嫌な予感がしたけれど、ここで退く訳にもいかない。黙ったまま続きを待っていると、憂い顔で続けられた。
「三つ目ですが、身分の問題です。貴族は基本的に平民を自分と同等の扱いをしませんし、されるものとも思っていません。尚且つ、学院に入れるほど能力のある平民であれば、ほぼ確実にひどく妬みます」
「最悪だ」
堪えきれなかった本音を零してしまうと、司祭さんもまた分かりやすい苦笑を浮かべた。濃い哀愁の漂う表情。……ひょっとしたら、司祭さんもそんなような事情の為にここにいるのかもしれない。
「でも、宮廷魔術師にはなれなくても、学院に入学して、卒業できたという事実に価値は出るんでしょう?」
「そうですね。運が良ければ一生の知己を得ることが、運が悪くとも学院の誇る英知に触れることができるでしょう」
「なら、行く価値はあると思います。……三つ目はどうにかするとして、一と二の問題が壁ですよね」
「いいえ、実際には二つ目だけでしょうね」
キッパリとした否定に、今度は私が目を見開いた。どういうことだろう。首を傾げて司祭さんを見やれば、どこか得意げに笑い返される。
「ライゼルさんは、もう並みの魔術師に劣らない技術を持っていますよ。後は試験に対応する為の、学問的な知識があれば十分です。そして、私はあなたにそれを伝えることができる」
「本当ですか⁉」
「ええ。全ての分野をカバーするには、少し時間は掛かるでしょうが……。必ず物にしてみせますよ」
深く頷いてくれる司祭さんの、なんともはや頼もしいこと。それから、二人でああだこうだと作戦を練った。
「急いては事を仕損じると言います。ライゼルさんの考えは分かりましたが、今すぐに行動を起こすのは得策ではありません」
この計画は今しばらく胸の内に秘めておきなさい、と司祭さんは言った。
確かに、その言葉にも一理ある。今日や明日でこの話を切り出しては、戦争の脅威と関連付けられる恐れがあった。そうなっては家族の皆が反対するのは想像に難くない。純粋に私の欲として、学院に入学したいのだと思わせる必要がある。
それからは一種の我慢比べだった。新聞で隣国の戦況をチェックしながら、頃合いの時を待つ。アシメニオスからは遠い国境で、二国は争い続けている。幸いにも、その影響は今のところ出ていない。単にクローロス村が田舎だから、伝わってこなかっただけかもしれないけれど。
そうして待ち続けるうちに、いつしか一月が経とうとしていた。村の様子も、家の中の様子も、それほど以前と変わりはない。これ以上待っていても、状況に大差はないのではないだろうか。講義のついでに司祭さんに尋ねてみると、「そろそろいいかもしれませんね」と言ってもらえたのも後押しとなった。
話をするのは、その日の夕食の時と決めた。いつも通り皆でテーブルを囲んだ、わいわいがやがやとした食事の最中に、何でもない風を装って切り出す。
「あのね、話があるんだけど――」
私が王立魔術学院に通ってみたいと言っても、意外なことにハント家の人々は驚いた素振りを見せなかった。それどころか、皆が一様に来る時が来たとでも言いたげな表情を浮かべていたくらいだ。……元々私は奇妙なところのある子どもであったろうし、何かしらを察していたのかもしれない。
「勉強は、先生が教えてくれるって。入学できても、学院にいる間はいろいろとお金がかかるそうだから、それは勉強が終わるまでに貯めておく予定。お父さんと一緒に山に行った時に、薬草とか摘んでおいて売れば、お小遣い程度でもちょっとは貯まるでしょ?」
「そこまで考えているのなら、俺は反対しない」
最初に肯定してくれたのは、サロモンさんだった。
「私も応援するわ。ライゼルが遠くに行ってしまうのは寂しいけれどね」
「まあ、あたしもいいと思うよ。ライゼルは鄙びた村に収まるような器じゃないんだろう。そりゃ切ないけどさ」
アナイスさんとバベットさんも、反対することなく頷いてくれた。シモンさんは否定も肯定もしなかった――というか、気が早すぎることに寂しい寂しいと呻いて泣いていた。隣に座っているバベットさんがちょっと冷たい目をしていることなんて、全く気付いていないようだった。
それからの日々は、教会での勉強の合間を縫って山に入り浸った。動物を狩るというより、ほとんどが山を巡っての採取作業だ。薬効のある植物や珍しい色の羽根、動物の角を持って帰っては、村の個人商店や行商の人に買い取ってもらう。
山に入る時のお供は、いつも決まってノワだ。ノワは一昨年にミモザが産んだ雄犬で、母親たちと同じように賢く聡明な大きな犬だ。しかも、とにかく鼻が利く。危険な動物や魔物の気配があるとすぐに教えてくれるし、稀におそろしく高値で売れるキノコを見付けたりしてくれて、何とも頼りになる相棒だった。
妹たちに細かな事情は説明しなかったけれど、そうした行動から感じるものがあったのか、今まで以上に引っ付いてくるようになった。全て上手くいけば、短くない期間離れることになる。
文字通り、生まれた時から面倒を見てきた妹たちだ。離れるのは寂しい。なるべく妹たちとの時間も取るように心掛けた。
月日は過ぎ、十七歳の春。
ついに王都ガラジオスの王立魔術学院への入学資格を得て、長く親しんだ故郷を離れることになった。家族にはたくさん助けてもらったし、司祭さんにも入学志望にあたっての推薦手続きから王都で実施された試験の付き添いまで、何から何まで本当にお世話になった。
今や妹たちも立派に成長し、羊飼いの仕事の一端を担っている。ヴィオレタとエブルはまだ戦争を続けているけれど、そのせいでアシメニオスの景気が極端に悪くなることはなかったし、アナイスさんの仕事に支障が出ることもなかった。これなら何の憂いもなく出発することができる。
やっぱり、私はとても運が良かったのだろう。生まれた先のハント家は良い家で、周囲にも頼りになる人物が揃っていた。世界情勢にそこまで翻弄されることも、突然の災害に泣かされることもなかった。
与えてもらったものは数限りない。子として、人として、それらの全てに感謝と敬意をもって報いなければならないと思う。
よく晴れた春の日、私は村総出の見送りの中で出立することになった。ベニレスもリリトは泣いていたし、シモンさんは号泣してまたバベットさんに冷たい目で見られていた。もっとも、そのバベットさんの目も潤んでいたし、サロモンさんやアナイスさんにしても同じだったのだけれど。
学院が手配してくれた馬車に乗り込み、窓から身を乗り出して、これからしばらく会うことも声を聞くこともできない人々に向かって手を振った。
「行ってきます!」