8.玲子の気持ち
オーストリアの首都ウィーンにある旧ドナウ川の近くに、白井玲子の家がある。
家の中には、モナ女王とそっくりな少女がたたずんでいた。
彼女の名前はマリア。スラノバ国での名前はサマル、モナ女王の双子の妹である。マリアは一年前から玲子と一緒に暮らしている。
「玲子姉さん遅いなぁ。早く行かないと映画が始まってしまう」
マリアは、映画を見るのが大好きだった。映画のヒロインの生きざまを、自分に置き換えたかった。そのため、数日前から今日の映画を楽しみにしていた。
ちなみに、マリアと玲子との間に血縁関係はない。ただ単に、マリアが玲子の家に居候しているだけである。だが、マリアは、玲子を呼ぶときは親しみを込めて『玲子姉さん』と言う。
そわそわと時間を気にしているマリアの携帯電話に突然、着信音が鳴った。
「ハロー、サマル」
「あっ、モナお姉様、どうしたの?」
電話の相手は、モナ女王だった
「サマル、元気している?」
「うん、元気だよ。お姉様のほうは元気なの?」
「そうね。忙しくて、元気いっぱい飛び回っているわ。病気になる暇がないみたい」
「あまり無理をしないでね。たまにはゆっくり休んでちょうだい」
「ありがとう。サマル」
「ところでお姉様、何か用があるのでしょう?」
「そうなのよ。サマル、玲子に伝えてほしいことがあるの。彼女の携帯電話は、いつも電源が切れているので」
玲子の携帯電話は、職業の特性上、いつも電源が切れている。
「いいわよ。どんな用件?」
「今度、スラノバ国の国営牧場で、牛たちにピアノを聴かせてほしいの。それとメロン農園でもピアノの演奏を考えているわ」
モナ女王の説明にマリアは顔をしかめた。
「ちょっと、お姉様。玲子姉さんはピアニストなのよ。人間が相手のリサイタル依頼はないの?」
マリアは少し不機嫌である。ちゃんとしたリサイタルの依頼でなかったためだ。
「普通のリサイタル依頼は、別途お願いするわ。とにかく、二週間ほどスラノバ国に滞在できる最寄りの日にちを教えてほしいと連絡してちょうだい」
モナ女王は用件を伝えると、あわただしく電話を切った。
「しかたがないなぁ」
溜息をつきながら、マリアはインターネットで、スラノバ国の牛の数とメロンの収穫数を調査した。
しばらくすると、ガレージから車の音が聞こえる。玲子の運転する車がガレージに到着したようだ。
玲子の乗る車は電気自動車である。排気ガスを全く排出しないこの車を、玲子は愛用している。
「マリア、遅れてごめん。今から映画に行きましょう」
玲子は、あわただしくマリアを助手席に乗せると、映画館に向かって出発した。
映画館は車で十五分の距離である。何とか間に合いそうだ。車はイェーガー通りを走った。
「マリア。私の留守中に、何か連絡あった?」
「うん。リサイタルの依頼があった。二週間の期間よ」
「嬉しい。ワクワクするわ。会場はどこかしら。フォルクスオーパーのような、大きなホールだと素敵ね」
玲子は、久々のリサイタル依頼に、心を躍らせている。
玲子の期待に応えるように、マリアがぽつりと答えた。
「広々としたリサイタル場よ。会場は、牧場と農園」
「えっ?」
玲子の驚きに答えるように、マリアは静かに報告した。
「観客は、牛が五千頭にメロンが一万玉」
「えっ。なに?」
マリアの報告に玲子は驚き、一瞬固まった。
「玲子姉さん。危ない、赤信号よ」
玲子はブレーキを踏んでいなかった。だが、自動安全ブレーキ機能により、車は自動的に停止した。二人に緊張が走る。
「玲子姉さん、驚かさないでよ」
「マリア、運転中に驚かさないでよ」
二人が同時に言い、それが実にシンクロしていたため、二人して笑いあった。
「ところでマリア、それ、誰からの依頼なの?」
「モナお姉様」
マリアの答えに玲子は「はー」と、深いため息をついた。
「最近、まともな仕事が来ないわ。先月の観客は、魚さんだったし…」
「おそらく、牛さんやメロン玉が玲子姉さんのピアノを気に入ったら、次は豚さんが観客になると思う」
マリアの説明を聞くと、玲子は指でハンドルのふちを触りながら深いため息をつき、運転を続けた。
「溜息をつくと幸せが逃げていくわよ。それにモナお姉様が『普通のリサイタル依頼は別途お願いする』と言っていたので、そのうち依頼が来ると思う」
「おそらく、豚さんにピアノ演奏を聴かせた後になるのかな」
玲子は、ドアのガラスに息を吹きかけ、指で豚の似顔絵を描いた。そして、普通のリサイタル依頼を気長に待つことにした。
信号が青になり、玲子の車が動き出す。だが、車の速度は遅い。玲子の落胆が運転にも影響している。
ようやく映画館にたどり着くと、再びマリアの携帯電話に着信が鳴る。
「ハロー、マリア」
電話の相手は、玲子の恋人の近藤からだ。
「ごめんね。玲子の携帯電話が繋がらないから、マリアに電話をかけちゃった。玲子に伝言お願いしていい?」
「玲子姉さんなら隣にいるわ」
そう言ってマリアは、携帯電話をスピーカーモードにした。
「玲子、元気?」
「さっき元気がなくなったばかりよ」
「どうしたの? 元気を出そうよ」
「うん。頑張る」
近藤からの電話で、玲子は少しだけ元気が湧いた。
「ところで、近々、モナ女王から玲子にリサイタルの依頼があるので、ぜひとも協力してほしいんだ」
「さっき依頼があったわ。それが元気をなくした理由よ」
「どうしてそれで元気をなくすの?」
「観客は牛さんやメロン玉でしょう?」
玲子は冷めた口調である。
「実は、そうなのだよ。イブラハムさんの魚の養殖にヒントを得て、モナ女王が考えたのさ。これがうまくいけば、スラノバ国の農業は、他国に対して優位になる。国民の暮らしが豊かになる。みんなの幸せにつながるんだよ」
「そして次は、豚さんが私の観客になるわけね」
近藤の熱意を込めた説得に対し、玲子は冷めた態度で答えた。
「どうしたの。スラノバ国に来たら、僕と会えるじゃないか。もっと喜んでほしいなぁ」
「そうね。聡と会えるのは楽しみにしている」
「ありがとう。二日間は休日をとるようにするよ」
「二日間だけ?」
近藤の告げた日数に、玲子は納得いかない。思わず瞳を大きく開き、大きな声を出した。
「恋人がはるばる国境を越えて飛行機でやってくるのに、休日が二週間の間に二日間だけなの?」
「ごめんね。医師の仕事は多忙だから、あまり休めないんだよ」
近藤は、申し訳なさそうに答えた後で、突然閃いたように、
「そうだ、僕の家に泊まるのなら、滞在中は毎日会えるよ」
しかし、近藤の提案は玲子にとって逆効果だった。
「毎日といっても、仕事でくたびれた聡が夜遅く帰ってきて、お風呂場をすませたら、すぐにいびきをかくだけでしょう? それに朝起きたらすぐに病院へ行くし…」
「まあ…、そうといえばそうかもしれないけど…。一緒にいられるよ」
近藤は、玲子の冷めた質問に対し、否定ができない。
医者の仕事は、超多忙である。知識以前に体力がないと務まらない。
「しかも、三日に一度は夜勤だし、残り二日も急患の電話が一日おきにかかってくるし。…私はホテルに滞在します」
そう言い放ち、玲子は一方的に電話を切った。
「ますます元気がなくなったわ」
玲子は、マリアにつぶやいた。
玲子は、観客の問題だけでなく、近藤の休日に対しても、不満を持った。
「ところで、玲子姉さん。今度スラノバ国にいくとき、私も一緒に連れて行ってほしい」
「それはかまわないけど、泊まる場所は私と同じホテルにする? それとも、モナ女王の家にする?」
「とりあえず玲子姉さんと一緒のホテルにする」
マリアは、しばらく目を閉じた。
「玲子姉さんは、今度スラノバ国で危険な目に会うわ。気をつけたほうがいい」
「えーっ。牛さんに襲われるのかしら」
「そうじゃなく、何か邪悪なものが、お姉さんを襲うわ。…なんとなく…、そう感じるの」
マリアが『なんとなく感じる』と言ったときは、今まで全部的中している。玲子にすれば、『確実にそうなる』と、宣告されているようなものだ。
「わかった。気をつけるわ」
マリアにそう告げたものの、玲子は、不安を感じた。なぜならば、どんなに気をつけても、マリアの予言は必ず当たる。玲子にとっては未来でも、マリアにとっては既に見えたことであり過去のようなものだった。回避のしようが無いのである。
(私が玲子姉さんを守る)
マリアは玲子に聞こえないように、小さい声でつぶやいた。
一ヶ月後、玲子とマリアは、スラノバ国に向かった。
二人揃ってスラノバ国に行くのは、実に一年ぶりだ。
空港からホテルまでは、政府手配の運転手が送り届けてくれた。
一年前に運転手だったサイルは、今では国土交通省の大臣になっており、今回の運転手は、若い男性である。
ホテルに着くと、旅の疲れをとるため、二人はベッドでしばらく横になった。
スラノバ国には空港が無い。ウィーンからスラノバ国の隣国であるE国の空港まで、飛行機で六時間かかる。そこからさらに、車で五時間かかった。疲れないわけはない。
「玲子姉さんの横で寝てもいい?」
隣のベッドからマリアが声をかけた。
「いいわよ」
玲子の返事とともに、マリアが玲子のベッドに潜り込んだ。
「どうしたの?」
「……」
まるで小さい子供が母親に甘えるように、マリアは無言で玲子に抱きついた。
「…ごめんね」
マリアは小さい声でささやき、目を閉じた。
このときマリアは、何を感じていたのだろうか。
玲子がそれを知るのは十二日後であるが、今は分からなかった。
しばらく休むと、モナ女王の招待する夕食会の時間となった。
マリアと一緒に夕食会場に行くと、モナ女王の両隣に、二人の男性がいる。一人はイブラハムであるが、もう一人は初めて見る顔である。
「玲子、久し振りだね」
真っ先にイブラハムが手を振って声をかけた。相変わらず、イブラハムは陽気だ。
「こんばんは、ご招待ありがとうございます」
玲子とマリアは、三人に挨拶した。
「玲子、マリア、スラノバ国に来てくれてありがとう」
モナ女王は、両隣の男性を二人に紹介した。
「右側にいるのは、農政大臣のバラカトさん、左側は水産大臣のイブラハムさんです」
「玲子さん、マリアさん、初めまして。バラカトです。この度は、スラノバ国の農業のために来ていただき、感謝します」
バラカトは落ち着いた声で、静かに挨拶した。その話し方は、玲子に好感を持たせた。
それに比べてイブラハムは、
「マリアちゃん、モナ女王に良く似ているね。モナ女王みたいに三つ編みにしたら、見分けがつかないかもしれないよ」
と、初対面にもかかわらず、マリアに馴れ馴れしい。
マリアの髪型はロングヘアーであり、モナ女王は、三つ編みである。
二人は一卵性双生児なので、髪型を同じにすると見分けがつかない。
モナ女王とマリアは、事前に話し合い、わざと髪型や服の色が同じにならないようにしていた。
「髪型を同じにしてもモナ女王には気品があるので、イブラハムさんには、すぐに区別できますよ」
マリアは、無難にイブラハムをあしらった。
「イブラハムさん、どうしてあなたがここにいるの?」
玲子が尋ねると、
「玲子、つれない挨拶だなぁ。玲子にお礼を言うために来たんだよ。モナ女王からも誘われたし」
イブラハムはスープを飲みながら、
「玲子のおかげで、俺の会社は急成長した。今では従業員が二百人いる。一年後は、従業員を五百人にする予定だよ。これも全て玲子のおかげだ」
「私のピアノ演奏が役に立ったのね。嬉しい」
玲子は、自分のピアノ演奏がイブラハムの役に立てたことが嬉しかった。
「それに、ゼノス爺さんを助けたことでバラカトさんと縁かできて、水産大臣になれたんだよ。俺にとって玲子は、幸運の女神だ」
「それでモナ女王から私に、ピアノの演奏依頼があったのね」
「そうよ、玲子。イブラハムさんの話を聞き、玲子のピアノ演奏を農業にも試そうと思ったのよ」
モナ女王は、玲子の顔色をうかがい、
「人間の観客でなくて、ごめんなさいね」
と詫び、玲子に軽く頭をさげた。
玲子は、そんなモナ女王のしぐさに誠意を感じた。
「いえ、相手が牛さんだろうとメロン玉だろうと、仕事は仕事です。全力でお応えします」
玲子は、先日の不満を取り消すように、自ら宣言した。
しかし、玲子の心には、不満がくすぶっている。
(ちゃんとした人間の観客相手にピアノを演奏したい)
その思いは、この一ヶ月間、玲子の心の中で少しずつ大きくなっている。
ちょうどそこへ、近藤が白衣の姿で駆けつけてきた。
「みなさん、遅れてすみません」
近藤は、素早く玲子の隣の席に座った。
「えっ。聡、仕事はまだ終わってないでしょう。どうしたの?」
「モナ女王から呼び出しがあったので、仕事は他の人に代わってもらった。急患も対処したしね」
「玲子がドクター近藤と一緒に食事できるように、私が彼を夕食に誘いました」
モナ女王は、近藤の忙しさが分かっていた。だから、できるだけ二人が一緒にすごせるようにしたのである。
「モナ女王、ご厚意感謝します」
玲子はお礼を述べた。
しかし、玲子の心中は複雑である。
近藤に対しては、
(……私の誘いだと来てくれなくて、モナ女王の誘いだと来るのは何なのよ)と、憤りを募らせている。
但し、玲子の苛立ちは表面には見えない。玲子は笑顔を装おっている。
イブラハムは勘が鋭い。
彼は、そんな玲子の気持ちを察知し、
「玲子、ドクター近藤とは食事の後で二人っきりになれるから、安心しな。ドクター近藤は、この日のために、一ヶ月前から仕事の工面をしているのだから」
そう言うと、続けて、
「それにモナ女王は、ドクター近藤が休めるように、病院の多くの医師や看護師に近藤の仕事の受け取りを依頼していたんだぜ」
イブラハムは、そこまで説明した後で、さらに、
「玲子、お前は幸せものだ」
と、いった。
イブラハムの言葉は、玲子の胸に響いた。
今日のために、近藤聡が一生懸命に準備する姿が、頭の中に映像として、一瞬よぎった。さらに、モナ女王が病院のスタッフに頼み回っている姿が、頭の中に映し出された。
不思議な感覚だった。まるでテレビを見ているように鮮やかに玲子の頭の中に映っている。そのとき玲子は、自分が聡とモナ女王の心を覗くことができたのかと錯覚したほどである。
そしてイブラハムの発言により、玲子は自分のわがままを悟った。憤りや苛立ちを感じていた自分を、恥ずかしいと悟った。
近藤聡もモナ女王も、玲子のために精一杯努力してくれていた。さらに、病院の多くのスタッフが、聡と玲子のために、聡の仕事を対応している。そのことが理解できた瞬間、玲子の頬に一筋の涙がこぼれていた。
「聡、ありがとう。モナ女王、ありがとうございます。そして、二人とも、ごめんなさい」
玲子の声は震えていた。なぜだかわからないけど、二人の優しさが胸にしみてくる。
玲子は続けて、
「イブラハムさんの言うように、私は幸せものです」
というと、再び涙がポロポロと落ちてきた。しかも、今度の涙は止まらない。次から次へと頬を伝わって落ちてくる。
愛する人が自分のために時間をとってくれる。それは玲子にとって何よりも素敵なプレゼントだった。なぜならば、そのことだけでも、自分がいかに愛されているかを充分感じることができる。それが嬉しかった。だから涙が止まらない。
見かねたマリアが、玲子を抱き締めた。
「玲子姉さん、スラノバ国に来て良かったね」
「うん」
玲子はマリアの腕の中で、思いっきり涙を流した。
「玲子。私は今、玲子がピアノ・リサイタルできるように手配しています。うまくいけば十日後から三日間できるかもしれません」
モナ女王が玲子の肩に手をかけて伝えた。
モナ女王は、玲子のためのリサイタルも企画していた。玲子の気持ちを察していたのだ。
「ありがとうございます」
その日、スラノバ国の夜空は、きらめいていた。少なくとも玲子には、今まで見た中で、一番煌めいて見えた。