4.勇者
玲子がイブラハムと約束した二週間後、玲子はスラノバ国にいた。
玲子の今日の予定は、午前中はイブラハムの養殖場に行き、夕方からは近藤と会うことになっている。
イブラハムとの約束の時間、玲子が滞在するホテルに、イブラハムの車が迎えに来た。
だが、迎えの車というよりは、ただのホロ付きのトラックである。しかもイブラハムとハッサンが乗っているため、やや窮屈である。もちろん荷台は広々としているが、かなり暑そうだ。
イブラハムが運転席から明るく挨拶した。
「おはよう玲子。迎えに来たよ」
イブラハムの挨拶に合わせて、ハッサンも満面の笑顔で挨拶した。
「イブラハムさん、ハッサンさん、おはようございます」
玲子は、迎えの車がトラックでも、全然気にしていない。それどころか、トラックの助手席に乗るのは初めてなので、好奇心が一杯だ。
トラックは、玲子を乗せて出発した。
「これから俺の養殖場へ向かう。ハッサンが娘の誕生プレゼントを買った帰りなので座席が狭いけど、我慢してくれ」
イブラハムがそう言うと、ハッサンが照れながら頭を下げた。
「ハッサンさん、娘さんは何歳ですか?」
「4歳です。今日、白井玲子さんが養殖場に来ると娘に告げると、娘が急に『私もピアノを弾きたい』というのです。仕方がないので、おもちゃのピアノを買いました」
ハッサンは大きな体に似合わず、顔を赤めて照れ笑いをしている。ハッサンが娘を大切にしていることが、彼のしぐさから窺える。
玲子は、そんなハッサンのしぐさを微笑ましく感じた。
「プレゼントは、どこにあるのですか?}
「荷台に積んでいます。玲子さんがいつも演奏するグランドピアノとは、雲泥の差です。スヌーピーの映画に出てくるピーナッツ村のシュローダが弾いているような、小さな、小さなピアノです」
「私も小さいとき、おもちゃのピアノを弾きました。それからピアノが好きになったのですよ。ハッサンさんの娘さんも、きっとピアノが好きになると思います」
玲子の返事にハッサンは狂喜した。
(とすれば…、俺の娘も、あと十数年したら勇者になるかもしれない…)
ハッサンは想像を巡らせ、小躍りしたくなった。
一時間ほど運転すると、三人を乗せたトラックは、養殖場の近くの交差点に来た。ここから養殖場までは、もう目と鼻の先だ。
しかし、交差点には、あわただしそうに多くの人が集まっている。通常だと人もまばらな場所である。大勢が集まるのは珍しい。
「どうしたのかな? ちょっと調べてくる」
イブラハムは車を降り、人の群れに向かった。人混みをかき分けて進むと、顔なじみの酒屋のアサドがいた。
「アサド、こんなに人が集まって、どうしたのだ?」
突然声をかけられたアサドは、相手が頼りになるイブラハムだったので安心した。
「いきなり老人が道で倒れたんだよ。しかも、口から血を吐いている」
アサドの背後を見ると、交差点の歩道に老人が倒れていた。老人は、口から血を吐き出し、苦しそうに悶えている。
「これは危険だ。すぐに病院へ連れて行く必要がある」
しかし、この辺りは寂れた漁村である。病院は無い。もよりの病院は、玲子の滞在するホテルの近くであり、そこはドクター近藤が院長をする病院である。しかもそこまでは、車で一時間ほどかかる。イブラハムたちが今通って来た道である。
イブラハムがアサドたち周りの人に、車の手配をしたかどうか確認したところ、今しがた老人が倒れたので、まだ誰も手配していないとのことである。
酒屋のアサドは、イブラハムを頼りにしている様子だ。
イブラハムはすぐに決断した。
「よし、俺がドクター近藤の病院へ連れて行く。みんな、この老人を俺のトラックの荷台に運んでくれ」
アサドたちに告げた後、トラックに大急ぎで行き、
「ハッサン、今から荷台に病人を運ぶ。病人が横になれるように、毛布を敷き詰めてくれ」
それからイブラハムは、玲子に向かって、
「今から病人を連れてドクター近藤の病院へ向かう。だから、今日のピアノ演奏の依頼は中止する。せっかくここまで来てもらったのにすまない」
イブラハムは玲子に詫びた。
「イブラハムさん、私もお手伝いします」
玲子はそう言うと、ハッサンと一緒に荷台に発泡スチロールの薄い板と毛布を敷き始めた。また、車のクーラーの冷気を直接荷台に送るように、調整した。
玲子は、イブラハムと予定していた養殖場でのピアノ演奏が中止になったことを、全く気にしていない。それよりも、イブラハムの優しい心に感動し、協力したいと思っている。
イブラハムは、この漁村で多くの人から頼りにされている。そのことを玲子は知った。
玲子にも、イブラハムの心の温かさを感じることができる。
やがて酒屋のアサドたちが、病人を運んできた。イブラハムたちは荷台の簡易ベッドに病人を寝かせた。発砲スチロールの平たい板に毛布を敷き詰めただけの簡単なベッドである。
「イブラハム、いつも頼ってばかりですまない。よろしく頼むよ」
「後は任せとけ」
イブラハムはアサドたちを安心させた。
病人を乗せたトラックは、大急ぎで今まで来た道を引き返す。運転手は、ハッサンに交代した。イブラハムは、荷台で玲子と一緒に病人の看護をしている。
老人の口の中には血や痰が溜まっており、呼吸をするのが苦しそうだ。口の中の血や痰は、すぐに吸い取る必要がある。しかし、ここには吸引器が無い。老人は自分の力で口の中にある血や痰を吐きだす力がなかった。
すると玲子は、突然老人の口に自分の口を当て、血や痰を吸出し、そばにあるバケツの中に、吸引した血や痰を吐きだした。それを何度か繰り返すと、老人は息継ぎが楽にできるようになった。
その様子を見て、イブラハムは驚いた。
(見ず知らずの老人の口に自分の口を当て、血や痰を吸い出すなんて…。どんな病気に感染するかわからないのに…。彼女は、やはり『勇者』だ。玲子は、体面も何も気にしない。今なすべきことを、勇気をもって実行している)
イブラハムは、玲子の行動に敬意を表した。
このとき玲子は、体面など気にしていなかった。目の前で苦しんでいる人がいたら、それを助ける。それは玲子にとって当然のことであり、恥ずかしさや病気が移るかもしれないという考えはなかった。これは、玲子の純粋な心による行動だった。
「隣の水槽に海水が入っている。玲子に病気が移らないように、水槽の水でうがいをしたほうが良い」
「ありがとう」
イブラハムの指示に従い、玲子は水槽の水をすくい、うがいをした。
その後、玲子は自分の口をハンカチで拭き、近藤聡に電話をかけた。
「聡、今、病人を乗せてそちらに向かっている。後一時間ほどかかる。病人は苦しがっているわ。どうすればよいかわからないので応急手当の仕方を教えてもらいたいのだけど…」
突然の玲子からの電話に、近藤は驚いた。
「玲子、今どこにいるの? それに病人の様子も教えてほしい」
しかし、玲子は現在の場所がわからない。
「俺が代わりに答えよう」
近藤からの質問に、イブラハムがすぐに電話を替わり、
「ドクター近藤。俺はイブラハム。今、ルート2のタータス村にある船着き場の交差点から病院があるフルクス市に向かっている。あと一時間かかる。病人は六十代の男性。意識はあるが、うまく話せない。突然、路上で倒れたとのことだ。大量の血と痰を吐いている。熱も高い。体温計が無いので何度かわからないが、おそらく四十度はあると思われる。しかも脈拍が弱く四十しかない」
近藤は、イブラハムからの報告を聞くと、ただちに対処方法を説明した。
「イブラハムさん、まずは、冷たいタオルで病人の熱をさましてほしい。次に、一時間もかかるのでは危険だ。途中のワイダー村にあるハムス村長さんの家に行くように。ルート2沿いで大きな牛の牧場がある家です。そこなら三十分で着きます。僕もこれから医療器具を持ちワイダー村のハムス村長さんのところに行く。ハムス村長には僕のほうから前もって連絡しておきます。それから、病人に話しかけて、元気づけるようにしてください。ハムス村長さんの家で会いましょう」
そう告げると近藤は電話を切った。おそらく近藤は、ワイダー村へ出かけるための準備をしているのだろう。
「ハッサン、行先はワイダー村のハムス村長の家に変わった。ルート2沿いで大きな牛の牧場がある家だ。そこなら、あと三十分で着く」
イブラハムは、今度は玲子に向かって、
「玲子、病人の額に水を含んだタオルを当てて熱を冷ましてくれ。水は水槽に入っている」
さらにイブラハムは、病人に向かって話しかけた。
「爺さん、名前を教えてくれ」
「…ゼノス…」
病人は苦しそうに自分の名前を言った。
「ゼノス爺さん、頑張れ。ドクター近藤が間もなく来る。『東島の勇者』も、爺さんを助けるために横にいる。爺さんは絶対に助かる」
しかし、ゼノスは苦しそうに息をしている。脈拍も弱弱しい。
このままでは三十分も持たないかもしれない。イブラハムも玲子も、そう感じていた。
「このままでは危ない」
イブラハムは、そう判断し、
「玲子、ピアノを弾いてくれ。玲子がピアノを弾くと、奇跡が起こるかもしれない」
玲子は、イブラハムの頼みに驚いた。
「えっ。でも、ピアノが無いわ」
「ピアノはある。ハッサンが今日買ったピアノだ。ハッサン、玲子に弾いてもらうが、良いか?」
「船長、OKです。玲子さん、小さいピアノだけど、弾いてください」
ハッサンが娘のために買ったピアノは、おもちゃのピアノである。玲子がいつも弾いているグランドピアノではない。だが、イブラハムもハッサンも、そのピアノを玲子が弾くことを切望していた。
二人は、玲子がピアノを弾くことで起こす奇跡を、何度も新聞やラジオで知っていた。また、先日の水族館での奇跡も目撃していた。二人は今回も玲子が奇跡を起こすことを期待している。
玲子も二人の気持ちを理解した。
「ハッサンさん、娘さんのピアノをお借りします」
玲子は箱からおもちゃのピアノを取り出した。小さな、あまりにも小さなピアノだった。
玲子はピアノの前でひざまずき、目を閉じて精神を集中した。
すると、トラックのホロの内部に、異様な気が満ち溢れた。風が吹いたと言っても良いかもしれない。
イブラハムは、トラックに満ち溢れる不思議な風に気づいた。しかも、その風の発生源は玲子である。
「水族館では広くて気づかなかったが、トラックの荷台だと、玲子の気の流れが風となって感じられる」
イブラハムは思わずつぶやいた。
イブラハムは、玲子の気の流れが感じられるかどうかを、ハッサンに尋ねた。
しかし、運転席にいるハッサンは「わからない」という。
どうやら、ホロの内部だけに玲子の気の流れが風として感じられるようだ。
玲子は、静かに目を開き、ピアノを弾き始めた。おもちゃのピアノから優しい調べが満ち溢れる。演奏曲は、シューマンのトロイメライだ。
病人をいたわるように、静かに優しく温かく、演奏が響き渡る。
すると不思議なことに、先ほどまで苦しそうにしていた老人の呼吸が、ほんの少し穏やかになってきた。
玲子はピアノを奏でながら、老人を元気づけていた。
「ゼノスさん、死なないで。あなたにも家族や友達がいるはずです。あなたが死んだら、家族や友達が悲しみます。家族や友達のためにも生きてください」
玲子は心の中でゼノスにうったえていた。
イブラハムも、ゼノスの呼吸が穏やかになってきたことに気づいた。
「すごい。やはり玲子のピアノは奇跡を起こす。おそらく玲子の気が、ピアノを通じてゼノス爺さんに伝わっているのだろう」
イブラハムはそう感じた。
「これで安心できる」
と、イブラハムもハッサンも、そう思った。
しかし、その安心は、やがて微妙なものになった。それは、玲子の様子が変化したためである。
玲子の額からは、大粒の汗が滴り落ちている。玲子は、全身が汗まみれだ。まるで何かにとりつかれたように、繰り返しピアノを弾き続けている。
間もなくワイダー村の村長の家に着くころである。
「もう少しで村長の家に着く。玲子のほうは、体力は大丈夫か?」
イブラハムが玲子に尋ねた。しかし、イブラハムの声は、玲子には聞こえない。相変わらず集中してピアノを弾き続けている。
イブラハムは、ゼノスの具合よりも、玲子の体力のほうが心配になった。
(もう少しで着く。玲子、頑張ってくれ)
イブラハムは心の中で叫んだ。
やがて、ハッサンが運転する車がワイダー村のハムス村長の家に着いた。
しかし、玲子は気づかず、ピアノの演奏をやめようとしない。
おもわずイブラハムは、背後から玲子を抱きすくめ、弾くのを無理やり止めた。
「目的地に到着した。もうピアノを弾く必要はない」
突然、イブラハムから抱きすくめられたため、玲子はピアノを弾くのをやめ、我に返った。
玲子は驚いたが、目的地に着いたことを聞くと、イブラハムの腕の中でぐったり眠ってしまった。
ドクター近藤の車は、既に到着していた。
村長の家の一室には医療用ベッドが臨時につくられていた。
イブラハムとハッサンは、村長の家の者の指示に従い、その部屋にゼノスを運ぶと、そこに近藤がいた。
近藤は白衣を着ている。知的な顔立ちで眼鏡をかけ、前髪は七三に分けている。
近藤は、イブラハムたちを見て驚いた。そして突然ハッサンに向かって、
「ムハマド…、なぜここに?」
と、尋ねた。
ハッサンは戸惑いながら、
「ムハマド?…俺はハッサンですが…」
玲子に続き近藤からも間違われたため、ハッサンは戸惑っている。
「ああ、すみません。友達のムハマドと似ていたので、つい間違えました」
近藤が謝り、診察を始めた。
ところが、イブラハムとハッサンが、続けて玲子を担架に乗せてきたため、近藤はまたしても驚いた。
「イブラハムさん、玲子はどうしたのですか?」
「ドクター近藤、すまない。玲子に無理なお願いをした俺たちが悪かった。彼女は今、極度の疲労状態だ」
イブラハムは、玲子の状況や、当時の出来事を近藤に詳しく話した。
イブラハムの話を聞くと、近藤は玲子に、点滴の注射をした。
玲子のほうは問題ないと近藤が言った。問題は、ゼノスのほうだ。
近藤たちの治療にもかかわらず、ゼノスの状態は良くならない。
「老人には生きようとする気力が無い」
近藤がつぶやいた。
「ドクター近藤。ちょっと俺にゼノス爺さんと話をさせてくれ」
イブラハムがゼノスに話しかけた。
「爺さん、奥さんはいるかい」
「…女房は…二年前に…死んだ」
か細い声で、ゼノスが答えた。
「そうか。でも、子供がいるだろう」
「…子供と言っても…、三十を…過ぎている…。立派な大人だ…」
老人は前髪に触れた
「あんたが亡くなったら娘さんは悲しむぜ」
イブラハムの言葉に、ゼノスは驚きの表情だ。
「…なぜ、…娘だと…わかった?」
「子供の話をしたとき、あなたは前髪を気にした。綺麗な娘さんだな」
イブラハムは、まるでゼノスの娘を見たかのように語りかける。
「…村一番の…美人だった…」
不思議と、先ほどまで苦しそうにしていたゼノスは、か細い声ながらもイブラハムと会話を続けている。
「…娘の…名前は…、テレサ…という…。だが、…七年前に…ケンカし、それっきりだ…。わしが…死んでも…悲しまないよ…」
「そんなことはない!」
イブラハムの声は大きく響いた。
「誰だって親が死んだら子供は悲しむものだ。娘さんの連絡先を教えてくれ」
老人は、胸に手をやり、しばらくして、
「…知らん…」
と、ぶっきらぼうにいった。
だが、イブラハムは、彼の動作を見逃さなかった。老人の胸ボケットに入っている携帯電話を素早く取りだした。
「…あっ…。何を…」
ゼノスの抗議にイブラハムは構うことなく、携帯電話の住所録から『テレサ』の電話番号を探し、電話をかける。
五度目の着信音の後、相手が電話にでた。
「俺はイブラハムというものだ。大事な話がある。君のお父さん、ゼノスさんが倒れた。今、ワイダー村のハムス村長の家にいる」
イブラハムが告げると、電話の向こうで相手が驚いた様子が感じられた。そして、
「お父さんは無事なの?」
電話の向こうからテレサが尋ねた。
「かすかに話すことができる。テレサ、君がお父さんを励ましてくれ、生きる気力を与えてくれ。今からこの電話をお父さんの耳元に置く」
イブラハムは携帯電話をゼノスの耳元に置いた。
「お父さん、私よ。テレサ。今まで連絡しなくてごめんなさい」
電話機から聞こえてくる娘の声に、ゼノスは驚いた。
「私、お父さんが好き。だから死なないで」
テレサは大きな声で言った。
すると、ゼノスが小さな声で、
「テレサ…」とつぶやき、目から一筋の滴が頬を伝わった。
「お父さん、私、今からそちらへ行きます。イブラハムさん、一時間でそちらへ着きます。すみませんが、それまで父をよろしく頼みます」
そういって、テレサは電話を切った。
ゼノスの目が、以前よりも輝きを持った。彼は、生きる気力を取り戻した。
「ゼノス爺さん、頑張れ。まもなく娘さんに会えるぞ」
するとゼノスは、やや頬を緩めた。
「…ありが…とう…」
か細い声であるが、喜びに満ちた表情をしていた。
「ドクター近藤。もう大丈夫だ。ゼノスさんは生きようとしている」
近藤は、イブラハムのこの動作だけで、彼の性格を十分理解した。
イブラハムは、この病人にとって何が一番大切かを良く理解している。
「イブラハムさん、あなたは名医だ。あなたは、ゼノスさんに生きる力を与えた」
近藤は、イブラハムに賞賛を送った。
「ただし、ちょっと乱暴だったけどね」
と、近藤は笑顔でつけたした。
ゼノスの病名は、結核である。幸いにもイブラハムの機転と近藤たちの手当で、峠を越すことができた。あとは、玲子が目を覚ますのを待つだけだ。
一時間ほどすると、玲子が目を覚ました。
枕元には近藤がいた。
「聡、来てくれたのね。嬉しい」
玲子は思わず近藤にしがみついた。
近藤は、思わぬ玲子の行為に戸惑っていたが、
「遠慮せず彼女を抱きしめな。俺たちは部屋の外にいくから」
イブラハムとハッサンは、二人に気をきかせて部屋から出て行った。
「船長、ゼノス爺さんが助かって良かったですね。玲子さんも意識が戻ったし」
「助かるに決まっている。『東島の勇者』と『スラノバ国守護神』が手当てしたのだから。これ以上の手当ては、どこを探しても見つからない」
「それに今回は、『間抜けなお人よし』の船長も一役買ったしね!」
ハッサンは微笑んでいる。
「馬鹿野郎。『間抜けな』は余計だ」
イブラハムも笑顔だった。
すると、玄関のほうから、三十代の髪が長い女性が駆け込んできた。美しい人だった。
「すみません。私、テレサと言います。ゼノスの娘です。父はどこでしょうか」
よほど慌てて来たようだ。呼吸が荒い。
「テレサさん。俺が電話をしたイブラハムだ。よく来てくれた」
挨拶もそこそこに、イブラハムは、テレサをゼノスの枕元まで案内した。
テレサは、ゼノスの顔を見ると、思わずゼノスの首に抱き着いた。
「お父さん、死なないで」
「大丈夫だ。テレサさん、あなたのおかげで、ゼノスさんは生きる気力を取り戻した」
イブラハムが説明すると、
「テレサ…、来てくれて…ありがとう…」
ゼノスが、途切れ途切れにつぶやいた。
親子は、長い間途切れていた時間を取り戻すかのように、少しずつ話をした。
イブラハムとハッサンは、病室を離れると、
「これで安心だ」
と言い、
「それよりも、玲子の容態が気になる…」
と、玲子の様子をうかがった。
しばらくして、ゼノスと玲子は、近藤の車で病院へ運ばれた。テレサも付き添いで同乗した。
イブラハムは、ゼノスの病状よりも、玲子の状態のほうが気になった。
(玲子の奇跡のピアノ演奏は、玲子の命を縮めることになるかもしれない)
イブラハムは、そう感じた。
そして近藤も、イブラハムと同じ危惧を抱いていた。