3.海底地震
イブラハムたちは、水族館の帰りに再び稚魚を買い付けた店を訪れた。
「やあ、イブラハム。テレビのニュースを見たぜ。鯨の赤ちゃんを助けるために、うちで買ったばかりの稚魚を放流しただろう」
主人のトニーは上機嫌である。
「トニー、すまない。せっかく安く譲ってもらったのに」
「良いってことよ。あのニュースは感動したよ。それに、おかげでまた買ってもらえることになり、うちも商売繁盛だ」
「それで相談だが、持ち合わせがない。後払いで良いかな。この前買った分も含めて」
「かまわないぜ。その代り、新聞やテレビからの取材があったら、うちの店で買った稚魚を放流したと言ってくれよ。そうすればうちの店の宣伝になる」
「わかった。必ずそう答えるよ」
イブラハムは笑顔で答えた。
イブラハムが何気なく受付の横を見ると、大きな籠に野球ボールが目一杯積まれている。
「これは?」
「ああ、俺たちマタラの商店街の仲間で野球チームを作っているのさ。その練習用のボールだよ」
「トニー、そうなのか。実は俺とハッサンはバッテリーを組んでいる。今度来たときは、一緒に野球をしよう」
「そうか。それはぜひとも試合をしなきゃ」
トニーはますます上機嫌になった。
「よし、イブラハム。うちのチームの野球ボールを、少し持っていきな」
トニーは籠の中にある野球ボールを4つ取り出してイブラハムに渡した。
「ありがとう。スラノバ国に帰ったら練習に使わせてもらうよ」
そういってイブラハムは、野球ボールを袋に入れた。
まもなく出港の時間だ。
ところが、航海士のパウロがおかしなことを言いだした。
「船長、今日の出港は止めにして明日の朝早く出港しませんか?」
「どうした、パウロ。どこか具合でも悪いのか?」
「いえ、ただ何となく…。今日は行かないほうが良いような気がして」
「どうしてだ?」
するとパウロが空を指さしながら、
「あの細長い雲が気になるのです」
と、不安げに告げる。
空には細長い雲が、南に向かって伸びている。
「あの雲は?」
「わかりません。あんなに細長い雲は、初めて見ます」
「確かにそうだな。飛行機雲でもなさそうだし…」
イブラハムはパウロの肩を軽くたたいた。
「大丈夫だ。仮に地震が発生しても、俺たちは海の上だ。それに津波が発生した場合は、港につないでおくよりも沖にいたほうが、船は安全だ」
「イブラハムさんが『大丈夫』というのならば大丈夫でしょう」
パウロもイブラハムの励ましで安心したようだ。
やがて、イブラハムたちはスラノバ国へ帰るため、マタラの港を出港した。
帰るときも天気は快晴で、波も穏やかだ。船は予定通り順調に南へ進んでいる。
ハッサンも陽気に歌を歌いだした。
だが、ちょうどクレタ島から離れたとき、突然、地震が発生した。
水面が大きく揺れた。船がいったん一メートルほど浮き上がり、海面に叩きつけられた。
そのときイブラハムは、ハッサンと共に操舵室にいた。
「ハッサン、スワイダー、パウロ、大丈夫か?」
ハッサンはすかさず「大丈夫」と答えたが、スワーダーからは返事がない。しかもパウロが大きな声で、
「西のほうから津波が来る。巨大な波だ」
と、叫ぶ。
イブラハムとハッサンが西の方を見ると、高さ十メートルはあろうかという大波が押し寄せて来る
「急速発進。津波から逃げるぞ」
イブラハムはスワイダーに告げた。
しかし、スワイダーから緊急連絡があった。
「エンジンがかからない。さっき海面に叩きつけられたときに、どこかが故障したようだ」
その報告は、イブラハムとハッサンを驚かせた。
「まずい。このままだと真横から大波を受ける形になる」
船は真横からの波に弱い。横波を受けると船が転覆する。
そのとき、イブラハムの目の前に野球のボールがあった。さっき稚魚の買い付けの際に主人のトニーからもらったものである。
イブラハムは一瞬考えた後、野球ボールを二個つかみ、ハッサンに渡すと、さらに二個つかみ、
「ハッサンは船の船首に行き、俺の合図とともにボールを船の左に思いっきり投げろ。俺は船の船尾に行き右に投げる」
そう言うと、直ちに船尾へ向かった。ハッサンも直ちに船首へ向かう。
以心伝心とはこういうことを言うのだろうか。それだけでハッサンはイブラハムの目的が分かった。
それぞれ配置につくと、イブラハムは大きな声で、
「いいかハッサン。いち、にいの、さん」
イブラハムとハッサンが同時にボールを投げた。イブラハムの投げたボールは船の右方向へ飛んでいき、ハッサンの投げたボールは船の左方向へ飛んで行った。
すると、船が少しだけ、時計回りに方向を変えた。
これは作用反作用の法則と慣性モーメントを利用した回転である。
ボールを遠くに投げるということは、その反対側に力が加わることになる。これが作用反作用の法則であり、ロケットエンジンがその代表例である。ロケットエンジンは燃料を爆発させて後方へ吐き出す反動で前方へとロケットを進ませる。
さらに船の両端で、それぞれ右と左の方向に力を加えることで、船の中心を軸として船を回転させることとなる。これが慣性モーメントである。イブラハムとハッサンは、この力で船の向きを変えたのである。
本来、船の向きを変えるにはエンジンをかけ前進しながら舵を切る。しかし、エンジンがかからないことには船は前進しない。だから、いくら舵を切っても船の向きは変わらない。そこでイブラハムは苦肉の策として、船の両端で同時に逆の力をかけ、船の向きを変えようとしたのである。
「もう一球いくぞ。いちにのさん」
イブラハムの掛け声で、またしても二人同時にボールを投げた。
すると、船が時計回りにゆっくりと回転を始めた。
ボールを投げ終わるとイブラハムとハッサンは一目散に操舵室に駆け込んだ。
「間に合ってくれ」
船は少しずつ回転している。まもなく船首が高波と向き合う形になる。
船首が津波の方向を向いたとき、第一波の津波が船を襲った。高さ十メートルの高波である。
船は上下に大きく傾いた。棚に積んだ食器が木箱ごと落ちた。机の上に乗せていた書類や筆記用具も滑り落ちた。
だが、船はなんとか高波を乗りきった。
ちょうどそのとき、機関室のスワイダーから連絡が入った。
「エンジンが復旧しました」
イブラハムはハッサンの顔を見て喜びをかみしめた。
だが、ハッサンは前方を指差しながら言葉を発しない。
「どうした?」
イブラハムが前方をみると、津波の第二波である。さっきよりもはるかに高い波が船に向かってきている。おそらく十五メートルはゆうに超えている。
「逃げましょう」
すかさずハッサンがいった
「いや、今から方向転換をしても間に合わない。横波を受けるだけだ。横波を受けると、船は間違いなく転覆する」
そう言った後、
「スワイダー、エンジン全開。目の前の高波を突っ切るぞ!」
と叫び、
「ハッサン、どんなことがあっても舵は動かすなよ。少しでも動かしたら波の勢いに負けて船が横を向く」
「了解」
スワイダーとハッサンが同時に返事した。
巨大津波は目の前である。
「行けーーーー」
イブラハムは掛け声をかけた。イブラハムも舵を持ち、ハッサンを補助する。
船はさっきよりもさらに大きく上下に傾いた。
船が垂直に立っている。
その表現が適切だった。高波を乗り越えるかのように船が垂直に近い状態となっていた。
イブラハムとハッサンは背面の壁に背中を付けたまま、それでも舵を持つ手は離さずにいる。
「うぉーーーーーー」
二人とも腹に力を入れてうなり声を出した。
一瞬でも気を抜いたら、高波に舵を持って行かれる。それは船の沈没へとつながる。だからこそイブラハムとハッサンは、死に物狂いで舵を持つ手に力を込めた。
やがて船は巨大な高波を乗り越えた。
やったぞ、ハッサン。みんな、乗り越えたぞ
イブラハムをはじめ全員が喜びをかみしめた。
「パウロ、無事か?」
イブラハムの声に対し、
「何とか生きています」と、パウロが返事をした。
パウロは、とっさの判断でロープを用い、自分の体をポールに縛り付けていたのだった。
スワイダーも「機関室は大丈夫です」と、返事をした。
やがて甲板に全員集まり、生きている喜びを分かち合った。
「パウロ、すまない。俺がパウロの言うことを聞いていれば、こんな目に合わなかったのに」
イブラハムは素直にパウロに詫びた。
「いや、港に船を停泊しても、被害にあわない保証はありませんでした。それよりも、こうして全員無事だったのだから、それが何よりです」
パウロは、イブラハムを決して非難することはしなかった。
「さっきの高波で、水槽がひっくり返り、また稚魚を失いました」
スワイダーが告げると、イブラハムがすかさず、
「俺たちが無事に生きているのだ。稚魚を失ったことなど、どうでもよい」
イブラハムは全く気にしていない。
「ほら、やっぱり社長は損得考えないな」
スワイダーがいった。
「確かに」
パウロもうなずき、笑っていた。
甲板の上では全員の笑い声がしばらく続いた。
水平線に沈みゆく夕日が、紅く美しかった。
「よし。稚魚をもう一度買い付けるためにマタラの港へ戻ろう!」
イブラハムは元気よく号令をかけた。
イブラハムたちがクレタ島のマタラの港を目指して進んでいると、津波の引き波があった。引き波は津波で押し流された材木や家財道具などを沖へ運んでいる。しかも、よく見ると、津波に巻き込まれた人も何人かいる。材木などの浮遊物につかまり、必死に体を浮かせ、息をしている。
「パウロ、津波で流された者がいるようだ。あたりをくまなく探してくれ」
そう叫ぶとイブラハムは浮き輪とロープを取り出した。
パウロはくまなく周りを見渡し、「6名漂流している」と告げ、それぞれの漂流者の位置を知らせた。
パウロの指示に従い、船を移動した。漂流している人に接近すると、イブラハムはロープを付けた浮き輪を投げた。
「これにつかまれ!」
漂流者が浮き輪に体を入れてつかまると、イブラハムとハッサンとスワイダーがロープを手繰り寄せ、漂流者を船に引き上げた。
イブラハムたちは次々と漂流している人を助けた。
だが、最後の漂流者に浮き輪を投げたところ、その漂流者は浮き輪をつかむ力も残っていなかった。しかも、今まで掴んでいた瓦礫から手が離れ、体が沈み始めた。
それを見たイブラハムは、すかさず船から海面へ飛び込んだ。
一般に、がれきの漂う海に飛び込むのは危険である。
見えない海中に何があるかわからない。仮に海中で瓦礫に刺さった釘がむき出しになっていた場合や、尖った金属がある場合は、大怪我をすることもある。
だが、今のイブラハムは、そんなことを考える余裕がなかった。
早く助けなければ海中に沈み、見つけられなくなる。それは漂流者の死を意味している。
だからイブラハムは、無我夢中で飛び込んだ。
イブラハムは漂流者が沈んだ近くまで泳ぐと、海中に潜った。そして、しばらくすると、なんと漂流者を抱えて海面へ浮上した。
すかさずハッサンが浮き輪をイブラハムに投げた。するとイブラハムはその浮き輪に体を入れ、漂流者をしっかりと抱え込んだ。
「みんな手伝ってくれ!」
ハッサンのかけ声で、今まで助け上げられた漂流者たちも一緒にロープを引き上げ、イブラハムと溺れていた漂流者を船へ引き上げた。
船に上げると、すかさずイブラハムが溺れていた漂流者の心臓マッサージをした。
すると、その男は海水を吐き出した。呼吸を始めたのだ。
「助かったぞ。全員助かったぞ」
船の甲板は、喜びの声で満ち溢れた。
イブラハムたちが助けた漂流者は、合計6人である。
「あなたがたは命の恩人だ。ありがとう」
イブラハムたちから助けられた人たちは、皆、体を震わせながら感謝した。
「俺たちも、あなたたちの命を助けることができてよかった。早く家族に無事を知らせたほうが良い」
イブラハムは無線機でマタラの港へ連絡し、六名の無事を報告した。
「パウロ。他には漂流者は見当たらないか?」
「見当たりません。海面に浮かぶ人は全て救助したようです」
「そうか。ありがとう」
イブラハムたちの船は助けた人たちを乗せ、マタラの港に入港した。
マタラの港は、出港したときとは打って変わって、津波の傷跡が生々しかった。波止場に止めた船の多くが陸上へ運ばれており、津波により海岸付近の家々が半壊していた。
それでもイブラハムの船で沖に流された6人が生還したことを知ると、港の人たちは次々にイブラハムたちにお礼を述べた。そして漂流者の家族たちは、涙ながらにお互いの無事を確かめあっていた。
「イブラハムさん」
イブラハムが声のほうへ振り向くと、新聞記者のディオンだった。
「イブラハムさん、あなたはまたしても、みんなに笑顔を運んでくれました。マタラの港のものは、皆があなたたちに感謝しています」
ディオンはさらに続けて、
「私も、あなたのおかげで良い記事が書けそうです」
と、笑顔を見せた。
ディオンの言うように、イブラハムの行くところは多くの人の笑顔であふれていた。本来は、誰もが津波の被害で悲しい気分に浸って当然であるが、そうではなかった。街の人たちは、イブラハムが津波で沖に流された人を助けてくれたことを知っていた。イブラハムたちのおかげで死者がゼロであることがわかった。そしてそれは、まさに奇跡だった。
津波で家が半壊したが、沖に流された家族が無事だと分かったとき、未来に希望を持つか未来に絶望を持つかで、その人の生き方が変わる。港の人たちは未来に希望を持つ方を選んだのである。だから、彼らには活気があった。
肉屋のオヤジや八百屋のオヤジが、イブラハムに商品を無償で提供した。
「俺たちの感謝の気持ちだ。食べてくれ」
酒屋のオヤジも、イブラハムに酒を勧めた。
「オヤジ、すまん。これから船を操縦するので飲めない。気持ちだけいただいとくよ」
イブラハムは丁寧に断った。
イブラハムたちが三度トニーの店へ行ったところ、ここにもイブラハムが津波で沖に流された6人を助けた噂が伝わっていた。しかも、救助された6人のうちの一人は、なんとトニーの兄だった。
トニーは喜びに満ちていた。
「イブラハム。そしてみんな、俺の兄貴を助けてくれてありがとう。町の者を助けてくれてありがとう。あなたたちのおかげで、俺は絶望を希望に変えることができた。こんなに嬉しいことは無い」
トニーは、イブラハムたちの行動に感激していた。津波が来て店が損害を被った後だというのに、極めて明るく元気だ。彼は財産や家財道具よりも、肉親や友人の無事の方が、はるかに大切だった。
さらにトニーは続けて、
「前回と前々回のつけは、帳消しだ。稚魚も好きなだけ持って行きな」
トニーは気前が良かった。それだけ彼は、兄や仲間が助かったことを喜んでいた。
「トニー、ありがとう。こちらこそ感謝する」
そういいながら、イブラハムは早速稚魚の選定を始めた。
トニーが何気なくイブラハムを見ると、イブラハムの胸元が光っている。
「イブラハム。胸元が光っているが、それは何だい?」
「ああ、これか…」
イブラハムは首から下げたチェーンを外すとトニーに見せた。チェーンの先には、ピンキーの母親からもらった鍵がぶら下がっている。もらったときは茶褐色だったが、今は金色に輝いている。しかも鍵の取っ手には鯨の紋章が描かれている。
「赤ちゃん鯨ピンキーの母さんからもらったものだ。潮吹きのときに一緒にこの鍵も吹き上げてね。鍵の表面についていた泥や藻を取り除くと金色の鍵だった」
イブラハムは鍵をトニーに手渡した。
トニーはイブラハムから渡された金色の鍵をじっくり観察すると、しばらく何か考えていたようだが、やがて、
「イブラハム…、もしかしてこの鍵は、伝説の鍵のひとつかもしれないぜ…。この鍵は純金でできているようだ」
「トニー、『伝説の鍵』って何だい?」
「五百年前、クレタ島と北アフリカの間を航海していた船乗りたちのあいだでささやかれていた噂だよ。その噂では、次のように語られたそうだ」
そういうとトニーは、当時語られた言い伝えを諳んじた。
金の鍵と銀の鍵の二つを手に入れよ。
さすれば、そのものは、莫大なる富を手にすることができるであろう。
金の鍵は海神のものだ。鯨からもらえ。
銀の鍵は風神のものだ。イヌワシからもらえ。
「ふうん。金の鍵と銀の鍵か。夢物語だな。しかも、海神や風神が登場する。まるで神話のようだ」
イブラハムは、言い伝えを信じていない。ましてやイブラハムは、この鍵が純金でできているはずがないと思っている。
「仮にこの鍵が伝説の鍵だとしても、もう一つの銀の鍵を手に入れないと意味がないし、さらに、宝の隠し場所を知らなければ鍵は使えない。それよりも、こうしてペンダント代わりにしたほうが俺の役に立つよ」
イブラハムはトニーから鍵を返してもらうとチェーンにつなぎ、首の下に垂らした。
イブラハムは、まったく欲望がなかった。そしてそれは、イブラハムの人柄だった。
イブラハムがスラノバ国に帰って二日後、クレタ島の行政区からイブラハムに感謝状が届いた。津波で沖に流された六人を救助したことに対するものだった。
しかも、感謝状とともに、イブラハムがクレタ島で商売をするにあたっての許可書が同封されていた。
これがあれば、イブラハムはクレタ島のどこででも自由に商売ができる。これは、クレタ島行政区からイブラハムへの、感謝のしるしだった。
やがて、この許可書を活用して、イブラハムはクレタ島で多くの事業を行うことになる。