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ピアニスト玲子の奇跡(2)  作者: でこぽん
1/15

1.イブラハム

 ギリシャの南に、ギリシャ共和国最大の島、クレタ島がある。

 クレタ島は、ギリシャ神話に登場する牛頭人身の怪物ミーノータスや、(ろう)で固めた翼を用い大空を自由に飛翔するイーカロスがいたと伝えられる場所だ。この島はヨーロッパとアフリカとの中間にあるため、毎年多くの観光客が訪れる。

 イブラハムは、アフリカ北部のスラノバ国からクレタ島に向けて、仲間と共に航海していた。

 彼の年齢は二十四歳。髪の毛は黒く、ウェブがかかっている。顔は地中海の太陽で日焼けしており、浅黒い。澄んだ大きな瞳は人懐っこく、笑顔が魅力的な青年だ。彼は、商才に()けており、若くして魚の養殖業を経営している。

 今回の航海は、ヨーロッパに生息する魚の稚魚を買い付けるためである。船の乗組員は、船長のイブラハムをはじめとし、操舵手のハッサン、航海士のパウロ、機関士のスワイダーの四人である。

 船は全長十五メートル、最大船速40ノットの小型艇だ。操舵室にはイブラハムとハッサンがおり、操舵室の上の見張り台にはパウロがいる。そしてエンジンルームにはパウロがいる。

 地中海の太陽の光を浴びながら、イブラハムはハッサンに声をかけた。

「ハッサン、良い天気だな。波も穏やかだし」

「船長、そうですね。こんな晴天だと操縦が楽です。帰りも晴れだと良いですね」

 大きな体格のハッサンは、純朴そうな表情でイブラハムにあいづちを打った。

 今日は雲一つない快晴である。波も穏やかで、船の揺れも少ない。このような日に船を操縦すると、のどかな気分に浸れる。

 ハッサンは、陽気に歌いだした。

「ハッサン。歌っても注意は怠らないでくれよ。こんな日でも事故は起こるからな」

 イブラハムが注意を促すと、それと同時に、航海士のパウロが、大声で叫んだ。

「西方一マイル先に水煙あり。警戒せよ」

「鯨だ!」

 イブラハムは瞬時に判断した。

「ハッサン、スワイダー、西に鯨がいる」

 ハッサンが、西のほうを見つめると、鯨の大群が泳いで来る姿が見えてきた。約二十頭の大きな群れだ。先ほどまで深海にいたとみえ、一斉に潮吹きをしている。

 鯨の種類はマッコウクジラだった。ハクジラ類(歯のある鯨)に分類され、巨大な頭が特徴だ。

「了解。面舵いっぱい」

 ハッサンが舵を操作すると共に、

「エンジン減速します」

 と、機関士のスワイダーも船の速度を落とした。

 操舵手ハッサンと機関士スワイダーの操作で、船はスピードを緩め、右方向に曲がった。

 船の左舷を、マッコウクジラの群れが移動していく。

 マッコウクジラの体長は、メスで約十三メートル、オスは十六メートル以上になる。それに対して、イブラハムが乗っている船は二十メートルあり、オスのマッコウクジラよりも少し大きめである。

 マッコウクジラの群れと衝突すると、船は航行不能となる。また、マッコウクジラの群れは結束力が強く、仮に一頭が船にぶつかり怪我をした場合、他のマッコウクジラが船を沈めることもある。いずれにせよ、大型船でない限り、クジラの群れに近づくような無謀なことは、しないほうが良い。

 マッコウクジラの群れが通り過ぎた後、ハッサンは舵から手を放し、

「危ないところだった。鯨にぶつかったら、船が壊れてしまうところだった」

 と、タバコを取り出し、火をつけた。

 イブラハムは、遠ざかっていく鯨の群れを眺めている。

 クジラの群れは、どうやらクレタ島の東へ向かっているようだ。おそらく地中海を回遊しているのだろう。

 やがて、鯨の群れは見えなくなった。

 イブラハムたちは再び船を走らせ、クレタ島の南岸にあるマタラの港に到着した。

 まぶしい太陽の日差しを浴びた白い石灰岩が輝いており、真っ青な海が美しい。港は多くの観光客で賑わっていた。

 港に着くと、イブラハムたちは早速なじみの店へ行き、稚魚を買い付けた。色とりどりの高級魚の稚魚を千匹ほど、イブラハムの船に設置している巨大な水槽に積み込んだ。この稚魚は、一年ほど経つと買い付け額の二百倍ほどの価格になる。もちろんすべての稚魚が生き残るわけではない。餌代もかかるし手間もかかる。だが、イブラハムには稚魚を育てる目的があった。

 彼は、地中海の魚が年々減少しているのを知っていた。このままでは、いずれ海を泳ぐ魚が取りつくされるのではないかと危惧していた。だから魚を獲るのではなく、養殖業を選んだのだ。

 

 マタラの入り江にある断崖には、先史時代の洞窟住居跡が残っている。この付近は、島観光スポットとして有名な場所だ。

 買い付けが終わったイブラハムたちは、散歩がてら、その入り江に向かった。

 不思議なことに、入り江に近づくと、五十人ほどの人たちが海岸の一か所に集まっている。

「多くの人が集まっているな。どうしたのだろう」

 イブラハムは好奇心に駆りたてられた。

 遠くから見ると、人々の中心には黒い大きなものがあった。何か巨大なものが打ち上げられているようだ。

 よく見ると、それはマッコウクジラの赤ちゃんだった。赤ちゃんといっても、全長四メートル近くある。

 鯨の赤ちゃんは、まだ生きており、多くの人たちが、沖へ返そうと試みていた。

 しかし、幼い鯨は弱っていた。みんなが鯨を沖のほうに押しても、波に逆らって沖へ出ることが難しい。

 幼い鯨は、悲しそうに鳴いている。その声がみんなの心に響き、憐れみを誘った。

 イブラハムは、鯨の赤ちゃんに近づき、話しかけた。

「どうやら母親とはぐれて、入り江に迷い込んだようだな」

「クー」

 鯨の赤ちゃんは、イブラハムの顔を見て鳴いている。

「母親のところに帰りたいか?」

「クー」

 まるでイブラハムに答えるかのように、鯨は頭を縦に振り、再び鳴いた。

「そうか、わかった。俺がお前を母親のところに連れて行こう」

「クー」

 信じられないことだが、鯨の赤ちゃんは、イブラハムの顔を見ながら頭や胸びれを動かし、喜んでいる。

 周りにいた人たちは、イブラハムが鯨と話しているのを見て驚いた。

「あなた、鯨と話ができるのかね?」

 隣にいた老人が尋ねた。老人は興味津々だ。

「言葉はわからない。しかし、こいつが言いたいことは分かる。小さい子供が母親に会いたい気持ちは、人間も鯨も同じだからな」

 鯨の頭を優しく撫でた後、イブラハムは、みんなに向かって大きな声で提案した。

「この幼い鯨は、母親のもとに帰りたがっている。しかし、自力で沖へ出ることができない。そこで、俺の船の水槽に入れて沖まで運び、母親のもとへ返そうと思う。俺の提案に賛成するものは、協力してほしい」

 みんなは驚いた。鯨を母親の元へ返したい気持ちは、皆同じである。だが、周りにいた島の人たちは、だれもイブラハムのことを知らない。

「あなたは大変良いことをいう。しかし、失礼だが水槽に入れた後、別の場所へ持っていき、鯨を売るつもりではありませんか?」

 新聞記者らしい若い男は、イブラハムを胡散(うさん)臭い男だと思っている。なぜならば、通常の鯨は、種類にもよるが、日本円ではおよそ六百万円で取引される。鯨の赤ちゃんは通常の鯨より小さいが、肉質が軟らかいため、最低でも五十万円は下らないはずだ。それに、イブラハムの身なりは、よれよれのTシャツに薄汚れた紺のジーンズ、それに安物の草履を()いており、お世辞にも立派とは言えない。お金に困っている男のように見える。

「神に誓ってそんなことはしない。俺はスラノバ国から来たイブラハムという。なんなら、あなたも俺と一緒に船に乗り、赤ちゃん鯨を母親のもとへ返す手伝いをしてくれないか?」

 イブラハムの返事に新聞記者らしい男がうなずき、みんなに説明した。

「私は、クレタ島で新聞記者をしているディオンというものです。彼の提案は、大変すばらしい。私は彼の船に乗り込み、手伝いがてら取材をするつもりです。だから皆さん協力してくれませんか」

 周りの人たちは、イブラハムの提案には、もとより賛同していた。しかし、ディオンがいうように、島民でないイブラハムの言葉には、一抹(いちまつ)の不安を抱いていた。だが、クレタ島の新聞記者であるディオンが船に乗り込むと聞き、皆は安心して協力することにした。

「ハッサン、大急ぎで船を操縦し、この入り江まで来てくれ」

「でも船長、水槽には買い付けたばかりの稚魚が入っていますが…」

 ハッサンは先ほど買い付けた高級魚の支払いが気になっていた。まだ、代金が未払いだ。

「稚魚はまた買えば良い。それよりも急いでくれ」

「了解」

 ハッサンは、航海士のパウロや機関士のスワイダーを連れて、大急ぎで港に行った。

 船が来るまでの間、イブラハムは赤ちゃん鯨の世話をした。

「もう少しの辛抱だから。頑張れよ!」

「クー」

 赤ちゃん鯨は、イブラハムの顔を見て大人しく頷いた。

 新聞記者のディオンも赤ちゃん鯨に話しかけた。

「お腹すいていないか?」

「……」

 しかし、ディオンの言葉に対し、赤ちゃん鯨は返事しない。ディオンは他の質問もしたが、やはり赤ちゃん鯨は何も答えない。イブラハムに対する対応と著しく異なる。

「やはりイブラハムは鯨と話ができる」

 誰かがいった。それをきっかけに、周りがざわめいた。

 イブラハムは、周りのざわつきを気にすることなく、鯨の赤ちゃんと話している。

「お前にも名前がないと話しづらいな。よし、名前を付けてやろう」

 そういうと、

「ボロンゴという名前はどうだ?」

「グー」と、鯨の赤ちゃんは嫌そうな声で鳴き、頭を左右に振った。どうも好みの名前ではない様子だ。

「そうか。気に入らないか。それならピンキーはどうだ?」

 すると、鯨の赤ちゃんは、

「クー」と、明るい声で鳴き、目を輝かせながら頭を上下に振った。胸びれもしきりに動かしており上機嫌のようだ。

「そうか、気に入ったか。お前の名前はピンキーだ」

「クー」鯨は再び明るい声で鳴いた。

「ピンキー、もうすぐ母親のところへ連れて行くからな」

「クー」

ピンキーが明るく頷き、胸びれをバタバタ動かした。

 イブラハムと一緒だと、ピンキーは極めて明るい声を出す。そして、その声と表情がとても可愛い。

「やはりイブラハムは鯨と話ができる」

 周りの人たちは、誰もがそう感じていた。


 やがて、ハッサンの操縦する船が、入り江に近づいてきた。

 船の上には、六メートルの大きな水槽が積まれていた。

「船長、水槽の稚魚、本当に全部放流して良いのですね?」

 ハッサンが再び確認した。

「そうだ。早くしてくれ」

 イブラハムの返事に、ハッサンは仲間と一緒に水槽に入っている稚魚をすべて放流した。

 稚魚が全て海に放流されていく姿に、入り江にいる人たちが大きな歓声をあげた。入り江のみんなは、放流される稚魚の種類を知っていた。放流された稚魚は全て高級魚である。それを鯨の赤ちゃんのために、惜しみなく海に放したイブラハムに対し、皆は尊敬した。

 その後、みんなで協力し、船に積んでいるクレーンを用いてピンキーを水槽に入れ、水槽を船に積み上げた。それと同時に、イブラハムはディオンと共に船に乗り込み、すぐさま船を沖に出した。

「ピンキー、おそらく二時間前に出会ったマッコウクジラの群れに、お前の母親がいるはずだ」

「クー」

 ピンキーは嬉しそうにイブラハムに返事した。

 マッコウクジラの速度は、およそ時速二十二キロメートルである。だから、倍の速度で航行すると二時間で追いつくことになる。ただし、それは鯨の群れの進む場所が前もってわかっていることが前提である。

 イブラハムは、クレタ島の東側にマッコウクジラの群れがいると予想していた。しかし、急ぐ必要がある。クレタ島の東の端までクジラの群れが到着した後、そこからまっすぐ東のキプロス島へ向かうか、北側のエーゲ海に向かうかが、わからないためだ。仮に北側のエーゲ海までクジラの群れが行くと、多くの島が存在するため、鯨の群れを見つけるのが困難になる。

「スワイダー、速度を三十ノット(時速約五十五・六キロメートル)まで上げてくれ」

「了解」

 機関士スワイダーの返事と共に、船の速度が上がった。

 船は順調に東へ進んだ。船の左舷の風景は、まるで海岸線が後方へ移動しているようだ。船首が水面を切る音が心地よい響きを奏でる。


 二時間後、イブラハムの船は、クレタ島の東の端に到着した。

 ここからは、北側の海と東側の海を同時に見渡せる。イブラハムの計算だと、この辺りでクジラの群れに追いつくはずである。

 エンジンを切り、全員で北側を見る。しかし、何も見えない。東側も見る。だが、東側も何も見えない。海面は、穏やかな波があるだけであり、鯨の水煙らしきものは見えない。

 カモメの鳴き声が『クークー』と、静かに聞こえてくる。船べりを打つ波の音が『チャプチャプ』と、心地よく聞こえてくる。地中海の日差しがまぶしい。のどかであり、疲れきった心と体を癒すには、うってつけの場所だ。

「パウロ。何か見えないか?」

 イブラハムの問いかけに、航海士のパウロは、双眼鏡でくまなく四方を見渡した。

「何も見えません」

 パウロはそう答えた後も、辺りを食い入るように見回している。だが、何も見つからないようだ。

「船長、まだ追いついていないのでは? もう少し進みましょうか?」

 ハッサンが提案した。

「いや、船を停止したまま、もうしばらく待とう。東に進んだら北側が見えづらくなり、北へ進むと東側が見えづらくなる」

 海上は、波の音とカモメの鳴き声のみが聞こえていた。

 すると、しばらくして、

「北4マイル先に水煙あり」

 航海士のパウロが大声で叫んだ。

 みんなが北のほうを見るが、何も見えない。

 しかし、イブラハムは、大声で命令した。

「北に向かえ!」

「取り舵いっぱい」

 ハッサンが返事すると、

「全速前進」

 スワイダーも返事をし、船は北に向かって進みだした。

 しかし、前方には水煙が全く見当たらない。

「別のものを水煙と見間違えたのでは?」

 新聞記者のディオンがイブラハムに尋ねると、

「船長は航海士を信じるものだ」

 と、イブラハムの声は、自信に満ちていた。彼はパウロを信頼していた。

 しばらく進むと前方に、かすかに水煙が見えだした。やがて水煙は、みるみる大きくなり、前方のいたるところに噴出した。鯨の潮吹きだ。鯨の群れは、深海に潜っていたようだ。

 群れの数は二十頭ほどだ。イブラハムたちが探し求めていた鯨の群れだった。イブラハムたちは、ようやく鯨の群れに追いついた。

 遠くのほんのわずかな水煙を見逃さなかったパウロもすごかったが、パウロを信じ続けたイブラハムもすごかった。

「ピンキー、群れが見つかったぞ」

 イブラハムがピンキーに話しかけると、

「クー」と、ピンキーも仲間が近くにいることを感じたようで、明るく返事した。

「鯨の群れに船をもっと近づけろ」

「でも船長、『大型船でもないのに鯨の群れに近づくのは間抜けな船だ』と、いつも言っていたのでは?」

「今は近づける必要がある。ただし慎重に」

 イブラハムの命令で、ハッサンは船を鯨の群れに近づけた。

 その間に、イブラハムたちは、水槽を船外におろし、ピンキーを放した。

 ピンキーは、一目散にマッコウクジラの群れに向かって泳ぎだした。

 すると、群れの中の一頭のマッコウクジラがピンキーに気づき、ピンキーに向かって泳ぎだした。

 ピンキーは、その鯨と口を寄せ合い、鳴き合っていた。おそらく、その鯨がピンキーの母親なのだろう。

 まるで、母親鯨が、

「今までどこに行っていたのよ。心配したのよ」と叱っているようだ。

 ピンキーも、

「お母さんごめんね」

 と、謝っているようだ。

 やがて、親子の鯨は、イブラハムの船に近づいてきた。

 ピンキーは、「クー。クー」と明るく鳴きながら、イブラハムの船の周りを二周した。

 よほど嬉しかったと見える。泳ぎ方が生き生きとしている。

 ピンキーの母親が鳴いた。そろそろ群れへ戻るように告げている。

 ピンキーは母親のもとへ戻り、イブラハムに向かって、

「クー」と、大きな声で鳴いた。

 まるで「ありがとう」と感謝しているようだ。

「ピンキー、良かったな。もう母さんと離れるなよ」

「クー」と、ピンキーが、もう一度鳴いた。サヨナラの挨拶である。

 すると、ピンキーの母親が大きな水煙を上げた。鯨の潮吹きである。至近距離で水煙が上がったため、甲板にいたイブラハムたちはびしょ濡れになった。すると、水煙と一緒に小さな金属が空高く舞い上がり、船の甲板にコツンと落ちた。

「これは?」

 イブラハムが拾うと、それは海藻と泥とで茶褐色をした鍵だった。

「それはピンキーの母さんからのお礼かもしれませんよ」

 ハッサンやパウロがいった。

 イブラハムも、その鍵をいたく気に入った。なぜだかわからないが、この鍵を持つと、不思議な冒険が始まりそうな気がする。

「ピンキーの母さん、ありがとう」

 イブラハムは去りゆく親子の鯨に大きく手を振った。

 やがて、親子の鯨は、群れへ帰っていった。

 仲間の群れに帰った鯨の親子を見届けると、イブラハムは、みんなに告げた。

「さてと、マタラに戻り、もう一度稚魚を買おう」

「うちの大将ときたら、いつも損得考えないで行動するのだから」

 ハッサンが笑顔でぼやいた。

「確かにそうだな。でも、そんなところが、うちの大将の、唯一の良いところだからな」

 航海士のパウロも、ハッサンにあいづちをうつ。

「おいおい、そんなこと言ったら、俺は間抜けなお人よしと思われるじゃないか」

 イブラハムの言葉に機関士のスワイダーも、

「確かに、間抜けなお人よしかもしれない」

 と、ポツリとつぶやいた。

 ハッサンもパウロも、スワイダーも笑っていた。

 船員たちは、皆、美しいものを見たときの感動を味わっていた。そして、この感動は、いくらお金を積んでも決して買うことができないことを、みんなは理解していた。

 人はお金があれば、いろんな物が買え、時間すら買うこともでき、裕福になる。だが、心が豊かになるかどうかは、別問題である。

 イブラハムの船の乗組員は、イブラハムと一緒に行動することで、心が豊かになることを実感していた。ハッサンやパウロ、スワイダーは、心の中でイブラハムを尊敬している。

 その光景を見た新聞記者のディオンが、

「イブラハムさん、あなたのことを疑ったりして、すみません」

 と、頭を下げて謝った。

「気にしてないよ。それにあなたは、俺の提案に協力するよう、みんなを説得してくれた。あなたのおかげで、みんなが協力してくれた。こちらこそ感謝している」

 イブラハムは細かいことは気にしない性格である。しかも逆にディオンを持ち上げた。

 彼の返事にディオンは救われた。

 しかし、ディオンには、もう一つ気にかかることがある。そこで、申し訳なさそうに、

「あのー、こんなに取材の協力をしてもらったのに恐縮ですが、今は謝礼をお渡しできません。今回の記事が高く売れれば、後でお渡しできるかもしれないのですが、その保証もありません」

「それも気にしてないよ。それよりも入り江の人たちに、ピンキーが母親のもとに無事に帰ったことを伝えてほしい」

 イブラハムの頼みはそれだけである。謝礼を受け取ることなど、イブラハムは最初から期待していない。おそらく意識すらしていなかったに違いない。

「はい。入り江の人たちに、ピンキーが無事に帰ったことを伝えます」

 ディオンは元気に返事した。

(イブラハムさんは、本当に損得を考えない。純粋な心の持ち主だな)

 ディオンは心の中でつぶやき、イブラハムを尊敬した。


 この日、ピンキーを助けたことで、イブラハムの運命は大きく変わっていく。今まで鳴りを潜めていた運命の歯車が静かに動き出したのである。

 小さな養殖場を経営するイブラハムが、やがてスラノバ国で最大の海商王として成り上がることになるとは、このとき誰も予想だにしなかった。

 季節はまもなく夏を迎えようとしていた。


 その日の夜のニュース番組で、イブラハムがマッコウクジラの赤ちゃんピンキーを母親鯨の元へ届ける出来事が放送された。

 イブラハムがピンキーと会話するところや、ピンキーが母親鯨と再会し、喜び合っている姿、それに親子の鯨がイブラハムの船に近づき、お礼のあいさつをしている姿が、微笑ましく放送された。

 映像は、ディオンが持っている携帯ビデオカメラで撮影されたようだ。

 さらに、キャスターは、イブラハムがピンキーを助けるために、わざわざ購入したばかりの稚魚千匹をすべて放流したことや、マッコウクジラの群れを探すために片道百キロメートル以上も船を進ませたことを説明し、イブラハムの優しい人柄をほめたたえた。


 白井玲子は、クレタ島のホテルで、偶然そのニュースを見た。

 彼女は、ウィーンで活躍する日本人ピアニストである。

 玲子の年齢は十九歳。すらりと伸びた手足、セミロングの髪型で、常に落ち着いた表情をしている。切れ長の目が美しく、ときおり見せる優しい笑顔が魅力的だ。

 彼女は、明日からクレタ水族館でピアノのリサイタルをする予定である。

 玲子は、イブラハムに対して何かしら親近感を感じ取った。

「イブラハム…、優しく温かい心を持った人…」

 小さな声で玲子がつぶやいた。

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