第三十一話:あらぬ噂話
「キヨ様、重吉様と桃子様がお呼びです」
「はい、わかりました 今すぐに支度をしますので」
遅れたらまた小言を言われかねない、すぐさま鏡で身だしなみを整えたキヨは侍女に告げた。
「終わりました」
「それでは参りましょう」
その時、キヨは違和感を感じた。それは侍女の口元が笑っていたからだ。いつも来る時は表情なんて動いたことがない鉄面皮なのかと思うほど表情のきびがなかった。
『どうして笑っている 何か企んでいる』
ここで考えていても仕方がない。疑心暗鬼になりながら侍女の後をついていった。そしてそれはすぐに判明した。連れて行かれた先はもちろん屋敷の主人である重吉の寝室である。
「連れて参りました」
侍女の声に桃子が反応した。そして障子を開けて侍女は障子の外に座った。キヨはまず障子の中に入る前に挨拶をした。
「おはようございます、旦那さま、奥さま」
「ああ、おはよう キヨ」
キヨの顔を見て重吉は笑ったのだが、何か表情がぎこちなかった。いつもはニタニタと気持ち悪いほどの笑顔なのだが、そして極め付けは桃子である。いつも自分を睨み殺すかのように目つきでいるので、けれど今日は違った。何かを企んでいる目だ。
「おはよう、気持ちのいい朝ね キヨ」
重吉の前では桃子は低い声を出さない。キヨが一人の時は本当にガラが悪い。本当に良家のお嬢様なのかと気がしれる。
ニヤニヤと笑う桃子にキヨは気分が悪くなりそうである。まだ部屋にも入っていないが、今すぐこの場を立ち去りたいと思ったが、桃子から中に入るように薦められて諦めた。するともう一人呼ばれていたのかその人物も使用人が連れてきた。
「お連れしました」
「ああ、中へどうぞ」
「お入りください、安珍様」
キヨは安珍がきて少し驚いた。重吉が呼んだのか、それとも桃子が呼ぶように言ったのか、一体どういうつもりだとキヨは訝しむ。
「はい、失礼します」
キヨは安珍の隣に座り、安珍は下座に座ることになった。
「表をあげよ」
ゆっくりと安珍は顔を上げた。
「其方の介抱のおかげでだいぶ良くなったと聞いている 礼を言うぞ」
「いえ、もったいなきお言葉です」
「それでそのお礼に褒美を渡したいのじゃが」
「いえ、お気持ちだけで十分です 元気なお姿を見れるだけで」
「ほう、まだ若いのに 悟っていらっしゃる」
安珍は重吉に褒めちぎられて恐縮する。
「それでいつまでここに」
その言葉にキヨは初めて動揺する。
『そうだ この男が元気になったのだから安珍がここにいる必要はない』
「そうですね…まだ回復されたばかりなので明日また様子を見て早ければ、明朝には」
安珍が早く出ることに重吉は嬉しそうに笑みを浮かべる。命の恩人であるにも関わらずまるで邪魔者がいなくなったようにキヨは考えて嫌な予感がよぎる。
『まさか』
その予感が的中した。
「そうですか、それなら安心ですね」
重吉と桃子が笑い合っていたのはどう言うなのか恋愛感情に疎い安珍はわからなかった。
「実は噂になっていたのよ、あなたとキヨがデキているのではないかと」
「!? ま、真ですか!」
安珍の驚きように重吉と桃子はおかしそうに笑った。
「だから心配していたのだ、君は若くて顔もいい、そして知識もそこらの医者に負けない。たとえ修行僧でも若い女性はそうはおもはないだろう」
「そんな…仏の教えを背くようなことはあってはなりませんっ」
安珍のはっきりとした言葉にキヨの心の中が切り裂かれる。キヨは噂がされていることはずっと前からわかっていた。人並み外れた聴力を持っているのでどんなコソコソも聞きのがすことがない。それを伝えれば生真面目な安珍がどう反応するかわかっていたから、
私が彼を困らせたくない。だって私は彼のことが。
〇〇
「重吉さま、そのようなことは決してしておりません。それにキヨ様は旦那様の体調を戻そうと尽力されておりました、早く元気になるようにとそのようなお方が他の男性に気を移すことはないでしょう」
安珍の説得力のある言葉に重吉はキヨがそこまで頑張ってくれたのかと何度もうなづき納得した。
「そうか、いや 疑ってしまい…大変失礼した」
「いえ、こんなに綺麗な方ですので 主人が心配される気持ちもうなづけます」
安珍がからりと笑う様子に重吉は笑い返した。けれど横にいた桃子はニヤニヤを崩そうとしない。そのことにキヨはまだ何か企んでいるのかと逡巡する。
この時代に主人以外に妾を持つことは浮気とされる。一夫多妻は珍しくないが、その妾が他の男性に行くなど非常識であるのだ。桃子はそれを狙ったのだが、キヨは動くこともできなかった。
「それでは失礼します」
安珍は3人に一礼して 部屋から退室した。廊下を出てようやく一息つくことができた。朝から呼ばれてきてみたら主人から疑われていたことに度肝を抜かれた。
自分がキヨとの仲を噂をされていたのも初耳で驚いたぐらいだ。それに彼女との距離は自然だったのでもう少し配慮すべきだったと反省した。
「これで安心ではないか きっと噂話もなくなるだろう」
重吉の楽観とした声に桃子は冷静だった。
「そうでしょうか」
「どう言うことだ」
疑い深い桃子に重吉は皺を寄せる。話を聞きたくないが無視することもできない。
「建前ではどうとでも言えるのですよ、心に秘めていれば」
桃子は手を胸に当てる仕草をする。それが嘘であっても。そして重吉はそれを看破できるほど心眼の持ち主ではない。
「…ならばどうする」
「私はキヨ様の様子を見ていたのですが、何やら落ち着かない様子。もしかしら二人で駆け落ちするかもしれません」
「か、駆け落ちだと」
桃子の思わぬ言葉に動揺し重吉はうまく言葉が出てこない。
「一つ私に提案があります」
「なんだ」
「あのものが出て行く時に尾行をかけるのです、それと脅しをつけて」
「それは大丈夫なのか」
「ええ、ご心配には及びません」
桃子は嫣然と笑った。そして翌日になり安珍は旅立つ時となった。
門のところには使用人や村人たちが待ち構えていた。まさか、こんなに見送られるとは思っていなかったので驚いた。
「安珍様 あなたにもらったお薬が子供に飲ませたら元気になりました ありがとうございます」
「うちのおばあちゃんも」
「道中お気をつけて」
色々と渡されたが流石に全部持つことはできないので途中で断った。
「ありがとうござます」
そう笑顔でいい、安珍は屋敷を離れた。あの中にキヨの姿は見当たらず、安珍は少しがっくりとした。けれどあの正室の様子だと自分が居続ければまた怪しまれる。彼女には迷惑をこれ以上かけられないと安珍は自分の心を押し殺した。
『これでいい、これで』
〇〇
キヨはどうして見送らなかったかというと彼に渡すお守りを作っていたからだ。
安珍に何かお礼をしたくて何かできないかと考え、お守りを作ることにしたのだが、ギリギリまで何で作るのか迷っていたら時間がかかってしまったのだ。
「よし、これでいいだろ」
日の出を見ると、もうお昼は過ぎており、抜け出したらどこに行くのかあの女の思う壺だろう。狙うのなら夜だと考え刻々と待ち受けた。
次はどこに行くか本人から聞いていたキヨは陽の光はなくとも動くことはできる。舗装がされていない山道であってもキヨにとっては問題なかった。
ある違和感を感じた。それは動物たちがやけに騒いでいる。その時だった。キヨの嗅覚が嫌な臭いを捉えた。
『これは血のにおい…』