序章:悪夢と「私」
『これは…どうなっているの……』
白い月に鮮やかに輝く星々の夜空と広がるはずの光景が、今は見る影も無く、赤黒く染まっている。
燃え盛る炎と黒い煙が空中に立ち上っており、辺り一面、緑深く茂っていた木々が赤い炎に覆われている凄惨な全景に「私」は呆然となっていた。
『一体、何があったの……?! それに』
新参者だったが自分を受け入れてくれた、森に住んでいる優しい人たちのことが頭の中によぎる。
「私」は恐怖で震える体を自分の腕で抑え込もうとするが、なかなか上手くいかず呼吸もままならない状態である。
混乱する中、一番に思い浮かんだのはある人の面影が脳裏によぎる。
『あの人は…あの人は無事なのっ?!』
彼のことを思い出した「私」はすぐさま思い当たる場所に向かい、駆け出しながら辺りを見回す。
森の異常さに動物たちは逃げ出していくのが視界の端で見える。手助けをしてやりたいが、今は心の余裕がない。
緑生い茂る森の中に、「私」と彼が共同で使っていた家がある。
家の中に入ると倒れている彼がいて「私」は一瞬、立ち止まった。その体から大量の血が流れていることに気づいたからである。
『いやああああああああ』
青年が血まみれで倒れていることに発狂した「私」はすぐさま駆け寄った。
ーー彼の血が流れていく
ーーどうして
ーーなんで
ーーこんなことになったの
ーー誰がこんなひどいことを
とにかくこの血を止めないと
無我夢中で「私」は青年の全身を光で包み込む。流れていく血を止めようとするが自分の力を持ってしても、彼の血を止めることはできなかった。
『どうしてっ、なんで止められないのっ』
「私」は気づきたくなかった。彼の手を握ると、いつも温もりのある手が氷のように冷たくなり、青白く微動だにしないことに。
ズサ
かすかな足音を耳にし、音のした方向を見ると人影が見えた「私」は、その人物を認識すると助力を求めた。
『彼がこのままだと死んでしまいますっ!! どうか一緒に助けてくださいっ』
なりふり構わずに懇願する「私」にゆっくりと近くによりながら、力無く首を振り、その人物は言葉を述べた。
「死んだ人間に君の力はもう効かない」
「助からないんだ」
『私の加護が効かない……? どういうことですかっ?』
「私」はこの一点の疑問を考え、不意にある疑問が浮かび上がるが考えている時間は無い。事態は一刻を争う。
けれどそれは自分にとって苦渋の決断だった。
眉間に皺を寄せた「私」を見ても、顔色一つ変えない。それに対し感情を押し殺すように言いつづる。
『あなたなのですか……』
「…何がだい?」
『私の力を相殺できるのは……この世でただ一人貴方しかおりませんっ』
「貴方が彼を殺したのですか?」
「……」
何も答えないことに「私」はそれを肯定と受け取った。
「やはり嘘はつけないね。 君と僕は“ ”だから……」
ーーどうして
ーー貴方が
ーーなぜ
繰り返す自問自答をしても答えに辿り着かない。彼と仲が悪かった話は聞いた事がなかった。
『貴方が彼を……』
感情を押し殺すように「私」は呟いた。
怒りと哀しみがごちゃ混ぜに沸き上がるように、同時に尋常ではないパワーが全身から発生した瞬間、周囲が吹き飛び、家だった建物が木っ端微塵となる。
声が聞こえる。優しく「私」の名前を呼んでくれる声が大好きだった。でも今は…涙を流しながら惜別の言葉をかける。
『私が間違っていました』
『貴方を高天原にいざなったこと、それが私の【罪】です』
『地獄に貴方を送り返します』
「私」の言霊を聞いた存在は、徐々に歪みが生じていき、維持できなくなる。彼は地獄に送られる前に一言を残して去っていった。
「君がしたことは間違いじゃない」
「君をーー愛している」
「生まれる前からずっと」
言葉に嘘はない。けれどもう何もかも遅い。
『っーーはあ はあ』
消え去った瞬間力を使いすぎてしゃがみこむが、ピクリとも動かない彼を目にした「私」は踏ん張り立ち上がる。
『休んでいる時間はない』
息が切れる中、足に力を入れないと倒れてしまいそうになる。
倒れている彼を壊れたものを包み込むように掻き抱き、微かな希望に「私」は縋り付き、目を瞑る。
まだ死んでそんなに時間は経っていないはず。
微弱だが魂の波動を感じた。魂からまだ体から抜けていない証拠であり、魂は生きている。
でも体の方は人間のため脆弱で事切れている。ならば体を強くすることを考えた「私」はあることを閃く。
それは決して誰であっても侵してはならない禁忌の術。
禁忌になっているのはそれ相応の代償を自分自身にも受けることになるからである。
『ごめんなさい』
泣きながら彼の頰に手を添え、謝罪する。
『私があなたと出会わなければ……』
『恋をしなければ』
『愛さなければ』
『こんなことにはならなかった』
『ごめんなさい』
自分の胸に震える手を添えた「私」はある言葉を呟く。瞬く間に体から眩ゆいほど光り輝く物体がふわりと出現し、彼の胸の上にそっと乗せる。
『貴方をこんなところで死なせはなしない』
たとえもう二度と会えなくなったとしても。そう呟き、そして、彼の体は優しい光に包まれた。