【七】
一瞬、眠っていたのかもしれない。気が付くと部屋の奥まで日が差し込み、蝉がじわじわ鳴きはじめていた。
意識しかない僕の意識が途切れるって、どういう状況なんだろう。現実世界に戻っていたのかな。
廊下を歩く足音が近付き、ふすまが開いて厳じいの雷のような声が響いた。
「おはようございます、清四朗どの」
朝からこんなむさ苦しい起こし方はいやだな。
清四朗は飛び起きて、きょろきょろと辺りを見回す。
「ミズキ?」
そういえば、子狐のミズキの姿がない。
清四朗はあわてて布団をめくり、置物の影を確かめ、壺の中を覗き込んだ。
「ミズキ、どこにいるんだい?」
「もしや、昨日の狐のことですか」
「そうだ。厳じい、どこにやった!」
「私は何も知りませんよ」
厳じいは本当に知らないようで、むっと顔をしかめた。
もともと野生の狐だから、森に帰ってしまったのかもしれない。清四朗はがっくりと肩を落とした。
ふと、庭の方から物音がする。清四朗は下駄も履かずに外に飛び出した。
「……」
そこにいたのは、小さな女の子だった。自分の背より大きな箒で、懸命に掃除している。色白で、きれいに切りそろえた黒髪、大きな瞳は吊り目がちで……
あの、森の中で出会った女の子だ!
僕は思わず身を乗り出した。
「……ミズキ?」
え? 何言ってるの。どう見たって、人間の女の子じゃないか。
だけど女の子は小さくうなずいた。清四朗は駆け寄り、女の子を抱きしめる。
「ああ、ミズキ。よかった。でも、どうして?」
女の子は恥ずかしそうに顔を赤くしてうつむいた。消えそうな声で答える。
「あたし、キヨの、おてつだい、したい」
「それで人間の姿に? すごいな、ミズキ。変化の術が使えるなんて!」
えっと、狐が人間に化けることに疑問はないのかな。現代じゃ考えられないけど。
清四朗はミズキの頭を撫で、可愛らしく化けた姿をまじまじと見つめる。ミズキはもぞもぞと身体をよじり、清四朗の腕から抜け出した。
「キヨ、なまえと、ごはん、くれた。あたし、おれい、する」
きゅっと箒を握り直し、また庭の落ち葉を掃き集める。
右に左に動いているうちに、髪の毛の間からぴょこんと狐の耳が現れた。おしりからはふさふさのしっぽも。
「あわわ……」
ミズキはあたふたと耳を抑える。まだ妖力が弱くて、長い時間は化けていられないのかな。それはそれで可愛くていいと思うけど。
「はは。ミズキ、無理しないで。それより、朝ごはんにしよう。おいで」
「あたし、ごはん、じぶんで、とる」
ぷうっと顔をふくらませ、くるりととんぼ返りして狐の姿に戻ってしまった。
「え、ミズキ、怒ったの? ごめんよ。もう笑ったりしないから」
だけどミズキは振り返りもせずに森の方へ走り去った。僕は急いでミズキの後を追いかける。ちゃんと清四朗のところへ戻るだろうか。
手入れされた林と違って、木々の枝が空を覆い隠す。ところどころにぬかるみがあるけれど、ミズキはものともせずに軽やかに飛び越え、藪をよけ、立ち止って耳をすまし、餌を探した。
そして僕は、追いかけなければよかったと後悔する。
ミズキが狙いを定めて飛びかかったのは、ぴちぴちとした蝉だった。僕はなるべく見ないように目をそらす。
最期の悲鳴のような鳴き声が、次第に小さくなっていく。完全に途切れると、ミズキはまた次の獲物に目を光らせた。
しばらく食事を楽しんだ後、ミズキは立派なとかげを捕まえた。それは食べずに口にくわえたまま、森の出口に向かう。
嫌な予感は的中、清四朗は真っ青になってひっくり返った。
「み、み、み、ミズキ! わ、私は、とかげは食べないよ。せっかくだけど……これはミズキがお食べ」
ミズキは少し残念そうにして、おやつの代わりにぺろりと食べた。