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【三】

 ふと、背後から飛んできた虫が、すうっと静かに桶の縁に止まった。


「なんだ、こいつ?」


 僕はぐっと顔を近付けた。


 とんぼのような形だけど、羽も体も透けるように薄くて頼りない。こんな奇妙な虫は見たことがなかった。


 涼を求めているのか、羽を休めているのか、細い足でじっと桶につかまっている。少し風が吹いただけで、全身がゆらゆら揺れた。


 追い払おうかどうしようか迷っているうちに、やはり音もなく飛び立った。


 なぜか僕はその虫のことが気になって、いったん水を止めて後を追いかけた。石段を離れ、道のないところに踏み込む。どうせ迷うこともないほど低い山だから、すぐに戻ってこれるだろう。


 藪をかきわけ、木の枝をよけ、ぬかるみで滑らないように足を踏ん張る。僕が遅れそうになると、虫は葉や岩に止まって僕を待つような素振りを見せた。


 僕は必死に虫を追う。


 こんなに鬱蒼とした木々の間で、なぜその虫を見失わなかったのだろう。周囲の景色が灰色に染まり、虫だけが光って僕を導いているような気がした。


 神社から聞こえてくるお囃子の音が近い。そんなに登ってきたのか。さっきまで疲れて動けなかったのに、今はまるで苦しさなんて感じなかった。


 僕は、はっと顔を上げた。


 虫が誰かの指に止まったのだ。


 いつのまに、こんなところにひとが。僕は緊張しながら、指の主を確認した。


 薄暗い木陰に立っていたのは、色白の女の子。ウミと同じかもう少し低い背丈で、白地に朝顔の柄の浴衣を着ている。そして顔の右半分を、きつねのお面で隠していた。


 迷子にしては落ち着いていて、じっと僕の方を見つめている。


「どうしたの? みんなとはぐれたの?」


 僕が声をかけても、女の子は黙ったまま身じろぎ一つしない。


 きれいに切りそろえた黒髪、大きな瞳は吊り目がちで、日本人形のようにかわいらしい。


 この辺りに住んでる子かな。見たことないけど。もしかしたら僕たちのように、夏休みの間だけ遊びにきているのかもしれない。


「お父さんやお母さんは? 神社の方、戻れる?」


 このまま家族のところに連れていこうか。またこの道のないところを降りるより、石段を使う方が楽だし。


 そう思って一歩踏み出したときに、お囃子の音が一瞬大きくなり、消えた。


「……蜻蛉」


「え?」


 突然の静寂に、耳がおかしくなったのかと思った。平衡感覚が崩れてうまく歩けない。


「これは蜻蛉よ。一日しか飛べない短い命。見逃してあげて」


 女の子がすっと手を伸ばすと、その虫……蜻蛉は弱々しく羽ばたいた。僕と女の子が見守る中、蜻蛉は森に吸い込まれるようにして消えた。


「えっと……君は?」


 不思議な雰囲気で、なんだか幽霊だとか妖怪だとか、そういうものに出会ってしまったんじゃないかと不安になる。生温い風が吹き抜け、背筋がぞくりとした。


「……て。私を、思……して……キヨ」


「え?」


 思い出す?


 何を?


 キヨって誰だ?


 蝉の鳴き声とお囃子の音がうるさい。頭の中にわんわんと響いて、何も考えられない。


 そろそろ戻らないと、父さん達が心配する。


 とにかくこの場を離れようと、ゆっくり後ずさった。


「わっ!」


 いつの間に移動したのか、女の子は僕の背後に立っている。驚き、ぬかるみに足をとられてしりもちをついた。


「いかないで、キヨ……」


 女の子はぬっと僕の顔を覗き込む。


「た、助け……」


 僕は這うようにして逃げようとしたけれど、右を向いても、左を向いても、女の子が立っている。いつのまにか僕は、何人もの女の子に囲まれていた。


 彼女たちは同じ動きで僕に近付き、顔を覗き込む。一人が冷たい手で僕の頬に触れた。


「思い出して、キヨ。あたし、ずっと待っていたんだよ」


 僕は声にならない声で悲鳴を上げ、そのまま意識が途切れた。

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